2014年 08月 24日
バルフィ! 人生に唄えば
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★ネタバレ注意★
今年の夏は雨ばかり降るせいか、比較的涼しくて過ごしやすい印象です。
少なくとも去年みたく、35度とか36度とか、体温かっ! って気温にはならないので、今季はまだ2日ほどしかクーラーつけてません。別に我慢してるわけじゃなくて、30度ぐらいだと涼しいと感じるし、29度とかの日は肌寒いと思ってしまうんだけど、心頭滅却してるから火もまた涼しいのかしら、それとも自律神経がいかれてるのかしら……。
そんな暑さ的には物足りない夏ですが、やっぱり夏はインド映画でしょう!
アヌラーグ・バス監督作品。151分と、マサラにしてはやや控えめなボリュームですが、プレイバックシンガーの歌声もたっぷり堪能できます。(群舞がないのは不満です)。
もともとインド映画の特質なのか、それとも最近の傾向なのか、この映画も既存映画の悪びれないパクリ、というか、オマージュなのかな、それが満載です。『雨に唄えば』などの往年のハリウッドミュージカル、『アメリ』や『黒猫白猫』などのヨーロッパ映画(エミール・クストリッツァ監督のテイストが意外と相性がよくて笑ってしまった)、チャップリンやバスター・キートンなどの無声映画、ジャキー・チェンのアクションなどなど。あの手この手で観客を楽しませようとするのはインド映画のお、も、て、な、し。
なにしろ盛りだくさんな映画なので、あっちこっちとっちらかってしまった印象があるのですが、物語のキモは、コピーの通りだと思います。
ふたつの恋心。でも叶うのは、ひとつだけ。
バルフィを愛したふたりの女性、シュルティとジルミル。最初にバルフィに愛されたのはシュルティだったのに、シュルティはバルフィを選べなかった。選べなかったシュルティなのに、忘れることもできなかった。一方、シュルティにふられたバルフィは、ジルミルとの愛情をゆっくりと育んでいった。結局シュルティは、無邪気に愛し合うふたりの姿を生涯にわたって見続けることになった。
そんなビターな物語。
これを描くにストーリーの上では、まず今は年老いた人々の昔語りにより過去の出来事を証言する、という構造の上に、過去の流れもまた時間軸をシャッフルさせ、サプライズを喚起しサスペンスを煽るサービス精神に富んだ展開になっているんですが、正直、これ、どうダロ、ちょっとくどい気もしますね。や、それがインド映画なのだから、と言えばそれはそうなんだけれども。
以下、完全に自分の覚書のために、サプライズもサスペンスもサービス精神も脇に置いて、枝葉を切り落とし、時系列に沿ったあらすじを書いておきたいと思いますので、ネタバレ忌避の方はご注意ください。
ダージリンで暮らすバルフィ(ランビール・カプール)は、生まれつきの聾唖者。生後すぐに母親を亡くし、運転手を生業とする父親に男手ひとつで育てられる。父親が仕えるお屋敷には、ジルミルという少女(プリヤンカー・チョープラ)がいたが、彼女は自閉症で、しかもその母親はアルコールの問題があって養育の難しい子供を育てることが困難だったため、ジルミルは施設で成長した。
青年になっても遊び暮らしていたバルフィは、ある日、父親の転勤でダージリンにやってきたシュルティ(イリヤーナ・デクルーズ)を見かけ、一目で恋に落ちる。婚約者がいたシュルティはバルフィのアプローチを退けるが、バルフィはめげず、果敢にアタックを続け、いまひとつ結婚に乗り気になれなかったシュルティも、破天荒なバルフィに引きずられるようにして、付き合いを始める。
片や資産家の青年と婚約中の金持ちの娘、片や無職で聾唖の青年。所詮身分違いの恋だったのに、バルフィは本気でプロポーズしようとし、案の定シュルティの母親に阻まれ、シュルティもまたバルフィではなく世間的に釣り合いのとれたフィアンセを選び、あえなく玉砕する。
傷心のバルフィを更なる不幸が見舞う。父親が病気で倒れたのだ。手術をするには金がいるが、もちろんバルフィにそんな金はない。追い詰められたバルフィは、ジルミルの誘拐を企てる。すったもんだの末、なんとか身代金を手にしたバルフィは、息せき切って病院に金を収めたが、時すでに遅く、父親は死亡しており、病院に収めた金から足がついて警察に追われる身となる。
ところがそんなバルフィをジルミルは慕い、追い返しても追い返してもついてくる。ついにバルフィは、ジルミルを連れてコルカタまで逃避行を続けてしまう。精神的に幼いジルミルを、兄のように若い父親のように気遣い見守るバルフィだったが、やがてふたりの間には、ゆっくりと静かに情愛が育っていく。
コルカタの路地裏で鋳掛屋をしながら、ままごとのようにつつましくも幸せに暮らしていたバルフィは、ある日偶然、フィアンセと結婚してコルカタで暮らしていたシュルティと再会する。バルフィとシュルティ、そしてジルミルを交えた三人は、ダージリンでの日々を再演するかのように交流を再開する。愛情の通わぬ夫との生活に味気ない思いをしていたシュルティは、人知れずときめきを禁じえなかったが、バルフィの心はジルミルと共にあり、シュルティへの情熱はすでに過去のもの、久しぶりの再会を喜びはしても、所詮それは友愛にすぎなかった。
しかし感情が未発達のジルミルには、バルフィの愛情と友情の違いがわからない。突然現れたシュルティに戸惑い、疎外感を感じ、ある夜、ふいといなくなってしまう。
半狂乱になってジルミルを探すバルフィ。しかしジルミルはどこにもいない。シュルティが警察に捜索願を出したところ、バルフィによる誘拐事件を追っていたダージリン警察の警部が駆けつけ、バルフィを逮捕してしまう。驚いてバルフィの後を追おうとするシュルティに、夫は、行くならもう帰って来てくれるなと告げる。
バルフィは警察で誘拐事件の取り調べを受けるが、誘拐事件は奇妙な展開を見せていた。コルカタでいなくなったはずのジルミルに対し、再びダージリンで身代金を要求する手紙が届いていたのだ。ジルミルの父親が二度目の身代金受け渡しに応じると、誘拐犯人はジルミルの乗った車を河に突き落としてしまう。警察の懸命の捜索にもかかわらず、ジルミルが救出されることはなく、遺体も発見されなかった。
シュルティは、絶望に打ちひしがれるバルフィをコルカタに連れ帰った。実は心の底で、ジルミルの死を喜ぶ気持ちがあることを否定できないシュルティだったが、ジルミルを諦めきれないバルフィは、ジルミルが残したわずかな手がかりから、ジルミルが実は育った施設に隠れているのではないか、と気づく。
案の定、ジルミルは施設にいた。第二の誘拐事件は、ジルミルに祖父が残した信託預金を現金化するために父親が仕組んだ狂言だったのだ。無事に再会を果たしたバルフィとジルミルは、今度こそ離れることなく、健やかなるときも病めるときも愛し合い助け合い、命ある限り真心を尽くし、やがて共に生涯を終える。そんなふたりを傍らで眺めながら、夫と別れたシュルティはソーシャルワーカーとして手話を教えながら、生涯ひとりで生きていくのだった。
長いよ。
こうして書き出してみるとやはり見応えがあるのはシュルティの心の動きですね。
最初はほんの遊びのつもり。会えば楽しいひょうきん者のバルフィ。だけど生涯を共にするなんて所詮無理だとわかっていた。映画的にはバルフィが聾唖であるという側面を強調し、言葉が通じない相手と愛し合うことの困難、といったある意味きれいごとに収めようとしている印象がありますが、実のところ最大の問題は社会階層の違い。バルフィはシュルティにとって、結婚するまでの束の間の相手。青春の思い出に過ぎなかった。演出上は、母親によってプロポーズを妨害する形をとり、シュルティをワルモノにしない配慮がなされてはいるけれど、結局決断を下したのはシュルティ自身です。(もっと厳しいことを言えば、フィアンセがいながらバルフィと付き合ってしまったシュルティは、バルフィのみならずフィアンセをも裏切っていたことになります)。
だけど、いざ結婚生活が現実のものになってしまうと、条件だけで結婚した相手には情がわかず、情がわかない相手と生活を共にするのは味気なくて仕方ない。今更ながらにバルフィが恋しい。真実の愛に気づけなかったとは、なんと愚かだったんだろう。というシュルティの嘆きもまた、なんだか首肯しがたいものがある。バルフィと結婚して極貧生活に身を落としていたら、そんな暮らしも続かなかったと思うのだけど。
だけど、バルフィはジルミルをこそ愛しており、自分の入る余地などないことに気づいた後の、シュルティの気持ちには切ないものがあります。事ここに至り、本当に取り返しがつかない所まで来てしまって、ようやくわかる。やっぱりあれは、真実の愛だったんだ、と。恋に恋した若い娘の現実逃避の気軽な遊びなんかじゃなかった。生涯一度、二度とは得られぬ本物の愛。そういうことも、起こり得るのが人生だ。
だからより一層切ないのが、バルフィとジルミルの再会のシーン。ジルミルを探すのをあきらめて立ち去ろうとするバルフィ、バルフィが探しに来てくれたことに気づいて窓からバルフィの名を呼ぶジルミル、耳の聞こえないバルフィにジルミルの声は届かない、しかし、バルフィと共に帰ろうとしていたシュルティの耳にはもちろん聞こえた。このまま言わずにいたら、バルフィを自分のものにできるかもしれない。一瞬シュルティは、ジルミルの叫びに耳を閉ざそうとする。だけど次の瞬間、シュルティは全てを飲み込んだ悲しい笑顔で、バルフィに告げる。ほんの一瞬。その一瞬の間が、ものすごくいい。ものすごく切ない。たぶんこの映画のクライマックス。
そしてもうひとつ、いっそちょっと怖くすらあるのが、シュルティの部屋に飾られていたバルフィの写真。バルフィは生前、自分の写真を決してシュルティに渡そうとはしなかった。最後も最後、今わの際のその瞬間に、ようやく撮ったセルフポートレート、たった一枚のそれだけが、バルフィからシュルティに贈られた写真だった。だけどシュルティの部屋には、バルフィが写っている写真が幾つも飾られていた。バルフィの死後、シュルティは写真に閉じ込めた裏切りをほぐす。それらの写真は実は、バルフィとジルミルのものであり、シュルティは脇役に過ぎなかったのに、シュルティはジルミルが写っている箇所を折りたたみ、あたかも自分とバルフィのツーショット写真のように見せかけていたのだ。折りたたむだけで破り取ってはいなかったのがまだしもの幸いだけど、痛い痛い行為。そこまでしなければならなかったシュルティの思いが、怖いけど切ない。
こんな風に実は結構ドロドロしているシュルティのパートとは打って変わって、バルフィとジルミルのラブストーリーはお伽噺のようにキラキラと清らかにかわいらしく描かれています。ジルミルはあくまで天使的な存在であり、一片の打算もない。打算のないジルミルが、ふたつの恋心のうち、叶うひとつを手にいれた。この対比が緻密な計算の上でなされているのなら、この物語は結構シビアで残酷な話なのかもしれない。
そして、紆余曲折したシュルティの恋のありようは、現実のインドにおける女性の社会的地位や家族制度の中での立ち位置、またその扱いなどを考えると、やはりかなりシビアな社会的問題提起がなされているようにも思えます。
全編、口がきけないバルフィに合わせて、あたかも無声映画であるかのような演出になっているのが楽しく、また、ダージリンの街並みがインド映画でおなじみのムンバイとは違った趣で面白く、風情があってとってもステキでした。坂のある街っていいよね。あと、ランビール・カプールって、角度や表情によってとってもライアン・ゴズリング。インドのライアン・ゴズリングと呼ぶことにしましょう。しなくてもいいけど。
・バルフィ! 人生に唄えば@ぴあ映画生活
今年の夏は雨ばかり降るせいか、比較的涼しくて過ごしやすい印象です。
少なくとも去年みたく、35度とか36度とか、体温かっ! って気温にはならないので、今季はまだ2日ほどしかクーラーつけてません。別に我慢してるわけじゃなくて、30度ぐらいだと涼しいと感じるし、29度とかの日は肌寒いと思ってしまうんだけど、心頭滅却してるから火もまた涼しいのかしら、それとも自律神経がいかれてるのかしら……。
そんな暑さ的には物足りない夏ですが、やっぱり夏はインド映画でしょう!
アヌラーグ・バス監督作品。151分と、マサラにしてはやや控えめなボリュームですが、プレイバックシンガーの歌声もたっぷり堪能できます。(群舞がないのは不満です)。
もともとインド映画の特質なのか、それとも最近の傾向なのか、この映画も既存映画の悪びれないパクリ、というか、オマージュなのかな、それが満載です。『雨に唄えば』などの往年のハリウッドミュージカル、『アメリ』や『黒猫白猫』などのヨーロッパ映画(エミール・クストリッツァ監督のテイストが意外と相性がよくて笑ってしまった)、チャップリンやバスター・キートンなどの無声映画、ジャキー・チェンのアクションなどなど。あの手この手で観客を楽しませようとするのはインド映画のお、も、て、な、し。
なにしろ盛りだくさんな映画なので、あっちこっちとっちらかってしまった印象があるのですが、物語のキモは、コピーの通りだと思います。
ふたつの恋心。でも叶うのは、ひとつだけ。
バルフィを愛したふたりの女性、シュルティとジルミル。最初にバルフィに愛されたのはシュルティだったのに、シュルティはバルフィを選べなかった。選べなかったシュルティなのに、忘れることもできなかった。一方、シュルティにふられたバルフィは、ジルミルとの愛情をゆっくりと育んでいった。結局シュルティは、無邪気に愛し合うふたりの姿を生涯にわたって見続けることになった。
そんなビターな物語。
これを描くにストーリーの上では、まず今は年老いた人々の昔語りにより過去の出来事を証言する、という構造の上に、過去の流れもまた時間軸をシャッフルさせ、サプライズを喚起しサスペンスを煽るサービス精神に富んだ展開になっているんですが、正直、これ、どうダロ、ちょっとくどい気もしますね。や、それがインド映画なのだから、と言えばそれはそうなんだけれども。
以下、完全に自分の覚書のために、サプライズもサスペンスもサービス精神も脇に置いて、枝葉を切り落とし、時系列に沿ったあらすじを書いておきたいと思いますので、ネタバレ忌避の方はご注意ください。
ダージリンで暮らすバルフィ(ランビール・カプール)は、生まれつきの聾唖者。生後すぐに母親を亡くし、運転手を生業とする父親に男手ひとつで育てられる。父親が仕えるお屋敷には、ジルミルという少女(プリヤンカー・チョープラ)がいたが、彼女は自閉症で、しかもその母親はアルコールの問題があって養育の難しい子供を育てることが困難だったため、ジルミルは施設で成長した。
青年になっても遊び暮らしていたバルフィは、ある日、父親の転勤でダージリンにやってきたシュルティ(イリヤーナ・デクルーズ)を見かけ、一目で恋に落ちる。婚約者がいたシュルティはバルフィのアプローチを退けるが、バルフィはめげず、果敢にアタックを続け、いまひとつ結婚に乗り気になれなかったシュルティも、破天荒なバルフィに引きずられるようにして、付き合いを始める。
片や資産家の青年と婚約中の金持ちの娘、片や無職で聾唖の青年。所詮身分違いの恋だったのに、バルフィは本気でプロポーズしようとし、案の定シュルティの母親に阻まれ、シュルティもまたバルフィではなく世間的に釣り合いのとれたフィアンセを選び、あえなく玉砕する。
傷心のバルフィを更なる不幸が見舞う。父親が病気で倒れたのだ。手術をするには金がいるが、もちろんバルフィにそんな金はない。追い詰められたバルフィは、ジルミルの誘拐を企てる。すったもんだの末、なんとか身代金を手にしたバルフィは、息せき切って病院に金を収めたが、時すでに遅く、父親は死亡しており、病院に収めた金から足がついて警察に追われる身となる。
ところがそんなバルフィをジルミルは慕い、追い返しても追い返してもついてくる。ついにバルフィは、ジルミルを連れてコルカタまで逃避行を続けてしまう。精神的に幼いジルミルを、兄のように若い父親のように気遣い見守るバルフィだったが、やがてふたりの間には、ゆっくりと静かに情愛が育っていく。
コルカタの路地裏で鋳掛屋をしながら、ままごとのようにつつましくも幸せに暮らしていたバルフィは、ある日偶然、フィアンセと結婚してコルカタで暮らしていたシュルティと再会する。バルフィとシュルティ、そしてジルミルを交えた三人は、ダージリンでの日々を再演するかのように交流を再開する。愛情の通わぬ夫との生活に味気ない思いをしていたシュルティは、人知れずときめきを禁じえなかったが、バルフィの心はジルミルと共にあり、シュルティへの情熱はすでに過去のもの、久しぶりの再会を喜びはしても、所詮それは友愛にすぎなかった。
しかし感情が未発達のジルミルには、バルフィの愛情と友情の違いがわからない。突然現れたシュルティに戸惑い、疎外感を感じ、ある夜、ふいといなくなってしまう。
半狂乱になってジルミルを探すバルフィ。しかしジルミルはどこにもいない。シュルティが警察に捜索願を出したところ、バルフィによる誘拐事件を追っていたダージリン警察の警部が駆けつけ、バルフィを逮捕してしまう。驚いてバルフィの後を追おうとするシュルティに、夫は、行くならもう帰って来てくれるなと告げる。
バルフィは警察で誘拐事件の取り調べを受けるが、誘拐事件は奇妙な展開を見せていた。コルカタでいなくなったはずのジルミルに対し、再びダージリンで身代金を要求する手紙が届いていたのだ。ジルミルの父親が二度目の身代金受け渡しに応じると、誘拐犯人はジルミルの乗った車を河に突き落としてしまう。警察の懸命の捜索にもかかわらず、ジルミルが救出されることはなく、遺体も発見されなかった。
シュルティは、絶望に打ちひしがれるバルフィをコルカタに連れ帰った。実は心の底で、ジルミルの死を喜ぶ気持ちがあることを否定できないシュルティだったが、ジルミルを諦めきれないバルフィは、ジルミルが残したわずかな手がかりから、ジルミルが実は育った施設に隠れているのではないか、と気づく。
案の定、ジルミルは施設にいた。第二の誘拐事件は、ジルミルに祖父が残した信託預金を現金化するために父親が仕組んだ狂言だったのだ。無事に再会を果たしたバルフィとジルミルは、今度こそ離れることなく、健やかなるときも病めるときも愛し合い助け合い、命ある限り真心を尽くし、やがて共に生涯を終える。そんなふたりを傍らで眺めながら、夫と別れたシュルティはソーシャルワーカーとして手話を教えながら、生涯ひとりで生きていくのだった。
長いよ。
こうして書き出してみるとやはり見応えがあるのはシュルティの心の動きですね。
最初はほんの遊びのつもり。会えば楽しいひょうきん者のバルフィ。だけど生涯を共にするなんて所詮無理だとわかっていた。映画的にはバルフィが聾唖であるという側面を強調し、言葉が通じない相手と愛し合うことの困難、といったある意味きれいごとに収めようとしている印象がありますが、実のところ最大の問題は社会階層の違い。バルフィはシュルティにとって、結婚するまでの束の間の相手。青春の思い出に過ぎなかった。演出上は、母親によってプロポーズを妨害する形をとり、シュルティをワルモノにしない配慮がなされてはいるけれど、結局決断を下したのはシュルティ自身です。(もっと厳しいことを言えば、フィアンセがいながらバルフィと付き合ってしまったシュルティは、バルフィのみならずフィアンセをも裏切っていたことになります)。
だけど、いざ結婚生活が現実のものになってしまうと、条件だけで結婚した相手には情がわかず、情がわかない相手と生活を共にするのは味気なくて仕方ない。今更ながらにバルフィが恋しい。真実の愛に気づけなかったとは、なんと愚かだったんだろう。というシュルティの嘆きもまた、なんだか首肯しがたいものがある。バルフィと結婚して極貧生活に身を落としていたら、そんな暮らしも続かなかったと思うのだけど。
だけど、バルフィはジルミルをこそ愛しており、自分の入る余地などないことに気づいた後の、シュルティの気持ちには切ないものがあります。事ここに至り、本当に取り返しがつかない所まで来てしまって、ようやくわかる。やっぱりあれは、真実の愛だったんだ、と。恋に恋した若い娘の現実逃避の気軽な遊びなんかじゃなかった。生涯一度、二度とは得られぬ本物の愛。そういうことも、起こり得るのが人生だ。
だからより一層切ないのが、バルフィとジルミルの再会のシーン。ジルミルを探すのをあきらめて立ち去ろうとするバルフィ、バルフィが探しに来てくれたことに気づいて窓からバルフィの名を呼ぶジルミル、耳の聞こえないバルフィにジルミルの声は届かない、しかし、バルフィと共に帰ろうとしていたシュルティの耳にはもちろん聞こえた。このまま言わずにいたら、バルフィを自分のものにできるかもしれない。一瞬シュルティは、ジルミルの叫びに耳を閉ざそうとする。だけど次の瞬間、シュルティは全てを飲み込んだ悲しい笑顔で、バルフィに告げる。ほんの一瞬。その一瞬の間が、ものすごくいい。ものすごく切ない。たぶんこの映画のクライマックス。
そしてもうひとつ、いっそちょっと怖くすらあるのが、シュルティの部屋に飾られていたバルフィの写真。バルフィは生前、自分の写真を決してシュルティに渡そうとはしなかった。最後も最後、今わの際のその瞬間に、ようやく撮ったセルフポートレート、たった一枚のそれだけが、バルフィからシュルティに贈られた写真だった。だけどシュルティの部屋には、バルフィが写っている写真が幾つも飾られていた。バルフィの死後、シュルティは写真に閉じ込めた裏切りをほぐす。それらの写真は実は、バルフィとジルミルのものであり、シュルティは脇役に過ぎなかったのに、シュルティはジルミルが写っている箇所を折りたたみ、あたかも自分とバルフィのツーショット写真のように見せかけていたのだ。折りたたむだけで破り取ってはいなかったのがまだしもの幸いだけど、痛い痛い行為。そこまでしなければならなかったシュルティの思いが、怖いけど切ない。
こんな風に実は結構ドロドロしているシュルティのパートとは打って変わって、バルフィとジルミルのラブストーリーはお伽噺のようにキラキラと清らかにかわいらしく描かれています。ジルミルはあくまで天使的な存在であり、一片の打算もない。打算のないジルミルが、ふたつの恋心のうち、叶うひとつを手にいれた。この対比が緻密な計算の上でなされているのなら、この物語は結構シビアで残酷な話なのかもしれない。
そして、紆余曲折したシュルティの恋のありようは、現実のインドにおける女性の社会的地位や家族制度の中での立ち位置、またその扱いなどを考えると、やはりかなりシビアな社会的問題提起がなされているようにも思えます。
全編、口がきけないバルフィに合わせて、あたかも無声映画であるかのような演出になっているのが楽しく、また、ダージリンの街並みがインド映画でおなじみのムンバイとは違った趣で面白く、風情があってとってもステキでした。坂のある街っていいよね。あと、ランビール・カプールって、角度や表情によってとってもライアン・ゴズリング。インドのライアン・ゴズリングと呼ぶことにしましょう。しなくてもいいけど。
・バルフィ! 人生に唄えば@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-08-24 18:52
| 映画は行