2014年 07月 29日
GODZILLA ゴジラ
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★ネタバレ注意★
今年はゴジラ生誕60周年にあたるそうです。
そして本作は、日米あわせたゴジラ映画のちょうど30作目なんだそうです。
これはもはやお祭りなのであります。
とは言え、わたし自身のことを言えば、ゴジラ映画を観るのはこれでようやく3本目です。一本は、わたしの地元のランドマークが破壊されるというので応援の意味で観に行ったのですが、何年の作品でタイトルは何といったのか、誰が出ていてストーリーはどうだったのか、それどころか肝心のランドマークが倒される映像がどうだったのかすら全く覚えていないという(いつもながらの)テイタラク。そしてもう一本は、ローランド・“破壊屋”・エメリッヒ監督のハリウッド映画、ガジーラ(1998年)です。うん、そう、だけどあれは、ガジーラという痩せたトカゲがNYの街を軽快に駆け回るゴジラとはあくまで別物の映画だったよね。
で、このギャレス・エドワーズ監督による本作ですけれども。
キャッチコピーは「世界が終わる、ゴジラが目覚める」。正直、ナニ言ってんの、って思ったんです。たかが怪獣一匹ぐらいで世界が終るってどういうことよ、って。ごめんなさい。わたしが間違っていました。こんなんが本気で暴れたら、ほんとに世界は終わるかもしれない。それぐらいゴジラの迫力は凄かった。ギャレス・エドワーズ監督、さすがこだわりの映画オタク。(賛辞と取ってね)。
1999年、フィリピンの鉱山を調査に訪れた芹沢博士(渡辺謙)とグレアム博士(サリー・ホーキンス)は陥没した坑道に巨大生物の骨格化石とそれとは別の謎の生物を発見する。それと時を同じくして、ブロディ夫妻が勤務する日本の雀路羅市にある原子力発電所では、異常な振動により炉心に異常をきたしたため、妻サンドラ(ジュリエット・ビノシュ)が調査に赴いたところ、深刻な放射能事故が発生。夫のジョー(ブライアン・クランストン)は住民の安全のために、原子炉内部にサンドラを残したまま防護壁を閉じなければならなかった。
15年後、米海軍に所属するジョーの息子フォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)は、休暇で帰宅中、父親が立入禁止区域に侵入して逮捕されたとの知らせを受ける。妻の死以来、事故に取り付かれてしまったジョーは、真相究明のため15年前のデータを入手すべく、事故以来立ち入り禁止区域に指定されているかつての住居のあった雀路羅市に侵入したのだ。
という感じでドラマは始まるわけですが。
まず気になるのは雀路羅市かなぁ。これは「じゃんじら」と発音するみたいですけど、名前もアレだけど、ビジュアルデザインにもそこはかとなく漂う国籍不明感。ハリウッド映画によくある中国との混同というより、どっちかって言うと東南アジアが混ざった感じ。これだけオリジナルゴジラに敬意を表している映画にしてこの有様とは、日本らしい日本の街を描くのってそんなに難しいんかい、とむしろ感心してしまう一方で、所謂日本建築って、バランスが取れた完成された美しさなのだなぁ、と改めて実感します。ちょびっといじるだけで格段に醜くなる。『ウルヴァリン:SAMURAI』とかもそうだったよね。だけどその反面、封鎖以降廃墟になった市街地の情景はとてもステキなビジュアルでした。都市の廃墟ってなぜかそそられます。
次いで役者さん関連ですが。
ジュリエット・ビノシュをあのタイミングで殺してしまうのには驚きました。なんと勿体ないことを。それで言えば、ブライアン・クランストンもデヴィッド・ストラザーンもサリー・ホーキンスも渡辺謙も、みんな勿体なかったかもしれない。要するに役者さん的には演じようがない脚本&演出という印象でした。それぞれの立場で、台詞も行動もステレオタイプに終始してしまった上に、困惑しきって右往左往するだけで、だれも何も事態の推移に貢献できていなかった印象。
好意的に言えば、だってそれはしょうがない、なにしろ相手は「King of Monsters」、人知を超えた神的存在、神の前では人間なんかなすすべもなく立ちすくむほかないじゃない、という意図的積極的演出の表れ、と考えることもできなくはないけれど、いやいや、こんだけクリーチャーの出来がいいんですもん、人間の描写もあと一息頑張ってくれていれば、もっとずっと深みのある映画になっていたでしょうに、と残念な気持ちがしてなりません。
唯一、アーロン・テイラー=ジョンソンだけはそれなりに演じがいのある役だったかも。
父親に対する複雑な思い、亡き母に対する思い、妻や子に対する思い。ハリウッドのパニック・ディザースター・ムービーである以上、家族愛が前面に出てくることはもはや避けられないのなら、若手ではぴか一の演技力のあるかれにその部分を担わせたのは正解だったかと思います。パパママ役は言わずと知れた名優だし、奥さん役のエリザベス・オルセンはかわいかったし。
ただ、かれがこの「災厄」に関わることになったキモは、かれのスペシャリティが爆発物処理だったことのはずなので、キッチリその方向でカタをつけてほしかったなぁと思いました。ギリギリのタイミングで見事爆弾を解除! という展開にだってもっていけたはずなのに、ヘンにヒロイックに自爆覚悟の自己犠牲にもっていった挙句、たまたま運良くヘリコプターに救出されました、というのじゃご都合主義だしマヌケだし、何よりそれならかれでなくたっていいじゃん! と思ってしまう。この映画って、脚本のせいなのかゴジラ映画の宿命なのか、学者も軍人も自らのスペシャリティを生かして状況の収束に寄与することができていないフラストレーションがあるので、せめて爆弾の処理ぐらいプロがプロらしく活躍してほしかったところです。
あと忘れちゃいけないのがアンディ・サーキス。ゴジラを演じたのはこの人だったらしいですよ。キングコングもこの人だったよね。猿の惑星もこの人だったよね。すごいね。本当にパフォーマンス・キャプチャー演技の第一人者だ。
ところで、映画とは直接関係ないけど、アーロン・ジョンソンの名前の表記、アーロン・テイラー=ジョンソンに変わったんですね。テイラーさんと結婚したから変えちゃったのね。だけどこのブログでは表記が変わると検索できなくなってしまう(グーグルみたいな近似表記検索をしてくれない)ので、ジョンソン表記で通さなければなりません。同じ理由で、シュライバーさんちのリーヴをリーエフとは表記できないし、アマンダちゃんのセイフライドをサイフリッドとは表記できません。デヴィッドなのかデビッドなのかデイヴィッドなのか、とかも悩みどころだし、リアムとリーアムも悩むし、マッカランなのかマッケランなのかも悩む。カタカナ表記と検索の問題はほんに悩ましいです。
ええと、話が逸れましたが、この映画に関しては舞台設定のリアリティとか脚本の良しあしとか(ましてや俳優の名前の表記とか)、ほんとはそんなこと、どうでもいい。なぜならばこれは、ゴジラを堪能するゴジラのためのゴジラ映画でありゴジラを描くことに関しては完璧に成功しているからです。文句のつけようがないんだわ。
超巨大生物の巨大さを表現するのに、化石でほのめかし、痕跡でほのめかし、部分映像でほのめかし、ためにためたまさにここぞというタイミングで画面いっぱいにどどぉーん! と登場させる手堅い演出。最初にゴジラの咆哮を浴びせかけられた瞬間、思わずヘンな声が漏れちゃいましたもん。これぞゴジラ、これぞゴジラ映画。あなたがゴジラファンで、もしかして人生行き詰ってて、もしかしてもしかしてもう死んぢゃおっかな、とか思ってるんだったら、とりあえずこれ観てからにすれば、と一言申し上げたい。生きててよかった、ってきっと思うよ。
ただ最初のうち、ゴジラの敵として登場したムートーとかいう怪物にはちょっと戸惑ってしまいました。ゴジラ映画ってゴジラしか出てこないかと思っていたのにほかの怪獣が出てきたのでアレ? と思ってしまったっぽい。よく考えてみればモスラとかキングギドラとか、ゴジラ以外にも色々いるんだよね。
ムートーっていうのは、 M.U.T.O.という綴りで、Massive Unidentified Terrestrial Organism (未確認巨大陸生生命体)の略なんだそうです。ゴジラと同時代の古代生物で、放射線をエネルギー源とし、ナチュラルボーン原子炉であるゴジラの体内に卵を産み付ける習性を持つため、ゴジラとは天敵関係。現代に蘇ったムートーは、ゴジラもいいけど核兵器も原子力発電所もなかなかオツだわ、とばかり暴れまわる上に、人間に向かって積極的に攻撃をしかけてくる性悪なので、宿敵ムートー以外は眼中になく、人間には(意図的には)危害を加えないゴジラが善玉に見えてしまうという仕組み。ゴジラがこいつらを完膚なきまでに叩き潰す瞬間、人類思わず大喝采。
しかもこのムートーってやつ、基本的に昆虫っぽい厭らしい造形の中に、妙に脊椎動物めいた要素が混入することにより更に厭らしさが倍増するという、厭らしい上にも厭らしい生き物なので、ゴツゴツしてて背びれとか鱗とか鰓とかあって二足歩行したりクジラみたく泳いでみせたり、しまいにゃ口から放射熱線を吐き出したりと、ただでさえチャーミングなゴジラさんが益々チャーミングに見えるという相乗効果も。ムートー、憎まれ役の役割を存分に果たして敵ながら天晴でした。
最後に、芹沢博士を演じた渡辺謙が流暢に英語を操りつつも、ゴジラに関しては「Godzilla」ではなく頑なに「Gojira」と原音に忠実な発音をしてくれた点を大きく評価したいと思います。やっぱゴジラだよねぇ、ガジーラじゃなくて。
・GODZILLA ゴジラ@ぴあ映画生活
今年はゴジラ生誕60周年にあたるそうです。
そして本作は、日米あわせたゴジラ映画のちょうど30作目なんだそうです。
これはもはやお祭りなのであります。
とは言え、わたし自身のことを言えば、ゴジラ映画を観るのはこれでようやく3本目です。一本は、わたしの地元のランドマークが破壊されるというので応援の意味で観に行ったのですが、何年の作品でタイトルは何といったのか、誰が出ていてストーリーはどうだったのか、それどころか肝心のランドマークが倒される映像がどうだったのかすら全く覚えていないという(いつもながらの)テイタラク。そしてもう一本は、ローランド・“破壊屋”・エメリッヒ監督のハリウッド映画、ガジーラ(1998年)です。うん、そう、だけどあれは、ガジーラという痩せたトカゲがNYの街を軽快に駆け回るゴジラとはあくまで別物の映画だったよね。
で、このギャレス・エドワーズ監督による本作ですけれども。
キャッチコピーは「世界が終わる、ゴジラが目覚める」。正直、ナニ言ってんの、って思ったんです。たかが怪獣一匹ぐらいで世界が終るってどういうことよ、って。ごめんなさい。わたしが間違っていました。こんなんが本気で暴れたら、ほんとに世界は終わるかもしれない。それぐらいゴジラの迫力は凄かった。ギャレス・エドワーズ監督、さすがこだわりの映画オタク。(賛辞と取ってね)。
1999年、フィリピンの鉱山を調査に訪れた芹沢博士(渡辺謙)とグレアム博士(サリー・ホーキンス)は陥没した坑道に巨大生物の骨格化石とそれとは別の謎の生物を発見する。それと時を同じくして、ブロディ夫妻が勤務する日本の雀路羅市にある原子力発電所では、異常な振動により炉心に異常をきたしたため、妻サンドラ(ジュリエット・ビノシュ)が調査に赴いたところ、深刻な放射能事故が発生。夫のジョー(ブライアン・クランストン)は住民の安全のために、原子炉内部にサンドラを残したまま防護壁を閉じなければならなかった。
15年後、米海軍に所属するジョーの息子フォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)は、休暇で帰宅中、父親が立入禁止区域に侵入して逮捕されたとの知らせを受ける。妻の死以来、事故に取り付かれてしまったジョーは、真相究明のため15年前のデータを入手すべく、事故以来立ち入り禁止区域に指定されているかつての住居のあった雀路羅市に侵入したのだ。
という感じでドラマは始まるわけですが。
まず気になるのは雀路羅市かなぁ。これは「じゃんじら」と発音するみたいですけど、名前もアレだけど、ビジュアルデザインにもそこはかとなく漂う国籍不明感。ハリウッド映画によくある中国との混同というより、どっちかって言うと東南アジアが混ざった感じ。これだけオリジナルゴジラに敬意を表している映画にしてこの有様とは、日本らしい日本の街を描くのってそんなに難しいんかい、とむしろ感心してしまう一方で、所謂日本建築って、バランスが取れた完成された美しさなのだなぁ、と改めて実感します。ちょびっといじるだけで格段に醜くなる。『ウルヴァリン:SAMURAI』とかもそうだったよね。だけどその反面、封鎖以降廃墟になった市街地の情景はとてもステキなビジュアルでした。都市の廃墟ってなぜかそそられます。
次いで役者さん関連ですが。
ジュリエット・ビノシュをあのタイミングで殺してしまうのには驚きました。なんと勿体ないことを。それで言えば、ブライアン・クランストンもデヴィッド・ストラザーンもサリー・ホーキンスも渡辺謙も、みんな勿体なかったかもしれない。要するに役者さん的には演じようがない脚本&演出という印象でした。それぞれの立場で、台詞も行動もステレオタイプに終始してしまった上に、困惑しきって右往左往するだけで、だれも何も事態の推移に貢献できていなかった印象。
好意的に言えば、だってそれはしょうがない、なにしろ相手は「King of Monsters」、人知を超えた神的存在、神の前では人間なんかなすすべもなく立ちすくむほかないじゃない、という意図的積極的演出の表れ、と考えることもできなくはないけれど、いやいや、こんだけクリーチャーの出来がいいんですもん、人間の描写もあと一息頑張ってくれていれば、もっとずっと深みのある映画になっていたでしょうに、と残念な気持ちがしてなりません。
唯一、アーロン・テイラー=ジョンソンだけはそれなりに演じがいのある役だったかも。
父親に対する複雑な思い、亡き母に対する思い、妻や子に対する思い。ハリウッドのパニック・ディザースター・ムービーである以上、家族愛が前面に出てくることはもはや避けられないのなら、若手ではぴか一の演技力のあるかれにその部分を担わせたのは正解だったかと思います。パパママ役は言わずと知れた名優だし、奥さん役のエリザベス・オルセンはかわいかったし。
ただ、かれがこの「災厄」に関わることになったキモは、かれのスペシャリティが爆発物処理だったことのはずなので、キッチリその方向でカタをつけてほしかったなぁと思いました。ギリギリのタイミングで見事爆弾を解除! という展開にだってもっていけたはずなのに、ヘンにヒロイックに自爆覚悟の自己犠牲にもっていった挙句、たまたま運良くヘリコプターに救出されました、というのじゃご都合主義だしマヌケだし、何よりそれならかれでなくたっていいじゃん! と思ってしまう。この映画って、脚本のせいなのかゴジラ映画の宿命なのか、学者も軍人も自らのスペシャリティを生かして状況の収束に寄与することができていないフラストレーションがあるので、せめて爆弾の処理ぐらいプロがプロらしく活躍してほしかったところです。
あと忘れちゃいけないのがアンディ・サーキス。ゴジラを演じたのはこの人だったらしいですよ。キングコングもこの人だったよね。猿の惑星もこの人だったよね。すごいね。本当にパフォーマンス・キャプチャー演技の第一人者だ。
ところで、映画とは直接関係ないけど、アーロン・ジョンソンの名前の表記、アーロン・テイラー=ジョンソンに変わったんですね。テイラーさんと結婚したから変えちゃったのね。だけどこのブログでは表記が変わると検索できなくなってしまう(グーグルみたいな近似表記検索をしてくれない)ので、ジョンソン表記で通さなければなりません。同じ理由で、シュライバーさんちのリーヴをリーエフとは表記できないし、アマンダちゃんのセイフライドをサイフリッドとは表記できません。デヴィッドなのかデビッドなのかデイヴィッドなのか、とかも悩みどころだし、リアムとリーアムも悩むし、マッカランなのかマッケランなのかも悩む。カタカナ表記と検索の問題はほんに悩ましいです。
ええと、話が逸れましたが、この映画に関しては舞台設定のリアリティとか脚本の良しあしとか(ましてや俳優の名前の表記とか)、ほんとはそんなこと、どうでもいい。なぜならばこれは、ゴジラを堪能するゴジラのためのゴジラ映画でありゴジラを描くことに関しては完璧に成功しているからです。文句のつけようがないんだわ。
超巨大生物の巨大さを表現するのに、化石でほのめかし、痕跡でほのめかし、部分映像でほのめかし、ためにためたまさにここぞというタイミングで画面いっぱいにどどぉーん! と登場させる手堅い演出。最初にゴジラの咆哮を浴びせかけられた瞬間、思わずヘンな声が漏れちゃいましたもん。これぞゴジラ、これぞゴジラ映画。あなたがゴジラファンで、もしかして人生行き詰ってて、もしかしてもしかしてもう死んぢゃおっかな、とか思ってるんだったら、とりあえずこれ観てからにすれば、と一言申し上げたい。生きててよかった、ってきっと思うよ。
ただ最初のうち、ゴジラの敵として登場したムートーとかいう怪物にはちょっと戸惑ってしまいました。ゴジラ映画ってゴジラしか出てこないかと思っていたのにほかの怪獣が出てきたのでアレ? と思ってしまったっぽい。よく考えてみればモスラとかキングギドラとか、ゴジラ以外にも色々いるんだよね。
ムートーっていうのは、 M.U.T.O.という綴りで、Massive Unidentified Terrestrial Organism (未確認巨大陸生生命体)の略なんだそうです。ゴジラと同時代の古代生物で、放射線をエネルギー源とし、ナチュラルボーン原子炉であるゴジラの体内に卵を産み付ける習性を持つため、ゴジラとは天敵関係。現代に蘇ったムートーは、ゴジラもいいけど核兵器も原子力発電所もなかなかオツだわ、とばかり暴れまわる上に、人間に向かって積極的に攻撃をしかけてくる性悪なので、宿敵ムートー以外は眼中になく、人間には(意図的には)危害を加えないゴジラが善玉に見えてしまうという仕組み。ゴジラがこいつらを完膚なきまでに叩き潰す瞬間、人類思わず大喝采。
しかもこのムートーってやつ、基本的に昆虫っぽい厭らしい造形の中に、妙に脊椎動物めいた要素が混入することにより更に厭らしさが倍増するという、厭らしい上にも厭らしい生き物なので、ゴツゴツしてて背びれとか鱗とか鰓とかあって二足歩行したりクジラみたく泳いでみせたり、しまいにゃ口から放射熱線を吐き出したりと、ただでさえチャーミングなゴジラさんが益々チャーミングに見えるという相乗効果も。ムートー、憎まれ役の役割を存分に果たして敵ながら天晴でした。
最後に、芹沢博士を演じた渡辺謙が流暢に英語を操りつつも、ゴジラに関しては「Godzilla」ではなく頑なに「Gojira」と原音に忠実な発音をしてくれた点を大きく評価したいと思います。やっぱゴジラだよねぇ、ガジーラじゃなくて。
・GODZILLA ゴジラ@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-07-29 20:40
| 映画か行