2014年 07月 22日
複製された男
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★ネタバレ注意★
『灼熱の魂』、『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督最新作。
原作はノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの同名小説。
宣伝コピーを見ると、「“脳力”が試される、究極の心理ミステリー。あなたは、一度で見抜けるか」という、なんだか『シャッター アイランド』を思い出すような煽り方なんだけど、『シャッター アイランド』が「そういう映画」ではなかったのと同じくらい、この映画も、ヒントを見抜けるかとか謎が解けるかとか騙すとか騙されないとかそういう次元の話ではなかったような。
タイトルがタイトルなので(原題は“ENEMY”ですが)、華やかな男女が集う込み合ったパーティ会場で、ほろ酔い加減を楽しんでいたジェイクは、手の甲に突然鋭い痛みを感じてグラスを取り落した。手の甲には刃物で切られた浅い傷があり、うっすらと血が滲んでいる。どうやら、近頃横行している遺伝子窃盗の被害にあってしまったらしい。というような話なのかと思っていたら、そういう話でもまた全然なかった。
カナダ・トロント。大学で歴史を教えているアダム(ジェイク・ギレンホール)は、母親(キャロライン:イザベラ・ロッセリーニ)からは生き方を批判され、仕事には身が入らず、恋人(メアリー:メラニー・ロラン)との仲も今ひとつで、新しく越してきたアパートにまともな家具を入れる気にもならないどんよりとした日々。ある日、同僚から勧められた映画のDVDをぼんやり観ていると、ベルボーイ3、という端役を演じた役者が自分と瓜二つであることに気が付く。
取り憑かれたようにその役者について調べ始めたアダムは、すぐに彼の名前と住所を突き止める。役者はアンソニー(ジェイク・ギレンホール二役)という名で、妊娠六か月の美しい妻(ヘレン:サラ・ガドン)がいた。アダムからのアプローチでその存在を知ったアンソニーの方でも、アダムを探りメアリーの存在を突き止める。かくてアンソニーは、おまえはおれの妻と浮気しただろう、だったら代わりにおれにもメアリーを抱かせろ、という驚くべき提案をしてくる。そしてアダムもまたなぜか、その提案を受け入れてしまうのだった。
瓜二つの男が存在する可能性としては、生き別れた双子の兄弟、クローン、整形手術、ドッペルゲンガー、並行宇宙などなどが考えられるかと思いますが、この映画では、アダムとアンソニーは、その身体に全く同じ傷を有する、という動かぬ証拠をあげて、二人が別人である、という解釈の道を完全に塞いでいます。アダムとアンソニーは少なくとも肉体的には同一人物でしかあり得ない。これが前提。
だとすると観客の興味は、アダムとアンソニー、二つの人格のうち、主人格はどちらなんだろう、ということに向かいます。どちらなんだろう?
ヒントになりそうなのが、アダムと母親のキャロラインとの関係です。
冒頭、留守番電話に録音されたキャロラインのメッセージが流れます。曰く、新しいアパートを見せてくれてありがとう、あなたももうそんなふらふらとした生き方はやめてそろそろ落ち着かなければね、云々。
新居に越したばかりなのはアダムの方ですから、観客は何となく「ふらふらとした生き方」というのは、アダムが恋人との関係をハッキリさせず、結婚しないでいることなのだろうな、と解釈してしまいます。母親という「客観的視点」に容認されているという点で、では主人格はアダムの方であろう、という前提で物語は始まる。
次にアダムは直接母親と対面し、自分そっくりの男と会ったことを打ち明けます。その時の母親の態度は不自然なほどにそっけない。よく知らない相手とふたりきりで密室で会ったことをなじり、役者なんて卑しい仕事をしている人間の話は二度と聞きたくない、その男の話は二度とするな、と一切聞く耳を持たないのです。
一方、アダムが母親と会っている間、アンソニーもまた「母親と会う」という名目で外出していたことが明かされます。そしてアンソニーが結局母親とは会わずに戻ってきてしまったという情報が、アンソニーと入れ替わったアダムの口からヘレンに語られる。ここで情報がひとつツイストする。そして、一方が母親と会っている間、もう一方は母親と会うことはできない、という事実が確認されるのです。実際に母親と会っていたのは果たしてどちらの人格だったのだろう。
母親と面会した際アダムは、ブルーベリーを食べるよう執拗に勧められます。しかしアダムはブルーベリーがあまり好きではない。勧められることを迷惑に思っていながら、母親の気持ちを傷つけたくなくて嫌々口に運びます。しかし一方のアンソニーは、ブルーベリーに異様なこだわりを見せ、冷蔵庫から切らすなと、体調が悪くて横になっているヘレンを思いやりなくなじります。母親の要求に従うことに苦痛を感じるアダムと、過剰なほどそれに順応しているアンソニー。やはりアンソニーは、アダムがかくあれかしと願う人格の投影なんだろうか?
しかし、パートナーと結婚しているのはアダムではなくアンソニーです。結婚という社会的に容認された客観的な指標を持つ人間が幻覚であることは考えにくい。それでは、冒頭でキャロラインが言った「ふらふらとした生き方」というのは、ヘレンと結婚していながらメアリーと浮気しているアンソニーの暮らしぶりを言っていたのではないか? だとしたら、教師であるアダムは、役者なんてつまらない仕事ではなく教師という安定した仕事についていてほしいという母親の願望を投影した架空の人格であるのかもしれない。
事実、ヘレンはアンソニーに浮気していた(ヘレンは過去に終わったことだと認識していた)ことをなじり、アダムと入れ替わったアンソニーと関係を持ったメアリーは、アンソニーの指に指輪の跡があることに気づき、既婚者であることを隠していたのか、となじるのです。二人の女によって、男が既婚者であること、にもかかわらず浮気していたことが証言される。浮気していた既婚者であるのはアダムではなくアンソニーです。
歪んだ鏡に映る鏡像のような不安定な現実。
確実に言えることは、ヘレンが妊娠六か月であること、メアリーが銀行員であること。その銀行員であるメアリーはアンソニーが運転する車で事故に遭い、死亡してしまったこと。
アンソニーの人格が事故で消滅したのと時を同じくして、アダムの人格は、アンソニーのアパートでアンソニーの妻を抱きアンソニーと入れ替わることを決意しています。アンソニーはアダムに人格を乗っ取られてしまったのか? そもそもアダムなんて男は存在していなかったのか?
なんとなく、萩尾望都の短編漫画、『アロイス』を思い出しました。
本来双子で生まれるはずだったルカスとアロイス、しかしアロイスは生まれることができないまま、ルカスとして認識されている少年の第二の人格として存在していた。二人の人格は平和共存していたが、思春期を迎え、異性への興味が芽生え始める頃、ルカスの影に押し込められていることに我慢のならなくなったアロイスは、ルカスを抹殺し、入れ替わってしまう、という話。初出が1975年であったことを考えると、空恐ろしいほど先駆的な作品で、それを「少女」漫画で表現してしまうあたり、萩尾望都って天才っていうよりもはや怪物! と(いい意味で)思ってしまうような作品です。
ただ、この『複製された男』という映画って、多重人格者の人格が他の人格に乗っ取られる、あるいは吸収または統合される、という話なのかどうか。劇中繰り返し蜘蛛のイメージが現れます。蜘蛛は心理学では一般的に、「束縛する母親または女性の象徴」と言われているようですが、確かにキャロラインは支配的な母親だし、妊娠したヘレンは夫から自由を奪う存在であるのかもしれない。アダムのイメージに現れるビルより巨大な蜘蛛の姿は圧倒的な絶望感を感じるし、ラストに描かれるヘレンの変身も、そのようなことなんでしょう。だとしたらそこだけひどく直截な印象なんだけど。
・複製された男@ぴあ映画生活
『灼熱の魂』、『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督最新作。
原作はノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの同名小説。
宣伝コピーを見ると、「“脳力”が試される、究極の心理ミステリー。あなたは、一度で見抜けるか」という、なんだか『シャッター アイランド』を思い出すような煽り方なんだけど、『シャッター アイランド』が「そういう映画」ではなかったのと同じくらい、この映画も、ヒントを見抜けるかとか謎が解けるかとか騙すとか騙されないとかそういう次元の話ではなかったような。
タイトルがタイトルなので(原題は“ENEMY”ですが)、華やかな男女が集う込み合ったパーティ会場で、ほろ酔い加減を楽しんでいたジェイクは、手の甲に突然鋭い痛みを感じてグラスを取り落した。手の甲には刃物で切られた浅い傷があり、うっすらと血が滲んでいる。どうやら、近頃横行している遺伝子窃盗の被害にあってしまったらしい。というような話なのかと思っていたら、そういう話でもまた全然なかった。
カナダ・トロント。大学で歴史を教えているアダム(ジェイク・ギレンホール)は、母親(キャロライン:イザベラ・ロッセリーニ)からは生き方を批判され、仕事には身が入らず、恋人(メアリー:メラニー・ロラン)との仲も今ひとつで、新しく越してきたアパートにまともな家具を入れる気にもならないどんよりとした日々。ある日、同僚から勧められた映画のDVDをぼんやり観ていると、ベルボーイ3、という端役を演じた役者が自分と瓜二つであることに気が付く。
取り憑かれたようにその役者について調べ始めたアダムは、すぐに彼の名前と住所を突き止める。役者はアンソニー(ジェイク・ギレンホール二役)という名で、妊娠六か月の美しい妻(ヘレン:サラ・ガドン)がいた。アダムからのアプローチでその存在を知ったアンソニーの方でも、アダムを探りメアリーの存在を突き止める。かくてアンソニーは、おまえはおれの妻と浮気しただろう、だったら代わりにおれにもメアリーを抱かせろ、という驚くべき提案をしてくる。そしてアダムもまたなぜか、その提案を受け入れてしまうのだった。
瓜二つの男が存在する可能性としては、生き別れた双子の兄弟、クローン、整形手術、ドッペルゲンガー、並行宇宙などなどが考えられるかと思いますが、この映画では、アダムとアンソニーは、その身体に全く同じ傷を有する、という動かぬ証拠をあげて、二人が別人である、という解釈の道を完全に塞いでいます。アダムとアンソニーは少なくとも肉体的には同一人物でしかあり得ない。これが前提。
だとすると観客の興味は、アダムとアンソニー、二つの人格のうち、主人格はどちらなんだろう、ということに向かいます。どちらなんだろう?
ヒントになりそうなのが、アダムと母親のキャロラインとの関係です。
冒頭、留守番電話に録音されたキャロラインのメッセージが流れます。曰く、新しいアパートを見せてくれてありがとう、あなたももうそんなふらふらとした生き方はやめてそろそろ落ち着かなければね、云々。
新居に越したばかりなのはアダムの方ですから、観客は何となく「ふらふらとした生き方」というのは、アダムが恋人との関係をハッキリさせず、結婚しないでいることなのだろうな、と解釈してしまいます。母親という「客観的視点」に容認されているという点で、では主人格はアダムの方であろう、という前提で物語は始まる。
次にアダムは直接母親と対面し、自分そっくりの男と会ったことを打ち明けます。その時の母親の態度は不自然なほどにそっけない。よく知らない相手とふたりきりで密室で会ったことをなじり、役者なんて卑しい仕事をしている人間の話は二度と聞きたくない、その男の話は二度とするな、と一切聞く耳を持たないのです。
一方、アダムが母親と会っている間、アンソニーもまた「母親と会う」という名目で外出していたことが明かされます。そしてアンソニーが結局母親とは会わずに戻ってきてしまったという情報が、アンソニーと入れ替わったアダムの口からヘレンに語られる。ここで情報がひとつツイストする。そして、一方が母親と会っている間、もう一方は母親と会うことはできない、という事実が確認されるのです。実際に母親と会っていたのは果たしてどちらの人格だったのだろう。
母親と面会した際アダムは、ブルーベリーを食べるよう執拗に勧められます。しかしアダムはブルーベリーがあまり好きではない。勧められることを迷惑に思っていながら、母親の気持ちを傷つけたくなくて嫌々口に運びます。しかし一方のアンソニーは、ブルーベリーに異様なこだわりを見せ、冷蔵庫から切らすなと、体調が悪くて横になっているヘレンを思いやりなくなじります。母親の要求に従うことに苦痛を感じるアダムと、過剰なほどそれに順応しているアンソニー。やはりアンソニーは、アダムがかくあれかしと願う人格の投影なんだろうか?
しかし、パートナーと結婚しているのはアダムではなくアンソニーです。結婚という社会的に容認された客観的な指標を持つ人間が幻覚であることは考えにくい。それでは、冒頭でキャロラインが言った「ふらふらとした生き方」というのは、ヘレンと結婚していながらメアリーと浮気しているアンソニーの暮らしぶりを言っていたのではないか? だとしたら、教師であるアダムは、役者なんてつまらない仕事ではなく教師という安定した仕事についていてほしいという母親の願望を投影した架空の人格であるのかもしれない。
事実、ヘレンはアンソニーに浮気していた(ヘレンは過去に終わったことだと認識していた)ことをなじり、アダムと入れ替わったアンソニーと関係を持ったメアリーは、アンソニーの指に指輪の跡があることに気づき、既婚者であることを隠していたのか、となじるのです。二人の女によって、男が既婚者であること、にもかかわらず浮気していたことが証言される。浮気していた既婚者であるのはアダムではなくアンソニーです。
歪んだ鏡に映る鏡像のような不安定な現実。
確実に言えることは、ヘレンが妊娠六か月であること、メアリーが銀行員であること。その銀行員であるメアリーはアンソニーが運転する車で事故に遭い、死亡してしまったこと。
アンソニーの人格が事故で消滅したのと時を同じくして、アダムの人格は、アンソニーのアパートでアンソニーの妻を抱きアンソニーと入れ替わることを決意しています。アンソニーはアダムに人格を乗っ取られてしまったのか? そもそもアダムなんて男は存在していなかったのか?
なんとなく、萩尾望都の短編漫画、『アロイス』を思い出しました。
本来双子で生まれるはずだったルカスとアロイス、しかしアロイスは生まれることができないまま、ルカスとして認識されている少年の第二の人格として存在していた。二人の人格は平和共存していたが、思春期を迎え、異性への興味が芽生え始める頃、ルカスの影に押し込められていることに我慢のならなくなったアロイスは、ルカスを抹殺し、入れ替わってしまう、という話。初出が1975年であったことを考えると、空恐ろしいほど先駆的な作品で、それを「少女」漫画で表現してしまうあたり、萩尾望都って天才っていうよりもはや怪物! と(いい意味で)思ってしまうような作品です。
ただ、この『複製された男』という映画って、多重人格者の人格が他の人格に乗っ取られる、あるいは吸収または統合される、という話なのかどうか。劇中繰り返し蜘蛛のイメージが現れます。蜘蛛は心理学では一般的に、「束縛する母親または女性の象徴」と言われているようですが、確かにキャロラインは支配的な母親だし、妊娠したヘレンは夫から自由を奪う存在であるのかもしれない。アダムのイメージに現れるビルより巨大な蜘蛛の姿は圧倒的な絶望感を感じるし、ラストに描かれるヘレンの変身も、そのようなことなんでしょう。だとしたらそこだけひどく直截な印象なんだけど。
・複製された男@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-07-22 18:38
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