2014年 07月 01日
サード・パーソン
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★ネタバレ注意★
ポール・ハギス監督最新作。
パリ、ローマ、ニューヨーク、三つの都市を舞台に繰り広げられる三つの異なる物語、と見せかけて実は、というお話。主軸となるのは、パリ編に登場するリーアム・ニーソンが演じる作家なのですが、作家が主人公の物語では語られた物語を鵜呑みにすることはできません。物語の実存性そのものを疑ってかからなければならない。
パリ。ホテルのスイートルームにこもり新作執筆中のピューリッツァー賞受賞作家マイケル(リーアム・ニーソン)のもとに、愛人のアンナ(オリヴィア・ワイルド)が訪れる。マイケルには別居中の妻エレイン(キム・ベイジンガー)がおり、アンナにもまた秘密の恋人がいる。作家志望のアンナはマイケルに新作の批評を求め、マイケルはよい評価を与えることができない。しかしマイケル自身もまた、自身の新作を書きあぐねており、編集者のジェイク(デヴィッド・ヘアウッド)から酷評されてしまう。
ローマ。スコット(エイドリアン・ブロディ)の生業はファッションブランドからデザインを盗みだして転売すること。言葉の通じないローマにうんざりしていた矢先、アメリカーノという名前に惹かれて偶然入ったバーで、美しいロマの女モニカ(モラン・アティアス)に一目ぼれしたスコットは、モニカの娘が密輸業者に売られかけていることを聞かされ、仏心を起こしたばかりに荒事に巻き込まれてしまう。
ニューヨーク。ジュリア(ミラ・クニス)とリック(ジェームズ・フランコ)はそれぞれ女優と芸術家というセレブなカップルだったが、ジュリアが6歳の息子を事故で死なせかけてしまったことにより関係が壊れ、離婚、親権争いのただ中にあった。息子はリックとその恋人サム(ロアン・シャバノル)にとられてしまい、ジュリアは面会すらできない。莫大な裁判費用を抱えて生活が困窮したジュリアは、かつては顧客として利用していた高級ホテルで客室係として働き始める。ジュリアの弁護士であるテレサ(マリア・ベロ)は、裁判所の心証を良くするため精神鑑定を勧めるが。
というのが表層に見られるプロットです。だけど最初に言ったように、これはひとりの作家の視点で語られる「物語」であり、同じ階層にあるかに見えた個々の物語は、作家の脳内に収斂していく。つまりはメタフィクションであったことが明かされる構成になっています。
ところがしかし、それはそうなんだけれども、というのが面白いところであり、ポール・ハギス監督の手腕に惚れぼれしてしまうところなんですが、いくつもの階層にある物語を、どのレベルまで受け入れるかは観客次第なんですね。何も観客の中にはこれがメタフィクションであることに気づかず、三つの異なる物語によるオムニバスだと思いこんだまま鑑賞を終えてしまうひとがいる、なんてことを言いたいのじゃなくて、メタフィクションであることを承知の上で表層の物語を楽しむこともまた可能である作りになっているということ。そして更に言えば、メタフィクションであることを飲み込んだ後に、さらに見えてくる景色を楽しむこともまた可能であるということ。
表層の物語を楽しみ、メタフィクションを楽しみ、メタフィクションの根底にあるものを掘り出す、という三段階の楽しみ方を、観客の意思で選ぶことができる。そしてたぶん、三つめを選ぶと、ボディブローをくらったかのような鈍くしぶとい衝撃を受ける。なぜなら、表層で語られた悲しみと、その悲しみを描かずにはいられなかった作家の抱く悲しみが、重層的多視点的全方位的に感得されることになるから。
言うなれば、作家の手記という「一人称(the first person)」の語りが、固定カメラを前にしたカメラ目線の独白であるとするならば、作家の紡いだフィクションを作家の視点を離れた「三人称(the third person)」視点で眺めるということは、複数の手持ちカメラが縦横に人物を取り巻いて近くから遠くから上から下からあらゆるアングルで撮影するのに似ている。
この物語は、「かれらの物語」という三人称のドラマの内側に作家の手記という一人称のドラマが隠されていて、さらにその内側に「かれの物語」という三人称のドラマが潜んでいるという三重構造になっていて、そして繰り返しになりますが、どの層をとっても、それはそれとして完璧に完結しているのです。ハギス監督、凄いと思います。物語を語ることに対するセンスも、研ぎ澄まされた精度にまで物語を突き詰めていく集中力も半端じゃない。
取っ掛かりやすいところから話を始めれば、とりあえずニューヨークシークエンス。表層に現れるドラマはそれだけで十分哀切なもの。ほんの不注意で子供の身を危険に晒してしまった妻、そんな妻が許せなかった夫、取り付く島のない夫の措置、困窮する妻、子に会えぬ母の悲しみ、母を求める子を見つめる父の苦しみ。ミラ・クニスの慟哭もわかる。ジェームズ・フランコのやり場のない憤りもわかる。フランコと暮らしているロアン・シャバノルもまた、恋愛勝者的立場に奢る高慢な人間ではなく、クニスの悲しみに深く共感し、息をひそめて推移を見守っているひととして描写されている。かつてはテレビ女優として華やかな暮らしを謳歌していたクニスが、お仕着せの制服を着て、かつて自分が客として滞在した部屋を掃除してまわる。誰とも顔を合わせずにすむから。掃除係の顔なんて誰も見やしない。表層に現れるドラマはそれだけで十分哀切なもの。
最初から観客の気持ちにひっかかるのは、何度も繰り返される「定刻内に行くべき場所に決して行きつけない」というクニスを巡る描写。仕事場に、弁護士との約束に、クニスは決して間に合わない。親権に関わる精神科医との大事な面談にすら、住所が書かれたメモをなくしてしまい、プリペイド携帯の料金を切らしてしまい、降りるべき駅をまちがえてしまう。行きつけない。決して行きつけない。これは悪夢のメタファーだ。
そしてふと気がつけば、ニューヨークで働いていたはずのクニスは、いつの間にかリーアム・ニーソンの作家が投宿しているパリのホテルで働いていることになっている。そしてクニスは、ニーソンが愛人のオリビア・ワイルドに送った部屋いっぱいの白い花を見せつけられて、理性の糸を切らせてしまう。白い花。さまざまなことを「象徴」する白という色。この花を作家は街角の花屋台で買った。大きな店で大量注文したわけじゃない。決して部屋を埋め尽くすことなどできるはずのない買い物だった。その花がクニスを追いつめる。現実に見えていたものがどんどんフィクションに浸食されていく。その不安感の描写がとてつもなくいい。
そしてきわめつけ、クニスの弁護士マリア・ベロは、別れた夫から電話を受ける。出ないつもりの電話にうっかり出てしまった弁護士は、未だに夫だった男を許すことはできないのだと告げる。ほんの不注意で子供の身を危険に晒してしまった、否、子供を死なせてしまった元夫のことを。子供はプールで死んだ。この映画では冒頭、不吉なくらい「水」の描写が畳みかけられる。
ローマ。主人公のエイドリアン・ブロディは、出てくるだけでフィクション性を匂わせる。なにしろ職業がスパイだ。デザインの盗用というしょぼい仕事ではあるけれど、産業スパイには違いない。スパイだって。サスペンスアクションでもないのにスパイが出てきたら、その実在を疑った方がいい。
ブロディのシークエンスは、クニスとフランコのエピソードと比べたら、圧倒的に現実性が薄い。謎めいたロマの女、女の語る信用のおけない身の上話、会うたびに違う「友人の車」に乗ってくる女、そんな女のために有り金全てをはたいて大金を用意する男。
ロマの女は、大金を積まなければ人身売買組織に誘拐された娘が売り飛ばされてしまう、という「物語」を語る。果たしてその娘は、(このシークエンスの中で)本当に存在していたのかどうか。なにしろ女の行動の一切が信用できないのだから、少女の実在だけを信じる理由がない。だけど男はどうしても少女のために行動せずにはいられない。なぜなら男にとっても「子供」が大きなイシューだから。
男は別れた妻に電話をかける。元妻はニューヨークで弁護士をしている。元妻だった弁護士は、未だに夫だった男を許すことはできないのだと告げる。ほんの不注意で子供を死なせてしまった元夫のことを。子供はプールで死んだ。夫が電話に気をとられていた隙に。ビジネスの電話ですって? それで一体幾ら儲かったの? 子供を死なせる価値がある電話だった? 男には返す言葉もない。なぜなら電話はビジネスの電話ではなかった。男は愛人と話をしていた。
だけど、ブロディのシークエンスには、どこかしら希望が光る。ほかのどのシークエンスにもない、ほのかな光が見える。それはもしかしたら、ロマの女の言う少女が、やっぱりほんとうに存在していたのだという可能性が示唆されている(と思えた)からかもしれない。女を連れて逃避行に出たブロディ、ブロディが運転する「友人の車」の助手席で幸せそうに微笑むロマの女。彼女の視線が一瞬後部座席に流れる。カメラは何も映し出しはしないけれど、もしかして、と観客は考える。もしかしてその視線の先には、ブロディの奮闘で辛くも救い出された幼い少女がいたのかもしれない。自分の子供を死なせてしまったブロディは、ロマの少女を助けることができたのかもしれない。
そうしてそれらの物語が収斂していくさきに、パリにいる作家のニーソンがいる。作家の主観的世界の中では、作家本人と愛人のオリヴィア・ワイルドと、妻のキム・ベイジンガーだけは実在しているように思われる。強気で高慢にふるまう若く美しい愛人は、作家と不倫の関係を続ける一方で別の恋人とも切れてはいない。身持ちの軽い女。と見せかけて実は、女は実父からの性的虐待から未だに逃げ出すことができず、その人間存在の芯に至るまで深く深く傷ついていた。
作家は別居中の妻に電話をかける。妻はたった今プールで泳いでいたところだと告げる。子供が溺れ死んでから、足を踏み入れることができなかったプールで。あなたが電話していた間にあの子は死んだ。仕事の電話だと言うけれど、それほど大事な電話だったの? 作家は告白する。仕事の電話じゃなかった。通話の相手は愛人だった。
妻は愛人の名前を知らない。その人はいまそこにいるのと尋ねると、夫は妻にひとりだよと答える。名前を告げられない登場人物には実在を疑う余地がある。存在が否定される登場人物には実在を疑う余地がある。生き生きとした存在感で作家を魅了し、情熱的に愛を交わし、人間存在の芯に至るまで深く深く傷ついていたはずの若くて美しい女の、存在が次第に曖昧になっていく。
妻は作家が執筆している物語のゲラを通して、女の存在を知る。執筆中であるにもかかわらず、ゲラという形で提示されるその原稿を。そして妻が口にする寸評を、作家は完結したはずの物語に加筆し続ける。
サード・パーソンというキーワードはもちろん「三人称」という意味で、三人称というのは作家が書き綴った日記の中での作家自身の呼称であり、作家がしたためたフィクションのことでもあるのだろう。もしかしたらとても単純な符号なのかもしれない。だけどやっぱり、サード・パーソンと言われたら、「第三の人物」の存在を夢想してみたくなる。三つの物語の中で、果たしてだれが第三の人物であったのか。本来二人で完結するはずの物語に紛れ込んだ異分子は誰だったのか。あるいは三つではなく、たったひとつの作家の物語の中で、どこにも融合せず、調和することを肯じず、ブラックホールのように光を吸収していたのはどの人物だったのか。
子供を死なせた罪悪感を仮託され人物、子供を奪われた憤りを仮託された人物、子供を救えたかもしれない希望を仮託された人物、子供を死なせる発端となった罪の存在を仮託された人物、それらの人物全ての中心にいて、それらの悲しみの全てを抱え、けれど決してかれらにコミットしない人物。語り部。語り部こそが第三の人物だったのか。
・サード・パーソン@ぴあ映画生活
ポール・ハギス監督最新作。
パリ、ローマ、ニューヨーク、三つの都市を舞台に繰り広げられる三つの異なる物語、と見せかけて実は、というお話。主軸となるのは、パリ編に登場するリーアム・ニーソンが演じる作家なのですが、作家が主人公の物語では語られた物語を鵜呑みにすることはできません。物語の実存性そのものを疑ってかからなければならない。
パリ。ホテルのスイートルームにこもり新作執筆中のピューリッツァー賞受賞作家マイケル(リーアム・ニーソン)のもとに、愛人のアンナ(オリヴィア・ワイルド)が訪れる。マイケルには別居中の妻エレイン(キム・ベイジンガー)がおり、アンナにもまた秘密の恋人がいる。作家志望のアンナはマイケルに新作の批評を求め、マイケルはよい評価を与えることができない。しかしマイケル自身もまた、自身の新作を書きあぐねており、編集者のジェイク(デヴィッド・ヘアウッド)から酷評されてしまう。
ローマ。スコット(エイドリアン・ブロディ)の生業はファッションブランドからデザインを盗みだして転売すること。言葉の通じないローマにうんざりしていた矢先、アメリカーノという名前に惹かれて偶然入ったバーで、美しいロマの女モニカ(モラン・アティアス)に一目ぼれしたスコットは、モニカの娘が密輸業者に売られかけていることを聞かされ、仏心を起こしたばかりに荒事に巻き込まれてしまう。
ニューヨーク。ジュリア(ミラ・クニス)とリック(ジェームズ・フランコ)はそれぞれ女優と芸術家というセレブなカップルだったが、ジュリアが6歳の息子を事故で死なせかけてしまったことにより関係が壊れ、離婚、親権争いのただ中にあった。息子はリックとその恋人サム(ロアン・シャバノル)にとられてしまい、ジュリアは面会すらできない。莫大な裁判費用を抱えて生活が困窮したジュリアは、かつては顧客として利用していた高級ホテルで客室係として働き始める。ジュリアの弁護士であるテレサ(マリア・ベロ)は、裁判所の心証を良くするため精神鑑定を勧めるが。
というのが表層に見られるプロットです。だけど最初に言ったように、これはひとりの作家の視点で語られる「物語」であり、同じ階層にあるかに見えた個々の物語は、作家の脳内に収斂していく。つまりはメタフィクションであったことが明かされる構成になっています。
ところがしかし、それはそうなんだけれども、というのが面白いところであり、ポール・ハギス監督の手腕に惚れぼれしてしまうところなんですが、いくつもの階層にある物語を、どのレベルまで受け入れるかは観客次第なんですね。何も観客の中にはこれがメタフィクションであることに気づかず、三つの異なる物語によるオムニバスだと思いこんだまま鑑賞を終えてしまうひとがいる、なんてことを言いたいのじゃなくて、メタフィクションであることを承知の上で表層の物語を楽しむこともまた可能である作りになっているということ。そして更に言えば、メタフィクションであることを飲み込んだ後に、さらに見えてくる景色を楽しむこともまた可能であるということ。
表層の物語を楽しみ、メタフィクションを楽しみ、メタフィクションの根底にあるものを掘り出す、という三段階の楽しみ方を、観客の意思で選ぶことができる。そしてたぶん、三つめを選ぶと、ボディブローをくらったかのような鈍くしぶとい衝撃を受ける。なぜなら、表層で語られた悲しみと、その悲しみを描かずにはいられなかった作家の抱く悲しみが、重層的多視点的全方位的に感得されることになるから。
言うなれば、作家の手記という「一人称(the first person)」の語りが、固定カメラを前にしたカメラ目線の独白であるとするならば、作家の紡いだフィクションを作家の視点を離れた「三人称(the third person)」視点で眺めるということは、複数の手持ちカメラが縦横に人物を取り巻いて近くから遠くから上から下からあらゆるアングルで撮影するのに似ている。
この物語は、「かれらの物語」という三人称のドラマの内側に作家の手記という一人称のドラマが隠されていて、さらにその内側に「かれの物語」という三人称のドラマが潜んでいるという三重構造になっていて、そして繰り返しになりますが、どの層をとっても、それはそれとして完璧に完結しているのです。ハギス監督、凄いと思います。物語を語ることに対するセンスも、研ぎ澄まされた精度にまで物語を突き詰めていく集中力も半端じゃない。
取っ掛かりやすいところから話を始めれば、とりあえずニューヨークシークエンス。表層に現れるドラマはそれだけで十分哀切なもの。ほんの不注意で子供の身を危険に晒してしまった妻、そんな妻が許せなかった夫、取り付く島のない夫の措置、困窮する妻、子に会えぬ母の悲しみ、母を求める子を見つめる父の苦しみ。ミラ・クニスの慟哭もわかる。ジェームズ・フランコのやり場のない憤りもわかる。フランコと暮らしているロアン・シャバノルもまた、恋愛勝者的立場に奢る高慢な人間ではなく、クニスの悲しみに深く共感し、息をひそめて推移を見守っているひととして描写されている。かつてはテレビ女優として華やかな暮らしを謳歌していたクニスが、お仕着せの制服を着て、かつて自分が客として滞在した部屋を掃除してまわる。誰とも顔を合わせずにすむから。掃除係の顔なんて誰も見やしない。表層に現れるドラマはそれだけで十分哀切なもの。
最初から観客の気持ちにひっかかるのは、何度も繰り返される「定刻内に行くべき場所に決して行きつけない」というクニスを巡る描写。仕事場に、弁護士との約束に、クニスは決して間に合わない。親権に関わる精神科医との大事な面談にすら、住所が書かれたメモをなくしてしまい、プリペイド携帯の料金を切らしてしまい、降りるべき駅をまちがえてしまう。行きつけない。決して行きつけない。これは悪夢のメタファーだ。
そしてふと気がつけば、ニューヨークで働いていたはずのクニスは、いつの間にかリーアム・ニーソンの作家が投宿しているパリのホテルで働いていることになっている。そしてクニスは、ニーソンが愛人のオリビア・ワイルドに送った部屋いっぱいの白い花を見せつけられて、理性の糸を切らせてしまう。白い花。さまざまなことを「象徴」する白という色。この花を作家は街角の花屋台で買った。大きな店で大量注文したわけじゃない。決して部屋を埋め尽くすことなどできるはずのない買い物だった。その花がクニスを追いつめる。現実に見えていたものがどんどんフィクションに浸食されていく。その不安感の描写がとてつもなくいい。
そしてきわめつけ、クニスの弁護士マリア・ベロは、別れた夫から電話を受ける。出ないつもりの電話にうっかり出てしまった弁護士は、未だに夫だった男を許すことはできないのだと告げる。ほんの不注意で子供の身を危険に晒してしまった、否、子供を死なせてしまった元夫のことを。子供はプールで死んだ。この映画では冒頭、不吉なくらい「水」の描写が畳みかけられる。
ローマ。主人公のエイドリアン・ブロディは、出てくるだけでフィクション性を匂わせる。なにしろ職業がスパイだ。デザインの盗用というしょぼい仕事ではあるけれど、産業スパイには違いない。スパイだって。サスペンスアクションでもないのにスパイが出てきたら、その実在を疑った方がいい。
ブロディのシークエンスは、クニスとフランコのエピソードと比べたら、圧倒的に現実性が薄い。謎めいたロマの女、女の語る信用のおけない身の上話、会うたびに違う「友人の車」に乗ってくる女、そんな女のために有り金全てをはたいて大金を用意する男。
ロマの女は、大金を積まなければ人身売買組織に誘拐された娘が売り飛ばされてしまう、という「物語」を語る。果たしてその娘は、(このシークエンスの中で)本当に存在していたのかどうか。なにしろ女の行動の一切が信用できないのだから、少女の実在だけを信じる理由がない。だけど男はどうしても少女のために行動せずにはいられない。なぜなら男にとっても「子供」が大きなイシューだから。
男は別れた妻に電話をかける。元妻はニューヨークで弁護士をしている。元妻だった弁護士は、未だに夫だった男を許すことはできないのだと告げる。ほんの不注意で子供を死なせてしまった元夫のことを。子供はプールで死んだ。夫が電話に気をとられていた隙に。ビジネスの電話ですって? それで一体幾ら儲かったの? 子供を死なせる価値がある電話だった? 男には返す言葉もない。なぜなら電話はビジネスの電話ではなかった。男は愛人と話をしていた。
だけど、ブロディのシークエンスには、どこかしら希望が光る。ほかのどのシークエンスにもない、ほのかな光が見える。それはもしかしたら、ロマの女の言う少女が、やっぱりほんとうに存在していたのだという可能性が示唆されている(と思えた)からかもしれない。女を連れて逃避行に出たブロディ、ブロディが運転する「友人の車」の助手席で幸せそうに微笑むロマの女。彼女の視線が一瞬後部座席に流れる。カメラは何も映し出しはしないけれど、もしかして、と観客は考える。もしかしてその視線の先には、ブロディの奮闘で辛くも救い出された幼い少女がいたのかもしれない。自分の子供を死なせてしまったブロディは、ロマの少女を助けることができたのかもしれない。
そうしてそれらの物語が収斂していくさきに、パリにいる作家のニーソンがいる。作家の主観的世界の中では、作家本人と愛人のオリヴィア・ワイルドと、妻のキム・ベイジンガーだけは実在しているように思われる。強気で高慢にふるまう若く美しい愛人は、作家と不倫の関係を続ける一方で別の恋人とも切れてはいない。身持ちの軽い女。と見せかけて実は、女は実父からの性的虐待から未だに逃げ出すことができず、その人間存在の芯に至るまで深く深く傷ついていた。
作家は別居中の妻に電話をかける。妻はたった今プールで泳いでいたところだと告げる。子供が溺れ死んでから、足を踏み入れることができなかったプールで。あなたが電話していた間にあの子は死んだ。仕事の電話だと言うけれど、それほど大事な電話だったの? 作家は告白する。仕事の電話じゃなかった。通話の相手は愛人だった。
妻は愛人の名前を知らない。その人はいまそこにいるのと尋ねると、夫は妻にひとりだよと答える。名前を告げられない登場人物には実在を疑う余地がある。存在が否定される登場人物には実在を疑う余地がある。生き生きとした存在感で作家を魅了し、情熱的に愛を交わし、人間存在の芯に至るまで深く深く傷ついていたはずの若くて美しい女の、存在が次第に曖昧になっていく。
妻は作家が執筆している物語のゲラを通して、女の存在を知る。執筆中であるにもかかわらず、ゲラという形で提示されるその原稿を。そして妻が口にする寸評を、作家は完結したはずの物語に加筆し続ける。
サード・パーソンというキーワードはもちろん「三人称」という意味で、三人称というのは作家が書き綴った日記の中での作家自身の呼称であり、作家がしたためたフィクションのことでもあるのだろう。もしかしたらとても単純な符号なのかもしれない。だけどやっぱり、サード・パーソンと言われたら、「第三の人物」の存在を夢想してみたくなる。三つの物語の中で、果たしてだれが第三の人物であったのか。本来二人で完結するはずの物語に紛れ込んだ異分子は誰だったのか。あるいは三つではなく、たったひとつの作家の物語の中で、どこにも融合せず、調和することを肯じず、ブラックホールのように光を吸収していたのはどの人物だったのか。
子供を死なせた罪悪感を仮託され人物、子供を奪われた憤りを仮託された人物、子供を救えたかもしれない希望を仮託された人物、子供を死なせる発端となった罪の存在を仮託された人物、それらの人物全ての中心にいて、それらの悲しみの全てを抱え、けれど決してかれらにコミットしない人物。語り部。語り部こそが第三の人物だったのか。
・サード・パーソン@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-07-01 22:07
| 映画さ行