2014年 06月 20日
グランド・ブダペスト・ホテル
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★ネタバレ注意★
ウェス・アンダーソン監督最新作です。
左右対称の画面設定、細部までこだわりぬいた美術設計、研ぎ澄まされた色彩感覚、クリムトやエゴンシーレをリスペクトしたスノッブでデカダンなディテール、世界中の洒落者を唸らせる鋭敏なファッションセンス、アンダーソン監督らしさが横溢する至福の100分間。
そしてまた、出演者の顔ぶれが豪華絢爛。
主演のレイフ・ファインズを筆頭に、F・マーレイ・エイブラハム、エドワード・ノートン、マチュー・アマルリック、シアーシャ・ローナン、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、ジェフ・ゴールドブラム、ジュード・ロウ、ティルダ・スウィントン、ハーヴェイ・カイテル、トム・ウィルキンソン、ビル・マーレイ、オーウェン・ウィルソン。
一本の映画でこれだけのメンツが顔を揃えた壮観。むしろここまで来ると逆に、なんでアンジェリカ・ヒューストンがいないのさ、と文句を言いたくなってしまいます。
1932年。ヨーロッパの架空の国、ズブロウカにあるグランド・ブダペスト・ホテルは、欧州随一の超高級リゾートホテル。そこは“伝説のコンシェルジュ”と呼ばれるグスタヴ・H(レイフ・ファインズ)による完璧なホスピタリティが名物で、かれを目当てに名門貴顕富裕な顧客がひきもきらなかった。ある日、グスタヴと懇意にしていた富豪の常連客マダムD(ティルダ・スウィントン)が殺害され、遺産相続に巻き込まれたグスタヴは殺人の容疑をかけられてしまう。かくてグスタヴはコンシェルジュ見習いのゼロ(トニー・レヴォロリ)と共にヨーロッパ中を逃げ回ることになるのだが。
という物語はまず、すでに故人である「作家(トム・ウィルキンソン)」の回顧から始まり、「作家」が若かりし頃(ジュード・ロウ)、すでに廃れてしまったグランドブダペストホテルで出会った謎めいたホテルオーナー ミスター・ゼロ・ムスタファ(F・マーレイ・エイブラハム)の供述によって明かされる、衰退の兆しは見えていたもののいまだ華やぎを失わなかった時代のグランドブダペストホテルの物語(すなわちそれが上述したグスタヴの物語)として展開していくという三重構造の入れ子細工のような仕掛けになっています。
というと無駄に複雑なわかりにくい話のような印象を受けますが、実際にはこの映画はウェス・アンダーソン監督の映画としては、かつてないほどにわかりやすく、とっつきやすいです。というのもテーマ性がとてもはっきりしているから。そのテーマというのは、失われたものへの哀惜と追悼、そして残された世界への違和感。思えばアンダーソン監督の映画のテーマって常にこの「違和感」が根底にあったんじゃないかと思うのだけど、この映画に関しては違和感の拠って来る原因との因果関係が明確なので、だから思いのほか「わかりやすい」映画になっているのだと思います。
映画のエンドロールで「シュテファン・ツヴァイクの作品ならびに生涯にインスパイアされた」という表示が出るのですが(作品自体はアンダーソン監督のオリジナル)、ツヴァイクというのは第二次世界大戦前夜のオーストリアで大変人気のあった作家だそうで、ザルツブルグの山間部に非常に豪壮な山荘を所有していたそうです。劇中グランドブダペストホテルのロケーションは「ズブロウカ」という架空の国ということになっていますが、モデルとしては、ツヴァイクが山荘を構えたアルプスの地域であるらしい。
しかしツヴァイクはユダヤ系であったために、ナチスドイツの迫害を受け、ブラジルに亡命すると、第二次世界大戦の終結を見ることなく、そこで自らの命を絶ったそうです。心から愛したヨーロッパ文明がナチスに蹂躙され崩壊していくさまを見るに忍びなかったかららしい。劇中の「作家」も、ミスター・ゼロ・ムスタファの物語を聞いた後、ヨーロッパの地を離れ南米あたりを放浪していた、という描写がありますから、このキャラクターがツヴァイクの投影であることは間違いないようです。
その「失われたよきもの」を体現する人物として造形されているのがレイフ・ファインズが演じたムッシュ・グスタヴ・Hということになるのですが、まずファインズの演技が大変すばらしいことは是非とも特筆しなきゃいけないと思います。これだけ多彩な大物スターが目白押しの映画で、やはり主演としての輝きを放っているのはたいしたもの。その緻密にして計算しつくされた演技は、おそらく減点のしようがない完璧さ。
それを前提として、(見当違いも甚だしいかもしれないけれど)グスタヴという人物にはちょっと『ビッグバン・セオリー』のシェルドン・クーパーを彷彿とさせるところがある。製作者は否定していますが、一般にはアスペルガー症候群っぽい、と言われているキャラクターです。
グスタヴ氏はまず、自らの職掌に関しては圧倒的に有能です。その職掌とはホテルの宿泊客をもてなし魅了し満足させるということで、その能力は後に殺人容疑で収監された刑務所ですら発揮されています。その一方でかれは時と場所と状況を選ばず「自らのこだわり」に拘泥する傾向があり(それはたとえばポエムだったり)、自らの論理の中で筋が通っていることであれば対外的にそれが行われないことを理解できない傾向があり、自らの感情のままに理解されることのあるなしにかかわらずとんでもない長台詞をまくしたてる傾向があり、要するにそういうあたりがジェルドンっぽい。
さてそこで、今一度それを前提として、失われたものへの追悼、という感情を、「失われた古きよき時代」への追悼と考えてしまうと、若干乗れない感があると思うのはわたしだけかな。や、それはもちろん、美しかった町並みや素晴らしかった文化的諸々が根こそぎ破壊され、蹂躙され、何より栄華を誇った豪奢なホテルが寂れてしまう侘しさ切なさやりきれなさには形容しがたいものがあるけれども、それでもやっぱり「古いよきもの」という無責任な称賛に対しては、「誰にとっての」よきものであったのか、と問いただしてみたい気持ちになる。偏った富が存在しなければ豪奢なホテルは建設されないし、豪奢なホテルが存続するには偏った富を所有する層が存在しなければならない。ホテルを享受する富裕層がいる一方で、下層労働に甘んじるのは戦火を逃れてきた移民だったりする。文明は貧富の差が前提となっているし、貧富の差が当然であった時代は、様々な差別もまた当然とみなされていた。
だけど、グスタフ氏のある種「純粋な」キャラクターには、そういう鼻持ちならなさは似合わない。であればここで言う「失われたもの」とは、「古きよき時代」への回顧というものに限定するのではなく、それが何であれ、誰かひとりの人間にとってのかけがえのない大切な物、と考えた方がしっくりくるような気がする。その大切な物は、破壊され踏みにじられてしまえば自らの世界が存続しえないようなもの。その人の骨幹を形作るもの。家族や恋人でもいい。農場や仕事でもいい。国家や地域共同体でもいい。
アメリカ人のアンダーソン監督が「喪失」を描く切羽詰まった動機があるのだとしたら、根底にヨーロッパ文明への憧憬があってもちろん構わないけれど、それはアメリカ人としての「喪失」なんじゃないか。それが何とは断言しないけれど(もしかしたら911であるかもしれないし、そうではないかもしれない)、それはたとえばヴィスコンティが『山猫』を撮るのとは意味合いが違うんじゃないかしら。
そして、レイフ・ファインズの演技というのは、観客をしてそういうことをも考えさしめるものであったということです。名優の名演。
・グランド・ブダペスト・ホテル@ぴあ映画生活
ウェス・アンダーソン監督最新作です。
左右対称の画面設定、細部までこだわりぬいた美術設計、研ぎ澄まされた色彩感覚、クリムトやエゴンシーレをリスペクトしたスノッブでデカダンなディテール、世界中の洒落者を唸らせる鋭敏なファッションセンス、アンダーソン監督らしさが横溢する至福の100分間。
そしてまた、出演者の顔ぶれが豪華絢爛。
主演のレイフ・ファインズを筆頭に、F・マーレイ・エイブラハム、エドワード・ノートン、マチュー・アマルリック、シアーシャ・ローナン、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー、ジェフ・ゴールドブラム、ジュード・ロウ、ティルダ・スウィントン、ハーヴェイ・カイテル、トム・ウィルキンソン、ビル・マーレイ、オーウェン・ウィルソン。
一本の映画でこれだけのメンツが顔を揃えた壮観。むしろここまで来ると逆に、なんでアンジェリカ・ヒューストンがいないのさ、と文句を言いたくなってしまいます。
1932年。ヨーロッパの架空の国、ズブロウカにあるグランド・ブダペスト・ホテルは、欧州随一の超高級リゾートホテル。そこは“伝説のコンシェルジュ”と呼ばれるグスタヴ・H(レイフ・ファインズ)による完璧なホスピタリティが名物で、かれを目当てに名門貴顕富裕な顧客がひきもきらなかった。ある日、グスタヴと懇意にしていた富豪の常連客マダムD(ティルダ・スウィントン)が殺害され、遺産相続に巻き込まれたグスタヴは殺人の容疑をかけられてしまう。かくてグスタヴはコンシェルジュ見習いのゼロ(トニー・レヴォロリ)と共にヨーロッパ中を逃げ回ることになるのだが。
という物語はまず、すでに故人である「作家(トム・ウィルキンソン)」の回顧から始まり、「作家」が若かりし頃(ジュード・ロウ)、すでに廃れてしまったグランドブダペストホテルで出会った謎めいたホテルオーナー ミスター・ゼロ・ムスタファ(F・マーレイ・エイブラハム)の供述によって明かされる、衰退の兆しは見えていたもののいまだ華やぎを失わなかった時代のグランドブダペストホテルの物語(すなわちそれが上述したグスタヴの物語)として展開していくという三重構造の入れ子細工のような仕掛けになっています。
というと無駄に複雑なわかりにくい話のような印象を受けますが、実際にはこの映画はウェス・アンダーソン監督の映画としては、かつてないほどにわかりやすく、とっつきやすいです。というのもテーマ性がとてもはっきりしているから。そのテーマというのは、失われたものへの哀惜と追悼、そして残された世界への違和感。思えばアンダーソン監督の映画のテーマって常にこの「違和感」が根底にあったんじゃないかと思うのだけど、この映画に関しては違和感の拠って来る原因との因果関係が明確なので、だから思いのほか「わかりやすい」映画になっているのだと思います。
映画のエンドロールで「シュテファン・ツヴァイクの作品ならびに生涯にインスパイアされた」という表示が出るのですが(作品自体はアンダーソン監督のオリジナル)、ツヴァイクというのは第二次世界大戦前夜のオーストリアで大変人気のあった作家だそうで、ザルツブルグの山間部に非常に豪壮な山荘を所有していたそうです。劇中グランドブダペストホテルのロケーションは「ズブロウカ」という架空の国ということになっていますが、モデルとしては、ツヴァイクが山荘を構えたアルプスの地域であるらしい。
しかしツヴァイクはユダヤ系であったために、ナチスドイツの迫害を受け、ブラジルに亡命すると、第二次世界大戦の終結を見ることなく、そこで自らの命を絶ったそうです。心から愛したヨーロッパ文明がナチスに蹂躙され崩壊していくさまを見るに忍びなかったかららしい。劇中の「作家」も、ミスター・ゼロ・ムスタファの物語を聞いた後、ヨーロッパの地を離れ南米あたりを放浪していた、という描写がありますから、このキャラクターがツヴァイクの投影であることは間違いないようです。
その「失われたよきもの」を体現する人物として造形されているのがレイフ・ファインズが演じたムッシュ・グスタヴ・Hということになるのですが、まずファインズの演技が大変すばらしいことは是非とも特筆しなきゃいけないと思います。これだけ多彩な大物スターが目白押しの映画で、やはり主演としての輝きを放っているのはたいしたもの。その緻密にして計算しつくされた演技は、おそらく減点のしようがない完璧さ。
それを前提として、(見当違いも甚だしいかもしれないけれど)グスタヴという人物にはちょっと『ビッグバン・セオリー』のシェルドン・クーパーを彷彿とさせるところがある。製作者は否定していますが、一般にはアスペルガー症候群っぽい、と言われているキャラクターです。
グスタヴ氏はまず、自らの職掌に関しては圧倒的に有能です。その職掌とはホテルの宿泊客をもてなし魅了し満足させるということで、その能力は後に殺人容疑で収監された刑務所ですら発揮されています。その一方でかれは時と場所と状況を選ばず「自らのこだわり」に拘泥する傾向があり(それはたとえばポエムだったり)、自らの論理の中で筋が通っていることであれば対外的にそれが行われないことを理解できない傾向があり、自らの感情のままに理解されることのあるなしにかかわらずとんでもない長台詞をまくしたてる傾向があり、要するにそういうあたりがジェルドンっぽい。
さてそこで、今一度それを前提として、失われたものへの追悼、という感情を、「失われた古きよき時代」への追悼と考えてしまうと、若干乗れない感があると思うのはわたしだけかな。や、それはもちろん、美しかった町並みや素晴らしかった文化的諸々が根こそぎ破壊され、蹂躙され、何より栄華を誇った豪奢なホテルが寂れてしまう侘しさ切なさやりきれなさには形容しがたいものがあるけれども、それでもやっぱり「古いよきもの」という無責任な称賛に対しては、「誰にとっての」よきものであったのか、と問いただしてみたい気持ちになる。偏った富が存在しなければ豪奢なホテルは建設されないし、豪奢なホテルが存続するには偏った富を所有する層が存在しなければならない。ホテルを享受する富裕層がいる一方で、下層労働に甘んじるのは戦火を逃れてきた移民だったりする。文明は貧富の差が前提となっているし、貧富の差が当然であった時代は、様々な差別もまた当然とみなされていた。
だけど、グスタフ氏のある種「純粋な」キャラクターには、そういう鼻持ちならなさは似合わない。であればここで言う「失われたもの」とは、「古きよき時代」への回顧というものに限定するのではなく、それが何であれ、誰かひとりの人間にとってのかけがえのない大切な物、と考えた方がしっくりくるような気がする。その大切な物は、破壊され踏みにじられてしまえば自らの世界が存続しえないようなもの。その人の骨幹を形作るもの。家族や恋人でもいい。農場や仕事でもいい。国家や地域共同体でもいい。
アメリカ人のアンダーソン監督が「喪失」を描く切羽詰まった動機があるのだとしたら、根底にヨーロッパ文明への憧憬があってもちろん構わないけれど、それはアメリカ人としての「喪失」なんじゃないか。それが何とは断言しないけれど(もしかしたら911であるかもしれないし、そうではないかもしれない)、それはたとえばヴィスコンティが『山猫』を撮るのとは意味合いが違うんじゃないかしら。
そして、レイフ・ファインズの演技というのは、観客をしてそういうことをも考えさしめるものであったということです。名優の名演。
・グランド・ブダペスト・ホテル@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-06-20 19:37
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