2014年 05月 11日
アイ・アム・デビッド
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★ネタバレ注意★
2004年、ポール・フェイグ監督作品。
ジム・カヴィーゼルの出演作です。
1963年に出版され、世界的なベストセラーとなったアン・ホルムの同名小説が原作である由。当該小説はアメリカでは子どもたちの教科書にも採用されたという児童文学の傑作らしいです。
第二次世界大戦が終結した後も、東欧圏では「反政府運動を抑えるため」という名目で10年にも亙って「思想犯」を強制収容所に収容するということが行われていました。
デビッド(ベン・ティバー)はまだ幼い頃強制収容所に収容され、外の世界を知らずに育った12歳の少年です。母親とは収容の際に引き離され、父親とは収容後に死別、心を許せる存在は、同じ収容者のヨハン(ジム・カヴィーゼル)のみ。
戦争が終わったとは言っても、収容所の実態はナチスのそれと見まごうばかり。デビッドは日増しに自由への希求を募らせて行きます。そんなデビッドについにチャンスが到来します。ある人物のサポートにより、収容所を脱出することに成功するのです。しかしそのサポートは、当該人物の微妙な立場を物語る大変心許ないものでした。デビッドは「目的地につくまでは絶対に開けるな」と指示された手紙のほかは、わずかなパンとコンパスとナイフ、そして小さな石鹸のかけらだけを持って、ブルガリアの収容所から、ギリシャ→イタリア→スイス→デンマークと、5つもの国にわたる過酷な旅を、完全に単独自力で行わなければならなかったのです。
という物語は、三つの謎によって牽引されていきます。
一つは、手紙の中身は何だったのか?
二つ目は、デビッドを助けてくれたのは誰だったのか?
そして最後、その人物はなぜデビッドを助けたのか?
謎で引っ張る構成に加えて、実際に収容所で何が起こったのかが徐々に明かされていく展開も観客の興味を持続させ、且つそこで明かされる収容所での出来事がまた胸に突き刺さるもので、よくできた物語であると思います。
ただやはり児童文学ですから、児童文学である故の限界もまたくっきり出た映画であったなぁとも思うのです。
少年の困難な冒険と成長の物語を少年の視点で語るというのは児童文学の特権です。このポジションでしか描けない物語の形というのは確かにあり、その形に於いてこの物語は成功した物語であると思います。展開の強引さも、数々のご都合主義も、描写の浅さも、ぎこちなさも、視点人物が少年であるという一点でもって全て許される瑕疵になる。児童文学という文脈の中では、少年の目を通した現実は一種のファンタジーとして捉えられることになり、この映画は、実際には苛烈な現実を映していながら、美しい風景に埋没した一種のファンタジーとして成立している印象があります。
逆に言うと、児童文学でなければそれらの点は全て瑕疵としてカウントされていたであろうということです。展開が強引で、ご都合主義が目につき、描写は浅く、演出はぎこちない。現実が苛烈であることが、ファンタジーの印象の中に埋没してしまっているのです。
子どもひとりがろくに言葉も通じないまま、5つもの国に亙り、所持金もなく官憲の目を逃れて移動するとあっては、その旅の困難は想像するだに余りあるのに、この映画を見る限りにおいては、さほどの困難は感じられません。飢えひとつとっても、それはどれほど過酷なことであったろうかと思うのに、たかがその空腹ですらあまり伝わって来ない。ましてやそれ以上の疲労や不安や恐怖や倦怠や怒りや猜疑などといった本来描写されてしかるべきものは、ほとんど何も伝わって来ません。
ひとつには、(上述した児童文学という観点から)敢えてそのように演出されている、ということがまずありますが、もうひとつ、主演のベン・ティバーという少年に一個の物語を支えられるだけの力量なり魅力なりが足りなかったという一面が、残念ながら大きかったと思うのです。
子役と言っても、コディ・スミット=マクフィーとかベイリー・マディソンとか、大人の役者がうっかり共演なんかしようものなら頭からバリバリ食われてしまうような恐るべき子役たちだっているにはいるのだけれど、ほんとに残念ながら、この子役にはそれほどのカリスマ性はなかったなぁという印象です。偉そうでごめん。
そうは言っても、演出そのものも、やはり平板だった印象があります。
たとえばこの物語に於いては、デビッドの母親への思いというのが大変大きなイシューとなるのですが、その描写の仕方がどうにも残念。デビッドは幼時に母親と離別しているので、物語で描かれる母親の姿はほぼデビッドの回想ということになりますが、そのほとんどが正面からの顔のアップ。そして正面アップの母親は紋切り型に「アイ・ラブ・ユー」と口にする。
柔らかい手の感触でもなく、抱きしめられた胸の温かさでもなく、料理しながら口ずさむでたらめで愉快な歌でもなく、ひるがえるスカートの綻びのある裾でもなく、叱る時いつも口にするちょっと滑稽な独特の台詞でもなく、階段をきしませるはずむような足音でもなく、正面顔のアイラブユー。個性を描写することの放棄。演出学校の課題なら落第にします。
そして、そこに感じる苛立ちは、ほんの一例に過ぎません。
デビッドの逃亡を助けた人物については、物語の冒頭から、この人物が少年に逃亡を指南する声が音声だけで伝えられるので、果たしてこれは誰の声なんだろうか、という興味を喚起する仕掛けになっているのですが、以下、この人物についてのネタバレになります。
↓
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実はこの人物は収容所の所長(フリスト・ショポフ)その人だったのです。この人物はデビッドの母親に思いを寄せており、一家が摘発されたとき、母親だけはかろうじて逃がすことができたものの、その夫と子どもは収容所に連行するしかなく、しかも夫の方を死なせてしまったことに忸怩たる思いを抱いていたのでした。いつかその罪滅ぼしを、と長年思い続けてはきたけれど、結局何一つ具体的な行動には移せずにいたところ、異動の辞令が出たため、ようやく重い腰をあげた、というのが真相だったのです。
というわけで一つ目の謎、手紙の中身は所長が手配したデビッドの正式な身分証明書だったのでした。
デビッドの母である女と、その夫、女を愛するささやかな権力を持った男。夫や子どもと引き離された女の思い。男の女に対する秘められた思い、その夫に対する複雑な思い、その子どもに対する曰く形容しがたい思い。妻と引き離され、子どもを残し、死んでいった夫の思い。女は夫の死を知っていたのか、子どもが生きていることを知っていたのか、知っていたのなら子どもを救い出すためにどのように闘ったのか、知らなかったのならどれほどの怒りや悲しみを乗り越えて来きたのか。むしろ少年の冒険よりも、そちらのドラマの方をじっくりと見たかったような気もします。それはまた全然別の話になってしまうけれども。
さて、何をやらせても有能なジム・カヴィーゼルですが、この映画では、まさに両手を縛られたような状態にあるゆえに、何をすることもできない男として存在しています。政治犯として収容されている人物ですから、あるいは政治的な活動も行っていたのかもしれませんが、それよりは新聞記者か文学者か、正しいと信じることを言論で表現しようとした人といった印象が強いです。いずれにしても暴力とはおよそ無縁な感触。事実、デビッドから収容所の現状がまちがっていると思うのならどうして行動に移さないのか、まさか怖いのか、と詰問されて、そうだよ怖いんだよ、と答えるような人物です。この映画のカヴィーゼル、何だかとってもはかない感じ。
そして、ダメージを受け、息をひそめて生きる中で、自分よりもっと弱いデビッドという存在に対しては、できる限り守ろうとしてきたのです。そんな無力だけれど心の優しい男は、結局は少年のために自らの命を犠牲にすることになってしまうのです。ほんとにカヴィーゼル、とってもとってもはかない感じ。
それを象徴するのが、コンパスやパンなどと一緒に、デビッドの持ち出し荷物の中に所長が入れておいた小さな石鹸のかけらでした。なぜ敢えて石鹸だったのか? 石鹸を入れるぐらいなら、パンをもうひとつ、あるいはシャツの着替え、水筒や靴、なんでもいい、逃亡に役立つものがほかにあったはずなのに、なぜ敢えて石鹸?
余裕のない厳しい旅の途中で、デビッドが敢えて石鹸を使うシーンがあることに違和感を覚えつつ、そして二度目の石鹸を使おうとしたシーンで、デビッドが激情にかられて貴重な石鹸を投げ捨ててしまうに至っては、この石鹸をめぐって一体何が起こったのかと不安にさせられてしまうのです。石鹸もまた謎と緊迫感を高める大事な小道具として使われているのです。
デビッドは、逃亡のためにあれこれ探りをいれる過程でしのびこんだ所長のオフィスで、ふと目についた石鹸をほんの出来心で持ち出してしまったのでした。盗みを働いたのは誰か。駆り集められた収容者たち。犯人が割れれば銃殺は必至です。そこでヨハンは、デビッドがしでかしてしまったことを知り、デビッドを守るために進んで身代わりになり、そして所長もまた、デビッドがしでかしてしまったことを知り、デビッドを守るために無実であるヨハンを処刑したのです。
フリスト・ショポフとカヴィーゼルは『パッション』でも共演しています。しかもピラト役とイエス役。今回も収容所の所長と収容者。まさに因縁の顔合わせですね。
2004年、ポール・フェイグ監督作品。
ジム・カヴィーゼルの出演作です。
1963年に出版され、世界的なベストセラーとなったアン・ホルムの同名小説が原作である由。当該小説はアメリカでは子どもたちの教科書にも採用されたという児童文学の傑作らしいです。
第二次世界大戦が終結した後も、東欧圏では「反政府運動を抑えるため」という名目で10年にも亙って「思想犯」を強制収容所に収容するということが行われていました。
デビッド(ベン・ティバー)はまだ幼い頃強制収容所に収容され、外の世界を知らずに育った12歳の少年です。母親とは収容の際に引き離され、父親とは収容後に死別、心を許せる存在は、同じ収容者のヨハン(ジム・カヴィーゼル)のみ。
戦争が終わったとは言っても、収容所の実態はナチスのそれと見まごうばかり。デビッドは日増しに自由への希求を募らせて行きます。そんなデビッドについにチャンスが到来します。ある人物のサポートにより、収容所を脱出することに成功するのです。しかしそのサポートは、当該人物の微妙な立場を物語る大変心許ないものでした。デビッドは「目的地につくまでは絶対に開けるな」と指示された手紙のほかは、わずかなパンとコンパスとナイフ、そして小さな石鹸のかけらだけを持って、ブルガリアの収容所から、ギリシャ→イタリア→スイス→デンマークと、5つもの国にわたる過酷な旅を、完全に単独自力で行わなければならなかったのです。
という物語は、三つの謎によって牽引されていきます。
一つは、手紙の中身は何だったのか?
二つ目は、デビッドを助けてくれたのは誰だったのか?
そして最後、その人物はなぜデビッドを助けたのか?
謎で引っ張る構成に加えて、実際に収容所で何が起こったのかが徐々に明かされていく展開も観客の興味を持続させ、且つそこで明かされる収容所での出来事がまた胸に突き刺さるもので、よくできた物語であると思います。
ただやはり児童文学ですから、児童文学である故の限界もまたくっきり出た映画であったなぁとも思うのです。
少年の困難な冒険と成長の物語を少年の視点で語るというのは児童文学の特権です。このポジションでしか描けない物語の形というのは確かにあり、その形に於いてこの物語は成功した物語であると思います。展開の強引さも、数々のご都合主義も、描写の浅さも、ぎこちなさも、視点人物が少年であるという一点でもって全て許される瑕疵になる。児童文学という文脈の中では、少年の目を通した現実は一種のファンタジーとして捉えられることになり、この映画は、実際には苛烈な現実を映していながら、美しい風景に埋没した一種のファンタジーとして成立している印象があります。
逆に言うと、児童文学でなければそれらの点は全て瑕疵としてカウントされていたであろうということです。展開が強引で、ご都合主義が目につき、描写は浅く、演出はぎこちない。現実が苛烈であることが、ファンタジーの印象の中に埋没してしまっているのです。
子どもひとりがろくに言葉も通じないまま、5つもの国に亙り、所持金もなく官憲の目を逃れて移動するとあっては、その旅の困難は想像するだに余りあるのに、この映画を見る限りにおいては、さほどの困難は感じられません。飢えひとつとっても、それはどれほど過酷なことであったろうかと思うのに、たかがその空腹ですらあまり伝わって来ない。ましてやそれ以上の疲労や不安や恐怖や倦怠や怒りや猜疑などといった本来描写されてしかるべきものは、ほとんど何も伝わって来ません。
ひとつには、(上述した児童文学という観点から)敢えてそのように演出されている、ということがまずありますが、もうひとつ、主演のベン・ティバーという少年に一個の物語を支えられるだけの力量なり魅力なりが足りなかったという一面が、残念ながら大きかったと思うのです。
子役と言っても、コディ・スミット=マクフィーとかベイリー・マディソンとか、大人の役者がうっかり共演なんかしようものなら頭からバリバリ食われてしまうような恐るべき子役たちだっているにはいるのだけれど、ほんとに残念ながら、この子役にはそれほどのカリスマ性はなかったなぁという印象です。偉そうでごめん。
そうは言っても、演出そのものも、やはり平板だった印象があります。
たとえばこの物語に於いては、デビッドの母親への思いというのが大変大きなイシューとなるのですが、その描写の仕方がどうにも残念。デビッドは幼時に母親と離別しているので、物語で描かれる母親の姿はほぼデビッドの回想ということになりますが、そのほとんどが正面からの顔のアップ。そして正面アップの母親は紋切り型に「アイ・ラブ・ユー」と口にする。
柔らかい手の感触でもなく、抱きしめられた胸の温かさでもなく、料理しながら口ずさむでたらめで愉快な歌でもなく、ひるがえるスカートの綻びのある裾でもなく、叱る時いつも口にするちょっと滑稽な独特の台詞でもなく、階段をきしませるはずむような足音でもなく、正面顔のアイラブユー。個性を描写することの放棄。演出学校の課題なら落第にします。
そして、そこに感じる苛立ちは、ほんの一例に過ぎません。
デビッドの逃亡を助けた人物については、物語の冒頭から、この人物が少年に逃亡を指南する声が音声だけで伝えられるので、果たしてこれは誰の声なんだろうか、という興味を喚起する仕掛けになっているのですが、以下、この人物についてのネタバレになります。
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実はこの人物は収容所の所長(フリスト・ショポフ)その人だったのです。この人物はデビッドの母親に思いを寄せており、一家が摘発されたとき、母親だけはかろうじて逃がすことができたものの、その夫と子どもは収容所に連行するしかなく、しかも夫の方を死なせてしまったことに忸怩たる思いを抱いていたのでした。いつかその罪滅ぼしを、と長年思い続けてはきたけれど、結局何一つ具体的な行動には移せずにいたところ、異動の辞令が出たため、ようやく重い腰をあげた、というのが真相だったのです。
というわけで一つ目の謎、手紙の中身は所長が手配したデビッドの正式な身分証明書だったのでした。
デビッドの母である女と、その夫、女を愛するささやかな権力を持った男。夫や子どもと引き離された女の思い。男の女に対する秘められた思い、その夫に対する複雑な思い、その子どもに対する曰く形容しがたい思い。妻と引き離され、子どもを残し、死んでいった夫の思い。女は夫の死を知っていたのか、子どもが生きていることを知っていたのか、知っていたのなら子どもを救い出すためにどのように闘ったのか、知らなかったのならどれほどの怒りや悲しみを乗り越えて来きたのか。むしろ少年の冒険よりも、そちらのドラマの方をじっくりと見たかったような気もします。それはまた全然別の話になってしまうけれども。
さて、何をやらせても有能なジム・カヴィーゼルですが、この映画では、まさに両手を縛られたような状態にあるゆえに、何をすることもできない男として存在しています。政治犯として収容されている人物ですから、あるいは政治的な活動も行っていたのかもしれませんが、それよりは新聞記者か文学者か、正しいと信じることを言論で表現しようとした人といった印象が強いです。いずれにしても暴力とはおよそ無縁な感触。事実、デビッドから収容所の現状がまちがっていると思うのならどうして行動に移さないのか、まさか怖いのか、と詰問されて、そうだよ怖いんだよ、と答えるような人物です。この映画のカヴィーゼル、何だかとってもはかない感じ。
そして、ダメージを受け、息をひそめて生きる中で、自分よりもっと弱いデビッドという存在に対しては、できる限り守ろうとしてきたのです。そんな無力だけれど心の優しい男は、結局は少年のために自らの命を犠牲にすることになってしまうのです。ほんとにカヴィーゼル、とってもとってもはかない感じ。
それを象徴するのが、コンパスやパンなどと一緒に、デビッドの持ち出し荷物の中に所長が入れておいた小さな石鹸のかけらでした。なぜ敢えて石鹸だったのか? 石鹸を入れるぐらいなら、パンをもうひとつ、あるいはシャツの着替え、水筒や靴、なんでもいい、逃亡に役立つものがほかにあったはずなのに、なぜ敢えて石鹸?
余裕のない厳しい旅の途中で、デビッドが敢えて石鹸を使うシーンがあることに違和感を覚えつつ、そして二度目の石鹸を使おうとしたシーンで、デビッドが激情にかられて貴重な石鹸を投げ捨ててしまうに至っては、この石鹸をめぐって一体何が起こったのかと不安にさせられてしまうのです。石鹸もまた謎と緊迫感を高める大事な小道具として使われているのです。
デビッドは、逃亡のためにあれこれ探りをいれる過程でしのびこんだ所長のオフィスで、ふと目についた石鹸をほんの出来心で持ち出してしまったのでした。盗みを働いたのは誰か。駆り集められた収容者たち。犯人が割れれば銃殺は必至です。そこでヨハンは、デビッドがしでかしてしまったことを知り、デビッドを守るために進んで身代わりになり、そして所長もまた、デビッドがしでかしてしまったことを知り、デビッドを守るために無実であるヨハンを処刑したのです。
フリスト・ショポフとカヴィーゼルは『パッション』でも共演しています。しかもピラト役とイエス役。今回も収容所の所長と収容者。まさに因縁の顔合わせですね。
by shirakian
| 2014-05-11 19:40
| 映画あ行