2014年 05月 03日
とらわれて夏
|
★ネタバレ注意★
原題は”LABOR DAY” 、労働者の日。9月の第一月曜日に設定されているアメリカの祝日で、物語の舞台となった「時間」を距離感をもって表したタイトルです。そこに湿ったセンチメントの余地はないです。
その邦題が『とらわれて夏』。このセンスは安っぽい。
しかも予告編が、「脱獄囚とそれを匿うシングルマザー」という設定を、あたかも「女日照りの囚人と男に飢えた熟女」的なステレオタイプで切り取るので、なんだかありふれたポルノみたいで、どうにも足が向かなかったんですが、なにしろジェイソン・ライトマン監督作品、ケイト・ウィンスレットとジョシュ・ブローリンという顔合わせ、まさかポルノってことはあるまいよ、と出かけて行ったら正解でした。ほろ苦くてじんわり暖まるいい映画でしたよ。邦題や予告編で二の足を踏んでいるわたしのようなあなたは、劇場へGO!
新学期から7年生(中学一年生)になるヘンリー(ガトリン・グリフィス)は母親と二人暮し。両親が離婚したのだ。母親のアデル(ケイト・ウィンスレット)は精神的に不安定なところがあり、引きこもりがちだった。父親のジェラルド(クラーク・グレッグ)は悪い人ではなく、自分と一緒に暮らさないかと言ってくれているのだが、すでに再婚した彼には、新しい妻の連れ子と新しく生まれた赤ん坊がいるため、ヘンリーは母親との生活を選んだ。幼いなりに、母親のことが心配でもあったから。
ある日、そんなふたりだけの暮らしに、一人の脱獄囚が割り込んで来る。殺人の罪で服役していたフランクという名の男(ジョシュ・ブローリン)は、盲腸の手術で病棟に移された隙を狙って、窓から飛び降りて脱獄したのだ。強引に押しかけて来た割にはフランクは穏やかな男で、決して母子を傷つけないと誓い、夜明けには出て行くと言っていたのだが、窓から飛び降りた時の傷や、盲腸手術の術後の治りが悪く、ずるずるとヘンリーたちの家に居座ることになってしまう。
そうなったのは、母子がかれが出て行くことを望まなかったせいもあった。殺人犯のフランクは、母子のために大工仕事をこなし、車を修理し、床を磨き、キャッチボールの相手をし、パイを焼いてくれる、頼りになる男だった。離婚した寂寥に押しつぶされそうになっていたアデルがかれに惹かれるのは無理からぬことだったし、フランクからすれば、美しいアデルに恋してしまうのは当然の成り行きだった。フランクはヘンリーにも優しく、ヘンリーもフランクが好きだった。かくて三人の間には、家族同然の絆が育まれていく。
しかし当然、そんな偽りの幸せが長く続くはずもない。逗留が長引けば、官憲の捜査の手も迫るのだった。
というドラマ自体には目を見張るような新味はありませんが、とにかく描写がいい。細部がいい。語り口がいい。
まずは幼いヘンリーが、恐らく鬱病を患っている母親を気遣う描写が胸を打ちます。よくあるパターンだと、男に逃げられた女が不安定になり、引きこもりがちになり、とくればそこにあるのはネグレクトの情景です。子どもがいようがおかまいなく、朝から酒か薬に溺れてベッドから出てきやしない。一日中寝間着で過ごし、愚痴と泣き言と嫌味を繰り返すか、全く無視して話しかけもしない。だけどアデルはそういう母親ではないのです。気持ちが塞ぎ、家事が滞り、人付き合いがうまくできず、時には手が震えて細かい作業ができなくなってしまう自分を不甲斐なく情けなく思いながら、それでもヘンリーを守るために精一杯気を張って暮らしている姿がとても健気な印象です。
聡いヘンリーは、母親の喪失感がジェラルドという一人の男を失ったせいではなく、ジェラルドによって象徴されていた愛そのものを失ったせいであることを理解している。そこまで鋭い感性を持った少年なのです。だから、必死で父親の後を埋めようとするのだけれど、幼い少年にはできることに限界がある。微笑ましい気遣いは、アデルを微笑ませる(または泣き笑いに顔を歪ませる)ことはできるけれど、泥沼から救い出すことはできない。
アデルの鬱の原因は、離婚に先立つ流産癖でした。ヘンリーを生んだ後、アデルは何度妊娠してもその都度流産してしまい、出産にこぎつけることができなかった。赤ん坊を失う悲しみと、夫のジェラルドへの負い目、健康な妊婦に対する羨望などなどが、アデルを追い込んでしまった。妻が病めば、家庭は憩いの場所ではなくなる。どんなに男女同権と言ったところで、家庭の雰囲気を作るのは、やはり主婦であるにはちがいない。ジェラルドは本来、病んだアデルを支えるべきだったのに、鬱を患った妻を労わることは、深い井戸にバケツで水を注ぐような行為に思えた。努力しても我慢しても頑張っても、何も見返りのなり徒労に思えた。だから、気遣えば気遣いを返してくれる相手、疲れて帰れば明るく笑って迎えてくれる相手、新しい赤ん坊を生んでくれる相手のところへ、逃げてしまった。ジェラルドもまた弱い人間だった。
そういうことが物語の流れの中で、無理なく少しずつ語られていきます。だれもほんとは悪くない。ちょっとずつ何かが噛み合わなくなってしまっただけ。
それはフランクも同じ。
フランクの物語は、フランクの回想の中の情景として、現在進行形の物語と平行して、台詞のない無言劇として提示されていきます。この演出がうまくてうまくてすばらしい。
フランクが殺してしまった相手は、若くて美しい妻(と、恐らく生まれたばかりの赤ん坊)だった。農場で働く若き日のフランクは、農作業の折々に、やがて妻となる美しい娘の姿を目で追うのが楽しみだった。徐々に親しくなり、屋外に停めたトラックの上で奔放に愛を交わし、出征したフランクを娘は待っていてくれて、祝福されて結婚し、子どもが生まれ、高く澄んだ空の下、新婚生活は幸せそのものだった、はずだった。
だけどフランクは、妻の言動の端々にある微妙な違和感に気づいてしまった。気づかなければよかった。フランクのような無骨な男が。詩なんか書かない。愛の歌なんか歌わない。ダンスなんか踊れない。そんな男なんだから、妻の気持ちの揺れになど、まるで気づかずにいられたらよかったのに。
フランクは、妻の心が離れたことに気づき、激昂するあまり、妻を突き飛ばしてしまった。暴力なんか振るう気はなかった。ほんの軽く押しただけだったのに、華奢な妻はあっけなくふっとんで頭をぶつけて死んでしまった。露骨な描写がないので推測だけど、恐らくその時風呂に入れようとしていた赤ん坊までも、うっかり溺死させてしまったのではないかと思います。
そこで思うのは、大きくてたくましい身体と人並み以上の腕力を持った男は、どんなに気持ちが優しくても、どんなに心延えが美しくても、どんなに繊細で傷付き易い心を持っていても、常に他人を物理的に傷つけてしまうかもしれないというリスクと共に生きなければならないということです。
たとえば、気性が荒く残忍で邪悪な性格であっても、小柄で非力な女であれば、うっかり人を殺してしまうような危険性は少ない。だけどフランクのような男の場合、優しい気持ちも美しい心延えも繊細で傷付き易い心も、大きくてたくましい身体の中に納まっていてはくれない。優しい心とたくましい身体が、時には齟齬を起こすことがある。時には意味もなく怖がられてしまうことがある。時にはほんとうに誰かを殺してしまうことがある。
『グリーンマイル』のコフィを思い出しますね。
コフィの「救い」は結局、電気椅子の上の死だったけれど、この物語は、フランクに対して優しい漂着先を用意してある。それは長い時間が流れた先にある老いというもの。老いはフランクから激情を奪い体力を奪い腕力を奪い、穏やかな内面にふさわしい恐れられない器を与え、その器に満たされた穏やかな心を、受け取ってくれる人がいた。
物語は優しい方がいい。人生が悲しいなら、せめて物語は優しい方がいい。
そしてそれがなされる仕掛けのひとつとしてのピーチパイのエピソード。
大工仕事が上手な器用なフランクは、料理するのもまた巧みで、隣人のジャーヴィス氏(J・K・シモンズ)が差し入れてくれた大量の桃で、ヘンリーとアデルに、パイを作ってくれるのです。
最初にそのパイ作りのシーンは、まるでポルノのお膳立てのように扱われます。暑い夏、薄着の女の剥き出しの腕。わざとらしくその腕に手を添えて、男がこねくりまわす湿り気を帯びた食材。あからさまに男女の性を思わせる淫靡なその場面は、しかしヘンリー少年の中では、大事な思い出の味としてしっかりと根付いていた。だから長じたヘンリー少年(トビー・マグワイア)は自分自身のベーカリーを持ち、フランクのパイを目玉にする。フランクのパイは、やがて雑誌にすら取り上げられるようになり、刑務所に連れ戻されて長い長い刑期を勤めるフランクの目に触れることとなる。一体どんな思いで、フランクはそのパイの写真を眺めたことだろう。
神様はどこかで見ていてくれる、のかもしれない。
ガトリン・グリフィスが演じたヘンリー少年が長じてトビー・マグワイアになるという自然さもナイスでしたが、何より驚いたのが、ジョシュ・ブローリンの青年時代を演じたトム・リピンスキーという役者さんです。ブローリンに瓜二つ。顔立ちも本人で通るレベルに似てるけど、とにかく雰囲気や表情がそっくりで、わたしはてっきりブローリン本人に「ベンジャミンバトン効果(若く見せる特殊メイク)」を施したんだとばかり思ってましたよ。驚くべき適確なキャスティング。毎回言うけど、ハリウッドの役者の層の桁違いの厚さにはほんとにいつも舌を巻きます。
・とらわれて夏@ぴあ映画生活
原題は”LABOR DAY” 、労働者の日。9月の第一月曜日に設定されているアメリカの祝日で、物語の舞台となった「時間」を距離感をもって表したタイトルです。そこに湿ったセンチメントの余地はないです。
その邦題が『とらわれて夏』。このセンスは安っぽい。
しかも予告編が、「脱獄囚とそれを匿うシングルマザー」という設定を、あたかも「女日照りの囚人と男に飢えた熟女」的なステレオタイプで切り取るので、なんだかありふれたポルノみたいで、どうにも足が向かなかったんですが、なにしろジェイソン・ライトマン監督作品、ケイト・ウィンスレットとジョシュ・ブローリンという顔合わせ、まさかポルノってことはあるまいよ、と出かけて行ったら正解でした。ほろ苦くてじんわり暖まるいい映画でしたよ。邦題や予告編で二の足を踏んでいるわたしのようなあなたは、劇場へGO!
新学期から7年生(中学一年生)になるヘンリー(ガトリン・グリフィス)は母親と二人暮し。両親が離婚したのだ。母親のアデル(ケイト・ウィンスレット)は精神的に不安定なところがあり、引きこもりがちだった。父親のジェラルド(クラーク・グレッグ)は悪い人ではなく、自分と一緒に暮らさないかと言ってくれているのだが、すでに再婚した彼には、新しい妻の連れ子と新しく生まれた赤ん坊がいるため、ヘンリーは母親との生活を選んだ。幼いなりに、母親のことが心配でもあったから。
ある日、そんなふたりだけの暮らしに、一人の脱獄囚が割り込んで来る。殺人の罪で服役していたフランクという名の男(ジョシュ・ブローリン)は、盲腸の手術で病棟に移された隙を狙って、窓から飛び降りて脱獄したのだ。強引に押しかけて来た割にはフランクは穏やかな男で、決して母子を傷つけないと誓い、夜明けには出て行くと言っていたのだが、窓から飛び降りた時の傷や、盲腸手術の術後の治りが悪く、ずるずるとヘンリーたちの家に居座ることになってしまう。
そうなったのは、母子がかれが出て行くことを望まなかったせいもあった。殺人犯のフランクは、母子のために大工仕事をこなし、車を修理し、床を磨き、キャッチボールの相手をし、パイを焼いてくれる、頼りになる男だった。離婚した寂寥に押しつぶされそうになっていたアデルがかれに惹かれるのは無理からぬことだったし、フランクからすれば、美しいアデルに恋してしまうのは当然の成り行きだった。フランクはヘンリーにも優しく、ヘンリーもフランクが好きだった。かくて三人の間には、家族同然の絆が育まれていく。
しかし当然、そんな偽りの幸せが長く続くはずもない。逗留が長引けば、官憲の捜査の手も迫るのだった。
というドラマ自体には目を見張るような新味はありませんが、とにかく描写がいい。細部がいい。語り口がいい。
まずは幼いヘンリーが、恐らく鬱病を患っている母親を気遣う描写が胸を打ちます。よくあるパターンだと、男に逃げられた女が不安定になり、引きこもりがちになり、とくればそこにあるのはネグレクトの情景です。子どもがいようがおかまいなく、朝から酒か薬に溺れてベッドから出てきやしない。一日中寝間着で過ごし、愚痴と泣き言と嫌味を繰り返すか、全く無視して話しかけもしない。だけどアデルはそういう母親ではないのです。気持ちが塞ぎ、家事が滞り、人付き合いがうまくできず、時には手が震えて細かい作業ができなくなってしまう自分を不甲斐なく情けなく思いながら、それでもヘンリーを守るために精一杯気を張って暮らしている姿がとても健気な印象です。
聡いヘンリーは、母親の喪失感がジェラルドという一人の男を失ったせいではなく、ジェラルドによって象徴されていた愛そのものを失ったせいであることを理解している。そこまで鋭い感性を持った少年なのです。だから、必死で父親の後を埋めようとするのだけれど、幼い少年にはできることに限界がある。微笑ましい気遣いは、アデルを微笑ませる(または泣き笑いに顔を歪ませる)ことはできるけれど、泥沼から救い出すことはできない。
アデルの鬱の原因は、離婚に先立つ流産癖でした。ヘンリーを生んだ後、アデルは何度妊娠してもその都度流産してしまい、出産にこぎつけることができなかった。赤ん坊を失う悲しみと、夫のジェラルドへの負い目、健康な妊婦に対する羨望などなどが、アデルを追い込んでしまった。妻が病めば、家庭は憩いの場所ではなくなる。どんなに男女同権と言ったところで、家庭の雰囲気を作るのは、やはり主婦であるにはちがいない。ジェラルドは本来、病んだアデルを支えるべきだったのに、鬱を患った妻を労わることは、深い井戸にバケツで水を注ぐような行為に思えた。努力しても我慢しても頑張っても、何も見返りのなり徒労に思えた。だから、気遣えば気遣いを返してくれる相手、疲れて帰れば明るく笑って迎えてくれる相手、新しい赤ん坊を生んでくれる相手のところへ、逃げてしまった。ジェラルドもまた弱い人間だった。
そういうことが物語の流れの中で、無理なく少しずつ語られていきます。だれもほんとは悪くない。ちょっとずつ何かが噛み合わなくなってしまっただけ。
それはフランクも同じ。
フランクの物語は、フランクの回想の中の情景として、現在進行形の物語と平行して、台詞のない無言劇として提示されていきます。この演出がうまくてうまくてすばらしい。
フランクが殺してしまった相手は、若くて美しい妻(と、恐らく生まれたばかりの赤ん坊)だった。農場で働く若き日のフランクは、農作業の折々に、やがて妻となる美しい娘の姿を目で追うのが楽しみだった。徐々に親しくなり、屋外に停めたトラックの上で奔放に愛を交わし、出征したフランクを娘は待っていてくれて、祝福されて結婚し、子どもが生まれ、高く澄んだ空の下、新婚生活は幸せそのものだった、はずだった。
だけどフランクは、妻の言動の端々にある微妙な違和感に気づいてしまった。気づかなければよかった。フランクのような無骨な男が。詩なんか書かない。愛の歌なんか歌わない。ダンスなんか踊れない。そんな男なんだから、妻の気持ちの揺れになど、まるで気づかずにいられたらよかったのに。
フランクは、妻の心が離れたことに気づき、激昂するあまり、妻を突き飛ばしてしまった。暴力なんか振るう気はなかった。ほんの軽く押しただけだったのに、華奢な妻はあっけなくふっとんで頭をぶつけて死んでしまった。露骨な描写がないので推測だけど、恐らくその時風呂に入れようとしていた赤ん坊までも、うっかり溺死させてしまったのではないかと思います。
そこで思うのは、大きくてたくましい身体と人並み以上の腕力を持った男は、どんなに気持ちが優しくても、どんなに心延えが美しくても、どんなに繊細で傷付き易い心を持っていても、常に他人を物理的に傷つけてしまうかもしれないというリスクと共に生きなければならないということです。
たとえば、気性が荒く残忍で邪悪な性格であっても、小柄で非力な女であれば、うっかり人を殺してしまうような危険性は少ない。だけどフランクのような男の場合、優しい気持ちも美しい心延えも繊細で傷付き易い心も、大きくてたくましい身体の中に納まっていてはくれない。優しい心とたくましい身体が、時には齟齬を起こすことがある。時には意味もなく怖がられてしまうことがある。時にはほんとうに誰かを殺してしまうことがある。
『グリーンマイル』のコフィを思い出しますね。
コフィの「救い」は結局、電気椅子の上の死だったけれど、この物語は、フランクに対して優しい漂着先を用意してある。それは長い時間が流れた先にある老いというもの。老いはフランクから激情を奪い体力を奪い腕力を奪い、穏やかな内面にふさわしい恐れられない器を与え、その器に満たされた穏やかな心を、受け取ってくれる人がいた。
物語は優しい方がいい。人生が悲しいなら、せめて物語は優しい方がいい。
そしてそれがなされる仕掛けのひとつとしてのピーチパイのエピソード。
大工仕事が上手な器用なフランクは、料理するのもまた巧みで、隣人のジャーヴィス氏(J・K・シモンズ)が差し入れてくれた大量の桃で、ヘンリーとアデルに、パイを作ってくれるのです。
最初にそのパイ作りのシーンは、まるでポルノのお膳立てのように扱われます。暑い夏、薄着の女の剥き出しの腕。わざとらしくその腕に手を添えて、男がこねくりまわす湿り気を帯びた食材。あからさまに男女の性を思わせる淫靡なその場面は、しかしヘンリー少年の中では、大事な思い出の味としてしっかりと根付いていた。だから長じたヘンリー少年(トビー・マグワイア)は自分自身のベーカリーを持ち、フランクのパイを目玉にする。フランクのパイは、やがて雑誌にすら取り上げられるようになり、刑務所に連れ戻されて長い長い刑期を勤めるフランクの目に触れることとなる。一体どんな思いで、フランクはそのパイの写真を眺めたことだろう。
神様はどこかで見ていてくれる、のかもしれない。
ガトリン・グリフィスが演じたヘンリー少年が長じてトビー・マグワイアになるという自然さもナイスでしたが、何より驚いたのが、ジョシュ・ブローリンの青年時代を演じたトム・リピンスキーという役者さんです。ブローリンに瓜二つ。顔立ちも本人で通るレベルに似てるけど、とにかく雰囲気や表情がそっくりで、わたしはてっきりブローリン本人に「ベンジャミンバトン効果(若く見せる特殊メイク)」を施したんだとばかり思ってましたよ。驚くべき適確なキャスティング。毎回言うけど、ハリウッドの役者の層の桁違いの厚さにはほんとにいつも舌を巻きます。
・とらわれて夏@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2014-05-03 18:59
| 映画た行