2014年 05月 02日
シャドウハンター
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★ネタバレ注意★
『白雪姫と鏡の女王』で愛らしいスノーホワイトを演じて印象鮮烈だったリリー・コリンズの最新作。ハラルド・ズワルト監督。
カサンドラ・クレアの同名ベストセラー小説シリーズの映画化だそうで、原作については全く知りませんが、ヤングアダルトなのかな、という印象です。『トワイライト』とか『アイ・アム・ナンバー4』なんかを彷彿とさせる雰囲気。
NYで暮らすクラリー(リリー・コリンズ)はごく普通の女の子。画家である母親のジョスリン(レナ・ヘディ)とも、その交際相手のルーク(エイダン・ターナー)とも関係は良好で、一緒にポエトリー朗読会に出かけたりするボーイフレンドのサイモン(ロバート・シーハン)のことは、異性としてはまだあまり意識していないけれど、一緒にいると楽しい。
クラリーはここ数日、意味をなさない不気味なサインがやたら目について気になっていたのだが、ある日突然怒涛のように、一挙にさまざまな出来事が降りかかってくる。サイモンと遊びに出かけたクラブで殺人を目撃したのにクラリー以外の誰も気づいた様子がなく、母親からの不審な電話で家に飛んで帰ると、家の中はめちゃくちゃに荒らされていて母親の姿はなく、あまつさえドロドロした何かに変身する巨大な犬のバケモノが襲いかかって来た!
要するにクラリーは「妖魔」と闘う「シャドウハンター」の血筋をひいていて、同じくシャドウハンターである母親のジョスリンは、巨大な力を秘めた「聖杯」を敵から隠し、クラリーを守るため、我が身を犠牲にして行方不明になってしまっており、基本的にこの世界は「フェアリーテールで語られた存在は全て実在する」ことが前提となっているので、「妖魔」のほかにもヴァンパイアだの狼男だのが一般人にわんさと紛れて普通に生活している、ということらしいです。ちなみに、母親のボーイフレンドのルークも実は狼男だったりします。
で、シャドウハンター全体の組織がどういうことになっているのかはよくわからないのですが、とりあえずNYには若手のハンターたちが暮らしているホグワーツの学生寮みたいなところがあって、クラリーはそこでジェイス(ジェイミー・キャンベル・バウワー)、アレク(ケヴィン・ゼガーズ)、イザベル(ジェマイア・ウェスト)という3人のティーンと共にチームを組んで闘うことになります。
まずビジュアルについては、普通によかったと思います。
オリジナリティは皆無で、どっかで観たような画ばっかりで驚く瞬間は一瞬もないけど、安っぽくもなく、みっともなくもなく、ぎこちなくもない印象。(消極的な肯定だなぁ)。
次いで役者さんたちも、普通によかったと思います。
シャドウハンターのチーム プラス ボーイフレンドのサイモンという若手の5人の役者さんは揃って美形ぞろいで、リリー・コリンズとの相性もよく、クラリーの母親のジョスリン、恋人のルーク、および、ホグワーツ シャドウハンター学校?の先生であるホッジ(ジャレッド・ハリス)や敵として立ちはだかるかつては味方だったヴァレンタイン(ジョナサン・リース・マイヤーズ)など、大人組のメンツも存在感がありました。
ただ脚本が致命的にどうしようもなくて、近来こんなにダメな脚本は見たことがないと驚くレベル。
恐らく人気作だと言う原作が長尺のもので、あれもこれも色々と詰め込んであるんだろうな、ということは予測がつくのだけれど、それらを全部手当たり次第映画にもぶちこんでみました、という残念な印象。長い原作を映画として昇華させるためには、何よりもまず編集という作業が必要になるはずなのに、その取捨選択が全くなされていない様子なのです。(原作を知らないので全くの印象論ですが)。
とりあえずやりたいシーンを消化するのが優先なので、テンポもリズムも段取りも伏線もあったものではなく、特に人物の関係性や感情の流れがまるで繋がらず、一言で言って「いきあたりばったり」。
「いきあたりばったり」の筆頭は、若手組に恋愛要素を取り込もうとして暴走した感のある四角関係の描写がまず酷い。
クラリーとサイモンの関係はまだ恋人未満で、サイモンの片想いをクラリーがいまいち気づいていない段階、そんなクラリーと出会ったジェイスはクラリーに惹かれ、クラリーもまんざらではないのだけれど、彼女にはサイモンとの関係がある。ジェイスの親友であるアレクは、ずっと前からジェイスに片想いしていて、クラリーの存在が気にいらず、チクチク嫌味を言ってしまうが、ジェイスにとってのアレクは単なるチームメイト。というのが基本形ですが、この点に関する若者たちの「会話」が、まあ、お粗末。チープ。独善。感情移入のしようがないです。
とは言え、その流れは物語の彩りパセリなので、まずけりゃ食べなきゃいいのですが、メインディッシュに相当する、クラリーと両親との関係の描写がまた酷い。
娘のために我が身を犠牲にする母親、存在のない父親、そんな母親に寄り添いずっと父親代わりを務めてきたルーク、敵として現れて父を名乗るヴァレンタイン、そしてクラリー。物語の根っこにあるのはまずこの4人の関係性でなければならないはずなのに、クラリーが成長の過程で実父に対してどんな思いを抱いてきたのかがまるで描写がない。
(ヴァレンタインが実父であるにせよ、違うにせよ)実父に対する感情がきちんと提示されないことには、継父的ポジションにいるルークとの関係も描けない。だから、慕っていたはずのルークが、敵に拷問された際に、「母子に近づいたのは聖杯を手にいれるための方便だった」と言うのを聞いた時、信頼していた相手に裏切られた、という絶望感も生じなければ、実はそれが敵を欺くためのブラフだったことを知らされたときのカタルシスもありません。
第一、クラリーとジョスリンがちょっとした感情のすれ違いから軽い諍いをしてしまうシーンで、この母子ったら互いに相手のこと、男を銜えこむのが上手だとあてこすったりするのです。この下品きわまるやりとりはこの母子にそぐわないし、物語の実情にもあいません。もっと悪いことに、こういう会話があるがために、クラリーのルークへの感情に対する理解が更に混乱してしまう。
ヒロインのスーパーパワーの扱い、ガジェットの設定、おそらくヴァレンタインの最大の武器である他人を操る才能の描写、映画的には無価値なキャラなのに原作の人気ゆえに無駄に尺を割いたことによるバランスの崩壊、などなど、まあ、言い出したらキリがないんだけど、130分が長くて苦痛に感じられてしまいました。だけどほんとのところ、130分が長くて苦痛だったのは、脚本よりも前の席に座ってた二人組みの老婆のせいだったかもしれません。
ガサゴソと音をたてて動き続け、大声で喋り、笑うシーンじゃないのにケラケラと笑うのは、映画館に来なれてないせいかのう、と遠い目をして諦めるしかありませんでしたが(しかしだったらどうして山田洋次じゃなく、こんな映画を選んだ?)、折りに付け、いや~んこわ~い、などとやたら少女なフレーズを頻発するのは如何なものか。いや~んて、オマエラ、幾つだよ!? 二人あわせて150歳越えてんダロ!……もしかして映画の評価に影響してるかも。
『白雪姫と鏡の女王』で愛らしいスノーホワイトを演じて印象鮮烈だったリリー・コリンズの最新作。ハラルド・ズワルト監督。
カサンドラ・クレアの同名ベストセラー小説シリーズの映画化だそうで、原作については全く知りませんが、ヤングアダルトなのかな、という印象です。『トワイライト』とか『アイ・アム・ナンバー4』なんかを彷彿とさせる雰囲気。
NYで暮らすクラリー(リリー・コリンズ)はごく普通の女の子。画家である母親のジョスリン(レナ・ヘディ)とも、その交際相手のルーク(エイダン・ターナー)とも関係は良好で、一緒にポエトリー朗読会に出かけたりするボーイフレンドのサイモン(ロバート・シーハン)のことは、異性としてはまだあまり意識していないけれど、一緒にいると楽しい。
クラリーはここ数日、意味をなさない不気味なサインがやたら目について気になっていたのだが、ある日突然怒涛のように、一挙にさまざまな出来事が降りかかってくる。サイモンと遊びに出かけたクラブで殺人を目撃したのにクラリー以外の誰も気づいた様子がなく、母親からの不審な電話で家に飛んで帰ると、家の中はめちゃくちゃに荒らされていて母親の姿はなく、あまつさえドロドロした何かに変身する巨大な犬のバケモノが襲いかかって来た!
要するにクラリーは「妖魔」と闘う「シャドウハンター」の血筋をひいていて、同じくシャドウハンターである母親のジョスリンは、巨大な力を秘めた「聖杯」を敵から隠し、クラリーを守るため、我が身を犠牲にして行方不明になってしまっており、基本的にこの世界は「フェアリーテールで語られた存在は全て実在する」ことが前提となっているので、「妖魔」のほかにもヴァンパイアだの狼男だのが一般人にわんさと紛れて普通に生活している、ということらしいです。ちなみに、母親のボーイフレンドのルークも実は狼男だったりします。
で、シャドウハンター全体の組織がどういうことになっているのかはよくわからないのですが、とりあえずNYには若手のハンターたちが暮らしているホグワーツの学生寮みたいなところがあって、クラリーはそこでジェイス(ジェイミー・キャンベル・バウワー)、アレク(ケヴィン・ゼガーズ)、イザベル(ジェマイア・ウェスト)という3人のティーンと共にチームを組んで闘うことになります。
まずビジュアルについては、普通によかったと思います。
オリジナリティは皆無で、どっかで観たような画ばっかりで驚く瞬間は一瞬もないけど、安っぽくもなく、みっともなくもなく、ぎこちなくもない印象。(消極的な肯定だなぁ)。
次いで役者さんたちも、普通によかったと思います。
シャドウハンターのチーム プラス ボーイフレンドのサイモンという若手の5人の役者さんは揃って美形ぞろいで、リリー・コリンズとの相性もよく、クラリーの母親のジョスリン、恋人のルーク、および、
ただ脚本が致命的にどうしようもなくて、近来こんなにダメな脚本は見たことがないと驚くレベル。
恐らく人気作だと言う原作が長尺のもので、あれもこれも色々と詰め込んであるんだろうな、ということは予測がつくのだけれど、それらを全部手当たり次第映画にもぶちこんでみました、という残念な印象。長い原作を映画として昇華させるためには、何よりもまず編集という作業が必要になるはずなのに、その取捨選択が全くなされていない様子なのです。(原作を知らないので全くの印象論ですが)。
とりあえずやりたいシーンを消化するのが優先なので、テンポもリズムも段取りも伏線もあったものではなく、特に人物の関係性や感情の流れがまるで繋がらず、一言で言って「いきあたりばったり」。
「いきあたりばったり」の筆頭は、若手組に恋愛要素を取り込もうとして暴走した感のある四角関係の描写がまず酷い。
クラリーとサイモンの関係はまだ恋人未満で、サイモンの片想いをクラリーがいまいち気づいていない段階、そんなクラリーと出会ったジェイスはクラリーに惹かれ、クラリーもまんざらではないのだけれど、彼女にはサイモンとの関係がある。ジェイスの親友であるアレクは、ずっと前からジェイスに片想いしていて、クラリーの存在が気にいらず、チクチク嫌味を言ってしまうが、ジェイスにとってのアレクは単なるチームメイト。というのが基本形ですが、この点に関する若者たちの「会話」が、まあ、お粗末。チープ。独善。感情移入のしようがないです。
とは言え、その流れは物語の彩りパセリなので、まずけりゃ食べなきゃいいのですが、メインディッシュに相当する、クラリーと両親との関係の描写がまた酷い。
娘のために我が身を犠牲にする母親、存在のない父親、そんな母親に寄り添いずっと父親代わりを務めてきたルーク、敵として現れて父を名乗るヴァレンタイン、そしてクラリー。物語の根っこにあるのはまずこの4人の関係性でなければならないはずなのに、クラリーが成長の過程で実父に対してどんな思いを抱いてきたのかがまるで描写がない。
(ヴァレンタインが実父であるにせよ、違うにせよ)実父に対する感情がきちんと提示されないことには、継父的ポジションにいるルークとの関係も描けない。だから、慕っていたはずのルークが、敵に拷問された際に、「母子に近づいたのは聖杯を手にいれるための方便だった」と言うのを聞いた時、信頼していた相手に裏切られた、という絶望感も生じなければ、実はそれが敵を欺くためのブラフだったことを知らされたときのカタルシスもありません。
第一、クラリーとジョスリンがちょっとした感情のすれ違いから軽い諍いをしてしまうシーンで、この母子ったら互いに相手のこと、男を銜えこむのが上手だとあてこすったりするのです。この下品きわまるやりとりはこの母子にそぐわないし、物語の実情にもあいません。もっと悪いことに、こういう会話があるがために、クラリーのルークへの感情に対する理解が更に混乱してしまう。
ヒロインのスーパーパワーの扱い、ガジェットの設定、おそらくヴァレンタインの最大の武器である他人を操る才能の描写、映画的には無価値なキャラなのに原作の人気ゆえに無駄に尺を割いたことによるバランスの崩壊、などなど、まあ、言い出したらキリがないんだけど、130分が長くて苦痛に感じられてしまいました。だけどほんとのところ、130分が長くて苦痛だったのは、脚本よりも前の席に座ってた二人組みの老婆のせいだったかもしれません。
ガサゴソと音をたてて動き続け、大声で喋り、笑うシーンじゃないのにケラケラと笑うのは、映画館に来なれてないせいかのう、と遠い目をして諦めるしかありませんでしたが(しかしだったらどうして山田洋次じゃなく、こんな映画を選んだ?)、折りに付け、いや~んこわ~い、などとやたら少女なフレーズを頻発するのは如何なものか。いや~んて、オマエラ、幾つだよ!? 二人あわせて150歳越えてんダロ!……もしかして映画の評価に影響してるかも。
by shirakian
| 2014-05-02 08:03
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