2014年 04月 19日
ターザン
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★ネタバレ注意★
『アナと雪の女王』がわたくし的にヒットでしたので(ってゆーか、世界的にも大ヒットしているわけですが)、同じくクリス・バック監督が1999年に撮ったディズニー・アニメーション、『ターザン』を再見しました。
ディズニーアニメの中ではお気に入りの一本です(全部観たわけじゃないけど)。
海難事故でアフリカのジャングルに漂着した英国人夫妻が、自力で樹上に家を建て、赤ん坊と三人で暮らし始めるが、赤ん坊だけを残し、夫妻共々豹のサボーに殺されてしまう。偶然この赤ん坊を見つけた雌ゴリラのカーラ(グレン・クローズ)は、たまたま同じ頃、自分の赤ん坊をサボーに殺されていた。カーラは赤ん坊にターザンと名づけ、我が子として育てることにする。
群のボスであるカーチャック(ランス・ヘンリクセン)は、群の安全のために異分子が混入することに難色を示すが、子を亡くしたばかりのカーラの気持ちを慮り、ターザンの存在を黙認する。
ゴリラの一員としてたくましく成長したターザン(トニー・ゴールドウィン)は、ある日、ゴリラの生態調査に訪れたアルキメデス・ポーター教授(ナイジェル・ホーソーン)とその娘のジェーン(ミニー・ドライヴァー)に出会う。たちまち意気投合し、親交を深めるターザンとジェーンだったが、探検隊の護衛役であるクレイトン(ブライアン・ブレスド)は、ゴリラを掴まえて金儲けするのが目的の冷酷な男だった。かくてカーチャックの群に、クレイトンの魔手が迫る。
1999年のアカデミー賞では主題歌賞を、ゴールデングローブ賞では歌曲賞を、共にフィル・コリンズが受賞している本作は、やはり音楽がすばらしい。キャラクターの心情を描写する歌も含めて、劇中歌はみなフィル・コリンズが歌っていて、たとえば途中まで母ゴリラのカーラの声で歌われていた歌が途中からコリンズの声に移行するといった演出もなされています。この試み自体は、なにしろ歌い手が透明感のあるのびやかな声のフィル・コリンズなので、こういうのもアリだなぁ、と思うわけですが、いかんせん、中盤以降、歌がなくなってしまうのが寂しいです。葛藤や別れや戦闘など、中盤以降のさまざまな山場も、コリンズの歌声に乗せて演出されていたらなぁ、と物足りなく思ってしまう。
一方で、映像の疾走感は最後まで途切れることがありません。これはほんとに胸が熱くなります。ツタに掴まったターザンが縦横無尽にジャングルの中を飛びまわるお馴染みのシーンもさることながら、網の目のように走る錯綜した樹幹の上を、スノーボードのように滑りぬけていくシーンのスピード感が凄い。ジェーンに襲いかかるヒヒの大軍の統制のとれた素早い動き、決して笑いに逃げることなく敵役を演じきった豹のサボーのリアルで迫力のある動き、誇張され擬人化された中にもゴリラ本来のものを見事に再現したゴリラたちの動き、ゾウやカバや小鳥たちなど脇役の動物たちの動き、ジャングル根こそぎの躍動感は、さすがディズニー。
あと特筆すべきは、母ゴリラのカーラがいい。
まずなにより声を演じるのが名優グレン・クローズ。しっとりと細やかな心理描写は、ゴリラなのに「母親」として抜群の説得力があります。声だけではなく、キャラクターデザインも作画もいい。ちょっと伏目がちの目線なんか、大人の女の色気すら漂わせてお見事です。
そんな本作の重要なテーマは、自分の選択によって自分が帰属する場所を自分で選ぶということ。
本来自分が所属するはずだったものではない共同体を自分の意志によって選び取る主人公、という設定は『レジェンド・オブ・ウォリアー』を思わせますが、あちらのカール・アーバンにとって、自分が属すべき世界は自分が生まれたヴァイキングの世界ではなく、自分を育んでくれたネイティブ・アメリカンの世界であるということは、選択以前に自明の理、ヴァイキングの世界になんぞなんの共感も帰属意識もありはしなかったのとは異なり、こちらのターザンは、ジェーンたちがもたらした西洋的文明の世界に対する物凄い好奇心と憧れを抱くようになります。
そもそもが、ゴリラの群のリーダーであるカーチャックからは共同体の一員として認められてこなかったという経緯もあり、カーラから自分の出自について教えられたターザンは、一旦はジャングルの生活を捨て、文明社会へ旅立つ決意すらするのです。この時かれが身にまとう(ある意味ものすごく痛ましい)ビシッとしたスーツはさまざまな意味で象徴的。
そしてクレイトンの裏切りにより、危地に陥ったターザンは、文明世界の船の上で、自分らしく闘うことができませんでした。かれが闘えなかったのは、かれが決意と共に身にまとった文明の装束一式、それを象徴する靴のせいでした。足指が解放されない窮屈な革靴をはいたターザンは、マストに登ることすらできなかったのです。文明世界の船の上は(そして文明世界は)、ターザンの世界ではなかった。
アタマではなくココロが欲する場所こそが、自分の属する場所なのだ。
その主張を補強する証左として、ターザンだけでなくジェーンもまた自ら帰属する社会を選ぶ展開になります。ジェーンもまたターザンと共に生きるジャングルでの生活を選んだのです。フリフリのドレス、白い手袋、日傘。そんな「お嬢さん」としての姿は、奔放で自由なジェーンのココロが欲したものではなかった。「お嬢さん」的ものに縛られてはいても、ジェーンのココロは原初のたくましさを失ってはいなかった。
まことに力強いテーマで、この骨太さ加減ときたら到底子ども向けとは思えないほどですが、ひとつだけ言えば、ジェーンのキャラデザは残念だったかなぁ。ターザンのあまりにも愛され難いデザインは、最初はビックリしても、なんとか次第に見慣れたのだけど、ジェーンの顔(特に横顔)って、デッサンが残念なときの日本のアニメみたい。なんかの悪い影響を受けたのかのぅ。
ひとつと言ったけど、もうひとつ。
ターザンの親友役(この映画でのサイドキック)を演じたふたり、ゴリラのターク(ロージー・オドネル)とゾウのタントー(ウェイン・ナイト)があんまり成功していなかった印象。
タークって、みそっかすだったターザンが群の中に入れるように、影になり日向になりターザンを守ってくれた姉御であり、ターザンに密かに思いを寄せる恋する女の子であり、だけどその思いを素直に表に出せないツンデレさんであり、結局ターザンを恋敵のジェーンにとられてしまう失恋した女の子であったりするわけで、これはもう相当に大事なキャラのはずなんだけど、まずデザインが圧倒的にかわいくない上に、演じるロージー・オドネルの声がまたおっさん声。最初は女の子だって気づかなかったくらい。せめて声だけでもアマンダ・セイフライドみたいなかわいい声だったらねぇ。
そしてタントーの方は、キャラとしては面白いと思うのだけど、ターザンの仲間になる経緯がおざなりにされているので、存在そのものが唐突な感じです。物語のテーマ的に、「ゴリラの共同体」それ自体がとても重要であるだけに、ゾウという面白い要素に逃げず、ターザンと同世代のゴリラの子どもたち(~青年たち)にもっとちゃんとキャラクターをもたせて描くべきだったんじゃないかな。画的には単調になるだろうけど、それを犠牲にしても、ドラマとしての奥行きを狙うべきだったのでは。
最後に本作のディズニー・ヴィランズのクレイトンですが、この作品って、悪役がきちんと制裁される(映像として見せられることはないけれどヒーローによって殺される)という描写がディズニーアニメーションとしては大変画期的だったのです。そんなかれの名前がなぜ「クレイトン」なのか、という問題も考えてみると面白いかもしれませんね。だってクレイトンっていうのは、原作におけるターザンの本名(グレイストーク卿ジョン・クレイトン)だものね。
ゴリラの群に脅威をもたらす「悪しきもの」としてのクレイトンと、やがてその群を率いることになるリーダーとしてのターザン、その両者が実は同じ名前を持つものである、という意味。深く考えれば考えるほど、ものっそアダルトな映画なのかもしれませんね。
『アナと雪の女王』がわたくし的にヒットでしたので(ってゆーか、世界的にも大ヒットしているわけですが)、同じくクリス・バック監督が1999年に撮ったディズニー・アニメーション、『ターザン』を再見しました。
ディズニーアニメの中ではお気に入りの一本です(全部観たわけじゃないけど)。
海難事故でアフリカのジャングルに漂着した英国人夫妻が、自力で樹上に家を建て、赤ん坊と三人で暮らし始めるが、赤ん坊だけを残し、夫妻共々豹のサボーに殺されてしまう。偶然この赤ん坊を見つけた雌ゴリラのカーラ(グレン・クローズ)は、たまたま同じ頃、自分の赤ん坊をサボーに殺されていた。カーラは赤ん坊にターザンと名づけ、我が子として育てることにする。
群のボスであるカーチャック(ランス・ヘンリクセン)は、群の安全のために異分子が混入することに難色を示すが、子を亡くしたばかりのカーラの気持ちを慮り、ターザンの存在を黙認する。
ゴリラの一員としてたくましく成長したターザン(トニー・ゴールドウィン)は、ある日、ゴリラの生態調査に訪れたアルキメデス・ポーター教授(ナイジェル・ホーソーン)とその娘のジェーン(ミニー・ドライヴァー)に出会う。たちまち意気投合し、親交を深めるターザンとジェーンだったが、探検隊の護衛役であるクレイトン(ブライアン・ブレスド)は、ゴリラを掴まえて金儲けするのが目的の冷酷な男だった。かくてカーチャックの群に、クレイトンの魔手が迫る。
1999年のアカデミー賞では主題歌賞を、ゴールデングローブ賞では歌曲賞を、共にフィル・コリンズが受賞している本作は、やはり音楽がすばらしい。キャラクターの心情を描写する歌も含めて、劇中歌はみなフィル・コリンズが歌っていて、たとえば途中まで母ゴリラのカーラの声で歌われていた歌が途中からコリンズの声に移行するといった演出もなされています。この試み自体は、なにしろ歌い手が透明感のあるのびやかな声のフィル・コリンズなので、こういうのもアリだなぁ、と思うわけですが、いかんせん、中盤以降、歌がなくなってしまうのが寂しいです。葛藤や別れや戦闘など、中盤以降のさまざまな山場も、コリンズの歌声に乗せて演出されていたらなぁ、と物足りなく思ってしまう。
一方で、映像の疾走感は最後まで途切れることがありません。これはほんとに胸が熱くなります。ツタに掴まったターザンが縦横無尽にジャングルの中を飛びまわるお馴染みのシーンもさることながら、網の目のように走る錯綜した樹幹の上を、スノーボードのように滑りぬけていくシーンのスピード感が凄い。ジェーンに襲いかかるヒヒの大軍の統制のとれた素早い動き、決して笑いに逃げることなく敵役を演じきった豹のサボーのリアルで迫力のある動き、誇張され擬人化された中にもゴリラ本来のものを見事に再現したゴリラたちの動き、ゾウやカバや小鳥たちなど脇役の動物たちの動き、ジャングル根こそぎの躍動感は、さすがディズニー。
あと特筆すべきは、母ゴリラのカーラがいい。
まずなにより声を演じるのが名優グレン・クローズ。しっとりと細やかな心理描写は、ゴリラなのに「母親」として抜群の説得力があります。声だけではなく、キャラクターデザインも作画もいい。ちょっと伏目がちの目線なんか、大人の女の色気すら漂わせてお見事です。
そんな本作の重要なテーマは、自分の選択によって自分が帰属する場所を自分で選ぶということ。
本来自分が所属するはずだったものではない共同体を自分の意志によって選び取る主人公、という設定は『レジェンド・オブ・ウォリアー』を思わせますが、あちらのカール・アーバンにとって、自分が属すべき世界は自分が生まれたヴァイキングの世界ではなく、自分を育んでくれたネイティブ・アメリカンの世界であるということは、選択以前に自明の理、ヴァイキングの世界になんぞなんの共感も帰属意識もありはしなかったのとは異なり、こちらのターザンは、ジェーンたちがもたらした西洋的文明の世界に対する物凄い好奇心と憧れを抱くようになります。
そもそもが、ゴリラの群のリーダーであるカーチャックからは共同体の一員として認められてこなかったという経緯もあり、カーラから自分の出自について教えられたターザンは、一旦はジャングルの生活を捨て、文明社会へ旅立つ決意すらするのです。この時かれが身にまとう(ある意味ものすごく痛ましい)ビシッとしたスーツはさまざまな意味で象徴的。
そしてクレイトンの裏切りにより、危地に陥ったターザンは、文明世界の船の上で、自分らしく闘うことができませんでした。かれが闘えなかったのは、かれが決意と共に身にまとった文明の装束一式、それを象徴する靴のせいでした。足指が解放されない窮屈な革靴をはいたターザンは、マストに登ることすらできなかったのです。文明世界の船の上は(そして文明世界は)、ターザンの世界ではなかった。
アタマではなくココロが欲する場所こそが、自分の属する場所なのだ。
その主張を補強する証左として、ターザンだけでなくジェーンもまた自ら帰属する社会を選ぶ展開になります。ジェーンもまたターザンと共に生きるジャングルでの生活を選んだのです。フリフリのドレス、白い手袋、日傘。そんな「お嬢さん」としての姿は、奔放で自由なジェーンのココロが欲したものではなかった。「お嬢さん」的ものに縛られてはいても、ジェーンのココロは原初のたくましさを失ってはいなかった。
まことに力強いテーマで、この骨太さ加減ときたら到底子ども向けとは思えないほどですが、ひとつだけ言えば、ジェーンのキャラデザは残念だったかなぁ。ターザンのあまりにも愛され難いデザインは、最初はビックリしても、なんとか次第に見慣れたのだけど、ジェーンの顔(特に横顔)って、デッサンが残念なときの日本のアニメみたい。なんかの悪い影響を受けたのかのぅ。
ひとつと言ったけど、もうひとつ。
ターザンの親友役(この映画でのサイドキック)を演じたふたり、ゴリラのターク(ロージー・オドネル)とゾウのタントー(ウェイン・ナイト)があんまり成功していなかった印象。
タークって、みそっかすだったターザンが群の中に入れるように、影になり日向になりターザンを守ってくれた姉御であり、ターザンに密かに思いを寄せる恋する女の子であり、だけどその思いを素直に表に出せないツンデレさんであり、結局ターザンを恋敵のジェーンにとられてしまう失恋した女の子であったりするわけで、これはもう相当に大事なキャラのはずなんだけど、まずデザインが圧倒的にかわいくない上に、演じるロージー・オドネルの声がまたおっさん声。最初は女の子だって気づかなかったくらい。せめて声だけでもアマンダ・セイフライドみたいなかわいい声だったらねぇ。
そしてタントーの方は、キャラとしては面白いと思うのだけど、ターザンの仲間になる経緯がおざなりにされているので、存在そのものが唐突な感じです。物語のテーマ的に、「ゴリラの共同体」それ自体がとても重要であるだけに、ゾウという面白い要素に逃げず、ターザンと同世代のゴリラの子どもたち(~青年たち)にもっとちゃんとキャラクターをもたせて描くべきだったんじゃないかな。画的には単調になるだろうけど、それを犠牲にしても、ドラマとしての奥行きを狙うべきだったのでは。
最後に本作のディズニー・ヴィランズのクレイトンですが、この作品って、悪役がきちんと制裁される(映像として見せられることはないけれどヒーローによって殺される)という描写がディズニーアニメーションとしては大変画期的だったのです。そんなかれの名前がなぜ「クレイトン」なのか、という問題も考えてみると面白いかもしれませんね。だってクレイトンっていうのは、原作におけるターザンの本名(グレイストーク卿ジョン・クレイトン)だものね。
ゴリラの群に脅威をもたらす「悪しきもの」としてのクレイトンと、やがてその群を率いることになるリーダーとしてのターザン、その両者が実は同じ名前を持つものである、という意味。深く考えれば考えるほど、ものっそアダルトな映画なのかもしれませんね。
by shirakian
| 2014-04-19 17:40
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