2014年 03月 14日
それでも夜は明ける
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★ネタバレ注意★
スティーヴ・マックィーン監督、製作にブラッド・ピット。ソロモン・ノーサップの自伝をベースにした伝記ドラマです。さきのアカデミー賞では9部門にノミネートされ、作品賞、助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)、脚色賞(ジョン・リドリー)を受賞、主演のキウェテル・イジョフォーも主演男優賞にノミネートされました(受賞したのは『ダラス・バイヤーズクラブ』のマシュー・マコノヒー)。
妻子と共にニューヨークでミュージシャンとして自立して幸せな生活を送っていた自由黒人のソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、ある日、騙されて拉致された挙句、南部の奴隷市場で売られてしまう。以来12年に亘り、名を奪われ、家族を奪われ、人間としての尊厳を奪われ、家畜同然の境遇で奴隷として過ごさねばならなかった。
ソロモンの売買をアレンジした奴隷商人のフリーマンを演じたのがポール・ジアマッティ、ジアマッティからソロモンを買い取った農園主フォードがベネディクト・カンバーバッチ、カンバーバッチの農園の奴隷監督ティビッツがポール・ダノ、カンバーバッチがソロモンを転売したさきの農園主エップスがマイケル・ファスベンダー。助演女優賞を受賞したルピタ・ニョンゴが演じたのは、所有者であるエップスに異様に執着される黒人奴隷のパッツィー、プロデューサーであるブラッド・ピットはそのエップスの農場に雇われた渡りの白人労働者バスの役で、バスはソロモンが自由を取り戻す手助けをします。
弱い環がひとつもみつからない完璧な布陣です(除:ピット。でもピットはプロデューサーとしての責任上、客寄せパンダとしてミスマッチを承知の上であの役を演じている確信犯なのでノー・プロブレム)。
最初に感じる疑問は、なぜソロモンというキャラクターが生粋の南部黒人ではなく、本来北部の自由黒人であったのに、拉致されて売られるという設定になったのか、という点ですが。
まずは当然、実在の人物の自伝が原作だから、ですよね。つまりは、事実がそうだから。
ではなぜ事実としての情況がそのようであったのか、というと、物語当時、奴隷貿易の非人間性に目覚めた(っていうか、アメリカの混乱に乗じて植民地宗主国としての頂点を極めようとした)イギリスの働きにより、奴隷貿易が禁止され、奴隷の供給が不足していた、という点があげられます。
この点で個人的に面白いなーと思うのが、『アメージング・グレース』の中で、その奴隷禁止のムーブメントを主導した時のイギリス首相、ウィリアム・ピットを演じたベネディクト・カンバーバッチが、こちらの映画では、奴隷制の恩恵を受ける側であり奴隷制を支持する立場にある人物を演じていたことです。
カンバーバッチのフォードは、ソロモンにヴァイオリンをくれたり、ソロモンの身の安全が守り切れなくなった時点で、売却という形であれ、よその農園に逃がしてくれたりした人物なので、うっかりすると「奴隷制には懐疑的な良心の人」なのかと見誤ってしまいますが、実際のところフォード自身は奴隷制という制度自体には微塵も疑問を感じていなかったと思います。
確かに、かれ自身は暴力をふるったりしないし、黒人に対する待遇はもっと改善されてもいいと思っていたかもしれないし、それが能力であれ意見であれ、たとえ黒人のものであっても尊重すべきものは尊重すべき、という柔軟な思考もあったとは思うけれど、そこまでがかれの限界で、社会制度としての奴隷制というのは、かれの中ではあくまでもあって然るべきものだった。恐らく、当時の教養のある南部の白人としてはそれが標準的なスタンスだったのだと思う。
そんなフォードという人物の認識は、もしかしたらあからさまなレイシストよりもっとタチが悪いのかもしれない。なにしろかれは、ソロモンたちが自分と同じ人間であることを知っているわけだから。知っていながら尚、見ぬふりをし、根拠なく見下す、そのありようは、最初から自分とは違う存在と認識している連中よりも度し難い厚顔であるのかもしれない。
そんなメンタリティだからこそ、かれは差別をし、差別することから利益を得ながら、その搾取する対象に向けて「神の言葉」を説くという欺瞞を、何ら恥じることなくなすことができるわけだけど、この映画では、二回あるフォードの説教のシーンに、二回ともノイズを被せるという演出がなされています。一度目は奴隷たちの労働歌が、二度目は幼子と引き離されて売られてきた若い母親の慟哭の声が、それぞれフォードの説教にかぶさり、フォードの声など聞こえません。皮肉のきいた面白い演出です。
一方、ソロモンが北部人であるということのドラマ的な効果や役割としては、ひとつには、いきなり平和で安全な日常から切り離され、想像だにしなかった地獄に突き落とされるという展開それ自体がドラマチックであるということ、更には、そのようなドラマチックな展開は、まさにアフリカの故郷で普通の生活を送っていた人々がいきなり狩り出されて遠いアメリカまで連れてこられた理不尽を想起させる仕掛けになっていること、であろうかと思います。
まあしかし、そうは言ってもこのドラマは、どうにもこうにも既視感ばかりがつきまとう、どっかで観たような描写ばかり。一言で言ってかなり凡庸な印象だったので、どうしてこの作品が作品賞を受賞できたのか、若干ひっかかってしまいました(黒人監督が撮った奴隷制度を批判する映画だから?)。
奴隷制度が「悪い」ことはどうしたって反論のしようがないくらいの真実なんだから、みんなそう言ってるし、前からそう言われてるし、言われた方もわかってるし。「今」敢えてまたそれを言うのであれば、それなりの新しい「気づき」がなければ意味がないと思う。
映画的主張というのは結局、渡り労働者のブラピの台詞に凝縮されていて、その内容を大雑把に言えば、いくら現時点で法律が奴隷制を容認しているからと言って、法律なんかは情況によって変化するもので、人間は変化しない絶対的な正義・倫理・道徳というものに照らし合わせて物事を考えるべきであり、人権についてはまさにその尺度を用いるべきである、といったこと。正しいけどぺらい。中学校の弁論大会の模範解答みたいで心に響かない。しかもそれを臆面もなく全て台詞で説明しちゃう。言う人物がまた、制度の加害者という観念からは免責のある「カナダ人」であるというのは、「外部視点の導入」ということを考えれば納得のいく範囲だとしても、己のそうした信念に対して何らリスクを取るつもりのない傍観者であるわけです(結果的にかれはソロモンの為に手紙を投函したかもしれないけれど、要するにやったことはそれだけ)。
奴隷制の問題を今確かにコンテンポラリーな問題として考えるならば、たとえば「貧困」との繋がりなんかをもっと鋭利にえぐることはできなかったのか。世界中で貧富の差が広がって、貧しい者は更に貧しくなりその絶対数がとめどなく増加している現状を見れば、制度としての奴隷制度はなくなっても、労働としての奴隷労働はなくなっちゃいない。
劇中、奴隷たちが摘み取った綿の重さを報告し、その軽重で褒められたり罰せられたりする描写がありますが、あのシーンを観ると、ジョン・グリシャムの『ペインテッド・ハウス』という小説を思い出します。50年代を舞台としたこの小説の中でも、幼い主人公を初めとして、人々は朝から晩まで辛い労働を耐えぬいて大量の綿を摘み、一日の終りにそれを計るわけですが、舞台となる農場は主人公の祖父が所有するものであり、大勢の労働者たち(メキシコ人であったりプアホワイトであったり)と共に、主人公もまた祖父当人や自らの父親と一緒になって、かつて黒人奴隷たちが行っていたのと全く同じ労働を行っているのです。
確かにこの映画でも、メインテーマのほかに、いくつもの小さな種が蒔かれてはいます。たとえば、ソロモンが妻のために鞄を買おうとした店で出会った「白人に所有されている黒人」という描写。北部にだって姿を変えた奴隷制度は存在していたし、恐らくソロモンはそれについては見ぬふりをしてやり過ごしてきた、もっと言えば「自分はかれらとは違う」という認識があったのかもしれない。同様な認識は、かつての黒人奴隷を正妻に迎えたエップスの農場の近隣の農場主の存在からも伺うことができるかもしれません。かつて奴隷だった黒人の正妻は、とんでもない一発逆転を勝ちとった奇跡レベルの「勝ち組」ですが、彼女は、自ら辛い奴隷の身分を体験してきたにもかかわらず、「同朋」を奴隷として使うことを憚らないのです。
それよりもっと興味深いのが、エップスとその夫人との関係かもしれません。
エップスの妻(サラ・ポールソン)は、夫のパッツィーへの執着が、単になぐさみものとしての女奴隷に対するものではなく、歪んだ形の愛情が根底にあることを本能的に感じ取り、激しく嫉妬し、徹底的にパッツィーに辛くあたります。ここで更に面白いのが、エップス夫妻の間にもまた、ある種の格差が存在していたということです。エップスの妻はいくら夫に腹をたてても離婚という選択肢はない。彼女の実家は婚家よりもっと貧しかったからです。エップスのもとにいれば「奥様」でいられる妻もまた、白人社会の中では弱者でしかなかった。白人の中にも貧富の差はあり、立場の強い者からの威圧は、更に立場の弱い者へのイジメとして発現する。エップス夫人の冷酷さは、彼女自身の本性というよりは、彼女の不確かで脆弱な立場によって追い込まれたものであったのかもしれません。
全体的にアカデミー賞作品賞を受賞するには弱い作品だとは思いますが、こうした描写の数々が映画に深みを与えていたことは否めません。そのほかのよかった点をとりあえず三つだけ挙げれば、
(1)風景の美しさ
(2)ベネディクト・カンバーバッチの南部訛り
(3)マイケル・ファスベンダー
(1)はもう、まんま。ほんと美しかったです。監督の冴えた美意識がすばらしい。
(2)はね、ほんと、いいよ。すごく、いいよ。カンバーバッチのあの声による南部訛り、鳥肌が立つほどセクシーに感じられたのでビックリしました。おお、なるほどこれが南部アクセントの魅力か! と開眼してしまいましたわ。いつも(シャーロック・ホームズなんかで)聞いてるブリティッシュ・イングリッシュとの違いのせいでより強烈に感じられたのかもしれませんが。いやぁ、いいもん聞かせていただきました。
そして(3)ですが。
この映画の存在価値を問うのであれば、まっことマイケル・ファスベンダーの演技につきると思います。ファスベンダーはこの作品で助演男優賞にノミネートされましたが、受賞したのは『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャレッド・レトです。その映画をまだ観ていないので、レトじゃなくてファスベンダーが受賞すべきだったとは言えませんが、『それでも夜は明ける』という映画が獲るべきだったのは、作品賞ではなく助演男優賞だったはずとは強く思います。
ファスベンダー演じる農園主のエップス。美しい黒人奴隷のパッツィーに本気で惹かれてしまったエップスは、歪んだプライドや、傷付き易い自我や、猜疑心や名誉欲や世間体や恐怖心などなどなどに阻まれて、もちろん素直に愛情を認めることなどできようはずもなく、パッツィーへの態度は見るも無残な虐待となってしまう。しかしパッツィーをいたぶる時、一番傷付いているのは実はエップス自身で、エップスはもしかしたらフォードなんかよりもよっぽど深刻な自己嫌悪にかられているのかもしれない。深層で罪を自覚しつつ、表層でそれを認めることのできない更に罪深い罪の泥沼。エップスの苦悩は深いです。
前作の『Shame』を観る限りにおいては、スティーヴ・マックィーン監督の適性もまた、社会派的問題提起というよりこういった人間そのもののどうしようもない弱さや醜さや心の闇や、弱さゆえの何か美しくて悲しいものを描くことにあるような気がする点でもやっぱり、この映画の中でファスベンダーが果たした役割は果てしなく大きかったと思うのです。
逆に主演のキウェテル・イジョフォーは、当事者でありながら若干傍観者のようであったかもしれない。それが、観終ってみると、驚くほど主演の印象が薄かった所以だったかも。
スティーヴ・マックィーン監督、製作にブラッド・ピット。ソロモン・ノーサップの自伝をベースにした伝記ドラマです。さきのアカデミー賞では9部門にノミネートされ、作品賞、助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ)、脚色賞(ジョン・リドリー)を受賞、主演のキウェテル・イジョフォーも主演男優賞にノミネートされました(受賞したのは『ダラス・バイヤーズクラブ』のマシュー・マコノヒー)。
妻子と共にニューヨークでミュージシャンとして自立して幸せな生活を送っていた自由黒人のソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、ある日、騙されて拉致された挙句、南部の奴隷市場で売られてしまう。以来12年に亘り、名を奪われ、家族を奪われ、人間としての尊厳を奪われ、家畜同然の境遇で奴隷として過ごさねばならなかった。
ソロモンの売買をアレンジした奴隷商人のフリーマンを演じたのがポール・ジアマッティ、ジアマッティからソロモンを買い取った農園主フォードがベネディクト・カンバーバッチ、カンバーバッチの農園の奴隷監督ティビッツがポール・ダノ、カンバーバッチがソロモンを転売したさきの農園主エップスがマイケル・ファスベンダー。助演女優賞を受賞したルピタ・ニョンゴが演じたのは、所有者であるエップスに異様に執着される黒人奴隷のパッツィー、プロデューサーであるブラッド・ピットはそのエップスの農場に雇われた渡りの白人労働者バスの役で、バスはソロモンが自由を取り戻す手助けをします。
弱い環がひとつもみつからない完璧な布陣です(除:ピット。でもピットはプロデューサーとしての責任上、客寄せパンダとしてミスマッチを承知の上であの役を演じている確信犯なのでノー・プロブレム)。
最初に感じる疑問は、なぜソロモンというキャラクターが生粋の南部黒人ではなく、本来北部の自由黒人であったのに、拉致されて売られるという設定になったのか、という点ですが。
まずは当然、実在の人物の自伝が原作だから、ですよね。つまりは、事実がそうだから。
ではなぜ事実としての情況がそのようであったのか、というと、物語当時、奴隷貿易の非人間性に目覚めた(っていうか、アメリカの混乱に乗じて植民地宗主国としての頂点を極めようとした)イギリスの働きにより、奴隷貿易が禁止され、奴隷の供給が不足していた、という点があげられます。
この点で個人的に面白いなーと思うのが、『アメージング・グレース』の中で、その奴隷禁止のムーブメントを主導した時のイギリス首相、ウィリアム・ピットを演じたベネディクト・カンバーバッチが、こちらの映画では、奴隷制の恩恵を受ける側であり奴隷制を支持する立場にある人物を演じていたことです。
カンバーバッチのフォードは、ソロモンにヴァイオリンをくれたり、ソロモンの身の安全が守り切れなくなった時点で、売却という形であれ、よその農園に逃がしてくれたりした人物なので、うっかりすると「奴隷制には懐疑的な良心の人」なのかと見誤ってしまいますが、実際のところフォード自身は奴隷制という制度自体には微塵も疑問を感じていなかったと思います。
確かに、かれ自身は暴力をふるったりしないし、黒人に対する待遇はもっと改善されてもいいと思っていたかもしれないし、それが能力であれ意見であれ、たとえ黒人のものであっても尊重すべきものは尊重すべき、という柔軟な思考もあったとは思うけれど、そこまでがかれの限界で、社会制度としての奴隷制というのは、かれの中ではあくまでもあって然るべきものだった。恐らく、当時の教養のある南部の白人としてはそれが標準的なスタンスだったのだと思う。
そんなフォードという人物の認識は、もしかしたらあからさまなレイシストよりもっとタチが悪いのかもしれない。なにしろかれは、ソロモンたちが自分と同じ人間であることを知っているわけだから。知っていながら尚、見ぬふりをし、根拠なく見下す、そのありようは、最初から自分とは違う存在と認識している連中よりも度し難い厚顔であるのかもしれない。
そんなメンタリティだからこそ、かれは差別をし、差別することから利益を得ながら、その搾取する対象に向けて「神の言葉」を説くという欺瞞を、何ら恥じることなくなすことができるわけだけど、この映画では、二回あるフォードの説教のシーンに、二回ともノイズを被せるという演出がなされています。一度目は奴隷たちの労働歌が、二度目は幼子と引き離されて売られてきた若い母親の慟哭の声が、それぞれフォードの説教にかぶさり、フォードの声など聞こえません。皮肉のきいた面白い演出です。
一方、ソロモンが北部人であるということのドラマ的な効果や役割としては、ひとつには、いきなり平和で安全な日常から切り離され、想像だにしなかった地獄に突き落とされるという展開それ自体がドラマチックであるということ、更には、そのようなドラマチックな展開は、まさにアフリカの故郷で普通の生活を送っていた人々がいきなり狩り出されて遠いアメリカまで連れてこられた理不尽を想起させる仕掛けになっていること、であろうかと思います。
まあしかし、そうは言ってもこのドラマは、どうにもこうにも既視感ばかりがつきまとう、どっかで観たような描写ばかり。一言で言ってかなり凡庸な印象だったので、どうしてこの作品が作品賞を受賞できたのか、若干ひっかかってしまいました(黒人監督が撮った奴隷制度を批判する映画だから?)。
奴隷制度が「悪い」ことはどうしたって反論のしようがないくらいの真実なんだから、みんなそう言ってるし、前からそう言われてるし、言われた方もわかってるし。「今」敢えてまたそれを言うのであれば、それなりの新しい「気づき」がなければ意味がないと思う。
映画的主張というのは結局、渡り労働者のブラピの台詞に凝縮されていて、その内容を大雑把に言えば、いくら現時点で法律が奴隷制を容認しているからと言って、法律なんかは情況によって変化するもので、人間は変化しない絶対的な正義・倫理・道徳というものに照らし合わせて物事を考えるべきであり、人権についてはまさにその尺度を用いるべきである、といったこと。正しいけどぺらい。中学校の弁論大会の模範解答みたいで心に響かない。しかもそれを臆面もなく全て台詞で説明しちゃう。言う人物がまた、制度の加害者という観念からは免責のある「カナダ人」であるというのは、「外部視点の導入」ということを考えれば納得のいく範囲だとしても、己のそうした信念に対して何らリスクを取るつもりのない傍観者であるわけです(結果的にかれはソロモンの為に手紙を投函したかもしれないけれど、要するにやったことはそれだけ)。
奴隷制の問題を今確かにコンテンポラリーな問題として考えるならば、たとえば「貧困」との繋がりなんかをもっと鋭利にえぐることはできなかったのか。世界中で貧富の差が広がって、貧しい者は更に貧しくなりその絶対数がとめどなく増加している現状を見れば、制度としての奴隷制度はなくなっても、労働としての奴隷労働はなくなっちゃいない。
劇中、奴隷たちが摘み取った綿の重さを報告し、その軽重で褒められたり罰せられたりする描写がありますが、あのシーンを観ると、ジョン・グリシャムの『ペインテッド・ハウス』という小説を思い出します。50年代を舞台としたこの小説の中でも、幼い主人公を初めとして、人々は朝から晩まで辛い労働を耐えぬいて大量の綿を摘み、一日の終りにそれを計るわけですが、舞台となる農場は主人公の祖父が所有するものであり、大勢の労働者たち(メキシコ人であったりプアホワイトであったり)と共に、主人公もまた祖父当人や自らの父親と一緒になって、かつて黒人奴隷たちが行っていたのと全く同じ労働を行っているのです。
確かにこの映画でも、メインテーマのほかに、いくつもの小さな種が蒔かれてはいます。たとえば、ソロモンが妻のために鞄を買おうとした店で出会った「白人に所有されている黒人」という描写。北部にだって姿を変えた奴隷制度は存在していたし、恐らくソロモンはそれについては見ぬふりをしてやり過ごしてきた、もっと言えば「自分はかれらとは違う」という認識があったのかもしれない。同様な認識は、かつての黒人奴隷を正妻に迎えたエップスの農場の近隣の農場主の存在からも伺うことができるかもしれません。かつて奴隷だった黒人の正妻は、とんでもない一発逆転を勝ちとった奇跡レベルの「勝ち組」ですが、彼女は、自ら辛い奴隷の身分を体験してきたにもかかわらず、「同朋」を奴隷として使うことを憚らないのです。
それよりもっと興味深いのが、エップスとその夫人との関係かもしれません。
エップスの妻(サラ・ポールソン)は、夫のパッツィーへの執着が、単になぐさみものとしての女奴隷に対するものではなく、歪んだ形の愛情が根底にあることを本能的に感じ取り、激しく嫉妬し、徹底的にパッツィーに辛くあたります。ここで更に面白いのが、エップス夫妻の間にもまた、ある種の格差が存在していたということです。エップスの妻はいくら夫に腹をたてても離婚という選択肢はない。彼女の実家は婚家よりもっと貧しかったからです。エップスのもとにいれば「奥様」でいられる妻もまた、白人社会の中では弱者でしかなかった。白人の中にも貧富の差はあり、立場の強い者からの威圧は、更に立場の弱い者へのイジメとして発現する。エップス夫人の冷酷さは、彼女自身の本性というよりは、彼女の不確かで脆弱な立場によって追い込まれたものであったのかもしれません。
全体的にアカデミー賞作品賞を受賞するには弱い作品だとは思いますが、こうした描写の数々が映画に深みを与えていたことは否めません。そのほかのよかった点をとりあえず三つだけ挙げれば、
(1)風景の美しさ
(2)ベネディクト・カンバーバッチの南部訛り
(3)マイケル・ファスベンダー
(1)はもう、まんま。ほんと美しかったです。監督の冴えた美意識がすばらしい。
(2)はね、ほんと、いいよ。すごく、いいよ。カンバーバッチのあの声による南部訛り、鳥肌が立つほどセクシーに感じられたのでビックリしました。おお、なるほどこれが南部アクセントの魅力か! と開眼してしまいましたわ。いつも(シャーロック・ホームズなんかで)聞いてるブリティッシュ・イングリッシュとの違いのせいでより強烈に感じられたのかもしれませんが。いやぁ、いいもん聞かせていただきました。
そして(3)ですが。
この映画の存在価値を問うのであれば、まっことマイケル・ファスベンダーの演技につきると思います。ファスベンダーはこの作品で助演男優賞にノミネートされましたが、受賞したのは『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャレッド・レトです。その映画をまだ観ていないので、レトじゃなくてファスベンダーが受賞すべきだったとは言えませんが、『それでも夜は明ける』という映画が獲るべきだったのは、作品賞ではなく助演男優賞だったはずとは強く思います。
ファスベンダー演じる農園主のエップス。美しい黒人奴隷のパッツィーに本気で惹かれてしまったエップスは、歪んだプライドや、傷付き易い自我や、猜疑心や名誉欲や世間体や恐怖心などなどなどに阻まれて、もちろん素直に愛情を認めることなどできようはずもなく、パッツィーへの態度は見るも無残な虐待となってしまう。しかしパッツィーをいたぶる時、一番傷付いているのは実はエップス自身で、エップスはもしかしたらフォードなんかよりもよっぽど深刻な自己嫌悪にかられているのかもしれない。深層で罪を自覚しつつ、表層でそれを認めることのできない更に罪深い罪の泥沼。エップスの苦悩は深いです。
前作の『Shame』を観る限りにおいては、スティーヴ・マックィーン監督の適性もまた、社会派的問題提起というよりこういった人間そのもののどうしようもない弱さや醜さや心の闇や、弱さゆえの何か美しくて悲しいものを描くことにあるような気がする点でもやっぱり、この映画の中でファスベンダーが果たした役割は果てしなく大きかったと思うのです。
逆に主演のキウェテル・イジョフォーは、当事者でありながら若干傍観者のようであったかもしれない。それが、観終ってみると、驚くほど主演の印象が薄かった所以だったかも。
by shirakian
| 2014-03-14 23:07
| 映画さ行