2014年 02月 13日
ザ・イースト
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★ネタバレ注意★
『キング・オブ・マンハッタン』や『ランナウェイ』で印象鮮烈だったブリット・マーリングが主演・脚本・製作の3役をこなした映画です。昨年アメリカで「2013年度最も過小評価された映画」に選ばれた由。ザル・バトマングリッジ監督作品。製作総指揮にトニー・スコット。
民間の情報機関“ヒラー・ブルード”に勤務する元FBIエージェントのジェーン(ブリット・マーリング)は、社長のシャロン(パトリシア・クラークソン)に環境テロ集団“イースト”への潜入任務を与えられる。サラという偽名を使い、単独潜入に成功したジェーンは、イーストのメンバーと身近に接しているうちに、リーダーのベンジー(アレキサンダー・スカルスガルド)へ惹かれ始めると共に、かれらの思想に共感めいた感情を抱くようになるのだが。
という映画のキーワードは、
(1) 民間の情報機関
(2) 環境テロ集団
(3) アレキサンダー・スカルスガルド です。
まずは(3)。
『バトルシップ』を観たときに、主人公で弟役のテイラー・キッチュを横目に、ああん、なんでおにいちゃんの方が死んじゃうんだよーと切歯扼腕したのはわたしです。そのおにいちゃんがアレキサンダー・スカルスガルド。いいよね。イケメンだ。おとうさんはステラン・スカルスガルド。先日は大胆なまっぱをご披露していらっさいました。
このスカルスガルド(子)が演じたベンジーは、単にイケメンというだけでなく、物語のキーパーソンでもあります。
頭に「環境」がついたところでテロはテロ、そのテロリストグループのリーダーという割には、ベンジーの雰囲気はとても柔らかい。アジトとして使われている森の中の朽ちた家はかれの所有によるもので、広大な不動産を持つ裕福な一族の出である長身の男は、いかにも優雅で憂愁を帯びている。登場シーンのヒッピーめいた姿から一転、“jam” と呼ばれる作戦行動に出るためにドレスアップした姿は、目にしたサラが一瞬息を呑む艶やかさ。知的で物静かな美しい男。仲間の死に、体裁も気にせず目を泣きはらす男。そんなベンジーであれば、サラが惹かれるのも無理からぬことであり、その思想に共鳴するのも当然であるように思われるのだけれども、しかし。
ということで、一旦置いて、(1)です。
ジェーンが勤務している“ヒラー・ブルード”という組織は、「民間の」情報機関なんですね。実はこういう組織は実際に存在しているそうです。ストラトフォーというそうですが、産業や市場の動向やその影響を分析・評価し、その情報を提供するのが目的。その対象は全世界に及び、クライアントはこれをビジネス目標の達成のために利用する。と言えば、既存のマーケティングリサーチとどう違うの、と思いますが、この組織を有名にしたのが1999年のコソボ空爆に関する情報だった、という点を考えれば、それが単なるマーケティングリサーチではないということがわかります。
この映画のヒラー・ブルード社もまた同様で、ジェーンら調査員の前身はウォール街ではなくFBIであり、情報収集の規模も手法も能力もFBIと大同小異、どんな個人情報でも国家or企業機密でも、ほしい情報は探り出してしまう、ただしその情報の使われ方が特定の企業の利益である、という点のみが国家組織とは異なる(あるいは、そこすらも異ならない)。そういう組織がすでに実在している、という現実。
次に(2)について。
テロと言っても「環境」テロ。宗教テロならその「正当性」は立場によるとしか言えないけれど、環境テロリストが糾弾する内容は、概ね反論の余地なく「正しい」。人類全ての共有財産である自然環境を破壊するのは悪いに決まってるし、破壊したことによって健康被害を受けて苦しんでいる人々がいるとしたら、単に悪いじゃすまされないし、そうした人々を苦しめる行為を企業が己の利益のためだけに行っているとしたら、弁解の余地なく悪いことであるというのは大前提。
しかもこの映画では、そうした「絶対的に悪いこと」に手段はどうあれ立ち向かおうとする人々を、それぞれやむを得ない事情を持ったピュアな人々として描いている(かに見える)。薬害で妹を亡くし自身も障害を抱えることになったドク(トビー・ケベル)や、父親の会社が垂れ流す汚染物質のせいで近隣住民が苦しみ、幼い子どもが死んでいるという事実を知ってしまったイジー(エレン・ペイジ)といったキャラクターを配することにより、テロリスト側にも同情や共感の余地を与えています。実際にドクやイジーとつきあい、その怒りや悲しみを共にしてしまったら、その主張にすら共感せざるを得なくなるのではないか? この映画でヒロインに起こったことは、そうした「共感」だったのではないか?
つまり、目的は手段を凌駕するのか、という問いかけです。
一見、それに対する答えは「イエス」であるかのように見える。
ですがおそらく実際はそうじゃない。イーストはサラの行動のきっかけにはなったにせよ、決して彼女はイーストの言動に共鳴したわけじゃない、と思う。
というのも、環境テロというものを、一見とても共感的に、人間性や正当性や「優しさ」と共に描き、確かに手段は「悪」だが目的は正しかった、あれは「必要悪」だった、だからヒロインもそれに共鳴したのだ、という風に描いてみせる一方で、それに対する反証がちりばめられているからです。
それらはたとえば以下の3点。
(1)イギーの死。
(2)ドクのメモ。
(3)ベンジーの地金。
まず(1)。
現実であれば正しくても正しくなくてもひとは死ぬ時には死にますが、映画の中では、登場人物の死が無意味に描かれることはありえない。イギーがあそこで殺されたということは、殺されることに対する映画としての主張があったはずであり、それをどう考えるか、という問題です。単にイギーは哀れな被害者であったのか?
そして(2)ですが、逮捕される直前にドクは「ペイジ」に宛ててメモというかメッセージをしたためていました。「ペイジ、すまなかった」と。血を吐くような深い深い悔恨の思いと共に。ペイジとはだれか、ドクはペイジに何をしてしまったのか?
ペイジとは、ドクらが”jam” を成功させた製薬会社の副社長(ジュリア・オーモンド)です。ドクたちイーストのメンバーは、ドクの妹を自殺に追い込み、ドク自身をも薬害で苦しめた悪徳製薬会社、そのパーティにもぐりこみ、上層部の人々にかれら自身の製品を密かに服用させたのです。その結果、知らずに薬を飲んだペイジは、ドクの妹が侵されたのと同じ激しい副作用に見舞われてしまうのです。おかげで薬の危険性を世間に広めることには成功しましたが、ドクは良心の呵責に苛まれることになってしまった。
ここでは、「目的は手段を凌駕するのか」という問題と共に、「責めを負うべきは誰か」という問題もまた提示されているのが興味深いと思います。
テロという手法を用いる以上、企業を糾弾するといっても、結局その攻撃対象は会社の上層部の「個人」になってしまう。果たして特定の個人に企業犯罪の責任を負わせることは妥当なのか? もちろん、最終判断を下した人物は確実に存在するわけですが、しかし、そうであるならば罪はそのひとひとりの罪なのか? その「特定の個人」に罪を負わせたイーストのやり方は、「目的」のために許される手段だったのか?
たぶん、それらの答えが「イエス」なら、イギーは死んでいないし、ドクはメッセージをしたためてはいません。脚本を書いたブリット・マーリングも、そうは思っていなかったという証左になるんじゃないかな。
最後に(3)。
このポイントはさきに述べたベンジーの「非常に魅力的な」キャラクター描写、という点と不可分に結びついています。
結果的にサラがベンジーの魅力にほだされ、イーストの言説に洗脳され感化されたのだとしたら、あたかも誘拐された被害者が誘拐犯に歪んだ共感を抱くかのように共感をいだいたのだとしたら、最終的にサラがイーストの一員になることを選んだのだとしたら、もしかしたらそこには「目的は手段を凌駕する」という主張があったのかもしれません。しかし実際はそうではなかった。結局サラはベンジーとは袂を分かったのです。そのきっかけとなったのが、ベンジーの抑えられた独善性が露見した瞬間でした。
ベンジーはサラにイーストの第三のターゲットは他ならぬヒラー・ブルードであると告げるのです。まんまと潜入捜査官に騙されて情報を握られているかに見えた物静かな男は、実は最初からサラの正体を知っていて利用する機会を伺っていたのです。捕食者だったのは実はベンジーの方だった。
のみならず、ベンジーはサラにヒラー・ブルードの調査員の情報を盗み出すよう要求するにあたって、当初はかれらを「監視」することが目的だ、と言います。しかし、いざサラがその情報入手に失敗したと思いこむと、怒りにまかせて本音をぶちまけるのです。かれは最初から調査員のデータを世間に公表するつもりだった。そんなことをしたら潜入捜査中の調査員の身に危険が及ぶことも構わずに。目的のためなら手段など構うものかというのが、結局ベンジーの主張だった。だからジェーンはかれとは一緒に活動できなかったのです。
この瞬間のスカルスガルドの演技が鬼気迫ります。いままで観客の目に映ってきた柔らかい雰囲気の優雅で憂愁を帯びた知的で物静かな美しい男が、一転して牙を剥いた瞬間。この瞬間のために、前半のベンジーのややもすれば頼りなくすら見える軟派な描写が生きてくる。
そうしてベンジーとは違う道を歩む決意をしたジェーンでしたが、しかし結局もうもとには戻れなかった。彼女は知ってしまった。「目的」を持ってしまった。ただそこで、その目的を達成するための手段をも、彼女は選ばなければならなかった。それは正しい手段でなければならない。少なくとも、だれか特定の個人を傷つけるようなやり方であってはならない。それをしてしまえばターゲットと何ら変わらない存在になってしまう。恐らくそれは内部告発などを中心とした、より穏当で、しかし効果的な方法を考え抜く闘いになるはずです。……その戦略がうまく機能すればよいのだけれど。
『キング・オブ・マンハッタン』や『ランナウェイ』で印象鮮烈だったブリット・マーリングが主演・脚本・製作の3役をこなした映画です。昨年アメリカで「2013年度最も過小評価された映画」に選ばれた由。ザル・バトマングリッジ監督作品。製作総指揮にトニー・スコット。
民間の情報機関“ヒラー・ブルード”に勤務する元FBIエージェントのジェーン(ブリット・マーリング)は、社長のシャロン(パトリシア・クラークソン)に環境テロ集団“イースト”への潜入任務を与えられる。サラという偽名を使い、単独潜入に成功したジェーンは、イーストのメンバーと身近に接しているうちに、リーダーのベンジー(アレキサンダー・スカルスガルド)へ惹かれ始めると共に、かれらの思想に共感めいた感情を抱くようになるのだが。
という映画のキーワードは、
(1) 民間の情報機関
(2) 環境テロ集団
(3) アレキサンダー・スカルスガルド です。
まずは(3)。
『バトルシップ』を観たときに、主人公で弟役のテイラー・キッチュを横目に、ああん、なんでおにいちゃんの方が死んじゃうんだよーと切歯扼腕したのはわたしです。そのおにいちゃんがアレキサンダー・スカルスガルド。いいよね。イケメンだ。おとうさんはステラン・スカルスガルド。先日は大胆なまっぱをご披露していらっさいました。
このスカルスガルド(子)が演じたベンジーは、単にイケメンというだけでなく、物語のキーパーソンでもあります。
頭に「環境」がついたところでテロはテロ、そのテロリストグループのリーダーという割には、ベンジーの雰囲気はとても柔らかい。アジトとして使われている森の中の朽ちた家はかれの所有によるもので、広大な不動産を持つ裕福な一族の出である長身の男は、いかにも優雅で憂愁を帯びている。登場シーンのヒッピーめいた姿から一転、“jam” と呼ばれる作戦行動に出るためにドレスアップした姿は、目にしたサラが一瞬息を呑む艶やかさ。知的で物静かな美しい男。仲間の死に、体裁も気にせず目を泣きはらす男。そんなベンジーであれば、サラが惹かれるのも無理からぬことであり、その思想に共鳴するのも当然であるように思われるのだけれども、しかし。
ということで、一旦置いて、(1)です。
ジェーンが勤務している“ヒラー・ブルード”という組織は、「民間の」情報機関なんですね。実はこういう組織は実際に存在しているそうです。ストラトフォーというそうですが、産業や市場の動向やその影響を分析・評価し、その情報を提供するのが目的。その対象は全世界に及び、クライアントはこれをビジネス目標の達成のために利用する。と言えば、既存のマーケティングリサーチとどう違うの、と思いますが、この組織を有名にしたのが1999年のコソボ空爆に関する情報だった、という点を考えれば、それが単なるマーケティングリサーチではないということがわかります。
この映画のヒラー・ブルード社もまた同様で、ジェーンら調査員の前身はウォール街ではなくFBIであり、情報収集の規模も手法も能力もFBIと大同小異、どんな個人情報でも国家or企業機密でも、ほしい情報は探り出してしまう、ただしその情報の使われ方が特定の企業の利益である、という点のみが国家組織とは異なる(あるいは、そこすらも異ならない)。そういう組織がすでに実在している、という現実。
次に(2)について。
テロと言っても「環境」テロ。宗教テロならその「正当性」は立場によるとしか言えないけれど、環境テロリストが糾弾する内容は、概ね反論の余地なく「正しい」。人類全ての共有財産である自然環境を破壊するのは悪いに決まってるし、破壊したことによって健康被害を受けて苦しんでいる人々がいるとしたら、単に悪いじゃすまされないし、そうした人々を苦しめる行為を企業が己の利益のためだけに行っているとしたら、弁解の余地なく悪いことであるというのは大前提。
しかもこの映画では、そうした「絶対的に悪いこと」に手段はどうあれ立ち向かおうとする人々を、それぞれやむを得ない事情を持ったピュアな人々として描いている(かに見える)。薬害で妹を亡くし自身も障害を抱えることになったドク(トビー・ケベル)や、父親の会社が垂れ流す汚染物質のせいで近隣住民が苦しみ、幼い子どもが死んでいるという事実を知ってしまったイジー(エレン・ペイジ)といったキャラクターを配することにより、テロリスト側にも同情や共感の余地を与えています。実際にドクやイジーとつきあい、その怒りや悲しみを共にしてしまったら、その主張にすら共感せざるを得なくなるのではないか? この映画でヒロインに起こったことは、そうした「共感」だったのではないか?
つまり、目的は手段を凌駕するのか、という問いかけです。
一見、それに対する答えは「イエス」であるかのように見える。
ですがおそらく実際はそうじゃない。イーストはサラの行動のきっかけにはなったにせよ、決して彼女はイーストの言動に共鳴したわけじゃない、と思う。
というのも、環境テロというものを、一見とても共感的に、人間性や正当性や「優しさ」と共に描き、確かに手段は「悪」だが目的は正しかった、あれは「必要悪」だった、だからヒロインもそれに共鳴したのだ、という風に描いてみせる一方で、それに対する反証がちりばめられているからです。
それらはたとえば以下の3点。
(1)イギーの死。
(2)ドクのメモ。
(3)ベンジーの地金。
まず(1)。
現実であれば正しくても正しくなくてもひとは死ぬ時には死にますが、映画の中では、登場人物の死が無意味に描かれることはありえない。イギーがあそこで殺されたということは、殺されることに対する映画としての主張があったはずであり、それをどう考えるか、という問題です。単にイギーは哀れな被害者であったのか?
そして(2)ですが、逮捕される直前にドクは「ペイジ」に宛ててメモというかメッセージをしたためていました。「ペイジ、すまなかった」と。血を吐くような深い深い悔恨の思いと共に。ペイジとはだれか、ドクはペイジに何をしてしまったのか?
ペイジとは、ドクらが”jam” を成功させた製薬会社の副社長(ジュリア・オーモンド)です。ドクたちイーストのメンバーは、ドクの妹を自殺に追い込み、ドク自身をも薬害で苦しめた悪徳製薬会社、そのパーティにもぐりこみ、上層部の人々にかれら自身の製品を密かに服用させたのです。その結果、知らずに薬を飲んだペイジは、ドクの妹が侵されたのと同じ激しい副作用に見舞われてしまうのです。おかげで薬の危険性を世間に広めることには成功しましたが、ドクは良心の呵責に苛まれることになってしまった。
ここでは、「目的は手段を凌駕するのか」という問題と共に、「責めを負うべきは誰か」という問題もまた提示されているのが興味深いと思います。
テロという手法を用いる以上、企業を糾弾するといっても、結局その攻撃対象は会社の上層部の「個人」になってしまう。果たして特定の個人に企業犯罪の責任を負わせることは妥当なのか? もちろん、最終判断を下した人物は確実に存在するわけですが、しかし、そうであるならば罪はそのひとひとりの罪なのか? その「特定の個人」に罪を負わせたイーストのやり方は、「目的」のために許される手段だったのか?
たぶん、それらの答えが「イエス」なら、イギーは死んでいないし、ドクはメッセージをしたためてはいません。脚本を書いたブリット・マーリングも、そうは思っていなかったという証左になるんじゃないかな。
最後に(3)。
このポイントはさきに述べたベンジーの「非常に魅力的な」キャラクター描写、という点と不可分に結びついています。
結果的にサラがベンジーの魅力にほだされ、イーストの言説に洗脳され感化されたのだとしたら、あたかも誘拐された被害者が誘拐犯に歪んだ共感を抱くかのように共感をいだいたのだとしたら、最終的にサラがイーストの一員になることを選んだのだとしたら、もしかしたらそこには「目的は手段を凌駕する」という主張があったのかもしれません。しかし実際はそうではなかった。結局サラはベンジーとは袂を分かったのです。そのきっかけとなったのが、ベンジーの抑えられた独善性が露見した瞬間でした。
ベンジーはサラにイーストの第三のターゲットは他ならぬヒラー・ブルードであると告げるのです。まんまと潜入捜査官に騙されて情報を握られているかに見えた物静かな男は、実は最初からサラの正体を知っていて利用する機会を伺っていたのです。捕食者だったのは実はベンジーの方だった。
のみならず、ベンジーはサラにヒラー・ブルードの調査員の情報を盗み出すよう要求するにあたって、当初はかれらを「監視」することが目的だ、と言います。しかし、いざサラがその情報入手に失敗したと思いこむと、怒りにまかせて本音をぶちまけるのです。かれは最初から調査員のデータを世間に公表するつもりだった。そんなことをしたら潜入捜査中の調査員の身に危険が及ぶことも構わずに。目的のためなら手段など構うものかというのが、結局ベンジーの主張だった。だからジェーンはかれとは一緒に活動できなかったのです。
この瞬間のスカルスガルドの演技が鬼気迫ります。いままで観客の目に映ってきた柔らかい雰囲気の優雅で憂愁を帯びた知的で物静かな美しい男が、一転して牙を剥いた瞬間。この瞬間のために、前半のベンジーのややもすれば頼りなくすら見える軟派な描写が生きてくる。
そうしてベンジーとは違う道を歩む決意をしたジェーンでしたが、しかし結局もうもとには戻れなかった。彼女は知ってしまった。「目的」を持ってしまった。ただそこで、その目的を達成するための手段をも、彼女は選ばなければならなかった。それは正しい手段でなければならない。少なくとも、だれか特定の個人を傷つけるようなやり方であってはならない。それをしてしまえばターゲットと何ら変わらない存在になってしまう。恐らくそれは内部告発などを中心とした、より穏当で、しかし効果的な方法を考え抜く闘いになるはずです。……その戦略がうまく機能すればよいのだけれど。
by shirakian
| 2014-02-13 20:55
| 映画さ行