2014年 01月 13日
ロッキー
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★ネタバレ注意★
午前十時の映画祭の一本。
毎回意気込む割にはそんなに観れない映画祭。今期はこれで3作品目です(残りの2作は『メリー・ポピンズ』と『カサブランカ』)。ラインナップ25作品のうち、未見は7作品だったのですが、今期観た3作品のうち1作品は再見だったので(『カサブランカ』)、潰せた未見は2作品です。名画制覇の道は遠し。(ってか無謀)。
1976年、ジョン・G・アヴィルドセン監督作品。
当時全くの無名俳優だったシルヴェスター・スタローンが、実際に行われたモハメド・アリの試合にインスパイアされ、わずか三日で書きあげた脚本で撮った作品ながら、アカデミー賞作品賞受賞(&監督賞、編集賞)の栄誉に輝いた伝説の作品。
ビル・コンティが作曲した有名なテーマ曲は名曲だと思うものの、スタローンに関しては色々と先入観もあり、この映画についても「できのいいスポコン」程度の認識しか持っていなかったのですが、色々とまちがってたことに気づいて大変反省しました。製作から40年近い歳月を経て尚色あせることのない本物の傑作なのですね。
三日で書きあげたという伝説の脚本も凄いけど、演出もよく役者もよく、何より撮影が素晴らしい。トレーニングをするロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆けあがり、自分の肉体の仕上がりを自覚してガッツポーズをするシーンのステディカムの使い方。あまりにも有名なシーンなので、映画を観たことがなくてもそのシーンだけは何となくどこかで観たことがあったけど、全体の流れの中であれを観るとやはりこみあげてくるものがあります。
そう言えばこの映画って「何となくどこかで観た」という要素がてんこもりなんだけど(ペットの亀、生卵の一気呑み、生肉を使ったパンチング練習、グレーのスウェット姿のランニング、それこそラストのエイドリア~ン……)、そういう小さな一つ一つが語り継がれているというのもまた名作の所以なのだなぁ、と感慨を新たにしました。
だけど何よりやっぱり大きかったのは「スターではないスタローン」の魅力です。
ロッキー・バルボアという男は、実のところほんとにどうしようもないチンピラで、決してヒーローなんかじゃない。ボクサーとして恵まれた素質を持っていながら本気で努力をしたことがなく、大した戦績も残せないまま、ジムのトレーナーから締め出しをくって、引退に片脚つっこんでる状態。教養も機転も人脈もないロッキーのような貧しい底辺の男は、あとは堕ちていくしか道はないのに、生まれながらの善良さからほんとのクズにもなりきれない。
何よりロッキーは「リスペクト」というものを大事にしている。どんな人間も生きる以上は他人からリスペクトされて生きていかなきゃならない。そのためにはリスペクトされるにふさわしい生き方をしなきゃならない。それがわかっているから、ヤクザに雇われてる借金取りのくせして、取り立てのために負債者に暴力をふるうことができない。非行に走りかけてる近所の少女にしょっぱい説教なんかしてウザがられて罵られたりしてしまう。ロッキーには、自分を取り巻く理不尽な世界に、肩をすくめるしかなすすべがない。
成功体験に乏しいロッキーは、諦めることに慣れてしまっている。頭を低くしてやりすごすことに慣れてしまっている。自分はしょせんその程度と卑下することに慣れてしまっている。
そんな男がエイドリアン(タリア・シャイア)と出会った。小さなペットショップで働く地味な女。あまりに内気でまともに男とは口もきけない女。自分の美しさを知らず、自分の価値を知らず、自分の可能性を知らず、ひっそりと朽ちていこうとしていた女。努力しても評価されず、頑張っても見下されるばかり、エイドリアンには、自分を取り巻く理不尽な世界に、肩をすくめるしかなすすべがない。そう、ロッキーとエイドリアンは、相似形のふたりだった。ふたりはおずおずと不器用に、だけど滑稽なほど紳士と淑女として、もどかしい交際を始める。
客観的な外の世界はどうあれ、ロッキーは心の中に王国を持っている。信頼され尊敬されるに足る心の中の王様は、他人を尊重することを知っている。不器用で粗暴で賢くもないロッキーは、だけど精一杯エイドリアンを大切にする。喜ばせようとする。幸せにしようとする。そんなロッキーだから、照らすスポットライトもないのに、闇夜にほのかに輝いて見える。ほんの小さな光源だけど、自ら光を発することができる。
だから、まさに瓢箪からコマとしか言いようのない世界チャンピオンであるアポロ(カール・ウェザース)との試合でも、いくらトレーニングで手応えを感じようが、また相手が自分を格下とみくびってトレーニングをさぼり、ビジネスやプロモーションにかまけていようが、敵わないものは敵わない、と悟ってしまった後でも、「最終の15ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分はただのゴロツキではないということが証明できる」とつぶやき、闘いから逃げない。ただのゴロツキではないことを誰に対して証明しなければならないかと言えば、それはもちろんエイドリアンのため。金も名誉もマスコミの賞賛もいらない。勝ち負けですらどうでもいい。ただエイドリアンに証明してみせるため。
だからたとえ試合そのものは判定負けであろうとも、最後まで闘いぬいたロッキーは、その瞬間勝利の栄光に輝いたのです。それがあのエイドリアンへの雄叫びだった。かつてあれほどまでに華々しい勝利宣言はなかった。
そうした単純だけど複雑な、粗野だけど卑ではないひとりの男の素の顔を、「無名の」スタローンは見事に演じてのけている。というよりそれは当時のスタローンそのものだったのかもしれない。そんなスタローンが演じるロッキーを、誰もが愛さずにはいられない。
スターになってしまったスタローンは、スター・スタローンとしての要求に応えなければならなくて、それは謂わばスターとしてのパターン演技になってしまいがちなのだけど、恐らくスタローンがパターン演技しかできないお大根さんなのではなく、スターであるスタローンはスターとしてのパターン演技をすることしか許されなくなってしまったのだと思う。そんなパターンの縛りのない素の役者スタローンを観ることができるのは、この映画が最後なのです。
酒は呑む、煙草は吸う、まともなトレーニングはしない、そんな身体で試合まで5週間というロッキーが、果たしてどうやって自己改造に乗り出すのか、その描写がとても興味深かったのですが、極めて重要なそのポイントでもまた、間違った先入観を正されることになりました。
ロッキーが名作なのは、真摯に描かれたロッキーとエイドリアンとの関係性にあることは間違いないけれど(だからこの映画って、スポコンではなくむしろラブストーリーであるわけだ)、それ以外のロッキーを取り巻く人々、特にエイドリアンの兄のポーリー(バート・ヤング)や、ジムのトレーナーのミッキー(バージェス・メレディス)との関係がいいのですね。
ミッキーはロッキーのことを「傷んだトマト」と馬鹿にして洟もひっかけない態度を取っていたのに、ロッキーにチャンピオンとの対戦という万にひとつのチャンスが舞い込んでくると、途端にロッキーに擦り寄ってくる。マネージャーをやらせてほしいと媚を売る。
普通だったら、プライドの高い老トレーナーのもとに、(ボクサーとしてはもはやロートルとは言え)若いロッキーが膝を屈して教えを請う流れになるのだろうと思いきや、ミッキーの方からロッキーへ接触させるクレバーな脚本。当然そんな流れ、ミッキーの本意だったわけがない。だけどプライドを打ち砕いてまでも、ミッキーはそれがやりたかった。チャンピオンシップに絡む試合に関わらずにはいられなかった。
だからと言ってロッキーにだって今までないがしろにされてきた歴史があり、もっと早く真剣に指導してくれていたらここまで落ちぶれずにすんだはず、という忸怩たる思いがある。すんなりと、それじゃお願いします、とは言えないわけです。一度はとことん罵らなければ気が済まない。だけど罵って、それでも、ミッキーの夢にロッキーが必要であるのと同じくらい、ロッキーの成功にはミッキーが必要だった。だからロッキーは、ロッキーに拒否されて背を曲げてとぼとぼと家路につく年老いたトレーナーを追いかける。追いついてふたりがどんな会話を交わしたのか、映画は言葉では示さない。ロングショットでほのめかすだけなのです。
この、ふたりの男の意地とプライドをかけたせめぎあいが切ない。切なくてすばらしい。
この映画、脚本に惚れた製作会社が、破格の値段で脚本を買い取るに際し、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、アル・パチーノといった有名スターを主演に起用することを条件として出してきたそうです。しかしスタローンは自身が主演することに拘り、好条件のオファーを蹴ってギリギリの低予算で映画を撮りあげた、というのは有名な話。もしあの時、最終的には36万ドルまで高騰したという脚本料に目がくらんでポール・ニューマンに主役を譲っていたら、今のスタローンはなかったという以上に、ロッキーというこの稀有の映画も成り立っていなかったのではないかと思います。
正しい時に正しい決断をできるかどうか。
多くの場合、それはあまりにも難しいことです。
だからこその奇跡の一本だったのでしょう。
午前十時の映画祭の一本。
毎回意気込む割にはそんなに観れない映画祭。今期はこれで3作品目です(残りの2作は『メリー・ポピンズ』と『カサブランカ』)。ラインナップ25作品のうち、未見は7作品だったのですが、今期観た3作品のうち1作品は再見だったので(『カサブランカ』)、潰せた未見は2作品です。名画制覇の道は遠し。(ってか無謀)。
1976年、ジョン・G・アヴィルドセン監督作品。
当時全くの無名俳優だったシルヴェスター・スタローンが、実際に行われたモハメド・アリの試合にインスパイアされ、わずか三日で書きあげた脚本で撮った作品ながら、アカデミー賞作品賞受賞(&監督賞、編集賞)の栄誉に輝いた伝説の作品。
ビル・コンティが作曲した有名なテーマ曲は名曲だと思うものの、スタローンに関しては色々と先入観もあり、この映画についても「できのいいスポコン」程度の認識しか持っていなかったのですが、色々とまちがってたことに気づいて大変反省しました。製作から40年近い歳月を経て尚色あせることのない本物の傑作なのですね。
三日で書きあげたという伝説の脚本も凄いけど、演出もよく役者もよく、何より撮影が素晴らしい。トレーニングをするロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆けあがり、自分の肉体の仕上がりを自覚してガッツポーズをするシーンのステディカムの使い方。あまりにも有名なシーンなので、映画を観たことがなくてもそのシーンだけは何となくどこかで観たことがあったけど、全体の流れの中であれを観るとやはりこみあげてくるものがあります。
そう言えばこの映画って「何となくどこかで観た」という要素がてんこもりなんだけど(ペットの亀、生卵の一気呑み、生肉を使ったパンチング練習、グレーのスウェット姿のランニング、それこそラストのエイドリア~ン……)、そういう小さな一つ一つが語り継がれているというのもまた名作の所以なのだなぁ、と感慨を新たにしました。
だけど何よりやっぱり大きかったのは「スターではないスタローン」の魅力です。
ロッキー・バルボアという男は、実のところほんとにどうしようもないチンピラで、決してヒーローなんかじゃない。ボクサーとして恵まれた素質を持っていながら本気で努力をしたことがなく、大した戦績も残せないまま、ジムのトレーナーから締め出しをくって、引退に片脚つっこんでる状態。教養も機転も人脈もないロッキーのような貧しい底辺の男は、あとは堕ちていくしか道はないのに、生まれながらの善良さからほんとのクズにもなりきれない。
何よりロッキーは「リスペクト」というものを大事にしている。どんな人間も生きる以上は他人からリスペクトされて生きていかなきゃならない。そのためにはリスペクトされるにふさわしい生き方をしなきゃならない。それがわかっているから、ヤクザに雇われてる借金取りのくせして、取り立てのために負債者に暴力をふるうことができない。非行に走りかけてる近所の少女にしょっぱい説教なんかしてウザがられて罵られたりしてしまう。ロッキーには、自分を取り巻く理不尽な世界に、肩をすくめるしかなすすべがない。
成功体験に乏しいロッキーは、諦めることに慣れてしまっている。頭を低くしてやりすごすことに慣れてしまっている。自分はしょせんその程度と卑下することに慣れてしまっている。
そんな男がエイドリアン(タリア・シャイア)と出会った。小さなペットショップで働く地味な女。あまりに内気でまともに男とは口もきけない女。自分の美しさを知らず、自分の価値を知らず、自分の可能性を知らず、ひっそりと朽ちていこうとしていた女。努力しても評価されず、頑張っても見下されるばかり、エイドリアンには、自分を取り巻く理不尽な世界に、肩をすくめるしかなすすべがない。そう、ロッキーとエイドリアンは、相似形のふたりだった。ふたりはおずおずと不器用に、だけど滑稽なほど紳士と淑女として、もどかしい交際を始める。
客観的な外の世界はどうあれ、ロッキーは心の中に王国を持っている。信頼され尊敬されるに足る心の中の王様は、他人を尊重することを知っている。不器用で粗暴で賢くもないロッキーは、だけど精一杯エイドリアンを大切にする。喜ばせようとする。幸せにしようとする。そんなロッキーだから、照らすスポットライトもないのに、闇夜にほのかに輝いて見える。ほんの小さな光源だけど、自ら光を発することができる。
だから、まさに瓢箪からコマとしか言いようのない世界チャンピオンであるアポロ(カール・ウェザース)との試合でも、いくらトレーニングで手応えを感じようが、また相手が自分を格下とみくびってトレーニングをさぼり、ビジネスやプロモーションにかまけていようが、敵わないものは敵わない、と悟ってしまった後でも、「最終の15ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分はただのゴロツキではないということが証明できる」とつぶやき、闘いから逃げない。ただのゴロツキではないことを誰に対して証明しなければならないかと言えば、それはもちろんエイドリアンのため。金も名誉もマスコミの賞賛もいらない。勝ち負けですらどうでもいい。ただエイドリアンに証明してみせるため。
だからたとえ試合そのものは判定負けであろうとも、最後まで闘いぬいたロッキーは、その瞬間勝利の栄光に輝いたのです。それがあのエイドリアンへの雄叫びだった。かつてあれほどまでに華々しい勝利宣言はなかった。
そうした単純だけど複雑な、粗野だけど卑ではないひとりの男の素の顔を、「無名の」スタローンは見事に演じてのけている。というよりそれは当時のスタローンそのものだったのかもしれない。そんなスタローンが演じるロッキーを、誰もが愛さずにはいられない。
スターになってしまったスタローンは、スター・スタローンとしての要求に応えなければならなくて、それは謂わばスターとしてのパターン演技になってしまいがちなのだけど、恐らくスタローンがパターン演技しかできないお大根さんなのではなく、スターであるスタローンはスターとしてのパターン演技をすることしか許されなくなってしまったのだと思う。そんなパターンの縛りのない素の役者スタローンを観ることができるのは、この映画が最後なのです。
酒は呑む、煙草は吸う、まともなトレーニングはしない、そんな身体で試合まで5週間というロッキーが、果たしてどうやって自己改造に乗り出すのか、その描写がとても興味深かったのですが、極めて重要なそのポイントでもまた、間違った先入観を正されることになりました。
ロッキーが名作なのは、真摯に描かれたロッキーとエイドリアンとの関係性にあることは間違いないけれど(だからこの映画って、スポコンではなくむしろラブストーリーであるわけだ)、それ以外のロッキーを取り巻く人々、特にエイドリアンの兄のポーリー(バート・ヤング)や、ジムのトレーナーのミッキー(バージェス・メレディス)との関係がいいのですね。
ミッキーはロッキーのことを「傷んだトマト」と馬鹿にして洟もひっかけない態度を取っていたのに、ロッキーにチャンピオンとの対戦という万にひとつのチャンスが舞い込んでくると、途端にロッキーに擦り寄ってくる。マネージャーをやらせてほしいと媚を売る。
普通だったら、プライドの高い老トレーナーのもとに、(ボクサーとしてはもはやロートルとは言え)若いロッキーが膝を屈して教えを請う流れになるのだろうと思いきや、ミッキーの方からロッキーへ接触させるクレバーな脚本。当然そんな流れ、ミッキーの本意だったわけがない。だけどプライドを打ち砕いてまでも、ミッキーはそれがやりたかった。チャンピオンシップに絡む試合に関わらずにはいられなかった。
だからと言ってロッキーにだって今までないがしろにされてきた歴史があり、もっと早く真剣に指導してくれていたらここまで落ちぶれずにすんだはず、という忸怩たる思いがある。すんなりと、それじゃお願いします、とは言えないわけです。一度はとことん罵らなければ気が済まない。だけど罵って、それでも、ミッキーの夢にロッキーが必要であるのと同じくらい、ロッキーの成功にはミッキーが必要だった。だからロッキーは、ロッキーに拒否されて背を曲げてとぼとぼと家路につく年老いたトレーナーを追いかける。追いついてふたりがどんな会話を交わしたのか、映画は言葉では示さない。ロングショットでほのめかすだけなのです。
この、ふたりの男の意地とプライドをかけたせめぎあいが切ない。切なくてすばらしい。
この映画、脚本に惚れた製作会社が、破格の値段で脚本を買い取るに際し、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、アル・パチーノといった有名スターを主演に起用することを条件として出してきたそうです。しかしスタローンは自身が主演することに拘り、好条件のオファーを蹴ってギリギリの低予算で映画を撮りあげた、というのは有名な話。もしあの時、最終的には36万ドルまで高騰したという脚本料に目がくらんでポール・ニューマンに主役を譲っていたら、今のスタローンはなかったという以上に、ロッキーというこの稀有の映画も成り立っていなかったのではないかと思います。
正しい時に正しい決断をできるかどうか。
多くの場合、それはあまりにも難しいことです。
だからこその奇跡の一本だったのでしょう。
by shirakian
| 2014-01-13 22:05
| 映画ら行