2013年 10月 22日
クロニクル
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★ネタバレ注意★
全く無名の新人、ジョシュ・トランク監督がわずか1200万ドルの製作費で撮った映画ながら、全米初登場1位のサプライズ・ヒットを記録。果たしていかなる映画なりや、と興味津々で劇場に足を運びました。面白かった! 映画界にまた新しい才能が現れた模様。ワクワクしますね☆
高校生のアンドリュー(デイン・デハーン)は、アル中で暴力的な父親と、重病を患い余命幾許もない母親との三人暮らし。不器用で内気で自己評価の低いアンドリューには友達もなく、唯一話ができるのは、車で送り迎えしてくれる親切な従兄弟のマット(アレックス・ラッセル)のみ。ある時、あまりにも引きこもりなアンドリューを見かねたマットの勧めで嫌々参加したパーティで、アンドリューはマットの友人スティーブ(マイケル・B・ジョーダン)に声をかけられる。政治家志望だというスティーブは校内選挙にも立候補するような明るく社交的な人気者。アンドリューはスティーブに誘われるままに、マットと共にパーティ会場の近くにあった洞窟探検に赴く。他愛ない遊びだったはずなのに、エイリアン由来の物なのか軍の秘密実験なのか、そこで見つけた奇妙な物体に触れた3人は、いつの間にか不思議な力を身に付けてしまっていた。
ごく普通の高校生がある日突然超能力が使えるようになったらどうなるか?
コメディにもバイオレンスアクションにもクライムサスペンスにも社会派の問題提起作にも、作り手の個性によって無数の解があるかと思いますが、ジョシュ・トランク監督はちょっとひねった青春譜を見せてくれました。ほろ苦く残酷で胸が痛い。しかもセンスあふれるアメージングな映像と共に。
この映画は、主人公アンドリューの撮影によるPOV方式の演出になっています。この形式の映画が大変苦手ですので、観始めてからPOVだということがわかった瞬間、この映画をチョイスしたことを後悔してしまいました。案の定、開始しばらくは大変見づらい画面が続くのですが、やがて次第にこの映画でPOVが採択されているのは、単に予算不足からくる画質の悪さや監督の経験不足からくる構図の未熟さを糊塗することだけが理由ではない(もちろん、そうした要因があったことも否めないと思うのですが)、というのがわかってきます。
まず心理描写やキャラクター描写という意味あいにおいて、孤独な主人公の少年が常にカメラを回している、ということに大きな意味があった。カメラはアンドリューが外界にコミットするための(ほとんど唯一の)手段でした。カメラを構えている限り、アンドリューはそこに居ながら世界と隔絶していられる。カメラはアンドリューを守る盾のようなものだったのです。
そして演出上のテクニックとして、物語が加速していくと共に、狭い画面と限りのある構図しか取り得なかったカメラは、次第に多角的な視点を持てるようになっていきます。ひとつにはアンドリューが身につけた念動力によってカメラを浮かせ、第三者的視点から、また人間の技ではありえないアングルから撮影することが可能になったこと。そして更に、事態が痛ましい方向に発展していった暁には、監視カメラやその場に居合わせた人々の携帯、さらには報道カメラなどの映像を組み合わせることによって、さまざまな画面を描き出すことに成功しています。
更にその両者の要因があわさって、最初は撮る立場だったアンドリューが、あるポイントから撮られる立場に転換するのです。それは、惨劇の発端ともなったタレントショーの場面でした。ステージに立つアンドリューを撮るために、カメラはマットにバトンタッチされるのですが、マットは普通なら常に撮られる立場にいたはずの少年です。事実、カメラを構えるマットを見て、同級生が「あなたがカメラを構えているなんて」と声をかけていくシーンがありました。そして、撮られる立場のマットがカメラを構えた瞬間から、物語はアンドリューの内面を離れ、マットの視点を通した第三者視点の物語に変遷していくのです。この辺りの演出は本当に見事だなぁ、と思いました。
わたしはこの映画を観て、『クリスティーン』を連想したのですが、「クリスティーン」というモンスター・カーが、自分を辱めた苛めっ子(っていうか、札付きのワル)に報復するというホラーな映画の中で、車オタクで苛められっ子の主人公・アーニーと、唯一アーニーにつきあってくれる優等生のデニスの関係が実に肌理細やかに描かれているのです。デニスもアーニーのこと学校まで送り迎えしてくれるしね。そしてアーニーに酷い惨劇が起こった後、物語を引き継ぐのがデニスであったあたりも、この映画との共通点を感じさせました。トータルの語り部はむしろ主人公ではなく、サブキャラに見えたデニスの方であった、という構図。
この映画のアンドリューとマットは従兄弟同士ですが、「異変」が起こるまでのふたりは、(送迎はしてくれていたけれど)さほど親しいという間柄ではなかった。そこには、自分のようなつまらない相手とつきあわなくても充実した学園生活を送っているマットに対するアンドリューからの気後れと、マットからは、変わり者のアンドリューを若干持て余す気持ちがあり、微妙にかみあっていなかった。もちろん、それでも普通につきあってくれているマットっていうのはやはり、相当性格のいいいい奴で、そんな従兄弟がいてくれたことは、アンドリューの寒々とした私生活を思うにつけ、幸運以外の何者でもないのですが。そして「異変」の後、特殊能力が進化していくにつれ、次第に自信をつけていくアンドリューは、マットとも(スティーブとも)気負いなく自然に、そして何よりも大事なことは「対等に」つきあうことができるようになっていく。このままいけば、幸せな学園生活が送れたはずだったのに。
些細なつまずきから坂を転げ落ちるように事態は悪い方へ雪崩落ちていく。
だけどそれは、青春という時間軸の中で見ると、決して些細なことではなかったのかもしれない。アンドリューは童貞喪失に失敗するのですね。スティーブの手腕によりスーパーパワーをショーアップしてみなにアピールすることに成功したアンドリューは、生まれて初めて女の子の注目を浴びることができた。かれのような男の子にとって、それは信じられないような素晴らしい展開だった。だけど土壇場になって、アンドリューはうまくやれなかった。セックスに限らず他の分野で成功体験をたくさんもった陽性の少年なら、虎視眈々と名誉挽回のチャンスを狙えたのかもしれないけれど、アンドリューにはそれはあまりにきつい体験だった。
落ち込み、荒れる日々。それだけならよかった。時間が解決してくれたはずだった。だけど我を失ったアンドリューは、心配して尋ねてきてくれたスティーブに「力」を使い、かれを死なせてしまった。あんなにいい奴だったのに。せっかくできた友達だったのに。
そこからアンドリューの暴走が始まってしまったのです。
アンドリューが堕していった犯罪は、一番最初は苛めっ子への報復という名の暴力でした。強大な力を持った今、アンドリューはもはや弱者ではない。かれは自らを生存競争の頂点に立つ捕食者と任ずるのです。戯れに蜘蛛を潰し、苛めっ子の歯を抜くその姿には、念動力を使って病床の母親にそっと寝返りをさせてやった優しい少年の面影はありません。
そしてアンドリューは(不甲斐ない父親に代わって)その母親の薬を手にいれるために、カツアゲ、強盗にまで手を染めてしまう、泣けてくるほど幼い、子どもっぽい、たどたどしいやり方で。
ストリートにたむろするチンピラから金をまきあげようとして、アンドリューは一応顔を隠すことを考えるのですが、その為に身につけたのが、かつて父親が使っていた消防士の制服だったのでした。今や呑んだくれて子どもに暴力を振るうクズのような父親は、かつては凛々しい消防士だった。もしかしたらアンドリューはそんな父の姿に憧れてすらいたのかもしれない。将来は父親のように世のためひとのためになる仕事をしたいと思っていたかもしれない。だけど今やどこにもそんな面影はない。消防士の制服は、忌々しい苦々しい思いがする。だけど、外の世界に戦いを挑む時、かれはそのコスチュームをチョイスしたのです。そしてそのチョイスが、強盗に失敗してガソリンスタンドを爆発炎上させてしまったとき、その高温の炎からかれの命を救うことになったという皮肉。その爆発で死んでしまっていたら、その後の惨劇はなかった。アンドリューはモンスターにならずに済んだ。だけど、かつてかれのヒーローだった父親の制服が、アンドリューを怪物に変えてしまった。その父親がかれに投げつけた、あまりにも残酷な台詞と共に。
来歴のわからない力は不気味です。よい方向へは働かないであろうことは予測がつく。でも、思いがけず手に入れたその力は、アンドリューだけでなく、マットにもスティーブにも、計り知れない解放感をもたらした。それはすばらしい体験だった。人生最高の、まさに夢のようなひと時だった。高速で空を駆け抜ける描写を白眉として、その高揚感があまりにも生き生きと描かれていたので、そのはじけるような喜びを、観客もまた共に体験することができたのです。そして何よりも、アンドリューは孤独ではなかった、少なくともその夢が続いている間は。
全く無名の新人、ジョシュ・トランク監督がわずか1200万ドルの製作費で撮った映画ながら、全米初登場1位のサプライズ・ヒットを記録。果たしていかなる映画なりや、と興味津々で劇場に足を運びました。面白かった! 映画界にまた新しい才能が現れた模様。ワクワクしますね☆
高校生のアンドリュー(デイン・デハーン)は、アル中で暴力的な父親と、重病を患い余命幾許もない母親との三人暮らし。不器用で内気で自己評価の低いアンドリューには友達もなく、唯一話ができるのは、車で送り迎えしてくれる親切な従兄弟のマット(アレックス・ラッセル)のみ。ある時、あまりにも引きこもりなアンドリューを見かねたマットの勧めで嫌々参加したパーティで、アンドリューはマットの友人スティーブ(マイケル・B・ジョーダン)に声をかけられる。政治家志望だというスティーブは校内選挙にも立候補するような明るく社交的な人気者。アンドリューはスティーブに誘われるままに、マットと共にパーティ会場の近くにあった洞窟探検に赴く。他愛ない遊びだったはずなのに、エイリアン由来の物なのか軍の秘密実験なのか、そこで見つけた奇妙な物体に触れた3人は、いつの間にか不思議な力を身に付けてしまっていた。
ごく普通の高校生がある日突然超能力が使えるようになったらどうなるか?
コメディにもバイオレンスアクションにもクライムサスペンスにも社会派の問題提起作にも、作り手の個性によって無数の解があるかと思いますが、ジョシュ・トランク監督はちょっとひねった青春譜を見せてくれました。ほろ苦く残酷で胸が痛い。しかもセンスあふれるアメージングな映像と共に。
この映画は、主人公アンドリューの撮影によるPOV方式の演出になっています。この形式の映画が大変苦手ですので、観始めてからPOVだということがわかった瞬間、この映画をチョイスしたことを後悔してしまいました。案の定、開始しばらくは大変見づらい画面が続くのですが、やがて次第にこの映画でPOVが採択されているのは、単に予算不足からくる画質の悪さや監督の経験不足からくる構図の未熟さを糊塗することだけが理由ではない(もちろん、そうした要因があったことも否めないと思うのですが)、というのがわかってきます。
まず心理描写やキャラクター描写という意味あいにおいて、孤独な主人公の少年が常にカメラを回している、ということに大きな意味があった。カメラはアンドリューが外界にコミットするための(ほとんど唯一の)手段でした。カメラを構えている限り、アンドリューはそこに居ながら世界と隔絶していられる。カメラはアンドリューを守る盾のようなものだったのです。
そして演出上のテクニックとして、物語が加速していくと共に、狭い画面と限りのある構図しか取り得なかったカメラは、次第に多角的な視点を持てるようになっていきます。ひとつにはアンドリューが身につけた念動力によってカメラを浮かせ、第三者的視点から、また人間の技ではありえないアングルから撮影することが可能になったこと。そして更に、事態が痛ましい方向に発展していった暁には、監視カメラやその場に居合わせた人々の携帯、さらには報道カメラなどの映像を組み合わせることによって、さまざまな画面を描き出すことに成功しています。
更にその両者の要因があわさって、最初は撮る立場だったアンドリューが、あるポイントから撮られる立場に転換するのです。それは、惨劇の発端ともなったタレントショーの場面でした。ステージに立つアンドリューを撮るために、カメラはマットにバトンタッチされるのですが、マットは普通なら常に撮られる立場にいたはずの少年です。事実、カメラを構えるマットを見て、同級生が「あなたがカメラを構えているなんて」と声をかけていくシーンがありました。そして、撮られる立場のマットがカメラを構えた瞬間から、物語はアンドリューの内面を離れ、マットの視点を通した第三者視点の物語に変遷していくのです。この辺りの演出は本当に見事だなぁ、と思いました。
わたしはこの映画を観て、『クリスティーン』を連想したのですが、「クリスティーン」というモンスター・カーが、自分を辱めた苛めっ子(っていうか、札付きのワル)に報復するというホラーな映画の中で、車オタクで苛められっ子の主人公・アーニーと、唯一アーニーにつきあってくれる優等生のデニスの関係が実に肌理細やかに描かれているのです。デニスもアーニーのこと学校まで送り迎えしてくれるしね。そしてアーニーに酷い惨劇が起こった後、物語を引き継ぐのがデニスであったあたりも、この映画との共通点を感じさせました。トータルの語り部はむしろ主人公ではなく、サブキャラに見えたデニスの方であった、という構図。
この映画のアンドリューとマットは従兄弟同士ですが、「異変」が起こるまでのふたりは、(送迎はしてくれていたけれど)さほど親しいという間柄ではなかった。そこには、自分のようなつまらない相手とつきあわなくても充実した学園生活を送っているマットに対するアンドリューからの気後れと、マットからは、変わり者のアンドリューを若干持て余す気持ちがあり、微妙にかみあっていなかった。もちろん、それでも普通につきあってくれているマットっていうのはやはり、相当性格のいいいい奴で、そんな従兄弟がいてくれたことは、アンドリューの寒々とした私生活を思うにつけ、幸運以外の何者でもないのですが。そして「異変」の後、特殊能力が進化していくにつれ、次第に自信をつけていくアンドリューは、マットとも(スティーブとも)気負いなく自然に、そして何よりも大事なことは「対等に」つきあうことができるようになっていく。このままいけば、幸せな学園生活が送れたはずだったのに。
些細なつまずきから坂を転げ落ちるように事態は悪い方へ雪崩落ちていく。
だけどそれは、青春という時間軸の中で見ると、決して些細なことではなかったのかもしれない。アンドリューは童貞喪失に失敗するのですね。スティーブの手腕によりスーパーパワーをショーアップしてみなにアピールすることに成功したアンドリューは、生まれて初めて女の子の注目を浴びることができた。かれのような男の子にとって、それは信じられないような素晴らしい展開だった。だけど土壇場になって、アンドリューはうまくやれなかった。セックスに限らず他の分野で成功体験をたくさんもった陽性の少年なら、虎視眈々と名誉挽回のチャンスを狙えたのかもしれないけれど、アンドリューにはそれはあまりにきつい体験だった。
落ち込み、荒れる日々。それだけならよかった。時間が解決してくれたはずだった。だけど我を失ったアンドリューは、心配して尋ねてきてくれたスティーブに「力」を使い、かれを死なせてしまった。あんなにいい奴だったのに。せっかくできた友達だったのに。
そこからアンドリューの暴走が始まってしまったのです。
アンドリューが堕していった犯罪は、一番最初は苛めっ子への報復という名の暴力でした。強大な力を持った今、アンドリューはもはや弱者ではない。かれは自らを生存競争の頂点に立つ捕食者と任ずるのです。戯れに蜘蛛を潰し、苛めっ子の歯を抜くその姿には、念動力を使って病床の母親にそっと寝返りをさせてやった優しい少年の面影はありません。
そしてアンドリューは(不甲斐ない父親に代わって)その母親の薬を手にいれるために、カツアゲ、強盗にまで手を染めてしまう、泣けてくるほど幼い、子どもっぽい、たどたどしいやり方で。
ストリートにたむろするチンピラから金をまきあげようとして、アンドリューは一応顔を隠すことを考えるのですが、その為に身につけたのが、かつて父親が使っていた消防士の制服だったのでした。今や呑んだくれて子どもに暴力を振るうクズのような父親は、かつては凛々しい消防士だった。もしかしたらアンドリューはそんな父の姿に憧れてすらいたのかもしれない。将来は父親のように世のためひとのためになる仕事をしたいと思っていたかもしれない。だけど今やどこにもそんな面影はない。消防士の制服は、忌々しい苦々しい思いがする。だけど、外の世界に戦いを挑む時、かれはそのコスチュームをチョイスしたのです。そしてそのチョイスが、強盗に失敗してガソリンスタンドを爆発炎上させてしまったとき、その高温の炎からかれの命を救うことになったという皮肉。その爆発で死んでしまっていたら、その後の惨劇はなかった。アンドリューはモンスターにならずに済んだ。だけど、かつてかれのヒーローだった父親の制服が、アンドリューを怪物に変えてしまった。その父親がかれに投げつけた、あまりにも残酷な台詞と共に。
来歴のわからない力は不気味です。よい方向へは働かないであろうことは予測がつく。でも、思いがけず手に入れたその力は、アンドリューだけでなく、マットにもスティーブにも、計り知れない解放感をもたらした。それはすばらしい体験だった。人生最高の、まさに夢のようなひと時だった。高速で空を駆け抜ける描写を白眉として、その高揚感があまりにも生き生きと描かれていたので、そのはじけるような喜びを、観客もまた共に体験することができたのです。そして何よりも、アンドリューは孤独ではなかった、少なくともその夢が続いている間は。
by shirakian
| 2013-10-22 21:34
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