2013年 08月 06日
終戦のエンペラー
|
★ネタバレ注意★
なぜかしら不思議なことに、観終って涙が止まらなかったのです。あら、アタシ、皇室ファンだったかしら、別に雅子さまのおっかけをしようと思った覚えもないのだけど、と我ながら不思議に思いました。
ピーター・ウェーバー監督の日米合作映画。
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を指揮したダグラス・マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)の命により、日本人の恋人を持つ親日派のフェラーズ准将(マシュー・フォックス)は、天皇の戦争責任の有無を調べることになったのだが、という物語。
戦後処理という問題については、GHQの占領政策という一面のみをとっても、恐らく膨大なドラマであり、107分という尺で語りきれるものではありませんが、この映画では「天皇の戦争責任」という一点に絞ってドラマを組み立てたことが成功の所以だと思います。テーマにブレがない、わかりやすい映画になりました。
昭和史に関するレクチャーとか、映画がどれほど史実に即しているかという検証とか、そういうことがわたしにできるわけないという以上に、そういったことは、この映画を観るに於いては、(思いきって乱暴な言い方をすれば)特に興味もありません。実際、主要人物のひとりとして登場するフェラーズ准将の恋人アヤ(初音映莉子)なども、架空の人物である由です。適確に主題を語るためのフィクションは許される。
そして更に乱暴な言い方をすれば、実際に天皇に戦争責任があったかどうかですら、この映画を観るに於いては、特に興味がありません。
だって映画の中でも言ってる。ほんとのほんとのところで天皇に戦争責任があったかどうかなんて、だれも語らないし、語るわけがないし、千年経ってもわかりっこないって。だったらそんなもの、107分の映画を観ただけの人間に、わかろうはずもありません。
フェラーズ准将の聴取に応じた近衛文麿(中村雅俊)が言った、帝国主義的侵略戦争はなにも日本の専売特許ってわけじゃなし、スペインやイギリスや何よりおたくらアメリカがとっくにやってたことだろう、しかも欧米列強が戦争責任をとったなんて話は聞いたこともない、われわれはアメリカのやり方に学んだだけだ、なんでわれわれだけ戦争責任を云々されなきゃならないんだ、という理屈などは、あまり心に響きません。こんなナイーブな理屈をこねられると、「やつはどうして首相を辞任したんだ?」「坊やだからさ」とでも言いたくなっちゃう。
そしてまた、(アヤの叔父である)鹿島大将(西田敏行)が同じくフェラーズに語った理屈、あのときわれわれは戦争熱みたいなものに駆り立てられた状態だった、だから戦場ではさんざん残酷な所業も行ってしまったが、それはそれとして、われわれ日本人には日本人だけが共有できる美しい心のありようがあるのだ、すばらしい忠誠心があるのだ、という理屈もまた、西田敏行のオーバーアクト気味な演技もあいまって、あまり心に響きません。
近衛にしても鹿島にしても、それはそうかもしれないけれど、そういうことじゃあないだろう、と思ってしまう。だったらどういうことなのか?
それは、関屋貞三郎(夏八木勲)が証言し、木戸幸一(伊武雅刀)が証言した事実、問題なのはこの戦争を始めたのがだれかということではなく、だれがこの戦争を終わらせたのかということだ、この戦争を終わらせたのは、まちがいなく、まぎれもなく、天皇なんですよ、という証言です。
近衛にしても鹿島にしても、かれらの理屈はやや空論に聞こえますが、関屋と木戸の証言は自らの目撃証言です。特に木戸の証言に至っては、英語がメインであり、日本人キャストの大部分もまた流暢に英語を操るこの映画で、ほとんど唯一、自国語による証言でした。その重みはやはり無視できない。
国の最高責任者であるとは言いながら、実際には天皇にはほとんど発言権はなく、軍部に暴走されてしまったら、止めることなど不可能だった、だから戦争は始まってしまったが、そんな天皇であってみても、いざこの戦争をやめさせるに於いては、かれの言葉はやはり重かった、陛下は命をかけて戦争をやめさせようとなさった、その気迫に、結局は一億国民もまた従わざるを得なかったのです。
大雑把に言えばそういう証言ですが、だったら逆に、そこまで言葉に重みがあるのであれば、やはり戦争が始まるときにもっと強く発言すべきだったであろうし、なによりその前に、国の最高責任者である以上、実際には発言権はなかった、などという弁解が許されようはずもない、やはり戦争責任は天皇にこそあったのだ、という理屈とも表裏一体です。そしてこの映画でも、天皇自身の口から、戦争責任は自分にこそある、どうか国民にそれを負わせることはしないでほしい、と言わせているのです。単純に戦争責任があったかなかったか、ということを言うのであれば、そのひとつでもって十分だと思う。
だったら天皇の戦争責任を問えばよかったのか? 天皇を吊るせばよかったのか?
答えは断じて否です。
この映画を観るに於いては、実際に天皇に戦争責任があったかどうかに興味はない、と言ったのはつまりそういうことです。天皇に戦争責任があろうとなかろうと、この局面で大切なことは、日本に無条件降伏を受け入れさせ、平和裏に占領政策を全うすることです。そうすることによって、日米両国共に、更なる膨大な被害者を出さないことです。粛々と占領政策が行われることは、アメリカにとってのみならず、日本にとっても大事なことだった。あのときあの場所で行われていたことは、アメリカも日本も、そのひとつの目標を見据え、そのために最大限に慎重に叡智の限りを尽くすことだったのです。
それはすなわち、国体の護持ということです。なんて言葉を使うと右翼の宣伝カーみたいですが、要するに「国のかたちを保つ」ということです。それは決して綺麗ごとじゃすまされない。指導者が持てる力の限りを尽くし、人知の及ぶ限界のところまで、調べ上げ考えぬき計算し尽くし、そして大胆に勇敢に行動しなければならない。そうしないと、国のかたちなんて保てない。ひとつの国がそのかたちを保っていられるということは、それだけ途方もない大事なのだということ。開戦や戦闘行為や戦に勝つということよりも、始まってしまった戦争を出来うる限り少ないダメージで終わらせ、平和を実現することこそが、実はシビアな真剣勝負であるのだということ。
そういう局面に、私利私欲を廃し保身に走らず、「正しいこと」を勇気をもって発言できるひとがいた、日本の最高責任者はそのようなひとだった、問題にすべきはまさにそのことであったかと思う。
思えばなんという試練を、この国は越えてきたことだろう。
国の舵取りをするひとたちが、判断を誤ったり、勇気が足りなかったり、叡智が欠けていたり、ほんのひとつ間違っていたら、日本なんて国はなくなっていたかもしれない。近未来ディザースターSFみたく、果てしなく続く戦闘行為の中で、荒廃した光景が広がっていたかもしれない。植民地になりはてて、貧困の中、子どもたちが英語で物乞いをしていたかもしれない。アフリカがいつまでも豊かになれないのはなぜなのか、つまりはそういうことです。観終って涙が止まらなかったのも当然です。
あのとき天皇は果たして何を思い、どういう気持ちでいらしたのだろう。
観終って涙が止まらなかったのも当然です。
なぜかしら不思議なことに、観終って涙が止まらなかったのです。あら、アタシ、皇室ファンだったかしら、別に雅子さまのおっかけをしようと思った覚えもないのだけど、と我ながら不思議に思いました。
ピーター・ウェーバー監督の日米合作映画。
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を指揮したダグラス・マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)の命により、日本人の恋人を持つ親日派のフェラーズ准将(マシュー・フォックス)は、天皇の戦争責任の有無を調べることになったのだが、という物語。
戦後処理という問題については、GHQの占領政策という一面のみをとっても、恐らく膨大なドラマであり、107分という尺で語りきれるものではありませんが、この映画では「天皇の戦争責任」という一点に絞ってドラマを組み立てたことが成功の所以だと思います。テーマにブレがない、わかりやすい映画になりました。
昭和史に関するレクチャーとか、映画がどれほど史実に即しているかという検証とか、そういうことがわたしにできるわけないという以上に、そういったことは、この映画を観るに於いては、(思いきって乱暴な言い方をすれば)特に興味もありません。実際、主要人物のひとりとして登場するフェラーズ准将の恋人アヤ(初音映莉子)なども、架空の人物である由です。適確に主題を語るためのフィクションは許される。
そして更に乱暴な言い方をすれば、実際に天皇に戦争責任があったかどうかですら、この映画を観るに於いては、特に興味がありません。
だって映画の中でも言ってる。ほんとのほんとのところで天皇に戦争責任があったかどうかなんて、だれも語らないし、語るわけがないし、千年経ってもわかりっこないって。だったらそんなもの、107分の映画を観ただけの人間に、わかろうはずもありません。
フェラーズ准将の聴取に応じた近衛文麿(中村雅俊)が言った、帝国主義的侵略戦争はなにも日本の専売特許ってわけじゃなし、スペインやイギリスや何よりおたくらアメリカがとっくにやってたことだろう、しかも欧米列強が戦争責任をとったなんて話は聞いたこともない、われわれはアメリカのやり方に学んだだけだ、なんでわれわれだけ戦争責任を云々されなきゃならないんだ、という理屈などは、あまり心に響きません。こんなナイーブな理屈をこねられると、「やつはどうして首相を辞任したんだ?」「坊やだからさ」とでも言いたくなっちゃう。
そしてまた、(アヤの叔父である)鹿島大将(西田敏行)が同じくフェラーズに語った理屈、あのときわれわれは戦争熱みたいなものに駆り立てられた状態だった、だから戦場ではさんざん残酷な所業も行ってしまったが、それはそれとして、われわれ日本人には日本人だけが共有できる美しい心のありようがあるのだ、すばらしい忠誠心があるのだ、という理屈もまた、西田敏行のオーバーアクト気味な演技もあいまって、あまり心に響きません。
近衛にしても鹿島にしても、それはそうかもしれないけれど、そういうことじゃあないだろう、と思ってしまう。だったらどういうことなのか?
それは、関屋貞三郎(夏八木勲)が証言し、木戸幸一(伊武雅刀)が証言した事実、問題なのはこの戦争を始めたのがだれかということではなく、だれがこの戦争を終わらせたのかということだ、この戦争を終わらせたのは、まちがいなく、まぎれもなく、天皇なんですよ、という証言です。
近衛にしても鹿島にしても、かれらの理屈はやや空論に聞こえますが、関屋と木戸の証言は自らの目撃証言です。特に木戸の証言に至っては、英語がメインであり、日本人キャストの大部分もまた流暢に英語を操るこの映画で、ほとんど唯一、自国語による証言でした。その重みはやはり無視できない。
国の最高責任者であるとは言いながら、実際には天皇にはほとんど発言権はなく、軍部に暴走されてしまったら、止めることなど不可能だった、だから戦争は始まってしまったが、そんな天皇であってみても、いざこの戦争をやめさせるに於いては、かれの言葉はやはり重かった、陛下は命をかけて戦争をやめさせようとなさった、その気迫に、結局は一億国民もまた従わざるを得なかったのです。
大雑把に言えばそういう証言ですが、だったら逆に、そこまで言葉に重みがあるのであれば、やはり戦争が始まるときにもっと強く発言すべきだったであろうし、なによりその前に、国の最高責任者である以上、実際には発言権はなかった、などという弁解が許されようはずもない、やはり戦争責任は天皇にこそあったのだ、という理屈とも表裏一体です。そしてこの映画でも、天皇自身の口から、戦争責任は自分にこそある、どうか国民にそれを負わせることはしないでほしい、と言わせているのです。単純に戦争責任があったかなかったか、ということを言うのであれば、そのひとつでもって十分だと思う。
だったら天皇の戦争責任を問えばよかったのか? 天皇を吊るせばよかったのか?
答えは断じて否です。
この映画を観るに於いては、実際に天皇に戦争責任があったかどうかに興味はない、と言ったのはつまりそういうことです。天皇に戦争責任があろうとなかろうと、この局面で大切なことは、日本に無条件降伏を受け入れさせ、平和裏に占領政策を全うすることです。そうすることによって、日米両国共に、更なる膨大な被害者を出さないことです。粛々と占領政策が行われることは、アメリカにとってのみならず、日本にとっても大事なことだった。あのときあの場所で行われていたことは、アメリカも日本も、そのひとつの目標を見据え、そのために最大限に慎重に叡智の限りを尽くすことだったのです。
それはすなわち、国体の護持ということです。なんて言葉を使うと右翼の宣伝カーみたいですが、要するに「国のかたちを保つ」ということです。それは決して綺麗ごとじゃすまされない。指導者が持てる力の限りを尽くし、人知の及ぶ限界のところまで、調べ上げ考えぬき計算し尽くし、そして大胆に勇敢に行動しなければならない。そうしないと、国のかたちなんて保てない。ひとつの国がそのかたちを保っていられるということは、それだけ途方もない大事なのだということ。開戦や戦闘行為や戦に勝つということよりも、始まってしまった戦争を出来うる限り少ないダメージで終わらせ、平和を実現することこそが、実はシビアな真剣勝負であるのだということ。
そういう局面に、私利私欲を廃し保身に走らず、「正しいこと」を勇気をもって発言できるひとがいた、日本の最高責任者はそのようなひとだった、問題にすべきはまさにそのことであったかと思う。
思えばなんという試練を、この国は越えてきたことだろう。
国の舵取りをするひとたちが、判断を誤ったり、勇気が足りなかったり、叡智が欠けていたり、ほんのひとつ間違っていたら、日本なんて国はなくなっていたかもしれない。近未来ディザースターSFみたく、果てしなく続く戦闘行為の中で、荒廃した光景が広がっていたかもしれない。植民地になりはてて、貧困の中、子どもたちが英語で物乞いをしていたかもしれない。アフリカがいつまでも豊かになれないのはなぜなのか、つまりはそういうことです。観終って涙が止まらなかったのも当然です。
あのとき天皇は果たして何を思い、どういう気持ちでいらしたのだろう。
観終って涙が止まらなかったのも当然です。
by shirakian
| 2013-08-06 19:26
| 映画さ行