2013年 06月 29日
魔女と呼ばれた少女
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★ネタバレ注意★
ベトナム系カナダ人キム・グエン監督によるカナダ映画です。
主演のラシェル・ムワンザはベルリン国際映画祭で女優賞を受賞しました。
劇中、さだかに明かされてはいないのですが、舞台となっているのはアフリカのコンゴ民主共和国です。12歳の少女コモナ(ラシェル・ムワンザ)は、住んでいた村が反政府軍の襲撃を受け、兵士として拉致されてしまいます。拉致に際し、反政府軍は幼い兵士予備軍に故郷との絆を断たせ、絶対服従を叩きこむために、自らの手で両親を銃殺することを強要します。コモナもその悪夢から逃れることができませんでした。やがて兵士となったコモナの前に、自ら手にかけた両親を初めとした大勢の亡霊たちが姿を現わすようになります。その亡霊に導かれるかのように危地を脱するコモナは、「魔女」と崇められるようになるのですが……。
というストーリー。
まずは舞台となったコンゴ民主共和国(旧ザイール)について、ものっそ大雑把にまとめてみたいと思います。コンゴ民主共和国は中部アフリカに位置する共和制国家で、首都はキンシャサ。アフリカ大陸では第2位、世界全体でも第11位の面積を擁する広大な国です。大変雨の多い地域で、アマゾンに次ぐ広さの熱帯雨林を有し、大西洋に注ぐ長大なコンゴ川流域は、広大なコンゴ盆地を形成する一方、東部には氷河で覆われる高山もあります。本来地下資源に恵まれた国ですが、長く続く内乱の結果、経済は壊滅状態となっており、世界最貧国の一つです。
19世紀末、ベルギー国王・レオポルト2世が「私有地」として支配し、現地住民に象牙やゴムの採集を強制し、規定量に到達できないと手足を切断するなど非道の限りを尽くした話は有名ですが、その圧政のあまりの酷さに、当初植民地経営には全く関心がなかったベルギー政府も、国際社会の手前、動かざるを得なくなり、1908年にコンゴはベルギー政府によって正式に植民地となったものの、やがて定石通り、長く辛い独立運動を経て、1960年には独立してコンゴ共和国が成立します。
しかし、独立後すぐ軍事介入してきたベルギーを相手に、コンゴ動乱と呼ばれる紛争が勃発し、1965年、時の貿易相であったモブツがクーデターで実権を掌握するまで続きました。ところが、モブツ大統領もまたえげつない独裁政治を行ったため、1997年、現カビラ大統領の父親であるローラン・カビラAFDL議長によって倒されることになります。ところがまたしかし、新たに大統領に就任したカビラ(父)もまた、モブツ同様強権支配体制を敷いたため、この国は内戦の混乱を抜け出すことができなかったのです。
2001年、ローラン・カビラ大統領はついに暗殺され、長男のジョゼフ・カビラが大統領に就任しますが、その後も戦争状態は続きます。2003年には近隣諸国の仲介もあり、合意に基づいた暫定政府が正式に発足し、コンゴ紛争は一応の終結を見たこととされていますが、実際には戦争状態は終わらず、特に東部一帯は虐殺や略奪、レイプが頻発する無法地帯となってしまいました。
独裁制への反発に加えて、民族問題、石油採掘問題などが絡み、泥沼の紛争が終わらぬこの国で、その長い紛争の間、累計90万から540万もの人命が失われたと言います。しかもその半数は5歳以下の子どもでした。そしてこの国では、毎年40万人以上の女性がレイプされていると言われています。
映画は、公開年である2012年の少し前に撮影されたと思われますが、当時(今も?)この国では、毎月45000人とも言われる人命が失われており、そんな中、撮影はコンゴ国内で行われたのです。それはやはり驚くべきことと言わねばなりません。
しかしそうでありながら、この映画では、実際の国内問題や政治状況が描かれることはありません。反政府軍と言いながら、政権のどのような非道行為に対するどのような反対闘争なのかも全くわからない。主人公の少女を痛めつける反政府勢力は野蛮な存在として描かれてはいますが、かと言ってかれらを糾弾し、現政権を擁護するものでもない。とにかく、政治的イデオロギーとは一切無縁なのです。
主人公が少女であること、少女が幻覚を見ること、幻覚を見る少女は、現実に定かにコミットすることなく、常に夢見るかのような無感覚に身を置いていること、などから、この映画はリリカルと称され、幻想的と称され、ファンタジーとすら言われているようですが、とんでもない。この無感覚こそが、戦争というものに対峙した少女のリアルに他ならないのだと思います。親殺しを強いられたとき、恐らくコモナの心もまた死んでしまったのでしょう。激しい戦闘のさなかにあっても、常に虚ろだったコモナの目は、あの世からこの世を見下ろすものだったのかもしれません。だからいつも、亡霊たちはコモナと共にいたのです。だと思えば、政治的イデオロギーが一切描かれないのも当然のこと。そんなもの少女のリアルには何の関係もありはしない。
一見ファンタジックに見えるこの話が、むきだしの「リアル」な物語にほかならないと断じる傍証として、コモナを拉致した反政府軍の頭、グレート・タイガー(ミジンガ・ムウィンガ)のアジトの描写があります。ジャングルの果てに忽然と現れる巨大な廃墟。あたかも中国の天壇を思わせる、場違いにもほどがあるグロテスクな建物。ファンタジックと言うならこれほどファンタジックなロケーションもないです。だけど、果たしてこの建物は何なのか?
実はこの廃墟は、30年以上にわたり国民を苦しめ続けた独裁者、モブツ元大統領の宮殿跡なのです。
一見幻想的にすら見える薄闇に浮かび上がるコモナの亡霊たちが、精神的にも肉体的にも徹底的に傷つけられた少女の、感覚麻痺の結果であったのと同様、一見魅惑的にすら見える奇抜な建物は、国民に長い苦痛の日々を強いた独裁者の住処の跡だった。
同様の皮肉は、ふんだんに描写されているこの国の「豊かさ」からも感じ取ることができます。もちろん、コンゴ民主共和国が世界最貧国の一つであることはまぎれもない事実なわけですが、それでもこの国は、さきにも述べたように温暖な気候と豊富な水がある。普通想像される「アフリカの貧困」は、常に旱魃と結びついています。干からびた大地は、確かに命を育むことができない。水がなければ植物は死んでいく。動物は死んでいく。ひともまたバタバタと死んでいく。そう思う前提があるので、莫大な地下資源のことは言わぬにしても、太陽と水の恵みさえあれば「豊かさ」は約束されていると思われる。
事実、映画で描写される村の人々の暮らしは、もちろん、自家用機を持ち別荘を持ちブランド品で着飾る、といった「豊かさ」とは次元がちがいますが、それなりに豊かなものとして描かれていたと思うのです。
その村は、コモナを連れて反政府軍から脱走してくれたアルビノの少年、マジシャン(セルジュ・カニアンダ)の故郷でした。内戦のさなかにありながら、村では淡々と日常の生活が営まれています。たくさん生えている椰子の木から椰子油を絞り、豊富な水で洗濯をし、身体を清潔に洗い、縦横に通じる水路を使ってカヌーで移動する。バナナに包んで蒸し焼きにしたホカホカのキャッサバ。肉屋がさばく肉。村での暮らしは、マジシャンとコモナのかわいらしい交情とあいまって、とても温かい愛すべきシーンとして描かれているのです。
本来この国は、ひとびとが「豊かに」生きていけるはずの土地なのです。なのに、ひとびとは長い長い悪夢の中にいる。逃げてきたマジシャンとコモナを、何も言わず受け入れてくれた肉屋を営むマジシャンの叔父さん(ラルフ・プロスペール)は、肉をさばくたびに嘔吐せずにはいられない。自分の家族の身に起きたおぞましい出来事を思い出すから。優しい心を持った善良なひとが深く傷付いて暮らしている。戦争が続いているからです。一体何のためなのか?
作劇上、戦争の理非曲直については全く言及されていない、ということもありますが、それ以前に、実際に戦っている当事者である若者たちが、何のために虚しい殺しあいが続いているのかを理解していない、ということがやりきれなさに拍車をかけています。末端の少年兵だけでなく、一応の指導者である男たちにしてからがそうです。目先の戦いを戦うことしか考えられない。戦いのそのさきにあるビジョンを描くことができない。未来なんか想像することすらもできない。戦って戦いに勝って勝ったその後具体的に何をどうすればいいのか、まるでわかっていない。
教育が、足りない。圧倒的に、足りない。
たとえばマジシャンがただのゴロツキなら、観客はここまで虚しくなることもないのです。だけど実際この少年は、戦場では勇敢に戦い、直面する様々な問題から逃げずに解決しようとするガッツと知性を持ち、他人には敬意を持ってむきあう、上等な魂の人間なのです。もしこの少年にきちんとした教育をうけさせることができていたら? 政権をとってもばかげた独裁者にしかなれない男たちではなく、たとえばこのマジシャンのような少年に、国のかたちを考えさせることができたら?
いやもう、そんな大それたことは言わず、ただこの心優しい少年が、コモナと添い遂げられてさえいたら。ただでさえ、男性性の中にある最悪の暴力的な部分を少女の視点から眺めるという物語なのに、このマジシャンはコモナを決して暴力で意のままにしようとはしないのです。あくまで相手を尊重し、慈しみ、大切に扱おうとする。外の世界はこんななのに。なのにかれはあんな風であれる。それは、コモナにとっても観客にとってもほとんど僥倖のようなものでした。そしてやっぱり、奇跡なんか起こりはしなかったのだけれども。
それでもコモナは「生きる」選択をします。
生きる道を選ぶために、とてつもない苦痛を通り抜けねばならなかったにもかかわらず。彼女のこの再生を安易に希望と言うべきか。そもそも彼女は(この国は)何ゆえにかくも傷付かねばならなかったのか。
ベトナム系カナダ人キム・グエン監督によるカナダ映画です。
主演のラシェル・ムワンザはベルリン国際映画祭で女優賞を受賞しました。
劇中、さだかに明かされてはいないのですが、舞台となっているのはアフリカのコンゴ民主共和国です。12歳の少女コモナ(ラシェル・ムワンザ)は、住んでいた村が反政府軍の襲撃を受け、兵士として拉致されてしまいます。拉致に際し、反政府軍は幼い兵士予備軍に故郷との絆を断たせ、絶対服従を叩きこむために、自らの手で両親を銃殺することを強要します。コモナもその悪夢から逃れることができませんでした。やがて兵士となったコモナの前に、自ら手にかけた両親を初めとした大勢の亡霊たちが姿を現わすようになります。その亡霊に導かれるかのように危地を脱するコモナは、「魔女」と崇められるようになるのですが……。
というストーリー。
まずは舞台となったコンゴ民主共和国(旧ザイール)について、ものっそ大雑把にまとめてみたいと思います。コンゴ民主共和国は中部アフリカに位置する共和制国家で、首都はキンシャサ。アフリカ大陸では第2位、世界全体でも第11位の面積を擁する広大な国です。大変雨の多い地域で、アマゾンに次ぐ広さの熱帯雨林を有し、大西洋に注ぐ長大なコンゴ川流域は、広大なコンゴ盆地を形成する一方、東部には氷河で覆われる高山もあります。本来地下資源に恵まれた国ですが、長く続く内乱の結果、経済は壊滅状態となっており、世界最貧国の一つです。
19世紀末、ベルギー国王・レオポルト2世が「私有地」として支配し、現地住民に象牙やゴムの採集を強制し、規定量に到達できないと手足を切断するなど非道の限りを尽くした話は有名ですが、その圧政のあまりの酷さに、当初植民地経営には全く関心がなかったベルギー政府も、国際社会の手前、動かざるを得なくなり、1908年にコンゴはベルギー政府によって正式に植民地となったものの、やがて定石通り、長く辛い独立運動を経て、1960年には独立してコンゴ共和国が成立します。
しかし、独立後すぐ軍事介入してきたベルギーを相手に、コンゴ動乱と呼ばれる紛争が勃発し、1965年、時の貿易相であったモブツがクーデターで実権を掌握するまで続きました。ところが、モブツ大統領もまたえげつない独裁政治を行ったため、1997年、現カビラ大統領の父親であるローラン・カビラAFDL議長によって倒されることになります。ところがまたしかし、新たに大統領に就任したカビラ(父)もまた、モブツ同様強権支配体制を敷いたため、この国は内戦の混乱を抜け出すことができなかったのです。
2001年、ローラン・カビラ大統領はついに暗殺され、長男のジョゼフ・カビラが大統領に就任しますが、その後も戦争状態は続きます。2003年には近隣諸国の仲介もあり、合意に基づいた暫定政府が正式に発足し、コンゴ紛争は一応の終結を見たこととされていますが、実際には戦争状態は終わらず、特に東部一帯は虐殺や略奪、レイプが頻発する無法地帯となってしまいました。
独裁制への反発に加えて、民族問題、石油採掘問題などが絡み、泥沼の紛争が終わらぬこの国で、その長い紛争の間、累計90万から540万もの人命が失われたと言います。しかもその半数は5歳以下の子どもでした。そしてこの国では、毎年40万人以上の女性がレイプされていると言われています。
映画は、公開年である2012年の少し前に撮影されたと思われますが、当時(今も?)この国では、毎月45000人とも言われる人命が失われており、そんな中、撮影はコンゴ国内で行われたのです。それはやはり驚くべきことと言わねばなりません。
しかしそうでありながら、この映画では、実際の国内問題や政治状況が描かれることはありません。反政府軍と言いながら、政権のどのような非道行為に対するどのような反対闘争なのかも全くわからない。主人公の少女を痛めつける反政府勢力は野蛮な存在として描かれてはいますが、かと言ってかれらを糾弾し、現政権を擁護するものでもない。とにかく、政治的イデオロギーとは一切無縁なのです。
主人公が少女であること、少女が幻覚を見ること、幻覚を見る少女は、現実に定かにコミットすることなく、常に夢見るかのような無感覚に身を置いていること、などから、この映画はリリカルと称され、幻想的と称され、ファンタジーとすら言われているようですが、とんでもない。この無感覚こそが、戦争というものに対峙した少女のリアルに他ならないのだと思います。親殺しを強いられたとき、恐らくコモナの心もまた死んでしまったのでしょう。激しい戦闘のさなかにあっても、常に虚ろだったコモナの目は、あの世からこの世を見下ろすものだったのかもしれません。だからいつも、亡霊たちはコモナと共にいたのです。だと思えば、政治的イデオロギーが一切描かれないのも当然のこと。そんなもの少女のリアルには何の関係もありはしない。
一見ファンタジックに見えるこの話が、むきだしの「リアル」な物語にほかならないと断じる傍証として、コモナを拉致した反政府軍の頭、グレート・タイガー(ミジンガ・ムウィンガ)のアジトの描写があります。ジャングルの果てに忽然と現れる巨大な廃墟。あたかも中国の天壇を思わせる、場違いにもほどがあるグロテスクな建物。ファンタジックと言うならこれほどファンタジックなロケーションもないです。だけど、果たしてこの建物は何なのか?
実はこの廃墟は、30年以上にわたり国民を苦しめ続けた独裁者、モブツ元大統領の宮殿跡なのです。
一見幻想的にすら見える薄闇に浮かび上がるコモナの亡霊たちが、精神的にも肉体的にも徹底的に傷つけられた少女の、感覚麻痺の結果であったのと同様、一見魅惑的にすら見える奇抜な建物は、国民に長い苦痛の日々を強いた独裁者の住処の跡だった。
同様の皮肉は、ふんだんに描写されているこの国の「豊かさ」からも感じ取ることができます。もちろん、コンゴ民主共和国が世界最貧国の一つであることはまぎれもない事実なわけですが、それでもこの国は、さきにも述べたように温暖な気候と豊富な水がある。普通想像される「アフリカの貧困」は、常に旱魃と結びついています。干からびた大地は、確かに命を育むことができない。水がなければ植物は死んでいく。動物は死んでいく。ひともまたバタバタと死んでいく。そう思う前提があるので、莫大な地下資源のことは言わぬにしても、太陽と水の恵みさえあれば「豊かさ」は約束されていると思われる。
事実、映画で描写される村の人々の暮らしは、もちろん、自家用機を持ち別荘を持ちブランド品で着飾る、といった「豊かさ」とは次元がちがいますが、それなりに豊かなものとして描かれていたと思うのです。
その村は、コモナを連れて反政府軍から脱走してくれたアルビノの少年、マジシャン(セルジュ・カニアンダ)の故郷でした。内戦のさなかにありながら、村では淡々と日常の生活が営まれています。たくさん生えている椰子の木から椰子油を絞り、豊富な水で洗濯をし、身体を清潔に洗い、縦横に通じる水路を使ってカヌーで移動する。バナナに包んで蒸し焼きにしたホカホカのキャッサバ。肉屋がさばく肉。村での暮らしは、マジシャンとコモナのかわいらしい交情とあいまって、とても温かい愛すべきシーンとして描かれているのです。
本来この国は、ひとびとが「豊かに」生きていけるはずの土地なのです。なのに、ひとびとは長い長い悪夢の中にいる。逃げてきたマジシャンとコモナを、何も言わず受け入れてくれた肉屋を営むマジシャンの叔父さん(ラルフ・プロスペール)は、肉をさばくたびに嘔吐せずにはいられない。自分の家族の身に起きたおぞましい出来事を思い出すから。優しい心を持った善良なひとが深く傷付いて暮らしている。戦争が続いているからです。一体何のためなのか?
作劇上、戦争の理非曲直については全く言及されていない、ということもありますが、それ以前に、実際に戦っている当事者である若者たちが、何のために虚しい殺しあいが続いているのかを理解していない、ということがやりきれなさに拍車をかけています。末端の少年兵だけでなく、一応の指導者である男たちにしてからがそうです。目先の戦いを戦うことしか考えられない。戦いのそのさきにあるビジョンを描くことができない。未来なんか想像することすらもできない。戦って戦いに勝って勝ったその後具体的に何をどうすればいいのか、まるでわかっていない。
教育が、足りない。圧倒的に、足りない。
たとえばマジシャンがただのゴロツキなら、観客はここまで虚しくなることもないのです。だけど実際この少年は、戦場では勇敢に戦い、直面する様々な問題から逃げずに解決しようとするガッツと知性を持ち、他人には敬意を持ってむきあう、上等な魂の人間なのです。もしこの少年にきちんとした教育をうけさせることができていたら? 政権をとってもばかげた独裁者にしかなれない男たちではなく、たとえばこのマジシャンのような少年に、国のかたちを考えさせることができたら?
いやもう、そんな大それたことは言わず、ただこの心優しい少年が、コモナと添い遂げられてさえいたら。ただでさえ、男性性の中にある最悪の暴力的な部分を少女の視点から眺めるという物語なのに、このマジシャンはコモナを決して暴力で意のままにしようとはしないのです。あくまで相手を尊重し、慈しみ、大切に扱おうとする。外の世界はこんななのに。なのにかれはあんな風であれる。それは、コモナにとっても観客にとってもほとんど僥倖のようなものでした。そしてやっぱり、奇跡なんか起こりはしなかったのだけれども。
それでもコモナは「生きる」選択をします。
生きる道を選ぶために、とてつもない苦痛を通り抜けねばならなかったにもかかわらず。彼女のこの再生を安易に希望と言うべきか。そもそも彼女は(この国は)何ゆえにかくも傷付かねばならなかったのか。
by shirakian
| 2013-06-29 20:55
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