2013年 04月 11日
キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け
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★ネタバレ注意★
ニコラス・ジャレッキー監督、 リチャード・ギア主演のサスペンス。
リチャード・ギア、随分久しぶりな気がするけど、2010年に『クロッシング』で会ってるので、それほど久しぶりでもない模様。今回は老いを意識する60代の役だけど、このひとってずっと若い頃から白髪(銀髪?)だったので、そんなにひどく老け込んでは見えなかったです。あんまり外見が変わらないタイプ?
原題の “Arbitrage” っていうのは、ヘッジファンドの採用する投資戦略のひとつで、日本語で言うと「裁定取引」とかいう訳語になるようです。確かにそのまんまじゃ使いにくいタイトルではあるけど、この場合、ヘッジファンドの戦略の中でも、敢えてアービトラージを選んだ、ということにやはり意味があるわけなので、安易に無関係な邦題をつけてしまうのはどうかと思う。
ヘッジファンドで巨万の富を築いたロバート・ミラー(リチャード・ギア)。美しい妻のエレン(スーザン・サランドン)と、右腕となってバリバリ働いてくれる有能な娘のブルック(ブリット・マーリング)に恵まれ、順風満帆な日々に見えたが、実際は投資の失敗で会社は破綻寸前、詐欺まがいの(っていうか、完全に詐欺だよね)粉飾決済で会社を売り逃げすべく危うい綱渡りの最中だった。しかし、それにも関わらず、愛人との密会を繰り返し、デートの途中、自損事故を起こして彼女を死なせてしまう。
結局、よくある話。己の成功に驕り高ぶっていたスーパーリッチな男が、些細なひび割れにつまづいて抜き差しならない情況に陥る系。そんなよくある物語の、この作品ならではの特色ということで注目されるのがアービトラージという概念。この話のキモは、主人公がビジネス以外の局面においても結局常にアービトラージ的やり方で問題を解決しようとしてきた、ということなんだと思う。
アービトラージというのは、さまざまな市場や現物や先物などの相互の金利及び価格の差を利用して利鞘を稼ぐ取引のことらしいので、つまりは、あらかじめ格差があることを前提としてなりたっている取り引きということになる。
格差。主人公は本来イーヴンであるべき個人対個人の関係についても、常に格差を利用してきた。あるいはそこに利用できる格差が存在すると、もはや無意識のレベルで信じこんでいた。
まず骨幹をなすのが主人公ロバートと若くて貧しい黒人の青年ジミー(ネイト・パーカー)との関係。
愛人を事故で死なせてしまったロバートは、車が愛人のものであったのをいいことに、その場をばっくれることにしちゃうわけですが、事故現場から逃走する際、電話でジミーを呼び出し、車で送らせるのです。それが後々、警察に目をつけられるきっかけとなる。
ここで注目したいのが、ロバートには優秀な娘のほかに、もうひとり子どもがいたということです。そちらは息子。だけどボンクラ。姉(妹?)同様父の会社で働いてはいるものの、父の信頼厚い姉とはうってかわって、父親の指示がなければ靴紐も結べない男。それにもかかわらず、息子はロバートの血縁であり、なにより家族ではあるわけです。だけど、逃走用の車が必要になったとき、ロバートは息子ではなく赤の他人のジミーに電話をかけた。
後に事態が深刻化した際、ロバートの弁護士が、どうして家族の運命をジミーなんかに託すことにしたのか、と訝るのに対し、ロバートは、「かれは我々とはちがう」と答えています。「我々とはちがう」。さてそれはどういう意味なのか。
ロバートとジミーとの関係は、ジミーの父親がかつてロバートに雇用されていた際に恩義をうけたことがあり、ジミーとしてはロバートに何か頼まれれば断りにくい立場にある。そんなジミーに対しロバートは、事故の顛末や自分の情況(会社の売却が成立し詐欺行為を誤魔化せるかどうかの瀬戸際であり、刑事事件になど絶対に関われるわけがない)などについて一切説明することなく、おまえは言われたことを言われた通りにやればいいんだと、(事故後の興奮や苛立ちも手伝って)極めて高圧的な態度をとります。
これが「我々とはちがう」ということなのか?
「我々」よりレベルが下の人間は唯々諾々と命令に従っていればいいのだと?
そうであるのなら、単にロバートはどうしようもなく傲慢な男、というだけの話なのだけど、問題は単にそういうことではないようです。確かにロバートは事故が起こったとき、「格差」に乗じてジミーを利用しようとしましたが、捜査にあたったブライヤー刑事(ティム・ロスだよ!)の執念(かれは金持ちが大嫌い。事故に大金持ちのロバートがからんでいることを嗅ぎ取り、異様にはりきる)により、ジミーが実刑判決を受けそうになると、必死でこれを回避しようとする。もちろんそれは自己保身が第一の動機ではあったとしても、それでもジミーを守ろうとしたロバートの態度はそれなりに真摯なものがあった。
結局、ブライヤーの勇み足(かれは証拠を捏造してしまった)により、ジミーは起訴を免れるのだけど、そこに到るまでの間も、ロバートはジミーに対して、行き過ぎた態度をとるごとに謝罪を繰り返しているし、いよいよダメかもしれない、という時には自首すら考えたのです。格差があるからこそ成立する取り引きでも、取り引きを成立させるためにはその格差に対する調整が必要になる。ビジネスであれば当然の前提条件でも、「普通の人間関係」に於いてはそんな考え方は異様な印象を受ける。それでもロバートにとっては、人間関係もまたそのように対処すべきものだったのかもしれない。そして、かれとジミーとの「取り引き」は、(ジミー側が負った精神的苦痛をロバート側が負担した金銭的損失でチャラにできるとしたら)概ね成功裏に終わったと言えます。
「格差」が描かれるのがそこだけなら、これまたよくある貧しい黒人青年とリッチな白人男との図式にしか過ぎないのだけれど、この話で面白いのはさらにその先があること。
まず娘のブルックとの関係。
ブルックはロバートの娘であり、ロバートの会社で働いてはいるけれど、成人した女性であり、己の才覚で仕事をこなすことができる優れた人材です。彼女の認識としては自分はロバートのパートナーだったのです。ところがロバートは、粉飾決算詐欺をするにあたり、これをブルックには隠蔽しようとした。ブルックを守ろうとした、というのがかれの言い分ですが(詐欺行為そのものに対する言い分もまた、従業員や投資家およびその家族という大勢の人々を守るため、でした)、カッとなったとき、かれの口から本音が飛び出す。
おまえはパートナーなんかじゃない、従業員だ!
ロバートはブルックと自分との間にも格差を意識していた。ブルックは家長に対する娘(という格下の存在)であり経営者に対する従業員(という格下の存在)であった。そしてその格差を利用して彼女から忠誠やハードワークといった「利鞘」を得ていた。
結局ブルックは「愛情」というアービトラージの概念では計り得ないファクターでもって、ロバートの犯罪に気づきながら糾弾することをせず、ロバートのもとを去ることもなかったのですが(それはもちろん彼女自身の保身という意味もある)、彼女の心には修復不能の不信感と失望が刻まれました。ブルックに対するロバートの「取り引き」は、少なくとも彼女の沈黙を得ることができ、五分五分だったのかもしれません。
そして更に取り引きには伏兵が潜んでいた。妻のエレンです。
ロバートとエレンはその昔、たった3ドルでお腹いっぱい食べられる店でデートを楽しむつつましいカップルでした。そしてロバートの成功により、エレンは何一つ不自由のない専業主婦となった。身の回りは贅沢三昧、慈善事業で自尊心を満たす、金持ちの妻。ふたりの子どもを生み育ててくれた上に、パーティの席には美しく着飾って同伴してくれるわ、気の利いた会話で場をなごませてくれるわ、社会的信用を得るための伴侶としては申し分がない。仕事のことには一切口を出さず、それ以前に何もわかりはしない。隠れて愛人とつきあっても、妻のベッドを抜け出して愛人のベッドに転がり込んでも気づきもしない。自分より愚かで働きのない専業主婦である女。そこにもロバートは格差を見ていた。その格差を利用して、「安定した家庭」という利鞘を得ていた。
ところが、ですよね。なにしろエレンを演じているのは何と言ってもスーザン・サランドン。おばかさんなお金持ちの奥さんなんて似合わない。エレンは何も知らず、何もわからなかったのではなく、何もかも知っていて全てを理解していたけれど、家庭を守るために知らないふりをしていただけ。
しかしそんなエレンでもさすがに黙っていられないことがおこった。ロバートの「殺人容疑」なんかじゃない。ロバートが仕事上の背任を隠し、ブルックを裏切り、傷つけたことです。ブルックはロバートの娘ですが、エレンにとってももちろん娘だった。だれよりも愛しいかわいい娘だった。いくら夫であろうとも、娘を傷つける存在を母親として許せるはずがなかったのです。
「愛情」というアービトラージの概念では計り得ないファクターは、ブルックには告発を思い留まらせましたが、エレンには攻撃のための原動力となった。ロバートは全く眼中になかった敵によって思わぬ反撃を受けることになったのです。エレンとの「取り引き」は、完膚亡きまでにロバートの敗北でした。
己の敗北を自覚しつつ、勝利のスピーチをするために壇上にあがったロバートの、作られた笑顔でぶちっと終わるラストカットの、ブラックユーモアすら漂う冷酷さ。
俳優さんの話をすれば、刑事役のティム・ロスが何と言っても見所でした。ふてぶてしい不貞腐れた図々しい行儀の悪い刑事さん。好きな役者が刑事役、というのはそれだけで嬉しいものですが、いいわー、ティム・ロスの刑事、すっごくいいわー。被疑者に向かって「嘘つきめ!」ときめつけるところとか、お! カル・ライトマン! と思ったし(笑)。
あと、エンディングロールに流れるビョークのミスマッチさがたまらんかったです。本編は殺伐と乾いた映画なのに、エンディングだけ何やらやけに粘着質。その意図は一体?
・キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け@ぴあ映画生活
ニコラス・ジャレッキー監督、 リチャード・ギア主演のサスペンス。
リチャード・ギア、随分久しぶりな気がするけど、2010年に『クロッシング』で会ってるので、それほど久しぶりでもない模様。今回は老いを意識する60代の役だけど、このひとってずっと若い頃から白髪(銀髪?)だったので、そんなにひどく老け込んでは見えなかったです。あんまり外見が変わらないタイプ?
原題の “Arbitrage” っていうのは、ヘッジファンドの採用する投資戦略のひとつで、日本語で言うと「裁定取引」とかいう訳語になるようです。確かにそのまんまじゃ使いにくいタイトルではあるけど、この場合、ヘッジファンドの戦略の中でも、敢えてアービトラージを選んだ、ということにやはり意味があるわけなので、安易に無関係な邦題をつけてしまうのはどうかと思う。
ヘッジファンドで巨万の富を築いたロバート・ミラー(リチャード・ギア)。美しい妻のエレン(スーザン・サランドン)と、右腕となってバリバリ働いてくれる有能な娘のブルック(ブリット・マーリング)に恵まれ、順風満帆な日々に見えたが、実際は投資の失敗で会社は破綻寸前、詐欺まがいの(っていうか、完全に詐欺だよね)粉飾決済で会社を売り逃げすべく危うい綱渡りの最中だった。しかし、それにも関わらず、愛人との密会を繰り返し、デートの途中、自損事故を起こして彼女を死なせてしまう。
結局、よくある話。己の成功に驕り高ぶっていたスーパーリッチな男が、些細なひび割れにつまづいて抜き差しならない情況に陥る系。そんなよくある物語の、この作品ならではの特色ということで注目されるのがアービトラージという概念。この話のキモは、主人公がビジネス以外の局面においても結局常にアービトラージ的やり方で問題を解決しようとしてきた、ということなんだと思う。
アービトラージというのは、さまざまな市場や現物や先物などの相互の金利及び価格の差を利用して利鞘を稼ぐ取引のことらしいので、つまりは、あらかじめ格差があることを前提としてなりたっている取り引きということになる。
格差。主人公は本来イーヴンであるべき個人対個人の関係についても、常に格差を利用してきた。あるいはそこに利用できる格差が存在すると、もはや無意識のレベルで信じこんでいた。
まず骨幹をなすのが主人公ロバートと若くて貧しい黒人の青年ジミー(ネイト・パーカー)との関係。
愛人を事故で死なせてしまったロバートは、車が愛人のものであったのをいいことに、その場をばっくれることにしちゃうわけですが、事故現場から逃走する際、電話でジミーを呼び出し、車で送らせるのです。それが後々、警察に目をつけられるきっかけとなる。
ここで注目したいのが、ロバートには優秀な娘のほかに、もうひとり子どもがいたということです。そちらは息子。だけどボンクラ。姉(妹?)同様父の会社で働いてはいるものの、父の信頼厚い姉とはうってかわって、父親の指示がなければ靴紐も結べない男。それにもかかわらず、息子はロバートの血縁であり、なにより家族ではあるわけです。だけど、逃走用の車が必要になったとき、ロバートは息子ではなく赤の他人のジミーに電話をかけた。
後に事態が深刻化した際、ロバートの弁護士が、どうして家族の運命をジミーなんかに託すことにしたのか、と訝るのに対し、ロバートは、「かれは我々とはちがう」と答えています。「我々とはちがう」。さてそれはどういう意味なのか。
ロバートとジミーとの関係は、ジミーの父親がかつてロバートに雇用されていた際に恩義をうけたことがあり、ジミーとしてはロバートに何か頼まれれば断りにくい立場にある。そんなジミーに対しロバートは、事故の顛末や自分の情況(会社の売却が成立し詐欺行為を誤魔化せるかどうかの瀬戸際であり、刑事事件になど絶対に関われるわけがない)などについて一切説明することなく、おまえは言われたことを言われた通りにやればいいんだと、(事故後の興奮や苛立ちも手伝って)極めて高圧的な態度をとります。
これが「我々とはちがう」ということなのか?
「我々」よりレベルが下の人間は唯々諾々と命令に従っていればいいのだと?
そうであるのなら、単にロバートはどうしようもなく傲慢な男、というだけの話なのだけど、問題は単にそういうことではないようです。確かにロバートは事故が起こったとき、「格差」に乗じてジミーを利用しようとしましたが、捜査にあたったブライヤー刑事(ティム・ロスだよ!)の執念(かれは金持ちが大嫌い。事故に大金持ちのロバートがからんでいることを嗅ぎ取り、異様にはりきる)により、ジミーが実刑判決を受けそうになると、必死でこれを回避しようとする。もちろんそれは自己保身が第一の動機ではあったとしても、それでもジミーを守ろうとしたロバートの態度はそれなりに真摯なものがあった。
結局、ブライヤーの勇み足(かれは証拠を捏造してしまった)により、ジミーは起訴を免れるのだけど、そこに到るまでの間も、ロバートはジミーに対して、行き過ぎた態度をとるごとに謝罪を繰り返しているし、いよいよダメかもしれない、という時には自首すら考えたのです。格差があるからこそ成立する取り引きでも、取り引きを成立させるためにはその格差に対する調整が必要になる。ビジネスであれば当然の前提条件でも、「普通の人間関係」に於いてはそんな考え方は異様な印象を受ける。それでもロバートにとっては、人間関係もまたそのように対処すべきものだったのかもしれない。そして、かれとジミーとの「取り引き」は、(ジミー側が負った精神的苦痛をロバート側が負担した金銭的損失でチャラにできるとしたら)概ね成功裏に終わったと言えます。
「格差」が描かれるのがそこだけなら、これまたよくある貧しい黒人青年とリッチな白人男との図式にしか過ぎないのだけれど、この話で面白いのはさらにその先があること。
まず娘のブルックとの関係。
ブルックはロバートの娘であり、ロバートの会社で働いてはいるけれど、成人した女性であり、己の才覚で仕事をこなすことができる優れた人材です。彼女の認識としては自分はロバートのパートナーだったのです。ところがロバートは、粉飾決算詐欺をするにあたり、これをブルックには隠蔽しようとした。ブルックを守ろうとした、というのがかれの言い分ですが(詐欺行為そのものに対する言い分もまた、従業員や投資家およびその家族という大勢の人々を守るため、でした)、カッとなったとき、かれの口から本音が飛び出す。
おまえはパートナーなんかじゃない、従業員だ!
ロバートはブルックと自分との間にも格差を意識していた。ブルックは家長に対する娘(という格下の存在)であり経営者に対する従業員(という格下の存在)であった。そしてその格差を利用して彼女から忠誠やハードワークといった「利鞘」を得ていた。
結局ブルックは「愛情」というアービトラージの概念では計り得ないファクターでもって、ロバートの犯罪に気づきながら糾弾することをせず、ロバートのもとを去ることもなかったのですが(それはもちろん彼女自身の保身という意味もある)、彼女の心には修復不能の不信感と失望が刻まれました。ブルックに対するロバートの「取り引き」は、少なくとも彼女の沈黙を得ることができ、五分五分だったのかもしれません。
そして更に取り引きには伏兵が潜んでいた。妻のエレンです。
ロバートとエレンはその昔、たった3ドルでお腹いっぱい食べられる店でデートを楽しむつつましいカップルでした。そしてロバートの成功により、エレンは何一つ不自由のない専業主婦となった。身の回りは贅沢三昧、慈善事業で自尊心を満たす、金持ちの妻。ふたりの子どもを生み育ててくれた上に、パーティの席には美しく着飾って同伴してくれるわ、気の利いた会話で場をなごませてくれるわ、社会的信用を得るための伴侶としては申し分がない。仕事のことには一切口を出さず、それ以前に何もわかりはしない。隠れて愛人とつきあっても、妻のベッドを抜け出して愛人のベッドに転がり込んでも気づきもしない。自分より愚かで働きのない専業主婦である女。そこにもロバートは格差を見ていた。その格差を利用して、「安定した家庭」という利鞘を得ていた。
ところが、ですよね。なにしろエレンを演じているのは何と言ってもスーザン・サランドン。おばかさんなお金持ちの奥さんなんて似合わない。エレンは何も知らず、何もわからなかったのではなく、何もかも知っていて全てを理解していたけれど、家庭を守るために知らないふりをしていただけ。
しかしそんなエレンでもさすがに黙っていられないことがおこった。ロバートの「殺人容疑」なんかじゃない。ロバートが仕事上の背任を隠し、ブルックを裏切り、傷つけたことです。ブルックはロバートの娘ですが、エレンにとってももちろん娘だった。だれよりも愛しいかわいい娘だった。いくら夫であろうとも、娘を傷つける存在を母親として許せるはずがなかったのです。
「愛情」というアービトラージの概念では計り得ないファクターは、ブルックには告発を思い留まらせましたが、エレンには攻撃のための原動力となった。ロバートは全く眼中になかった敵によって思わぬ反撃を受けることになったのです。エレンとの「取り引き」は、完膚亡きまでにロバートの敗北でした。
己の敗北を自覚しつつ、勝利のスピーチをするために壇上にあがったロバートの、作られた笑顔でぶちっと終わるラストカットの、ブラックユーモアすら漂う冷酷さ。
俳優さんの話をすれば、刑事役のティム・ロスが何と言っても見所でした。ふてぶてしい不貞腐れた図々しい行儀の悪い刑事さん。好きな役者が刑事役、というのはそれだけで嬉しいものですが、いいわー、ティム・ロスの刑事、すっごくいいわー。被疑者に向かって「嘘つきめ!」ときめつけるところとか、お! カル・ライトマン! と思ったし(笑)。
あと、エンディングロールに流れるビョークのミスマッチさがたまらんかったです。本編は殺伐と乾いた映画なのに、エンディングだけ何やらやけに粘着質。その意図は一体?
・キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2013-04-11 20:00
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