2013年 04月 07日
シャドー・ダンサー
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★ネタバレ注意★
IRAをモチーフにした映画には秀作が多いです。
この映画も小品ながら、胸の底がシンとするような忘れ難い余韻を残します。
ジェームズ・マーシュ監督作品。アイルランドとイギリスの合作です。
テロが日常風景となってしまっていた70年代の北アイルランド。
少女コレットは、両親と兄、ふたりの弟と共に穏やかに暮らしていた。そんなある日、父親からおつかいを言いつけられたコレットは、やりかけていたビーズ細工を中断するのが嫌で、幼い弟に押し付けてしまう。姉の権力に逆らえずしぶしぶと角の煙草屋まで出かけて行った弟だったが、そのまま生きて帰ることはなかった。
そして月日が流れ、1993年のロンドン。
「家業」を継いだコレット(アンドレア・ライズブロー)は、ロンドンの地下鉄に爆弾を仕掛けようとしたところ、かねてからマークしていたMI5に逮捕されてしまう。捜査官マック(クライヴ・オーウェン)から、拘留を免除する代償に、スパイとしてIRA内部の動向を監視・報告するよう迫られたコレットだったが。
まず、事の発端となったコレットの少女時代のシークエンス。
時間的にはごく短く、演出も押さえ気味、激しい愁嘆場も情熱的な演説もなく、情報の多くは観客自身が主体的に読みとることに委ねられた、地味と言えば非情に地味な場面です。だけどこれが非情に重要。このシーンがあるからこそ、時を経てなぜコレットがテロ活動に加担しなければならなかったのか、そこから足抜けすることができなかったのか、コレットの家族全員が「ファミリー・ビジネス」として過酷な現実を受け入れてきたのかが、余すことなく説明されています。
コレットの父親はあの時代ベルファストに住む普通のアイルランド人の男として、息を吸うように水を飲むようにIRAの活動に携わっており、そのこと自体がすでに日常だった。
悲劇は予見されたものかもしれないが、予見せよというのが酷なほどに、それは肌に馴染んだ日常だった。
家を出てほんの近所の角の雑貨屋まで行き、煙草を買って帰ってくる、そのわずか5分を、生き延びられない子どもがいる。地域がある。環境がある。時代がある。
幼い弟の命を奪った銃弾は、コレットの父親に対する警告だったかもしれないし、単に不幸な流れ弾だったのかもしれないけれど、いずれにしてもそれすらも、コレットの家族にとっては「日常」だった。おつかいを言いつけたのは姉の方だったのに、姉が怠けたために弟が死んだ。姉が代わりに死ぬべきだったと、もちろん思うわけがないけれど、それでも父親はあきらめきれなかった。責めるのはおつかいをさぼった姉ではない。あのタイミングで子どもを家の外に出した自分自身だ。更に言えば、こんな危険な活動に携わっている自分自身の生き様だ。当然父親は自分自身を激しく責めた。姉をなじったりは決してしなかった。一言もしなかった。ただなんともやりきれなかった。どうにもやりきれなかった。なので姉の目の前でドアを閉ざしてしまった。無言でドアを閉ざしてしまった。姉にとってはそれで十分だった。十分過ぎた。
そんなコレットに、IRAと袂を分かって生きていくことなどできるわけがない。
この前提があってこのドラマを観るとき、MI5が、そして捜査官のマックが、一体何を誤ってしまったのかが手に取るように見えてきます。要は、MI5としては協力者としてのコレットを確保したつもりでいたが、コレットの方では決してMI5に与したわけではなかった、ということです。
幼い子どもがいるコレットは、スパイになることを断れば投獄する、そうすれば子どもに会えなくなる、と脅されて、やむを得ずマックに情報を流すことになります。普通、一旦情報を流してしまった情報提供者は、「最初の裏切り」という障壁を越えてしまったことにより、程度の差こそあれ、情報を流すことへの抵抗を減じさせる傾向にある、というのが官憲側の経験則に基づく思い込み。ところが観客の見るところ、コレットはできる限り情報を流すまいと水面下で激しく抵抗しているのが見てとれる。必要最低限の情報を、ギリギリのタイミングになるまで口にしない。この状態は、観客視点で観ると決して「落ちた」状態ではないのだけれど、マックの目からはそうは見えなかった。彼女はあくまで「こちら側」の「情報提供者」であり、彼にとっては「守るべき存在」となっていた。
そしてマックは、自分が主導的立場にいるはずのミッションで、会議に呼ばれなかったり、必要な情報にアクセスできなくなったりすることにより、自分を除外した何かが進行していることに気が付く。MI5はすでにコレットとは別の情報提供者を確保しており、コレットはその本命の提供者の存在をカバーするためのデコイだったのだ。自らの庇護下にいる情報提供者の立場が危ういことに気づいたマックは、コレットを守るために動くのだけど、かれの行動は悉く裏目に出てしまう。何故というなら、行動を起こす前提条件がそもそもまちがっていたのだから。
事態の推移を眺めていると、『カンバセーションズ』のキャッチコピー、「男はズルいロマンチスト、女は罪なリアリスト」を思い出すのだけれど、マックのロマンチシズムにはズルさや狡猾さの他に、ナルシシズムの匂いもする。己の思い描いたロマンに酔ってしまっている部分がある感じ。だけどコレットのリアルはそんなものじゃなかった。ある意味マックはコレットを甘く見ていた。コレットに(自分にとって都合のいい)夢を見ていたと言ってもいいのかもしれない。
コレットはファミリービジネスに手を染め、爆弾テロにも加担していたけれど、彼女本人は決して「信条のためなら殺人も厭わない」テロリストだったわけではなく、彼女の本質はあくまで穏やかな女性であり素直な娘であり心優しい母親だった。だから、くだんの爆弾をしかけるというミッションにしても、爆弾の時限装置のスイッチを入れることができず、自ら当局に警告の電話をかけ、ミッションに加担しつつも実際の被害は食い止める、という(IRA側からした裏切りに近い)挙動に出た。
IRAとして生きるなら身も心もテロリストになる。抜けるなら抜ける。
彼女にはそれができなかった。抜けることが論外である以上に、暴力を肯定することもできなかった。常に悩み、もがき、引き裂かれながら、それでもそれが彼女の立ち位置だった。
聡明で有能なマックは、彼女が己に課せられた暴力に対して深く苦しんでいたという事実は理解していたのに、それでも彼女にはやめるという選択肢はなかった、ということがわからなかった。マックにとってテロは、プラクティカルに対処できる問題だった。努力次第で解決できる類のトラブルだった。だけどコレットやその家族にとって、それは人生そものだった。マックにはそれがわからなかった。
ラストのむごい展開に、マック自身は恐らく愕然としただろうと思います。だけどコレットに尋ねれば、「それ以外の方法があった?」という答えが返ってくるでしょう。
・シャドー・ダンサー@ぴあ映画生活
IRAをモチーフにした映画には秀作が多いです。
この映画も小品ながら、胸の底がシンとするような忘れ難い余韻を残します。
ジェームズ・マーシュ監督作品。アイルランドとイギリスの合作です。
テロが日常風景となってしまっていた70年代の北アイルランド。
少女コレットは、両親と兄、ふたりの弟と共に穏やかに暮らしていた。そんなある日、父親からおつかいを言いつけられたコレットは、やりかけていたビーズ細工を中断するのが嫌で、幼い弟に押し付けてしまう。姉の権力に逆らえずしぶしぶと角の煙草屋まで出かけて行った弟だったが、そのまま生きて帰ることはなかった。
そして月日が流れ、1993年のロンドン。
「家業」を継いだコレット(アンドレア・ライズブロー)は、ロンドンの地下鉄に爆弾を仕掛けようとしたところ、かねてからマークしていたMI5に逮捕されてしまう。捜査官マック(クライヴ・オーウェン)から、拘留を免除する代償に、スパイとしてIRA内部の動向を監視・報告するよう迫られたコレットだったが。
まず、事の発端となったコレットの少女時代のシークエンス。
時間的にはごく短く、演出も押さえ気味、激しい愁嘆場も情熱的な演説もなく、情報の多くは観客自身が主体的に読みとることに委ねられた、地味と言えば非情に地味な場面です。だけどこれが非情に重要。このシーンがあるからこそ、時を経てなぜコレットがテロ活動に加担しなければならなかったのか、そこから足抜けすることができなかったのか、コレットの家族全員が「ファミリー・ビジネス」として過酷な現実を受け入れてきたのかが、余すことなく説明されています。
コレットの父親はあの時代ベルファストに住む普通のアイルランド人の男として、息を吸うように水を飲むようにIRAの活動に携わっており、そのこと自体がすでに日常だった。
悲劇は予見されたものかもしれないが、予見せよというのが酷なほどに、それは肌に馴染んだ日常だった。
家を出てほんの近所の角の雑貨屋まで行き、煙草を買って帰ってくる、そのわずか5分を、生き延びられない子どもがいる。地域がある。環境がある。時代がある。
幼い弟の命を奪った銃弾は、コレットの父親に対する警告だったかもしれないし、単に不幸な流れ弾だったのかもしれないけれど、いずれにしてもそれすらも、コレットの家族にとっては「日常」だった。おつかいを言いつけたのは姉の方だったのに、姉が怠けたために弟が死んだ。姉が代わりに死ぬべきだったと、もちろん思うわけがないけれど、それでも父親はあきらめきれなかった。責めるのはおつかいをさぼった姉ではない。あのタイミングで子どもを家の外に出した自分自身だ。更に言えば、こんな危険な活動に携わっている自分自身の生き様だ。当然父親は自分自身を激しく責めた。姉をなじったりは決してしなかった。一言もしなかった。ただなんともやりきれなかった。どうにもやりきれなかった。なので姉の目の前でドアを閉ざしてしまった。無言でドアを閉ざしてしまった。姉にとってはそれで十分だった。十分過ぎた。
そんなコレットに、IRAと袂を分かって生きていくことなどできるわけがない。
この前提があってこのドラマを観るとき、MI5が、そして捜査官のマックが、一体何を誤ってしまったのかが手に取るように見えてきます。要は、MI5としては協力者としてのコレットを確保したつもりでいたが、コレットの方では決してMI5に与したわけではなかった、ということです。
幼い子どもがいるコレットは、スパイになることを断れば投獄する、そうすれば子どもに会えなくなる、と脅されて、やむを得ずマックに情報を流すことになります。普通、一旦情報を流してしまった情報提供者は、「最初の裏切り」という障壁を越えてしまったことにより、程度の差こそあれ、情報を流すことへの抵抗を減じさせる傾向にある、というのが官憲側の経験則に基づく思い込み。ところが観客の見るところ、コレットはできる限り情報を流すまいと水面下で激しく抵抗しているのが見てとれる。必要最低限の情報を、ギリギリのタイミングになるまで口にしない。この状態は、観客視点で観ると決して「落ちた」状態ではないのだけれど、マックの目からはそうは見えなかった。彼女はあくまで「こちら側」の「情報提供者」であり、彼にとっては「守るべき存在」となっていた。
そしてマックは、自分が主導的立場にいるはずのミッションで、会議に呼ばれなかったり、必要な情報にアクセスできなくなったりすることにより、自分を除外した何かが進行していることに気が付く。MI5はすでにコレットとは別の情報提供者を確保しており、コレットはその本命の提供者の存在をカバーするためのデコイだったのだ。自らの庇護下にいる情報提供者の立場が危ういことに気づいたマックは、コレットを守るために動くのだけど、かれの行動は悉く裏目に出てしまう。何故というなら、行動を起こす前提条件がそもそもまちがっていたのだから。
事態の推移を眺めていると、『カンバセーションズ』のキャッチコピー、「男はズルいロマンチスト、女は罪なリアリスト」を思い出すのだけれど、マックのロマンチシズムにはズルさや狡猾さの他に、ナルシシズムの匂いもする。己の思い描いたロマンに酔ってしまっている部分がある感じ。だけどコレットのリアルはそんなものじゃなかった。ある意味マックはコレットを甘く見ていた。コレットに(自分にとって都合のいい)夢を見ていたと言ってもいいのかもしれない。
コレットはファミリービジネスに手を染め、爆弾テロにも加担していたけれど、彼女本人は決して「信条のためなら殺人も厭わない」テロリストだったわけではなく、彼女の本質はあくまで穏やかな女性であり素直な娘であり心優しい母親だった。だから、くだんの爆弾をしかけるというミッションにしても、爆弾の時限装置のスイッチを入れることができず、自ら当局に警告の電話をかけ、ミッションに加担しつつも実際の被害は食い止める、という(IRA側からした裏切りに近い)挙動に出た。
IRAとして生きるなら身も心もテロリストになる。抜けるなら抜ける。
彼女にはそれができなかった。抜けることが論外である以上に、暴力を肯定することもできなかった。常に悩み、もがき、引き裂かれながら、それでもそれが彼女の立ち位置だった。
聡明で有能なマックは、彼女が己に課せられた暴力に対して深く苦しんでいたという事実は理解していたのに、それでも彼女にはやめるという選択肢はなかった、ということがわからなかった。マックにとってテロは、プラクティカルに対処できる問題だった。努力次第で解決できる類のトラブルだった。だけどコレットやその家族にとって、それは人生そものだった。マックにはそれがわからなかった。
ラストのむごい展開に、マック自身は恐らく愕然としただろうと思います。だけどコレットに尋ねれば、「それ以外の方法があった?」という答えが返ってくるでしょう。
・シャドー・ダンサー@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2013-04-07 19:56
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