2013年 03月 26日
アヒルと鴨のコインロッカー
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★ネタバレ注意★
ちょっと前に、伊坂幸太郎さんの作品をまとめ読みしたことがあります。
なんのことはない、最近よく聞く名前だし、たくさん映画化もされてるみたいだし、ここはひとつ、どんなものだか読んでみるべぇ、といった感じの他愛ないノリでした(ごめんね、ミーハーで)。さあ、それで、10数冊は読んだのかしら。熟読玩味とは正反対の非常に雑な大量流し読みだったので、いま改めて著作リストを眺めてみても、どれを読んだか読んでないのかイマイチ判断がつかない、というテイタラクですが(ごめんね、トリアタマで)、そんな中で印象に残った本が三冊ありました。
デビュー作の『オーデュボンの祈り』と、『重力ピエロ』と『アヒルと鴨のコインロッカー』です。
正直、伊坂作品への大まかな感想は、「大変頭のいい感性にすぐれた作者が、頭のよさとすぐれた感性にのみ依拠して書いた作品」といったものでした(ごめんね、エラソウで。全作読んだわけでもないのにね)。そうは言っても、『オーデュボン』はさすがにデビュー作だけあって新鮮な印象でした。この物語は一体どこを目指しているのかと、ドキドキしながら読んだ記憶があります。第一なによりあのカカシがいいよね、カカシ。一方『重力ピエロ』ですが、この作品に関しては、血肉だとか体温だとか切迫した語るべき必然だとかが感じられて、素直に作中人物に興味がもてました(これも映画が観たいわね)。
そしてこの『アヒルと鴨のコインロッカー』ですけれども。
これって叙述トリックで成り立っているお話なのね。
読者に対して敢えて登場人物を誤認させるような仕掛けになっていて、騙されたことからくる驚きが、鮮烈な感動に繋がっていきます。
果たしてそれを映画で描けるものなのかしら? ……それが興味の中心でした。
2006年、中村義洋監督作品。
原作小説の舞台である仙台でオールロケが行われたそうです。
大学入学のため仙台で新生活を始めた椎名(濱田岳)。同じアパートの隣人・河崎(瑛太)は、一風変わった男だった。河崎が言うには、かれの部屋の「隣の隣」に住むブータン人留学生のドルジ(田村圭生)は、恋人の琴美(関めぐみ)を失ってすっかり引きこもりになってしまっている。ついては、かれを励ますために広辞苑をプレゼントしようというのだが、その方法というのが「本屋襲撃」。買って渡すのではダメだと言うのだ。なぜか河崎のペースに乗せられてしまった椎名は、モデルガンを手に本屋強盗の片棒を担ぐことになってしまう。
仕掛けのある物語ですから、物語の流れについては概ね原作に忠実です。そうでなければこの話は成り立たない。だけどぶっちゃけ結論から言えば、こちらが期待した「叙述トリック」については、観客に嘘をつく(嘘の映像を見せる)&早々にネタばらしをする、という「逃げ」をうって回避してしまった印象。原作の衝撃はそこにはありません。映画と小説では表現技法がちがうのだから仕方ないよね、と思う反面、もうひと頑張り粘ってトリックを成立させることはできなかったんだろうか、と残念な気持ちにもなりました。
ないものねだりしてもしょうがないので、映画は映画として楽しむことにするならば、この映画は孤独なブータン人留学生、ドルジの物語である。ドルジにフォーカスし、ドルジ視点の物語として鳥瞰すれば、その切なさははかりしれないのです。
ただ、映画の最初からドルジ視点で物語を観ることができるのは原作既読者の特権だと思う。完全に白紙状態のひとがこの映画を観た場合、またちがった印象が語られるのであろうと思います。
それにしても、この喪失感はどうだろう。
あらかじめ失われることを前提として眺める世界の、その切なさは譬えようがない。
遠い異国のブータンからたったひとりでやってきた留学生ドルジ。知らない街、知らない顔、言葉すらろくに通じない。なまじ顔が日本人と変わらないものだから、言葉が通じないと罵倒される。「ここは日本だぞ、日本語で喋れよ!」かりにかれが金髪碧眼だったなら、日本人の方がむしろ「英語が話せなくてすみません」と萎縮するはずなんだけど。そんなこんなで、街を歩いてもひとり、飯を食うのもひとり、咳をしてもひとり。
そんな寂しいドルジの前に、ある日天使が舞い降りた。エンジェル・アット・マイ・テーブル。エンジェル琴美は、かわいくて優しくて正義感の強い、ほんとに上等な女の子。ドルジの日々に春が来た。しかも琴美だけじゃない。琴美の元カレ、河崎という男とも琴美を通じて知り合うことができた。この河崎、女たらしの遊び人で、だから琴美から愛想をつかされちゃったわけだけど、人間としてはたまらなく魅力的。琴美に加えて河崎をも得て、ドルジの日々が更に輝く。
ブータン人は死を恐れない。命はきっと転生するから。
今生でよい行いをすれば、来世できっと幸せになれる。
今生でこんなに幸せなドルジは、きっとよい前世を送ったひとなんだろう。
だったらなぜ、心を通い合わせた愛しいふたりを、ほぼ同時に失わなければならなかったんだろう? 前世でなにをしでかした? 神さま神さま、ボブ・デュランさま、どうか教えてください。心にあいたこの穴を、一体どうしたらいいのだろう?
ふたりがいなくなった世界で、かつて琴美がいて、そして琴美がいなくなった、なにもないがらんとした部屋で、ただ息をつめて「何か」を待っていたドルジ。それが何かはわからないけれど。
そんなある日、「何か」は突然現れた。ボブ・デュランの「風に吹かれて」を目印にして。だからドルジは決行したのだ、ほんとうなら河崎とやるはずだったのに果たせずにいた「本屋襲撃」を。
やはりこの映画は、キャスティングが抜群によかったのだと思います。
特に、椎名、河崎、ドルジを演じた三人がまさにはまり役だったと思う。
まず椎名を演じた濱田岳ですけれど、このひと、すっごく普通だ。普通で自然。顔も普通。普通で自然。体型も普通。普通で自然。リアクションも普通。普通で自然。喋り方も普通。普通で自然。これって結構すごい。椎名は語り部であって積極的に物語に寄与することはないのだけれど、こういうフラットな視点人物を置くことができたからこそ、このいかにも人工的なモノガタリに、現実的な感触を与えることができたんだと思う。
そしてドルジを演じた瑛太と、河崎を演じた松田龍平ですが。
……え? だってさっき、河崎を演じたのが瑛太で、ドルジを演じたのは田村圭生だって言ったじゃん? って、うん、だからそこが叙述トリックなわけで。
ともかく瑛太ですけれども。
このひとでなければ、ドルジを巡る仕掛けは成立しなかったんじゃないかしら。とてもよかったです。スラリと細身で背の高い瑛太は、立ち姿がとても美しい。言動の全てがミステリアスで、悪く言えば胡散臭い。世の女性を惹きつけてやまない河崎という男のカリスマを表現するに、全くもって無理がない。一方、スラリと細身ということは、ひょろりと貧相、と表現することもできる。遠い山国からやってきたばかりの朴訥な青年。服の着こなしひとつ知らず、髪は伸び放題のボサボサ。だけど一点の邪気もない、陽だまりのような笑顔を持っている。相矛盾するふたつの要素が、ひとりの役者の中に難なく同居している。かれがその長い腕をのばして何かを指し示すとき、観客の目は釘づけになる。それが河崎であろうと、ドルジであろうと。
そして松田龍平。
すごいな、このひと、こんなにいい役者さんだったとは。
松田龍平が出てくるのは映画も終盤にはいってからで、出番自体もそんなに多くはないんだけど、その存在感には凄いものがありました。かれが出てくると画面を全部さらっていく感じ。何よりね、かれが演じた河崎というキャラクターって、小説の世界をぬけて映像の中で実体化させるには、非常にむずかしいキャラクターだと思うのですよ。ヘタすれば、「一体どこが魅力的なのかさっぱりわからない」という人物になっていたかもしれなかったところ、役者の魅力でもって、ああ、なるほど、河崎ってこういう男だったんだ、こういう男だからこそ、あんな生き様であってもこれほどまでに魅力的であり得たんだ、っていうのが納得できる。気障も身勝手も軽薄も尊大も無責任も、みんなひっくるめてみんないい。なるほどかつて琴美が愛し、ドルジが惹かれるわけだと頷ける。ほかの役者さんじゃダメだったと思う。
残念だったのは、原作で非常に魅力的だったペットショップのオーナー麗子さん(大塚寧々)が、映画では全然光ってなかったことかしら。鬼気迫るほどの色の白さが決め手なんだけど、ほかに女優さんいなかったのかな。お肌があんまり綺麗じゃなかった……(一方、松田龍平が美肌すぎた(笑))。
ちょっと前に、伊坂幸太郎さんの作品をまとめ読みしたことがあります。
なんのことはない、最近よく聞く名前だし、たくさん映画化もされてるみたいだし、ここはひとつ、どんなものだか読んでみるべぇ、といった感じの他愛ないノリでした(ごめんね、ミーハーで)。さあ、それで、10数冊は読んだのかしら。熟読玩味とは正反対の非常に雑な大量流し読みだったので、いま改めて著作リストを眺めてみても、どれを読んだか読んでないのかイマイチ判断がつかない、というテイタラクですが(ごめんね、トリアタマで)、そんな中で印象に残った本が三冊ありました。
デビュー作の『オーデュボンの祈り』と、『重力ピエロ』と『アヒルと鴨のコインロッカー』です。
正直、伊坂作品への大まかな感想は、「大変頭のいい感性にすぐれた作者が、頭のよさとすぐれた感性にのみ依拠して書いた作品」といったものでした(ごめんね、エラソウで。全作読んだわけでもないのにね)。そうは言っても、『オーデュボン』はさすがにデビュー作だけあって新鮮な印象でした。この物語は一体どこを目指しているのかと、ドキドキしながら読んだ記憶があります。第一なによりあのカカシがいいよね、カカシ。一方『重力ピエロ』ですが、この作品に関しては、血肉だとか体温だとか切迫した語るべき必然だとかが感じられて、素直に作中人物に興味がもてました(これも映画が観たいわね)。
そしてこの『アヒルと鴨のコインロッカー』ですけれども。
これって叙述トリックで成り立っているお話なのね。
読者に対して敢えて登場人物を誤認させるような仕掛けになっていて、騙されたことからくる驚きが、鮮烈な感動に繋がっていきます。
果たしてそれを映画で描けるものなのかしら? ……それが興味の中心でした。
2006年、中村義洋監督作品。
原作小説の舞台である仙台でオールロケが行われたそうです。
大学入学のため仙台で新生活を始めた椎名(濱田岳)。同じアパートの隣人・河崎(瑛太)は、一風変わった男だった。河崎が言うには、かれの部屋の「隣の隣」に住むブータン人留学生のドルジ(田村圭生)は、恋人の琴美(関めぐみ)を失ってすっかり引きこもりになってしまっている。ついては、かれを励ますために広辞苑をプレゼントしようというのだが、その方法というのが「本屋襲撃」。買って渡すのではダメだと言うのだ。なぜか河崎のペースに乗せられてしまった椎名は、モデルガンを手に本屋強盗の片棒を担ぐことになってしまう。
仕掛けのある物語ですから、物語の流れについては概ね原作に忠実です。そうでなければこの話は成り立たない。だけどぶっちゃけ結論から言えば、こちらが期待した「叙述トリック」については、観客に嘘をつく(嘘の映像を見せる)&早々にネタばらしをする、という「逃げ」をうって回避してしまった印象。原作の衝撃はそこにはありません。映画と小説では表現技法がちがうのだから仕方ないよね、と思う反面、もうひと頑張り粘ってトリックを成立させることはできなかったんだろうか、と残念な気持ちにもなりました。
ないものねだりしてもしょうがないので、映画は映画として楽しむことにするならば、この映画は孤独なブータン人留学生、ドルジの物語である。ドルジにフォーカスし、ドルジ視点の物語として鳥瞰すれば、その切なさははかりしれないのです。
ただ、映画の最初からドルジ視点で物語を観ることができるのは原作既読者の特権だと思う。完全に白紙状態のひとがこの映画を観た場合、またちがった印象が語られるのであろうと思います。
それにしても、この喪失感はどうだろう。
あらかじめ失われることを前提として眺める世界の、その切なさは譬えようがない。
遠い異国のブータンからたったひとりでやってきた留学生ドルジ。知らない街、知らない顔、言葉すらろくに通じない。なまじ顔が日本人と変わらないものだから、言葉が通じないと罵倒される。「ここは日本だぞ、日本語で喋れよ!」かりにかれが金髪碧眼だったなら、日本人の方がむしろ「英語が話せなくてすみません」と萎縮するはずなんだけど。そんなこんなで、街を歩いてもひとり、飯を食うのもひとり、咳をしてもひとり。
そんな寂しいドルジの前に、ある日天使が舞い降りた。エンジェル・アット・マイ・テーブル。エンジェル琴美は、かわいくて優しくて正義感の強い、ほんとに上等な女の子。ドルジの日々に春が来た。しかも琴美だけじゃない。琴美の元カレ、河崎という男とも琴美を通じて知り合うことができた。この河崎、女たらしの遊び人で、だから琴美から愛想をつかされちゃったわけだけど、人間としてはたまらなく魅力的。琴美に加えて河崎をも得て、ドルジの日々が更に輝く。
ブータン人は死を恐れない。命はきっと転生するから。
今生でよい行いをすれば、来世できっと幸せになれる。
今生でこんなに幸せなドルジは、きっとよい前世を送ったひとなんだろう。
だったらなぜ、心を通い合わせた愛しいふたりを、ほぼ同時に失わなければならなかったんだろう? 前世でなにをしでかした? 神さま神さま、ボブ・デュランさま、どうか教えてください。心にあいたこの穴を、一体どうしたらいいのだろう?
ふたりがいなくなった世界で、かつて琴美がいて、そして琴美がいなくなった、なにもないがらんとした部屋で、ただ息をつめて「何か」を待っていたドルジ。それが何かはわからないけれど。
そんなある日、「何か」は突然現れた。ボブ・デュランの「風に吹かれて」を目印にして。だからドルジは決行したのだ、ほんとうなら河崎とやるはずだったのに果たせずにいた「本屋襲撃」を。
やはりこの映画は、キャスティングが抜群によかったのだと思います。
特に、椎名、河崎、ドルジを演じた三人がまさにはまり役だったと思う。
まず椎名を演じた濱田岳ですけれど、このひと、すっごく普通だ。普通で自然。顔も普通。普通で自然。体型も普通。普通で自然。リアクションも普通。普通で自然。喋り方も普通。普通で自然。これって結構すごい。椎名は語り部であって積極的に物語に寄与することはないのだけれど、こういうフラットな視点人物を置くことができたからこそ、このいかにも人工的なモノガタリに、現実的な感触を与えることができたんだと思う。
そしてドルジを演じた瑛太と、河崎を演じた松田龍平ですが。
……え? だってさっき、河崎を演じたのが瑛太で、ドルジを演じたのは田村圭生だって言ったじゃん? って、うん、だからそこが叙述トリックなわけで。
ともかく瑛太ですけれども。
このひとでなければ、ドルジを巡る仕掛けは成立しなかったんじゃないかしら。とてもよかったです。スラリと細身で背の高い瑛太は、立ち姿がとても美しい。言動の全てがミステリアスで、悪く言えば胡散臭い。世の女性を惹きつけてやまない河崎という男のカリスマを表現するに、全くもって無理がない。一方、スラリと細身ということは、ひょろりと貧相、と表現することもできる。遠い山国からやってきたばかりの朴訥な青年。服の着こなしひとつ知らず、髪は伸び放題のボサボサ。だけど一点の邪気もない、陽だまりのような笑顔を持っている。相矛盾するふたつの要素が、ひとりの役者の中に難なく同居している。かれがその長い腕をのばして何かを指し示すとき、観客の目は釘づけになる。それが河崎であろうと、ドルジであろうと。
そして松田龍平。
すごいな、このひと、こんなにいい役者さんだったとは。
松田龍平が出てくるのは映画も終盤にはいってからで、出番自体もそんなに多くはないんだけど、その存在感には凄いものがありました。かれが出てくると画面を全部さらっていく感じ。何よりね、かれが演じた河崎というキャラクターって、小説の世界をぬけて映像の中で実体化させるには、非常にむずかしいキャラクターだと思うのですよ。ヘタすれば、「一体どこが魅力的なのかさっぱりわからない」という人物になっていたかもしれなかったところ、役者の魅力でもって、ああ、なるほど、河崎ってこういう男だったんだ、こういう男だからこそ、あんな生き様であってもこれほどまでに魅力的であり得たんだ、っていうのが納得できる。気障も身勝手も軽薄も尊大も無責任も、みんなひっくるめてみんないい。なるほどかつて琴美が愛し、ドルジが惹かれるわけだと頷ける。ほかの役者さんじゃダメだったと思う。
残念だったのは、原作で非常に魅力的だったペットショップのオーナー麗子さん(大塚寧々)が、映画では全然光ってなかったことかしら。鬼気迫るほどの色の白さが決め手なんだけど、ほかに女優さんいなかったのかな。お肌があんまり綺麗じゃなかった……(一方、松田龍平が美肌すぎた(笑))。
by shirakian
| 2013-03-26 12:34
| 邦画