2012年 12月 23日
レ・ミゼラブル
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★ネタバレ注意★
トム・フーパー監督のイギリス映画です。
言わずと知れた超有名ミュージカルの映画化作品。
キャストは、主人公ジャン・バルジャンにヒュー・ジャックマン、執拗にバルジャンにつきまとうジャベール警部にラッセル・クロウ、娼婦に身を落とした悲劇の女工ファンテーヌにアン・ハサウェイ、その娘コゼットにアマンダ・セイフライド、コゼットの運命の相手マリウスにエディ・レッドメイン、コゼットの養親となったテナルディエ夫妻にサシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボナム=カーター、その娘エポニーヌにサマンサ・バークスといった布陣。
この映画はとにかく、胸が痛くなるほど公開を待ち焦がれていた、この冬一番の(てか、もう、今年度最大の)期待作でした。予告編で流れるアン・ハサウェイの歌を耳にするたびに思わずうるっと来てしまうんだけど、この冬この曲ってば、街中いたるところで流れてくるので、全くもって油断大敵でした。しょっちゅう不意をつかれては、きゅうううううん(>_<)!ってなるのよ。死ぬかと思った。
実際また、超弩級の号泣映画でした。オープニングのヒュー・ジャックマンの ”Look down”を聞いた瞬間から涙がこみ上げてきて、あとは158分間ノンストップで泣きっぱなし。ラストにいたっては嗚咽を堪えるのに必死だったと言うのに、劇場を出た観客の心はすがすがしく澄み渡っていました。苦い哀しみが胸を覆うような映画ではなく、明るい希望に満たされるような映画でした。今年ラストのスクリーン鑑賞ですが、今年最高の映画だったと思う。
それもひとえに、歌の持つ力だったのでしょう。
歌の力って、なんか、ほんとに凄い。
この物語が内包する様々な人々の複雑な思いをストレートプレイで描こうとしたら、この映画の尺ではどうしたって足りなかったと思う。台詞に頼らずほのめかそうとすれば舌足らずになっただろうし、台詞で説明しちゃえば薄っぺらになる。
人類みな兄弟なんだから助け合うのが当然ですとも、という善人司教の優しさなんか胡散臭いし、20年近く投獄されてた脱獄囚(というか保釈ばっくれ)が一夜にして改心してしまうなんて軽すぎるし、底辺に落ちた女の哀しみなんか陳腐でしかないし、周りの情況も見ずに一目で恋に落ちた若いふたりなんかそれこそ軽薄の極みだし、そのふたりを陰から見守る失恋した娘の涙なんか安っぽいし、ジャベール警部の執着なんて、気持ち悪い粘着にしか思えない。
だけど、そのどのひとつをとっても、歌で訴えられてしまえば、問答無用で胸に迫る。
司教の優しさはかれがその生来の善良さと経験の底からつかみとった真実の人類愛であることが理解できる。バルジャンの悔恨と再生の歌は、かれの人生そのものをダイレクトに観客にぶつけてくる。あの歌を聞くと、あの一夜がかれにとってまさに奇跡の一夜であったことがわかる。ファンテーヌの慟哭は聞く者の魂をえぐる力があるし、コゼットとマリウスの若々しい歌声は、賛歌というのはこういう歌のことを言うのだ、運命の恋というのはほんとうに存在するのだ、幸福とか輝きというのはこういうことを言うのだ、ということが素直に得心がいく。それゆえにエポニーヌの悲しみの歌を聞くと、観客の胸は潰れそうになる。
人生の苦しみを歌う貧困層の人々の声も、革命への決意を歌う学生たちの声も、路地の片隅を這うようにして生きる小さな子どもたちの声も、歌なら瞬時に心の奥に届く。
そして、たぶんこの映画の中で一番難しいと思われるジャベール警部の心の動きも、ラッセル・クロウの歌を聞くと、ああ、なるほど、かれにはあの生き方しか選べなかったんだ、ということがわかる。理屈じゃなく問答無用にわかる。
そして大事なのは、わかる、ということの本質は、どういうわかり方をしたか、ということには全く関係がないということです。しっかり時間をかけて理詰めできっちり理解しようが、一曲の歌を聞いて直感的にわかってしまおうが、それはどちらでも構わない。要は伝わればいい。わかればいい。得心がいけばいい。歌の力ならそれができる。
もちろん、そうさせるためには、どんな歌でもいいというわけにはいかないけれど、この映画の場合、歌それ自体がどれもこれもこの上なくすばらしいし、また、歌った役者たちの力量が半端ではなかったです。アン・ハサウェイなんか、予告編の短いフレーズだけで聞いた者を泣かせてしまう力があるし、アマンダ・セイフライドの小鳥のように愛らしい声はまさに恋する娘そのものだったし、サマンサ・バークスのエポニーヌはいじらしくてたまらないし、とにかく、みんな凄くてみんないい。
白状すれば実はわたし、ラッセル・クロウってほんとに歌えるのかしら、と不安だったです。歌を歌うひとっていうイメージがなかったから。そして実際聞いてみても、クロウの歌声って、体格や普段の地声から予想されるよりずっと細くて高い声で、ちょっと拍子抜けしてしまったんだけど(そして、歌自体もすごくうまいとは思えなかったのだけど)、でもやっぱり、一流の役者さんの歌なんだよ。テクニックや声質だけの問題じゃないのよ。「わかる」の。わからせる力があるの。
そしてやっぱりヒュー・ジャックマン。
ジャックマンが歌が上手なことくらいすでに周知の事実ではあるけれど、単にそれだけじゃなく、このひとは、なんていうかもう、この映画でジャン・バルジャンを演じて世界中の人々に愛と感動を届けなさい、と神様から命じられて地上に降り立った翼のないエンジェルだとしか思えません(>_<)。思えませんとも(>_<)。
この映画は、今までのミュージカル映画の定石とは異なり、歌を先撮りしていないそうです。演技するその場で歌もまた歌われた。演技者の感情のままに。この技法のすばらしさは、この映画それ自体が十二分に証明しているので、今後ミュージカル映画の潮流は変わってしまうのかもしれないです。そしてそうして歌われた歌は、観客を未だ体験したことのない高みに誘うことができる。
無垢なるジャン・バルジャン。
貧困のうちに生まれ、貧困に打ちのめされ、妹の子どもを生かすためにたったひとつのパンを盗んだばっかりに、投獄され痛めつけられ人間としての尊厳なんか徹底的に踏みにじられて生きてきたのに、魂の芯にあるピュアなるものをずっと持ち続けてきた。なくしたわけじゃなかった。だから司教に手をさしのべられたとき、「一夜の悟り」で真人間になることができた。無垢なるジャン・バルジャン。美しい魂を持ったたくましい男は、こんな生い立ちでなかったら、もっと楽によい暮らしができるだけの、能力や素質を持った男だった。だからどん底に落ちた後でも、工場を経営し富を築き市長として尊敬される身になるほどの栄達を果たすことができた。無垢なるジャン・バルジャン。その栄達の中で、でも、美しい魂を持った男は、常に追われる恐怖に怯えていなければなかった。かれの成功はかりそめの衣でしかなかった。本当の愛を知らなかった。得ることができなかった。そんなかれがコゼットと出会った。小さな少女を守ることは、小さな少女から守られることだった。小さな少女の存在がかれの人生に類ない喜びと輝きをもたらした。かつて経験したことのないぬくもり。それらは本来かれに属してしかるべきものだった。無垢なるジャン・バルジャン。そんなコゼットもやがて恋して旅だっていく。父親にできることは見送ってやることしかない。娘の重荷になるわけにはいかない。持てる全てをコゼットのためにささげても、そこから果実を摘み取ることはない。
無垢なるジャン・バルジャン。かれの生涯。
ヒュー・ジャックマンの歌を聞くと、ジャン・バルジャンの人生を追体験することになる。どんな小さなディテールにも嘘がない。なぜなら観客は歌でそれを知らされるから。ジャックマンの歌声の中には真実の思いしかない。歌は歌い手をごまかせない。
そしてもうひとつ、ミュージカルであることの効用を言えば、思いが凝縮され昇華されてダイレクトに観客に伝わる、ということ以外に、リアリズムの息苦しさから解放される、ということがあると思う。
だってなにしろ、世界一の描写力を誇るヴィクトル・ユゴーの小説でしょ? そのリアリズムの描出には凄まじいものがあるわけですよ。わたしが原作を読んだのは、まだ森にたくさん恐竜が棲んでいた頃で、ボンクラな子どもだったわたしは、「レミゼ・ラブル」だと思ってたくらいですが(「レミゼ」って何だよ、っていうかむしろ「ラブル」ってどういう意味よ)、それでも読んだときの印象は鮮烈に覚えています。それは時にあまりにも辛すぎるザ・リアリズムの世界でありました。それがミュージカルだと緩和されるのね。
一番端的な例はもちろん、サシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボナム=カーターが演じたテナルディエ夫妻のパートです。リアルに演じられてしまえば、その卑しさや残虐さはまさに見るに忍びないものであったはずなんだけど、コミカルな演技はお手の物のこのふたりが、軽快な音楽に乗せて歌ってくれれば、娯楽として供されることになる。そしてさきにも言ったように、伝えるべき本質が伝わるのであれば、それはどのような伝え方をしたって構わないわけですから、このミュージカル演出はもちろん大いに「アリ」なのです。
ああ、それにしても素晴らしい映画だった。
これはいつかきっとクラシックになる映画だと思うよ。
・レ・ミゼラブル@ぴあ映画生活
トム・フーパー監督のイギリス映画です。
言わずと知れた超有名ミュージカルの映画化作品。
キャストは、主人公ジャン・バルジャンにヒュー・ジャックマン、執拗にバルジャンにつきまとうジャベール警部にラッセル・クロウ、娼婦に身を落とした悲劇の女工ファンテーヌにアン・ハサウェイ、その娘コゼットにアマンダ・セイフライド、コゼットの運命の相手マリウスにエディ・レッドメイン、コゼットの養親となったテナルディエ夫妻にサシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボナム=カーター、その娘エポニーヌにサマンサ・バークスといった布陣。
この映画はとにかく、胸が痛くなるほど公開を待ち焦がれていた、この冬一番の(てか、もう、今年度最大の)期待作でした。予告編で流れるアン・ハサウェイの歌を耳にするたびに思わずうるっと来てしまうんだけど、この冬この曲ってば、街中いたるところで流れてくるので、全くもって油断大敵でした。しょっちゅう不意をつかれては、きゅうううううん(>_<)!ってなるのよ。死ぬかと思った。
実際また、超弩級の号泣映画でした。オープニングのヒュー・ジャックマンの ”Look down”を聞いた瞬間から涙がこみ上げてきて、あとは158分間ノンストップで泣きっぱなし。ラストにいたっては嗚咽を堪えるのに必死だったと言うのに、劇場を出た観客の心はすがすがしく澄み渡っていました。苦い哀しみが胸を覆うような映画ではなく、明るい希望に満たされるような映画でした。今年ラストのスクリーン鑑賞ですが、今年最高の映画だったと思う。
それもひとえに、歌の持つ力だったのでしょう。
歌の力って、なんか、ほんとに凄い。
この物語が内包する様々な人々の複雑な思いをストレートプレイで描こうとしたら、この映画の尺ではどうしたって足りなかったと思う。台詞に頼らずほのめかそうとすれば舌足らずになっただろうし、台詞で説明しちゃえば薄っぺらになる。
人類みな兄弟なんだから助け合うのが当然ですとも、という善人司教の優しさなんか胡散臭いし、20年近く投獄されてた脱獄囚(というか保釈ばっくれ)が一夜にして改心してしまうなんて軽すぎるし、底辺に落ちた女の哀しみなんか陳腐でしかないし、周りの情況も見ずに一目で恋に落ちた若いふたりなんかそれこそ軽薄の極みだし、そのふたりを陰から見守る失恋した娘の涙なんか安っぽいし、ジャベール警部の執着なんて、気持ち悪い粘着にしか思えない。
だけど、そのどのひとつをとっても、歌で訴えられてしまえば、問答無用で胸に迫る。
司教の優しさはかれがその生来の善良さと経験の底からつかみとった真実の人類愛であることが理解できる。バルジャンの悔恨と再生の歌は、かれの人生そのものをダイレクトに観客にぶつけてくる。あの歌を聞くと、あの一夜がかれにとってまさに奇跡の一夜であったことがわかる。ファンテーヌの慟哭は聞く者の魂をえぐる力があるし、コゼットとマリウスの若々しい歌声は、賛歌というのはこういう歌のことを言うのだ、運命の恋というのはほんとうに存在するのだ、幸福とか輝きというのはこういうことを言うのだ、ということが素直に得心がいく。それゆえにエポニーヌの悲しみの歌を聞くと、観客の胸は潰れそうになる。
人生の苦しみを歌う貧困層の人々の声も、革命への決意を歌う学生たちの声も、路地の片隅を這うようにして生きる小さな子どもたちの声も、歌なら瞬時に心の奥に届く。
そして、たぶんこの映画の中で一番難しいと思われるジャベール警部の心の動きも、ラッセル・クロウの歌を聞くと、ああ、なるほど、かれにはあの生き方しか選べなかったんだ、ということがわかる。理屈じゃなく問答無用にわかる。
そして大事なのは、わかる、ということの本質は、どういうわかり方をしたか、ということには全く関係がないということです。しっかり時間をかけて理詰めできっちり理解しようが、一曲の歌を聞いて直感的にわかってしまおうが、それはどちらでも構わない。要は伝わればいい。わかればいい。得心がいけばいい。歌の力ならそれができる。
もちろん、そうさせるためには、どんな歌でもいいというわけにはいかないけれど、この映画の場合、歌それ自体がどれもこれもこの上なくすばらしいし、また、歌った役者たちの力量が半端ではなかったです。アン・ハサウェイなんか、予告編の短いフレーズだけで聞いた者を泣かせてしまう力があるし、アマンダ・セイフライドの小鳥のように愛らしい声はまさに恋する娘そのものだったし、サマンサ・バークスのエポニーヌはいじらしくてたまらないし、とにかく、みんな凄くてみんないい。
白状すれば実はわたし、ラッセル・クロウってほんとに歌えるのかしら、と不安だったです。歌を歌うひとっていうイメージがなかったから。そして実際聞いてみても、クロウの歌声って、体格や普段の地声から予想されるよりずっと細くて高い声で、ちょっと拍子抜けしてしまったんだけど(そして、歌自体もすごくうまいとは思えなかったのだけど)、でもやっぱり、一流の役者さんの歌なんだよ。テクニックや声質だけの問題じゃないのよ。「わかる」の。わからせる力があるの。
そしてやっぱりヒュー・ジャックマン。
ジャックマンが歌が上手なことくらいすでに周知の事実ではあるけれど、単にそれだけじゃなく、このひとは、なんていうかもう、この映画でジャン・バルジャンを演じて世界中の人々に愛と感動を届けなさい、と神様から命じられて地上に降り立った翼のないエンジェルだとしか思えません(>_<)。思えませんとも(>_<)。
この映画は、今までのミュージカル映画の定石とは異なり、歌を先撮りしていないそうです。演技するその場で歌もまた歌われた。演技者の感情のままに。この技法のすばらしさは、この映画それ自体が十二分に証明しているので、今後ミュージカル映画の潮流は変わってしまうのかもしれないです。そしてそうして歌われた歌は、観客を未だ体験したことのない高みに誘うことができる。
無垢なるジャン・バルジャン。
貧困のうちに生まれ、貧困に打ちのめされ、妹の子どもを生かすためにたったひとつのパンを盗んだばっかりに、投獄され痛めつけられ人間としての尊厳なんか徹底的に踏みにじられて生きてきたのに、魂の芯にあるピュアなるものをずっと持ち続けてきた。なくしたわけじゃなかった。だから司教に手をさしのべられたとき、「一夜の悟り」で真人間になることができた。無垢なるジャン・バルジャン。美しい魂を持ったたくましい男は、こんな生い立ちでなかったら、もっと楽によい暮らしができるだけの、能力や素質を持った男だった。だからどん底に落ちた後でも、工場を経営し富を築き市長として尊敬される身になるほどの栄達を果たすことができた。無垢なるジャン・バルジャン。その栄達の中で、でも、美しい魂を持った男は、常に追われる恐怖に怯えていなければなかった。かれの成功はかりそめの衣でしかなかった。本当の愛を知らなかった。得ることができなかった。そんなかれがコゼットと出会った。小さな少女を守ることは、小さな少女から守られることだった。小さな少女の存在がかれの人生に類ない喜びと輝きをもたらした。かつて経験したことのないぬくもり。それらは本来かれに属してしかるべきものだった。無垢なるジャン・バルジャン。そんなコゼットもやがて恋して旅だっていく。父親にできることは見送ってやることしかない。娘の重荷になるわけにはいかない。持てる全てをコゼットのためにささげても、そこから果実を摘み取ることはない。
無垢なるジャン・バルジャン。かれの生涯。
ヒュー・ジャックマンの歌を聞くと、ジャン・バルジャンの人生を追体験することになる。どんな小さなディテールにも嘘がない。なぜなら観客は歌でそれを知らされるから。ジャックマンの歌声の中には真実の思いしかない。歌は歌い手をごまかせない。
そしてもうひとつ、ミュージカルであることの効用を言えば、思いが凝縮され昇華されてダイレクトに観客に伝わる、ということ以外に、リアリズムの息苦しさから解放される、ということがあると思う。
だってなにしろ、世界一の描写力を誇るヴィクトル・ユゴーの小説でしょ? そのリアリズムの描出には凄まじいものがあるわけですよ。わたしが原作を読んだのは、まだ森にたくさん恐竜が棲んでいた頃で、ボンクラな子どもだったわたしは、「レミゼ・ラブル」だと思ってたくらいですが(「レミゼ」って何だよ、っていうかむしろ「ラブル」ってどういう意味よ)、それでも読んだときの印象は鮮烈に覚えています。それは時にあまりにも辛すぎるザ・リアリズムの世界でありました。それがミュージカルだと緩和されるのね。
一番端的な例はもちろん、サシャ・バロン・コーエンとヘレナ・ボナム=カーターが演じたテナルディエ夫妻のパートです。リアルに演じられてしまえば、その卑しさや残虐さはまさに見るに忍びないものであったはずなんだけど、コミカルな演技はお手の物のこのふたりが、軽快な音楽に乗せて歌ってくれれば、娯楽として供されることになる。そしてさきにも言ったように、伝えるべき本質が伝わるのであれば、それはどのような伝え方をしたって構わないわけですから、このミュージカル演出はもちろん大いに「アリ」なのです。
ああ、それにしても素晴らしい映画だった。
これはいつかきっとクラシックになる映画だと思うよ。
・レ・ミゼラブル@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-12-23 17:12
| 映画ら行