2012年 08月 28日
THE GREY 凍える太陽
|
★ネタバレ注意★
リーアム・ニーソン主演作。
監督は、『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』」のジョー・カーナハンですが、製作総指揮にトニー・スコットの名前があります。はからずもスコット監督の追悼鑑賞となってしまいました。
スコット監督の死の真相については、詳細がわかっているわけではありませんが、やはり「自殺」という報道には考え込んでしまうものがありました。世界中の映画人の中にはトニー・スコット(のように名実ともに成功したクリエイター)になれるなら死んでもいい、と思っているひとだって大勢いるであろう稀有な立場を確立しながら、自らそれを破壊せざるを得なかった思いというのはいかほどのものなのか。何も知りませんから何もわかりませんが、わからないからやはり考え込んでしまうのでした。
それはさておき、この映画です。
近来とみにアクション・ヒーローとして面目躍如のリアム・ニーソンですから、この映画もニーソンが大活躍するアクション・サバイバル・アドベンチャーだと思って観に行ったのですが、かなり様相がちがいました。絶望的な情況を闘いぬいて生き延びるひとびとの物語ではなく、絶望的な情況の中ではかなく潰えていく命の物語です。
神はいるのか、いるとしたらどこにいるのか、そこにいて何を考えているのか。
オットウェイ(リーアム・ニーソン)は 石油会社に雇われた害獣駆除員。さまざまな社会のはみだし者ばかりが働くアラスカの石油採掘現場で、オオカミを初めとする野獣から作業員たちを守るべく、ハンターとしての腕をふるっていた。そんなある日、休暇を過ごすために乗り込んだアンカレッジ行きの飛行機が、悪天候に遭遇しアラスカの山中に墜落してしまう。辛うじて生き延びたのはオットウェイを含む7人のみ。
というわけでこの7人の生き残りをかけた闘いが始まるわけですが、ここで人々を待ち受けている障害というのが、普通予想されるような、過酷な環境(零下20℃を下回る極寒)とそこから派生する様々な困難というよりも、一点、オオカミに集約されているのがまず意表をつきます。
タイトルのthe greyというのは、色々な意味に解釈できそうですが(邦題は副題からすると「薄闇」という意味を当てているっぽい)、やっぱりこれって灰色オオカミ、しかもそのボス、アルファのことを言っているんだろうなぁ。
さてそこで天性のリーダー(であるリーアム・ニーソンが演じるキャラ)にしてオオカミについてはエキスパートのオットウェイ。このまま墜落地点に留まっていたのではオオカミの群にやられてしまうと、烏合の衆である生き残り組を叱咤激励して、とりあえず森を目指す逃避行へと駆り出すのです。こんなとき、ニーソンがいてくれるなら大丈夫。わたしだったら一も二もなく四の五の言わず一から十までニーソン隊長のおっしゃる通りに動くことしか考えられませんが、いるんですよね、7人もいれば、こんなオットウェイに反感剥き出しのやつだって。
タフガイを自認するディアス(フランク・グリロ)は、ことごとくオットウェイの判断に逆らい、あんたびびりすぎだぜ、おれはちっとも怖くない、と嘯く。するとオットウェイが言うのです。
こんな情況でタフガイを気取って何の意味がある? 怖くないだと? それじゃきさまは愚か者だ。いや、それ以下だ、きさまはくそったれの嘘つきだよ。
ここにひとつ集約されてる。オットウェイだって怖いんです。情況それ自体が怖い上に、自らが判断を下さざるを得ないことが怖い。なにしろ自分が下した判断の結果に実はなんの確証もないことを、だれよりも自分が一番知っているから。
オットウェイが一刻も早く墜落現場を離れようとしたのは、そこがオオカミの巣に近い可能性があったからです。オオカミの目的が人肉なら、事故犠牲者の遺体をたらふく食べて満腹になっている連中が無闇に襲ってくることはない。しかしそこが巣に近いのなら、オオカミたちは食料としてより縄張りを守るために、生存者たちに容赦はしないでしょう。だからオットウェイは負傷者も低酸素性に苦しむ者も高所恐怖性の者も、みんなまとめて急き立てた。どこか特定の目当てがあったわけではなく、とにかくオオカミの巣から離れることが目的のエクソダスだったのです。
ところがこれが裏目に出た。逃げても逃げてもオオカミたちの追跡は執拗に続くのです。もはやどこにも逃げられない。ひとり減り、ふたり減り、せっかく壮絶な飛行機事故を生き延びたはずのひとびとは、次から次へと命を落としていく。
この感覚は、『ポセイドン・アドベンチャー』に近いものがあると思う。あちらでジーン・ハックマンが率いたグループは、豪華客船の乗客という設定通りバラエティに富んだメンツだったのと比べて、こちらのメンバーは全員「同じ穴の狢」、普通の社会ではまともにやっていかれずに、こんな僻地にまで流れてきてしまった、挫折や痛みをひきずっている傷だらけの男たちばかり(しかもニーソン以外は知らない役者さんばっかりだし)、従って個々のメンバーにあまり代わり映えがないという若干もどかしい点はあるのですが、それでも、生き延びようと必死に頑張っているひとたちが、ひとり欠け、ふたり欠けていくその虚しさは譬えようもありません。
そこで、切ない前提が生きてくる。だれよりも頼もしいリーダーに見えるオットウェイは、実は生きることに倦み疲れたひとだったのです。かれは最愛の妻を、病気で亡くしてしまった。妻は最期まで勇敢に病気と闘ってはくれたけど、妻の奮闘に、神は応えてくれなかった。オットウェイには喪失感だけが残された。妻のいない世界は生きるに値しないものとなった。この旅の直前には、自殺未遂まで追い詰められていたオットウェイなのです。かれはポケットに自筆の遺書を忍ばせていた。
死を願っていたにもかかわらず、飛行機事故で生き残ってしまった。
死を願っていたにもかかわらず、死ぬはずのシチュエーションで死ねなかった。
なぜ自分が生かされているのか、オットウェイは考えずにはいられない。
しかも自らが生かされている一方で、生きるために必死にあがいている仲間たちが、次々と命を落として行く。その過程の中で、オットウェイの中にも、「生」への希求が芽生えてくる。何ひとつ情況がよくなったわけではないのに。仮に生き延びて現状に復帰したところで、そこにあるのはやはり、孤独で灰色の希望のない日々であることには変わりない。それでもオットウェイは生きる方へと手を伸ばさずにはいられなくなった。
それなのに、せっかく生きようとし始めたオットウェイは、ついに抜き差しならない情況に追い込まれてしまった。あれほど遠ざかろうと努力してきたオオカミの巣に、結局自ら足を踏み入れてしまったのです。
オットウェイはついには神に叫ばずにはいられない。おれたちはここまで努力したんだ、そろそろあんたが何かをしてくれたっていいじゃないか、何かしてくれ、何でもいい、何かをしてみせてくれ!
でも神様は、病気に倒れた美しい妻に何もしれくれないように、7歳の少女が小児性愛者に公衆便所にひきずりこまれても何もしてくれないように、乳飲み子をかかえた若い母親に酒酔い運転のトラックがつっこんできても何もしてくれないように、飛行機が嵐に巻きこまれて墜落しても何もしてくれないように、からくもその事故をまぬがれたひとびとが寒気に弱り獣に喰われて死んでいっても何もしてくれないように、追い詰められたオットウェイが天を睨んで叫んだところで、やはり何もしてくれはしないのです。
自分でやるしかないか。
オットウェイは自嘲の笑みに唇をゆがめる。
オットウェイの脳裏には、かつて父親が残した一編の詩が繰り返し浮かび続けている。オットウェイの父親は、典型的アイリッシュのルーザーで、酒を飲んでは家族に暴力を振るうようなどうしようもないダメ男だったのだけど、詩を書くことだけはうまかった。そんな父親のたった4行の詩を、オットウェイはいつも大事にしていた。
Once more into the fray (今一度対決の時を迎え)
Into the last good fight I'll ever know (最後にして最高の勝負ができるなら)
Live and die on this day (その日死んでも悔いはない)
Live and die on this day (その日死んでも悔いはない)
旅路の果てに、ついにその日が来たのかもしれない。オットウェイは死に場所を得たということなのかもしれない。
飛行機事故で死のうが、いっそそれ以前に、銃口を口にくわえた時に引き金を引いてしまっていようが、ボロボロになるまで闘って、力尽き命運が尽きてくたばろうが、同じ死には変わりがないかもしれないけれど、投げやりに命を棄てるような死と、とことん努力の限りを尽くし、それでも力尽きるのとでは、やはり同じではないのだと思える。オットウェイの最期には、無常感悲壮感より、一種つきぬけた不思議な爽快感がある。それは運命を受け入れた者のすがすがしさかもしれない。
そこで想起されるのが、前述したタフガイ・ディアスの最期です。
かれは結局、オットウェイをリーダーとして受け入れ、行を共にはするのですが、ある時点でリタイアしてしまう。ほかのメンバーがボロボロにすりきれて死んでいったのと比べれば、負傷しているとは言え、まだまだ余力がありそうに見えるディアスだったのに、もうここまで、と自分自身で線引きをしてしまった。
おれはもうこれ以上、生き延びるための努力はしない。死ぬのが怖くないわけじゃない。確かにおれはタフガイじゃない。タフガイを気取るなんて愚かなことで、怖くないと言い張るとしたらおれはとんだ嘘つきだろう。だけど、もういい。おれはやめる。「生きない」という選択をする……生きのびたところでどうせろくな人生じゃないんだから。
この選択は重いです。普通ハリウッド映画で、こんな選択が容認されることはありえない。自殺が美化されるのはニッポンのサムライ文化の中に於いてのみで、健全なアメリカ人なら常に前向きに努力し続けなければならないはず。それが九死に一生を得たサバイバルストーリーの登場人物であるなら尚更のこと。しかも、ディアスがゆるやかな自殺を選んだその理由を、「社会」はたぶん、容認できない。輝いていない人生なら棄ててもいいという価値観を容認したら、罪悪感を抱くことなく死を選ぶひとの数は、恐らくシャレにならない程の規模になってしまうはず。
だけど、どうでしょう、果たしてこの映画を観て、ディアスの選択を非難する気になるかどうか?
ディアスの最期のシーンの、胸しめつけられる程の美しさは、一体どうしたことでしょう?
・THE GREY 凍える太陽@ぴあ映画生活
リーアム・ニーソン主演作。
監督は、『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』」のジョー・カーナハンですが、製作総指揮にトニー・スコットの名前があります。はからずもスコット監督の追悼鑑賞となってしまいました。
スコット監督の死の真相については、詳細がわかっているわけではありませんが、やはり「自殺」という報道には考え込んでしまうものがありました。世界中の映画人の中にはトニー・スコット(のように名実ともに成功したクリエイター)になれるなら死んでもいい、と思っているひとだって大勢いるであろう稀有な立場を確立しながら、自らそれを破壊せざるを得なかった思いというのはいかほどのものなのか。何も知りませんから何もわかりませんが、わからないからやはり考え込んでしまうのでした。
それはさておき、この映画です。
近来とみにアクション・ヒーローとして面目躍如のリアム・ニーソンですから、この映画もニーソンが大活躍するアクション・サバイバル・アドベンチャーだと思って観に行ったのですが、かなり様相がちがいました。絶望的な情況を闘いぬいて生き延びるひとびとの物語ではなく、絶望的な情況の中ではかなく潰えていく命の物語です。
神はいるのか、いるとしたらどこにいるのか、そこにいて何を考えているのか。
オットウェイ(リーアム・ニーソン)は 石油会社に雇われた害獣駆除員。さまざまな社会のはみだし者ばかりが働くアラスカの石油採掘現場で、オオカミを初めとする野獣から作業員たちを守るべく、ハンターとしての腕をふるっていた。そんなある日、休暇を過ごすために乗り込んだアンカレッジ行きの飛行機が、悪天候に遭遇しアラスカの山中に墜落してしまう。辛うじて生き延びたのはオットウェイを含む7人のみ。
というわけでこの7人の生き残りをかけた闘いが始まるわけですが、ここで人々を待ち受けている障害というのが、普通予想されるような、過酷な環境(零下20℃を下回る極寒)とそこから派生する様々な困難というよりも、一点、オオカミに集約されているのがまず意表をつきます。
タイトルのthe greyというのは、色々な意味に解釈できそうですが(邦題は副題からすると「薄闇」という意味を当てているっぽい)、やっぱりこれって灰色オオカミ、しかもそのボス、アルファのことを言っているんだろうなぁ。
さてそこで天性のリーダー(であるリーアム・ニーソンが演じるキャラ)にしてオオカミについてはエキスパートのオットウェイ。このまま墜落地点に留まっていたのではオオカミの群にやられてしまうと、烏合の衆である生き残り組を叱咤激励して、とりあえず森を目指す逃避行へと駆り出すのです。こんなとき、ニーソンがいてくれるなら大丈夫。わたしだったら一も二もなく四の五の言わず一から十までニーソン隊長のおっしゃる通りに動くことしか考えられませんが、いるんですよね、7人もいれば、こんなオットウェイに反感剥き出しのやつだって。
タフガイを自認するディアス(フランク・グリロ)は、ことごとくオットウェイの判断に逆らい、あんたびびりすぎだぜ、おれはちっとも怖くない、と嘯く。するとオットウェイが言うのです。
こんな情況でタフガイを気取って何の意味がある? 怖くないだと? それじゃきさまは愚か者だ。いや、それ以下だ、きさまはくそったれの嘘つきだよ。
ここにひとつ集約されてる。オットウェイだって怖いんです。情況それ自体が怖い上に、自らが判断を下さざるを得ないことが怖い。なにしろ自分が下した判断の結果に実はなんの確証もないことを、だれよりも自分が一番知っているから。
オットウェイが一刻も早く墜落現場を離れようとしたのは、そこがオオカミの巣に近い可能性があったからです。オオカミの目的が人肉なら、事故犠牲者の遺体をたらふく食べて満腹になっている連中が無闇に襲ってくることはない。しかしそこが巣に近いのなら、オオカミたちは食料としてより縄張りを守るために、生存者たちに容赦はしないでしょう。だからオットウェイは負傷者も低酸素性に苦しむ者も高所恐怖性の者も、みんなまとめて急き立てた。どこか特定の目当てがあったわけではなく、とにかくオオカミの巣から離れることが目的のエクソダスだったのです。
ところがこれが裏目に出た。逃げても逃げてもオオカミたちの追跡は執拗に続くのです。もはやどこにも逃げられない。ひとり減り、ふたり減り、せっかく壮絶な飛行機事故を生き延びたはずのひとびとは、次から次へと命を落としていく。
この感覚は、『ポセイドン・アドベンチャー』に近いものがあると思う。あちらでジーン・ハックマンが率いたグループは、豪華客船の乗客という設定通りバラエティに富んだメンツだったのと比べて、こちらのメンバーは全員「同じ穴の狢」、普通の社会ではまともにやっていかれずに、こんな僻地にまで流れてきてしまった、挫折や痛みをひきずっている傷だらけの男たちばかり(しかもニーソン以外は知らない役者さんばっかりだし)、従って個々のメンバーにあまり代わり映えがないという若干もどかしい点はあるのですが、それでも、生き延びようと必死に頑張っているひとたちが、ひとり欠け、ふたり欠けていくその虚しさは譬えようもありません。
そこで、切ない前提が生きてくる。だれよりも頼もしいリーダーに見えるオットウェイは、実は生きることに倦み疲れたひとだったのです。かれは最愛の妻を、病気で亡くしてしまった。妻は最期まで勇敢に病気と闘ってはくれたけど、妻の奮闘に、神は応えてくれなかった。オットウェイには喪失感だけが残された。妻のいない世界は生きるに値しないものとなった。この旅の直前には、自殺未遂まで追い詰められていたオットウェイなのです。かれはポケットに自筆の遺書を忍ばせていた。
死を願っていたにもかかわらず、飛行機事故で生き残ってしまった。
死を願っていたにもかかわらず、死ぬはずのシチュエーションで死ねなかった。
なぜ自分が生かされているのか、オットウェイは考えずにはいられない。
しかも自らが生かされている一方で、生きるために必死にあがいている仲間たちが、次々と命を落として行く。その過程の中で、オットウェイの中にも、「生」への希求が芽生えてくる。何ひとつ情況がよくなったわけではないのに。仮に生き延びて現状に復帰したところで、そこにあるのはやはり、孤独で灰色の希望のない日々であることには変わりない。それでもオットウェイは生きる方へと手を伸ばさずにはいられなくなった。
それなのに、せっかく生きようとし始めたオットウェイは、ついに抜き差しならない情況に追い込まれてしまった。あれほど遠ざかろうと努力してきたオオカミの巣に、結局自ら足を踏み入れてしまったのです。
オットウェイはついには神に叫ばずにはいられない。おれたちはここまで努力したんだ、そろそろあんたが何かをしてくれたっていいじゃないか、何かしてくれ、何でもいい、何かをしてみせてくれ!
でも神様は、病気に倒れた美しい妻に何もしれくれないように、7歳の少女が小児性愛者に公衆便所にひきずりこまれても何もしてくれないように、乳飲み子をかかえた若い母親に酒酔い運転のトラックがつっこんできても何もしてくれないように、飛行機が嵐に巻きこまれて墜落しても何もしてくれないように、からくもその事故をまぬがれたひとびとが寒気に弱り獣に喰われて死んでいっても何もしてくれないように、追い詰められたオットウェイが天を睨んで叫んだところで、やはり何もしてくれはしないのです。
自分でやるしかないか。
オットウェイは自嘲の笑みに唇をゆがめる。
オットウェイの脳裏には、かつて父親が残した一編の詩が繰り返し浮かび続けている。オットウェイの父親は、典型的アイリッシュのルーザーで、酒を飲んでは家族に暴力を振るうようなどうしようもないダメ男だったのだけど、詩を書くことだけはうまかった。そんな父親のたった4行の詩を、オットウェイはいつも大事にしていた。
Once more into the fray (今一度対決の時を迎え)
Into the last good fight I'll ever know (最後にして最高の勝負ができるなら)
Live and die on this day (その日死んでも悔いはない)
Live and die on this day (その日死んでも悔いはない)
旅路の果てに、ついにその日が来たのかもしれない。オットウェイは死に場所を得たということなのかもしれない。
飛行機事故で死のうが、いっそそれ以前に、銃口を口にくわえた時に引き金を引いてしまっていようが、ボロボロになるまで闘って、力尽き命運が尽きてくたばろうが、同じ死には変わりがないかもしれないけれど、投げやりに命を棄てるような死と、とことん努力の限りを尽くし、それでも力尽きるのとでは、やはり同じではないのだと思える。オットウェイの最期には、無常感悲壮感より、一種つきぬけた不思議な爽快感がある。それは運命を受け入れた者のすがすがしさかもしれない。
そこで想起されるのが、前述したタフガイ・ディアスの最期です。
かれは結局、オットウェイをリーダーとして受け入れ、行を共にはするのですが、ある時点でリタイアしてしまう。ほかのメンバーがボロボロにすりきれて死んでいったのと比べれば、負傷しているとは言え、まだまだ余力がありそうに見えるディアスだったのに、もうここまで、と自分自身で線引きをしてしまった。
おれはもうこれ以上、生き延びるための努力はしない。死ぬのが怖くないわけじゃない。確かにおれはタフガイじゃない。タフガイを気取るなんて愚かなことで、怖くないと言い張るとしたらおれはとんだ嘘つきだろう。だけど、もういい。おれはやめる。「生きない」という選択をする……生きのびたところでどうせろくな人生じゃないんだから。
この選択は重いです。普通ハリウッド映画で、こんな選択が容認されることはありえない。自殺が美化されるのはニッポンのサムライ文化の中に於いてのみで、健全なアメリカ人なら常に前向きに努力し続けなければならないはず。それが九死に一生を得たサバイバルストーリーの登場人物であるなら尚更のこと。しかも、ディアスがゆるやかな自殺を選んだその理由を、「社会」はたぶん、容認できない。輝いていない人生なら棄ててもいいという価値観を容認したら、罪悪感を抱くことなく死を選ぶひとの数は、恐らくシャレにならない程の規模になってしまうはず。
だけど、どうでしょう、果たしてこの映画を観て、ディアスの選択を非難する気になるかどうか?
ディアスの最期のシーンの、胸しめつけられる程の美しさは、一体どうしたことでしょう?
・THE GREY 凍える太陽@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-08-28 19:36
| 映画さ行