2012年 07月 10日
ラム・ダイアリー
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★ネタバレ注意★
ブルース・ロビンソン監督、アーロン・エッカート出演作です☆
『ラビット・ホール』からまだ半年ちょっとしか経っていないのに、もうエッカートとスクリーンで会えるとは、大変喜ばしいことであります。それもひとえにジョニー・デップが共演(主演とも言う)してくれたからこそですね。これからもエッカートさんはせっせとデップと組んで映画に出演していただきたいと思います。……ん、待てよ、エッカート自身が日本市場でも確実に公開される人気者になってくれさえすれば、デップさま頼みをしなくても確実にスクリーンで会えるのよね。ここはやっぱ、ニッポンの女子のみなさまが一日も早くエッカートの魅力に目覚めてくれますように(笑)。
ジョニー・デップが自らの親友でもあったジャーナリスト、ハンター・S・トンプソン(故人)の自伝的同名小説をもとに、製作・主演を勤めた作品である由。
1960年、プエルトリコ。ライターとして身を立てたいという野心をもった若きジャーナリスト、ポール・ケンプ(ジョニー・デップ)は、本が売れるまでの繋ぎとして地元の新聞社に職を得る。当時のプエルトリコ社会に蔓延する不正や矛盾は、ほんの数日滞在しただけのケンプの目から見ても、目を覆うばかりの惨状。記事にして糾弾したくも、編集長のロッターマン(リチャード・ジェンキンス)は、新聞の存続のことばかりを考え、スポンサー企業を刺激しないために、当たり障りのない記事しか載せようとせず、ケンプにあてがわれた仕事は星占いの欄。ボブ・サーラ(マイケル・リスポリ)やモバーグ(ジョヴァンニ・リビシ)といった一癖ある同僚たちも、もちろんやる気のあろうはずもなく、毎日ラム酒とドラッグに溺れる日々。
そんなある日、ひょんなことから、地元の有力者でありリッチなアメリカ人実業家であるサンダーソン(アーロン・エッカート)に目をつけられたケンプは、不正な土地取引の肩棒を担がされそうになる。ただでさえヤバイ情況なのに、その上ケンプはサンダーソンのフィアンセ、シュノー(アンバー・ハード)に心を奪われてしまうのだった。
という物語は、土地の不正取引とか貧困とか乱開発とか最強国から最貧国への搾取関係とか、そりゃあもう様々な社会問題を内包してはいますが、結局は若き日のケンプの青春譜に主眼があるというか、社会問題に関しては背景描写に過ぎない印象です。それらに対する何らかの考察も解決のための努力も見られず、主人公はじめ登場人物はみな、ただひたすら飲んだくれているのみです。
そうは言っても、エキゾチックな外国の風物を、好奇心にあふれた若い目で捉えた実録ですから、たぶんこの話、小説で読んだら滅法面白いのだと思う。未読ですけど、機会があったら読みたいな、と思いました。
でも、映画としてみると、なんとも魅力薄な感じ。
映画としてつまらなかった理由は、主にふたつあったのかな。
ひとつは、主人公がなんにもしないことです。
小説であれば、語り部としての視点人物である主人公が特になにもしなくても、それはそれでアリなのですが、劇映画で主人公が徹頭徹尾傍観者に終始するなんてありえない。そして傍観者でしかないケンプには、キャラクターとしての魅力が全くありません。
そもそもかれが、ジャーナリストとしてどれだけのポテンシャルをもったひとであるのかが全くわからない。小説であれば、現にそのひとが書いたものを読んでいるわけだから、そのひとがどれだけ凄いかは一読瞭然なんだけど、映画である以上、かれの凄さを客観的に描写してくれないことにはわからない。この映画ではほんとにただただ大酒を飲み、何の心構えもジャーナリスティックな視点もなく、なりゆきで流されて土地の有力者であるサンダーソンと癒着し、サンダーソンのフィアンセとのゴタゴタがらみでサンダーソンからの「援助」を切られたところで初めて「義憤」に燃え、記事を書いて糾弾しようと試みはするけれど、ロッターマンに逃げられて新聞社は潰れ、新聞という媒体がなければ何ひとつすることができず、最後にやった「報復」は、サンダーマンの私有財産であるヨットを盗んで逃げること。
や、それでも、ケンプがロクデナシなりに憎みきれないロクデナシであるならまだしも、シュノーのことを運命の相手だと言い、フィアンセがいるにもかかわらず物欲しげな態度満々だったのに、酔っ払ってはめをはずした彼女が地元のお兄さんたちに取り巻かれた際には、見るからにヤバイ情況だったにもかかわらず、ちょっと脅されただけで彼女のことは置き去り。我が身かわいさに彼女を見捨てたにもかかわらず、(恐らく)輪姦されフィアンセに棄てられ、それでも気丈に新しい生活をするためにNYに戻った彼女を追いかけて、最終的には彼女と結ばれました、やっぱり彼女は運命の相手だったんです、なんて、最後にテロップで説明されたところで観客は白けるだけです。運命の恋をテロップで「説明」しちゃいかんでしょうよ。
ただでさえ、だらしない酔っ払いは存在として不快です。そんな人物ばかり延々と見せられるのは辛い。観客がその不快に耐えるのは、どこかで起死回生の逆転があるだろうと期待するからです。この映画にはそれがない。そしてまた、だらしない酔っ払いでも主人公が20代の若者であるならば、まだ「ヤンチャ」で済ますことができたかもしれないけれど、設定上は若者でも実際のジョニー・デップは40代も半ば過ぎ。いくら並の40代からしたら奇跡のように若々しいとは言っても、やはり中年のおっさんであるには変わりないわけで、そうなるとやはり観客の視線は自ずと厳しいものになる。
そしてもうひとつの理由は、「1960年の」「プエルトリコ」という設定。
これはたぶん、わたしの方に責任があって、わたしがあまりにもモノシラズであるためにピンとこなかったということなんですが、少なくともわたしはこの映画から特定の時代の雰囲気や場の雰囲気を感じ取ることができませんでした。
そもそもある特定の時代や場の雰囲気を感じるためには、「比較」の対象が必要になります。日本で『ALWAYS 三丁目の夕日』がある共感をもって受け入れられたのは、日本の観客が現代の日本と比較することにより、その差異を感じ取り、そこに懐かしさなどの様々な感情を抱くことができたからです。つまりそれには、観客が「現代の日本」を知っていることが前提になります。
でも、1960年代のプエルトリコとなると、その比較対照物がない。たとえばせっせと貧困を描写されても、わたしなんかの認識では、プエルトリコは今でもとっても貧しい国なんだもん。60年代だからそんななのか、今でももしかしたらそんななのか、判断できない。環境の破壊・土地の乱開発とか言われても、当時だからそんななのか、今でもその情況は全く同じなのか(それどころかエスカレートしちゃってるのか)、判断できない。アメリカとの関係にしてもそう。地元のひとたちの雇用の問題にしてもそう。人種差別とか無責任な観光客とか作られた楽園のイメージとか、映画で見せられた全ての事柄において、それが特定の時代の特定の場所の特性なのかどうか、わからない。だからどうしても、その時代・その場所のダイナミックな空気を感じ取ることができないのです。
でも、たとえば同じ楽園イメージのハワイが舞台の『ファミリー・ツリー』だったらば、そこで暮らしている人間にとってはそこはあくまで生活の場であって、日々の悩みや問題はあり、楽園なんかじゃちっともないよ、ということが、渋滞したハイウェイや排気ガスで汚れた街路なんかで手際よく描写されていたので、「現代のハワイ」について特に確たる比較対照の基準を持たないわたしですら、そういうダイナミズムを感じ取ることができたと思うの。
というわけで、なんだかモヤモヤと不完全燃焼感満載で観てしまったのですが、アーロン・エッカートはよかった(笑)。
エッカート演じるサンダーソンって、ほんとにクズ野郎なんですよ。金儲けのためなら手段を選ばない俗物。ジョニデにフィアンセを寝取られたかわいそうな一面もありますが、そのフィアンセだってかれにとってはアクセサリーのようなもので、本気で愛していたとはとても思えない。
だけどビジュアルがいいの(笑)。
もう、ね、白いスーツでね。まわりはみんなだらしない格好をしているので、そのスーツ姿の清々しいことといったら(笑)。赤いスポーツカーを楽しげに乗り回し、さりげなく豪邸に住み、ヨットを所有し、白昼海で愛を交わす。プロモーションビデオのようでしてよ。クズ野郎だろうが貧民から搾取してようが豊かな自然を破壊していようが、そんなのこの際どうでもいいって感じ。ジョニデが全く貢献していなかった「映画的セクシー」を一身に担っていた感じであります。
そして、この男、実態は詐欺師ですから、対人スキルがものっそあるのね。相手によって巧みに言辞を使い分け、声のトーンを使い分け、笑顔を使い分け、その場にもっともふさわしい態度をとることができる。まっことエレガントであります。こういうコミュ力のある人間は、どうしたって魅力的に映る。裏切ったフィアンセや要ナシと判断したケンプをカットアウトするときのきっぱりした残酷さもいいです。エッカートは好人物を演じたらこの上なく好人物ですが、残酷な人間を演じるとまた、一際魅力的ですね。
ほかの出演者について言えば、リチャード・ジェンキンスやマイケル・リスポリやジョヴァンニ・リビシのキャラクターは、まず文句なしに面白かったです。到底共感はできないし、中でもリビシのだらしなさ&不潔感ときたら観ていて苦痛を感じるレベルに達していたりもするのだけれど、とにかくキャラクターとしては面白かった。
特にジェンキンスときたら、かつら被ってるだけでおかしいんだもん。反則だよ、もう(笑)。ジェンキンスさんはかつらなんか被らなくても十分に魅力的なので、堂々と禿げていてください。ショーン・コネリーだってブルース・ウィリスだってスタンリー・トゥッチだって、みんなみんな禿げててもステキじゃないですか。禿げは障害じゃなくて立派な個性よ。
・ラム・ダイアリー@ぴあ映画生活
ブルース・ロビンソン監督、アーロン・エッカート出演作です☆
『ラビット・ホール』からまだ半年ちょっとしか経っていないのに、もうエッカートとスクリーンで会えるとは、大変喜ばしいことであります。それもひとえにジョニー・デップが共演(主演とも言う)してくれたからこそですね。これからもエッカートさんはせっせとデップと組んで映画に出演していただきたいと思います。……ん、待てよ、エッカート自身が日本市場でも確実に公開される人気者になってくれさえすれば、デップさま頼みをしなくても確実にスクリーンで会えるのよね。ここはやっぱ、ニッポンの女子のみなさまが一日も早くエッカートの魅力に目覚めてくれますように(笑)。
ジョニー・デップが自らの親友でもあったジャーナリスト、ハンター・S・トンプソン(故人)の自伝的同名小説をもとに、製作・主演を勤めた作品である由。
1960年、プエルトリコ。ライターとして身を立てたいという野心をもった若きジャーナリスト、ポール・ケンプ(ジョニー・デップ)は、本が売れるまでの繋ぎとして地元の新聞社に職を得る。当時のプエルトリコ社会に蔓延する不正や矛盾は、ほんの数日滞在しただけのケンプの目から見ても、目を覆うばかりの惨状。記事にして糾弾したくも、編集長のロッターマン(リチャード・ジェンキンス)は、新聞の存続のことばかりを考え、スポンサー企業を刺激しないために、当たり障りのない記事しか載せようとせず、ケンプにあてがわれた仕事は星占いの欄。ボブ・サーラ(マイケル・リスポリ)やモバーグ(ジョヴァンニ・リビシ)といった一癖ある同僚たちも、もちろんやる気のあろうはずもなく、毎日ラム酒とドラッグに溺れる日々。
そんなある日、ひょんなことから、地元の有力者でありリッチなアメリカ人実業家であるサンダーソン(アーロン・エッカート)に目をつけられたケンプは、不正な土地取引の肩棒を担がされそうになる。ただでさえヤバイ情況なのに、その上ケンプはサンダーソンのフィアンセ、シュノー(アンバー・ハード)に心を奪われてしまうのだった。
という物語は、土地の不正取引とか貧困とか乱開発とか最強国から最貧国への搾取関係とか、そりゃあもう様々な社会問題を内包してはいますが、結局は若き日のケンプの青春譜に主眼があるというか、社会問題に関しては背景描写に過ぎない印象です。それらに対する何らかの考察も解決のための努力も見られず、主人公はじめ登場人物はみな、ただひたすら飲んだくれているのみです。
そうは言っても、エキゾチックな外国の風物を、好奇心にあふれた若い目で捉えた実録ですから、たぶんこの話、小説で読んだら滅法面白いのだと思う。未読ですけど、機会があったら読みたいな、と思いました。
でも、映画としてみると、なんとも魅力薄な感じ。
映画としてつまらなかった理由は、主にふたつあったのかな。
ひとつは、主人公がなんにもしないことです。
小説であれば、語り部としての視点人物である主人公が特になにもしなくても、それはそれでアリなのですが、劇映画で主人公が徹頭徹尾傍観者に終始するなんてありえない。そして傍観者でしかないケンプには、キャラクターとしての魅力が全くありません。
そもそもかれが、ジャーナリストとしてどれだけのポテンシャルをもったひとであるのかが全くわからない。小説であれば、現にそのひとが書いたものを読んでいるわけだから、そのひとがどれだけ凄いかは一読瞭然なんだけど、映画である以上、かれの凄さを客観的に描写してくれないことにはわからない。この映画ではほんとにただただ大酒を飲み、何の心構えもジャーナリスティックな視点もなく、なりゆきで流されて土地の有力者であるサンダーソンと癒着し、サンダーソンのフィアンセとのゴタゴタがらみでサンダーソンからの「援助」を切られたところで初めて「義憤」に燃え、記事を書いて糾弾しようと試みはするけれど、ロッターマンに逃げられて新聞社は潰れ、新聞という媒体がなければ何ひとつすることができず、最後にやった「報復」は、サンダーマンの私有財産であるヨットを盗んで逃げること。
や、それでも、ケンプがロクデナシなりに憎みきれないロクデナシであるならまだしも、シュノーのことを運命の相手だと言い、フィアンセがいるにもかかわらず物欲しげな態度満々だったのに、酔っ払ってはめをはずした彼女が地元のお兄さんたちに取り巻かれた際には、見るからにヤバイ情況だったにもかかわらず、ちょっと脅されただけで彼女のことは置き去り。我が身かわいさに彼女を見捨てたにもかかわらず、(恐らく)輪姦されフィアンセに棄てられ、それでも気丈に新しい生活をするためにNYに戻った彼女を追いかけて、最終的には彼女と結ばれました、やっぱり彼女は運命の相手だったんです、なんて、最後にテロップで説明されたところで観客は白けるだけです。運命の恋をテロップで「説明」しちゃいかんでしょうよ。
ただでさえ、だらしない酔っ払いは存在として不快です。そんな人物ばかり延々と見せられるのは辛い。観客がその不快に耐えるのは、どこかで起死回生の逆転があるだろうと期待するからです。この映画にはそれがない。そしてまた、だらしない酔っ払いでも主人公が20代の若者であるならば、まだ「ヤンチャ」で済ますことができたかもしれないけれど、設定上は若者でも実際のジョニー・デップは40代も半ば過ぎ。いくら並の40代からしたら奇跡のように若々しいとは言っても、やはり中年のおっさんであるには変わりないわけで、そうなるとやはり観客の視線は自ずと厳しいものになる。
そしてもうひとつの理由は、「1960年の」「プエルトリコ」という設定。
これはたぶん、わたしの方に責任があって、わたしがあまりにもモノシラズであるためにピンとこなかったということなんですが、少なくともわたしはこの映画から特定の時代の雰囲気や場の雰囲気を感じ取ることができませんでした。
そもそもある特定の時代や場の雰囲気を感じるためには、「比較」の対象が必要になります。日本で『ALWAYS 三丁目の夕日』がある共感をもって受け入れられたのは、日本の観客が現代の日本と比較することにより、その差異を感じ取り、そこに懐かしさなどの様々な感情を抱くことができたからです。つまりそれには、観客が「現代の日本」を知っていることが前提になります。
でも、1960年代のプエルトリコとなると、その比較対照物がない。たとえばせっせと貧困を描写されても、わたしなんかの認識では、プエルトリコは今でもとっても貧しい国なんだもん。60年代だからそんななのか、今でももしかしたらそんななのか、判断できない。環境の破壊・土地の乱開発とか言われても、当時だからそんななのか、今でもその情況は全く同じなのか(それどころかエスカレートしちゃってるのか)、判断できない。アメリカとの関係にしてもそう。地元のひとたちの雇用の問題にしてもそう。人種差別とか無責任な観光客とか作られた楽園のイメージとか、映画で見せられた全ての事柄において、それが特定の時代の特定の場所の特性なのかどうか、わからない。だからどうしても、その時代・その場所のダイナミックな空気を感じ取ることができないのです。
でも、たとえば同じ楽園イメージのハワイが舞台の『ファミリー・ツリー』だったらば、そこで暮らしている人間にとってはそこはあくまで生活の場であって、日々の悩みや問題はあり、楽園なんかじゃちっともないよ、ということが、渋滞したハイウェイや排気ガスで汚れた街路なんかで手際よく描写されていたので、「現代のハワイ」について特に確たる比較対照の基準を持たないわたしですら、そういうダイナミズムを感じ取ることができたと思うの。
というわけで、なんだかモヤモヤと不完全燃焼感満載で観てしまったのですが、アーロン・エッカートはよかった(笑)。
エッカート演じるサンダーソンって、ほんとにクズ野郎なんですよ。金儲けのためなら手段を選ばない俗物。ジョニデにフィアンセを寝取られたかわいそうな一面もありますが、そのフィアンセだってかれにとってはアクセサリーのようなもので、本気で愛していたとはとても思えない。
だけどビジュアルがいいの(笑)。
もう、ね、白いスーツでね。まわりはみんなだらしない格好をしているので、そのスーツ姿の清々しいことといったら(笑)。赤いスポーツカーを楽しげに乗り回し、さりげなく豪邸に住み、ヨットを所有し、白昼海で愛を交わす。プロモーションビデオのようでしてよ。クズ野郎だろうが貧民から搾取してようが豊かな自然を破壊していようが、そんなのこの際どうでもいいって感じ。ジョニデが全く貢献していなかった「映画的セクシー」を一身に担っていた感じであります。
そして、この男、実態は詐欺師ですから、対人スキルがものっそあるのね。相手によって巧みに言辞を使い分け、声のトーンを使い分け、笑顔を使い分け、その場にもっともふさわしい態度をとることができる。まっことエレガントであります。こういうコミュ力のある人間は、どうしたって魅力的に映る。裏切ったフィアンセや要ナシと判断したケンプをカットアウトするときのきっぱりした残酷さもいいです。エッカートは好人物を演じたらこの上なく好人物ですが、残酷な人間を演じるとまた、一際魅力的ですね。
ほかの出演者について言えば、リチャード・ジェンキンスやマイケル・リスポリやジョヴァンニ・リビシのキャラクターは、まず文句なしに面白かったです。到底共感はできないし、中でもリビシのだらしなさ&不潔感ときたら観ていて苦痛を感じるレベルに達していたりもするのだけれど、とにかくキャラクターとしては面白かった。
特にジェンキンスときたら、かつら被ってるだけでおかしいんだもん。反則だよ、もう(笑)。ジェンキンスさんはかつらなんか被らなくても十分に魅力的なので、堂々と禿げていてください。ショーン・コネリーだってブルース・ウィリスだってスタンリー・トゥッチだって、みんなみんな禿げててもステキじゃないですか。禿げは障害じゃなくて立派な個性よ。
・ラム・ダイアリー@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-07-10 18:14
| 映画ら行