2012年 07月 02日
オレンジと太陽
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★ネタバレ注意★
デヴィッド・ウェナム出演作☆
しかも、ヒューゴ・ウィービング共演☆
思えば、マン監督の裏切り(未だにネにもっている模様)により、絶望と厭世の闇に付き落とされて以来、長い長い忍従の日々でした。しかしここに、ついにようやくその日が報われる時が来たのです。ローチ監督、ありがとうありがとうほんとうにどうもありがとう(>_<)。
ローチ監督とは言っても、こちらのローチ監督はケン・ローチ監督ではなく、そのご子息である由です。さすがカエルの子はカエル。鋭い問題意識をもったキリリと社会派の映画でした。
テーマはイギリス最大のスキャンダルとも言われている「児童移民」。
児童福祉予算を削減したかった英国と、白人移民を受け入れたかったオーストラリア等英連邦諸国の利害が一致した結果、1930年代から70年代にかけて英国の国策として行われた政策で、親の離婚や貧困(や死別)のため孤児院に送られた子どもたちに、両親が生存している場合も、「亡くなった」と虚偽の情報を与え、強制的に引き離し、船に詰め込んで受け入れ地に送り込んだもので、その数は13万人にも上ったと言います。「太陽の輝く楽園でオレンジを食べ放題」といった甘言で騙された孤児たちの中には、物の分別のつくはずもないわずか三歳の幼子も含まれていた由。
しかもそうして母国(と大人の保護)から引き離されて遠い異国に連れて来られた子どもたちの多くは、(女の子だけでなく男の子も)性的虐待を受け、教育は受けられず、過酷な強制労働をさせられていたと言います。まさに、「苛めても怒る後ろ盾がいない」のをいいことに、弱者を思う存分苛めまくる構図。
そんな中にわずか三歳の幼子も含まれていたというのです。
文明国家が自国民に対して国策として行ったとは到底思い難い蛮挙です。ましてや福祉国家がウリであったはずの英国でのスキャンダルです。政府および関係筋は必死で隠蔽しようとするでしょうし、事実隠蔽してきたわけで、だからこそごく最近まで何十年にも亘って行われ続けてきていながら、一般には全く知られていなかったわけですが、事が露見したのは全くの偶然からでした。
この児童移民政策の犠牲者のひとりであり、4歳の時に英国から豪州に強制移住させられた女性が、自らのルーツを探るため渡英し、たまたま相談を持ちかけたソーシャルワーカーがマーガレット・ハンフリーズだった。ハンフリーズが特別な女性だったわけではなく、彼女もまた「全く何も知らない」善良な英国民のひとりだったわけですが、そんな身の毛がよだつような実態を知ってしまった以上、なにもしないでいるわけにはいかないと考える善良な心と、「なにか」を始める行動力と、始めたなにかをやりとげる強い意志とをもった人物であったのです。
この映画は、このハンフリーズの著作『からのゆりかご 大英帝国の迷い子たち』を原作としており、ハンフリーズを演じているのがエミリー・ワトソンです。そして、デヴィッド・ウェナムとヒューゴ・ウィーヴィングは、それぞれ幼くしてオーストラリアに送られた元孤児を演じています。
まずやはり、ハンフリーズを演じたエミリー・ワトソンがすばらしい。彼女は決して「特別な」女性ではないのですね。ずば抜けて有能であるとか、強いとか、聡明であるとか、そういうことではないごく普通のソーシャルワーカーだ。彼女のおかげで旧悪をあばかれて怒り狂う関係筋の圧力には普通の怯えを見せるし、情報を隠蔽しようとする当局者たちに対して何らかの切り札を持っているわけでもない。ただただひたすら地道に自分の精力と時間と足を使い、ひとつひとつ事案を潰していくのです。
彼女の唯一の武器は、掛け値なしの「誠実さ」です。
しらばっくれようとする政府当局者から必要な情報を出させようとする場面でも、感動的な音楽にのってカッコイイ台詞で相手をねじふせるハリウッド式の演出ではなく、ただただ愚直に誠意を見せるだけです。だけどその誠意は、少しずつであれ迂遠であれ確かに相手に届くものだった。それこそが彼女の強みだった。その誠実さはとりわけ被害者である孤児たちの信頼を確かに勝ち得るものであったし、その信頼こそが彼女を前に進ませ続ける原動力になったのだとも思う。
彼女は被害者に共感し、心をひとつにし、被害者と同じ苦しみを苦しんでしまう。客観的にならなくては、自分はあくまで第三者なのだからと、繰り返し自分を戒めても、それでも深く傷付いてしまう。そこから怒りが生じてくる。孤児たちを襲った運命と、それをもたらした人々の(残虐性と言うよりは)感覚麻痺に、激しい憤りを感じる。
すばらしいシーンがありました。虐待の「現場」を知っていてほしいと、デヴィッド・ウェナムは自分たちが収容されていた修道院にハンフリーズを連れて行くのですが、そこで彼女は神父たちに嫌がらせをされる。お茶の席に行き合わせたのに、要求しないとお茶を出そうとせず、渋々出しても敢えて欠けた茶碗を持ってくる。
敵地に乗り込み、敵愾心に満ちた視線の中で、毅然と背を伸ばし、静かにしかし堂々と、ハンフリーズは言います。「何をそんなに恐れているの? わたしを怖がる必要なんか何もないでしょう? あなたたちは大人なんだから」
そしてデヴィッド・ウェナムが演じたレンとヒューゴ・ウィービングが演じたジャックですが。
かれらはともに、かつてその身に受けた虐待と、それ以上に自らのアイデンティティが掴めないことにより深く傷付いて成長しました。現在では社会的にそれなりの成功を収めてはいても、あまりにも深くいたましい傷は、ふたりの人格にそれぞれ深刻な影をおとしている。
ジャックは自信と自尊と自負が持てず、内向的でおどおどした人格になってしまった。逆にレンは攻撃的、というより他者との適切な距離感が掴めない大人になってしまった。いかようにでも強くなれるはずの男たちが、いまだに血を流し続ける心をもてあましている。あまりにも痛々しいのです。このふたりみたいな演技巧者にそんな芝居をされてしまうと、観ている方は息ができません。
しかし、元「加害者」たちの攻撃からハンフリーズを守ろうとすることによって、沈みがちだったジャックは次第に強さと自信を取り戻していったように見える。もちろんハンフリーズの尽力によって実の姉とコンタクトがとれ、母親の消息が知らされたことが大きいのですが、しかし及ばずながらもハンフリーズを守ろうとする行為は、かれにとって決して無駄でも無意味でもなかった。
レンもまた、ハンフリーズとの関わりにより、冷静に自分の悲劇を見つめ、受け入れることにより、足踏みしていたその場から、新たな一歩を踏み出すことができたように見える。痛々しかったふたりの再生は、観る者を静かな感動に引き込むのです。この映画は、ドラマとしては申し分ない。
その分、欠点もまたあからさまな映画ではありました。
小さな個人の視点では緻密に巧みに編まれた物語が、大きな社会的視点で観ると、物足りない部分が多いのです。この物語が、単にある虐待された個人の再生の物語であったのならそれで別に構わないのだけれど、これほどのテーマを扱ったものである以上、もっと巨視的な描写がないともどかしいのです。
そもそも、ハンフリーズの活動に対して、世論はどのように受け止め、反応したのか? 「加害者」として指された人々のヒステリックな反発だけは描かれていましたが、一般のひとたちにとって、この歴史的不祥事の発覚はどのような影響をもたらしたのか。必ずや小さからぬ反響が起こり、それが波及していったはずなんですが、それが全く描かれていないのが、どうにも片手落ちに感じてしまう。それは同時に、この問題に対する政府の反応がきちんと描かれていないせいでもあると思う。もちろん、政権がこの非を認め謝罪した、という事実は告げられるのだけど、単にそれはそうした事実があったという情報として提示されるだけなのです。
それにしても、アイデンティティーというものが、ひとにとってこれほどまでに重要かつ必要不可欠なものであるということ。わたしとは一体だれなのか。ひとはそれを知らない限り、生きていくことすら難しい。抵抗するすべもない幼い者たちから、その生存の基盤とも言えるものを根こそぎ奪いとってしまった「児童移民」政策の罪深さは、単に表面に現れる虐待などの問題にとどまらない根深いものであろうと思うのです。福祉予算をカットしたい、などというあまりにも安易な理由でそれほどの罪を犯してしまった時の為政者たちが、どこまでその本質を理解して「反省」しているのか。心許ない感じがします。
・オレンジと太陽@ぴあ映画生活
デヴィッド・ウェナム出演作☆
しかも、ヒューゴ・ウィービング共演☆
思えば、マン監督の裏切り(未だにネにもっている模様)により、絶望と厭世の闇に付き落とされて以来、長い長い忍従の日々でした。しかしここに、ついにようやくその日が報われる時が来たのです。ローチ監督、ありがとうありがとうほんとうにどうもありがとう(>_<)。
ローチ監督とは言っても、こちらのローチ監督はケン・ローチ監督ではなく、そのご子息である由です。さすがカエルの子はカエル。鋭い問題意識をもったキリリと社会派の映画でした。
テーマはイギリス最大のスキャンダルとも言われている「児童移民」。
児童福祉予算を削減したかった英国と、白人移民を受け入れたかったオーストラリア等英連邦諸国の利害が一致した結果、1930年代から70年代にかけて英国の国策として行われた政策で、親の離婚や貧困(や死別)のため孤児院に送られた子どもたちに、両親が生存している場合も、「亡くなった」と虚偽の情報を与え、強制的に引き離し、船に詰め込んで受け入れ地に送り込んだもので、その数は13万人にも上ったと言います。「太陽の輝く楽園でオレンジを食べ放題」といった甘言で騙された孤児たちの中には、物の分別のつくはずもないわずか三歳の幼子も含まれていた由。
しかもそうして母国(と大人の保護)から引き離されて遠い異国に連れて来られた子どもたちの多くは、(女の子だけでなく男の子も)性的虐待を受け、教育は受けられず、過酷な強制労働をさせられていたと言います。まさに、「苛めても怒る後ろ盾がいない」のをいいことに、弱者を思う存分苛めまくる構図。
そんな中にわずか三歳の幼子も含まれていたというのです。
文明国家が自国民に対して国策として行ったとは到底思い難い蛮挙です。ましてや福祉国家がウリであったはずの英国でのスキャンダルです。政府および関係筋は必死で隠蔽しようとするでしょうし、事実隠蔽してきたわけで、だからこそごく最近まで何十年にも亘って行われ続けてきていながら、一般には全く知られていなかったわけですが、事が露見したのは全くの偶然からでした。
この児童移民政策の犠牲者のひとりであり、4歳の時に英国から豪州に強制移住させられた女性が、自らのルーツを探るため渡英し、たまたま相談を持ちかけたソーシャルワーカーがマーガレット・ハンフリーズだった。ハンフリーズが特別な女性だったわけではなく、彼女もまた「全く何も知らない」善良な英国民のひとりだったわけですが、そんな身の毛がよだつような実態を知ってしまった以上、なにもしないでいるわけにはいかないと考える善良な心と、「なにか」を始める行動力と、始めたなにかをやりとげる強い意志とをもった人物であったのです。
この映画は、このハンフリーズの著作『からのゆりかご 大英帝国の迷い子たち』を原作としており、ハンフリーズを演じているのがエミリー・ワトソンです。そして、デヴィッド・ウェナムとヒューゴ・ウィーヴィングは、それぞれ幼くしてオーストラリアに送られた元孤児を演じています。
まずやはり、ハンフリーズを演じたエミリー・ワトソンがすばらしい。彼女は決して「特別な」女性ではないのですね。ずば抜けて有能であるとか、強いとか、聡明であるとか、そういうことではないごく普通のソーシャルワーカーだ。彼女のおかげで旧悪をあばかれて怒り狂う関係筋の圧力には普通の怯えを見せるし、情報を隠蔽しようとする当局者たちに対して何らかの切り札を持っているわけでもない。ただただひたすら地道に自分の精力と時間と足を使い、ひとつひとつ事案を潰していくのです。
彼女の唯一の武器は、掛け値なしの「誠実さ」です。
しらばっくれようとする政府当局者から必要な情報を出させようとする場面でも、感動的な音楽にのってカッコイイ台詞で相手をねじふせるハリウッド式の演出ではなく、ただただ愚直に誠意を見せるだけです。だけどその誠意は、少しずつであれ迂遠であれ確かに相手に届くものだった。それこそが彼女の強みだった。その誠実さはとりわけ被害者である孤児たちの信頼を確かに勝ち得るものであったし、その信頼こそが彼女を前に進ませ続ける原動力になったのだとも思う。
彼女は被害者に共感し、心をひとつにし、被害者と同じ苦しみを苦しんでしまう。客観的にならなくては、自分はあくまで第三者なのだからと、繰り返し自分を戒めても、それでも深く傷付いてしまう。そこから怒りが生じてくる。孤児たちを襲った運命と、それをもたらした人々の(残虐性と言うよりは)感覚麻痺に、激しい憤りを感じる。
すばらしいシーンがありました。虐待の「現場」を知っていてほしいと、デヴィッド・ウェナムは自分たちが収容されていた修道院にハンフリーズを連れて行くのですが、そこで彼女は神父たちに嫌がらせをされる。お茶の席に行き合わせたのに、要求しないとお茶を出そうとせず、渋々出しても敢えて欠けた茶碗を持ってくる。
敵地に乗り込み、敵愾心に満ちた視線の中で、毅然と背を伸ばし、静かにしかし堂々と、ハンフリーズは言います。「何をそんなに恐れているの? わたしを怖がる必要なんか何もないでしょう? あなたたちは大人なんだから」
そしてデヴィッド・ウェナムが演じたレンとヒューゴ・ウィービングが演じたジャックですが。
かれらはともに、かつてその身に受けた虐待と、それ以上に自らのアイデンティティが掴めないことにより深く傷付いて成長しました。現在では社会的にそれなりの成功を収めてはいても、あまりにも深くいたましい傷は、ふたりの人格にそれぞれ深刻な影をおとしている。
ジャックは自信と自尊と自負が持てず、内向的でおどおどした人格になってしまった。逆にレンは攻撃的、というより他者との適切な距離感が掴めない大人になってしまった。いかようにでも強くなれるはずの男たちが、いまだに血を流し続ける心をもてあましている。あまりにも痛々しいのです。このふたりみたいな演技巧者にそんな芝居をされてしまうと、観ている方は息ができません。
しかし、元「加害者」たちの攻撃からハンフリーズを守ろうとすることによって、沈みがちだったジャックは次第に強さと自信を取り戻していったように見える。もちろんハンフリーズの尽力によって実の姉とコンタクトがとれ、母親の消息が知らされたことが大きいのですが、しかし及ばずながらもハンフリーズを守ろうとする行為は、かれにとって決して無駄でも無意味でもなかった。
レンもまた、ハンフリーズとの関わりにより、冷静に自分の悲劇を見つめ、受け入れることにより、足踏みしていたその場から、新たな一歩を踏み出すことができたように見える。痛々しかったふたりの再生は、観る者を静かな感動に引き込むのです。この映画は、ドラマとしては申し分ない。
その分、欠点もまたあからさまな映画ではありました。
小さな個人の視点では緻密に巧みに編まれた物語が、大きな社会的視点で観ると、物足りない部分が多いのです。この物語が、単にある虐待された個人の再生の物語であったのならそれで別に構わないのだけれど、これほどのテーマを扱ったものである以上、もっと巨視的な描写がないともどかしいのです。
そもそも、ハンフリーズの活動に対して、世論はどのように受け止め、反応したのか? 「加害者」として指された人々のヒステリックな反発だけは描かれていましたが、一般のひとたちにとって、この歴史的不祥事の発覚はどのような影響をもたらしたのか。必ずや小さからぬ反響が起こり、それが波及していったはずなんですが、それが全く描かれていないのが、どうにも片手落ちに感じてしまう。それは同時に、この問題に対する政府の反応がきちんと描かれていないせいでもあると思う。もちろん、政権がこの非を認め謝罪した、という事実は告げられるのだけど、単にそれはそうした事実があったという情報として提示されるだけなのです。
それにしても、アイデンティティーというものが、ひとにとってこれほどまでに重要かつ必要不可欠なものであるということ。わたしとは一体だれなのか。ひとはそれを知らない限り、生きていくことすら難しい。抵抗するすべもない幼い者たちから、その生存の基盤とも言えるものを根こそぎ奪いとってしまった「児童移民」政策の罪深さは、単に表面に現れる虐待などの問題にとどまらない根深いものであろうと思うのです。福祉予算をカットしたい、などというあまりにも安易な理由でそれほどの罪を犯してしまった時の為政者たちが、どこまでその本質を理解して「反省」しているのか。心許ない感じがします。
・オレンジと太陽@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-07-02 19:46
| 映画あ行