2012年 05月 06日
捜査官X
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★ネタバレ注意★
ピーター・チャン監督、ドニー・イェン主演の中国・香港合作映画です。
例によってニッポンの配給は、この映画本来のありかたを無視して、金城武主演のミステリのような売り方をしたいっぽいですが、この映画の原題はそのものズバリ『武侠』、あくまでドニー・イェンが主演のカンフー・アクションです。
武侠、という言葉が日本人には馴染みがいまひとつであるならば、これは任侠のことだと思ってもそんなにはずれじゃないんじゃないかな。中国語の武侠という言葉には、それはそれで細かいお約束はありますが、要するに、腕ひとつで渡世する孤高のアウトローの物語。なんていうか、こう、この映画を観ると、「闘うオトコの心」を持ったひとであればだれでも、少年でも青年でも中年でも老年でも(女性でも)、終了後の劇場のロビーで、腰のあたりでちっちゃくカンフーの型を決めてみたくなったりするような、王道的かつ本格的な漢(おとこ、と読んでね)の映画であります。
1917年、雲南省の寒村で、二人組みの強盗が殺された。たまたま居合わせた紙職人のリウ・ジンシー(ドニー・イェン)ともみあいとなり、返り討ちにされた格好だった。強盗は前科多数の凶悪犯であり、武術の腕も立つ。みすみす素人に殺されるとはおかしな話だった。捜査に当たったシュウ・バイジュウ(金城武)は、ジンシーの来歴に疑問を抱くのだが。
というわけで、もちろんドニー・イェンが一介の紙職人なんてはずはなく、紙職人に身をやつしたワケありの武術の達人であることが、シュウの捜査によって浮かび上がってくるという仕掛け。
この映画でいいなぁ、と思うのは、まず、ロケーションと丹念なカメラワークです。
豊富な水としたたるような緑、特徴的な家屋と、二階の屋根の上で牛が暮らしていたりする一種ユーモラスな生活感。雲南の小さな村のたたずまいが、ほんとにしっとりと美しく描かれていて、この映像を観られただけでも幸せだなぁ、と思います。
そしてもうひとつ、人々の生活の様子が、細部まで丁寧に描かれているのもいい。きっちり規則正しい生活を送るジンシーの、線香で作った目覚まし時計、乳歯が生え変わる幼子、食事の支度の風景、食卓の光景、紙を漉き、窓に目張りするジンシーの仕事振り、年長の子どもたちの更衣(成人)の儀式、市や祭り……。なにもかもが温かくなつかしい。こうした丁寧な描写が、後の風雲急を告げる大活劇をさらに引き立てていることは言うまでもありません。
その美しい農村の暮らしを体現するのが、ジンシーの妻、アユーを演じたタン・ウェイです。いいなぁ、このひとは、いい。愛くるしい童顔でありながらほんのりと漂う絶妙の色香。清楚な挙措と薄倖な雰囲気。なんとなくモードな印象すらあるモノトーンの民族衣装がとってもお似合いです。こんな妻との生活を守るためなら、そりゃ、ドニー・イェンだって死力を尽くそうというものだ!
金城武は、役割としては狂言回し的な立ち位置なのですが、ちょっとすっとぼけたユーモラスな雰囲気で、これまたとてもいいです。そう感じるのは、言葉の要因が大きいかも。かなり訛っているのですが、そのおかげで、台詞がいちいちとても朴訥に聞こえる。適確な例えかどうかはわかりませんが、なんとなく栃木弁って感じ。栃木弁を売りにしているお笑いのひとがいるでしょ? あんな感じだと思っていただければまちがいないです。
後になって、金城武が演じたシュウは、北京や上海といった大都市の出身ではなく、事件が起きた雲南の村からほど近い四川省の出だということが明かされるのだけど、かれもまた田舎のひとなんだね。
で、朴訥な喋りのシュウは、行動がまた、なんとなくおかしい。
それもこれも、ジンシーの正体を暴きたい一心なところからきているんだけど、ジンシーの家に食事に招かれただけなのに、勝手にさっさと泊まっちゃうし、ジンシーとアユーが寝ている部屋に入り込んで、寝ているジンシーをガン見、というかフンフンと匂い嗅いでるし(笑)。武術の達人ならこのくらいよけきれるだろうと、ジンシーのことを橋から突き落したり、後ろから斬りかかったり、やりたい放題。こんな捜査官はイヤだ(笑)。
だけど、そういうシュウの行動原理を貫いているのは、法は絶対である、という信念なんですね。シュウはかつて、子どもだからと見逃してやったばかりに、その子どもが殺人を犯した(そしてシュウ自身も毒を飲まされて身体を痛めることになった)、という苦い過去があり、それ以来、法は法だ、どんなに情状酌量の余地があろうと、捜査官たるもの、恣意的に犯罪者を見逃すわけにはいかない、という信念の下に生きてきたのです。それがシュウの矜持。シュウの正義。そのおかげで妻との仲が壊れてしまう、という悲しい結果も招いてしまったのだけど、それでもシュウは信念を曲げることはできなかった。
その辺をしっかり描いているために、この映画はちょっと、観客が期待するより重くなっちゃったのかなぁ、という嫌いはあるんですが(本国での興行成績はいまひとつだったそうです)、逆に言えば、それだけしっかりと土性骨がすわっているということでもあり、これでこそ、ピーター・チャン監督の面目躍如という感じもするのです。
さてそこで、ヒーロー、ドニー・イェンですけれども☆
結局かれは、七十二地煞という西夏族の秘密結社の一員であり、それどころか、そのボスの息子であった。漢族への復讐の一念に凝り固まっている閉鎖的な集団の残虐な所業に耐え切れなくなって、親を棄て、血の繋がりを棄て、雲南の片田舎に身をひそめていたのに、運命はかれをそっとしておいてはくれなかった。たまたま現れた強盗のために、封印していた殺人技を使わざるを得なくなってしまったのでした。
この描写がね、もうね、すごい(>_<)!
ジンシーが強盗と遭遇するシーンは、最初に、「一介の紙職人と強盗」という目線で提示された後、捜査官シェンの捜査を通して、「その実ほんとのことろはどうだったのか」という目線で再提示されるのですが、このギャップがゾクソクするほど面白いです。
最初の描写では、怯えて竦み上がる朴訥な田舎者が、こそこそ隠れたり、めったやたらと手を振り回したりしたところ、偶然が味方してピタゴラスイッチ的に哀れ強盗は一巻の終り、といったニュアンスで、ユーモラスにすら見える描かれ方だった全く同じシーンが、シェン目線の再現映像では、ドニー・イェンの顔つきがあたかも仮面を取り替えたかのように瞬時に別人に変化する。表情が変わる。目が変わる。画面中に殺気がほとばしるのです。これはほんとに、一度自分の目で見てみて! としか言いようがない迫力です。そして殺戮マシーンと化したドニー・イェンのアクションがすばらしいことは言うまでもなし!
しかし、そうは言っても、命を賭して「殺さない生き方」を選んだジンシーです。必然的に訪れてしまう父子対決のシーンでは、ほんとうに心憎い演出が施されています。観たひとのだれもが、やっぱここはそうでなくちゃね、と思うんじゃないかな。思ってくれるといいな。だって、この展開があるからこそ、ラストシーンが映えると思うので。
ラストシーンは爽やかなタン・ウェイの笑顔で終わるのです。
ジンシーはアユーにとっては二人目の夫。最初の夫には棄てられてしまった。夫はいつも、「それじゃ、晩方に」と言って仕事に出かけていたのだけれど、ある日、その言葉を残したまま、ついに家には帰らなかった。そのことがトラウマになっているアユーは、ジンシーの口からも同じ台詞が出されると辛いのです。お願いそれは言わないで、とその言葉を封じてしまう。だけど、大きな波乱を乗り越えて、一度は失うことも覚悟した後で、心の底からジンシーの、自分や子どもたちと共に生きるという決意を信じることができるようになったとき、アユーはその台詞で夫を送り出すことができるようになるのですね。
晩上見(ワンシャン チエン)。それじゃ、また晩方にね。
・捜査官X@ぴあ映画生活
ピーター・チャン監督、ドニー・イェン主演の中国・香港合作映画です。
例によってニッポンの配給は、この映画本来のありかたを無視して、金城武主演のミステリのような売り方をしたいっぽいですが、この映画の原題はそのものズバリ『武侠』、あくまでドニー・イェンが主演のカンフー・アクションです。
武侠、という言葉が日本人には馴染みがいまひとつであるならば、これは任侠のことだと思ってもそんなにはずれじゃないんじゃないかな。中国語の武侠という言葉には、それはそれで細かいお約束はありますが、要するに、腕ひとつで渡世する孤高のアウトローの物語。なんていうか、こう、この映画を観ると、「闘うオトコの心」を持ったひとであればだれでも、少年でも青年でも中年でも老年でも(女性でも)、終了後の劇場のロビーで、腰のあたりでちっちゃくカンフーの型を決めてみたくなったりするような、王道的かつ本格的な漢(おとこ、と読んでね)の映画であります。
1917年、雲南省の寒村で、二人組みの強盗が殺された。たまたま居合わせた紙職人のリウ・ジンシー(ドニー・イェン)ともみあいとなり、返り討ちにされた格好だった。強盗は前科多数の凶悪犯であり、武術の腕も立つ。みすみす素人に殺されるとはおかしな話だった。捜査に当たったシュウ・バイジュウ(金城武)は、ジンシーの来歴に疑問を抱くのだが。
というわけで、もちろんドニー・イェンが一介の紙職人なんてはずはなく、紙職人に身をやつしたワケありの武術の達人であることが、シュウの捜査によって浮かび上がってくるという仕掛け。
この映画でいいなぁ、と思うのは、まず、ロケーションと丹念なカメラワークです。
豊富な水としたたるような緑、特徴的な家屋と、二階の屋根の上で牛が暮らしていたりする一種ユーモラスな生活感。雲南の小さな村のたたずまいが、ほんとにしっとりと美しく描かれていて、この映像を観られただけでも幸せだなぁ、と思います。
そしてもうひとつ、人々の生活の様子が、細部まで丁寧に描かれているのもいい。きっちり規則正しい生活を送るジンシーの、線香で作った目覚まし時計、乳歯が生え変わる幼子、食事の支度の風景、食卓の光景、紙を漉き、窓に目張りするジンシーの仕事振り、年長の子どもたちの更衣(成人)の儀式、市や祭り……。なにもかもが温かくなつかしい。こうした丁寧な描写が、後の風雲急を告げる大活劇をさらに引き立てていることは言うまでもありません。
その美しい農村の暮らしを体現するのが、ジンシーの妻、アユーを演じたタン・ウェイです。いいなぁ、このひとは、いい。愛くるしい童顔でありながらほんのりと漂う絶妙の色香。清楚な挙措と薄倖な雰囲気。なんとなくモードな印象すらあるモノトーンの民族衣装がとってもお似合いです。こんな妻との生活を守るためなら、そりゃ、ドニー・イェンだって死力を尽くそうというものだ!
金城武は、役割としては狂言回し的な立ち位置なのですが、ちょっとすっとぼけたユーモラスな雰囲気で、これまたとてもいいです。そう感じるのは、言葉の要因が大きいかも。かなり訛っているのですが、そのおかげで、台詞がいちいちとても朴訥に聞こえる。適確な例えかどうかはわかりませんが、なんとなく栃木弁って感じ。栃木弁を売りにしているお笑いのひとがいるでしょ? あんな感じだと思っていただければまちがいないです。
後になって、金城武が演じたシュウは、北京や上海といった大都市の出身ではなく、事件が起きた雲南の村からほど近い四川省の出だということが明かされるのだけど、かれもまた田舎のひとなんだね。
で、朴訥な喋りのシュウは、行動がまた、なんとなくおかしい。
それもこれも、ジンシーの正体を暴きたい一心なところからきているんだけど、ジンシーの家に食事に招かれただけなのに、勝手にさっさと泊まっちゃうし、ジンシーとアユーが寝ている部屋に入り込んで、寝ているジンシーをガン見、というかフンフンと匂い嗅いでるし(笑)。武術の達人ならこのくらいよけきれるだろうと、ジンシーのことを橋から突き落したり、後ろから斬りかかったり、やりたい放題。こんな捜査官はイヤだ(笑)。
だけど、そういうシュウの行動原理を貫いているのは、法は絶対である、という信念なんですね。シュウはかつて、子どもだからと見逃してやったばかりに、その子どもが殺人を犯した(そしてシュウ自身も毒を飲まされて身体を痛めることになった)、という苦い過去があり、それ以来、法は法だ、どんなに情状酌量の余地があろうと、捜査官たるもの、恣意的に犯罪者を見逃すわけにはいかない、という信念の下に生きてきたのです。それがシュウの矜持。シュウの正義。そのおかげで妻との仲が壊れてしまう、という悲しい結果も招いてしまったのだけど、それでもシュウは信念を曲げることはできなかった。
その辺をしっかり描いているために、この映画はちょっと、観客が期待するより重くなっちゃったのかなぁ、という嫌いはあるんですが(本国での興行成績はいまひとつだったそうです)、逆に言えば、それだけしっかりと土性骨がすわっているということでもあり、これでこそ、ピーター・チャン監督の面目躍如という感じもするのです。
さてそこで、ヒーロー、ドニー・イェンですけれども☆
結局かれは、七十二地煞という西夏族の秘密結社の一員であり、それどころか、そのボスの息子であった。漢族への復讐の一念に凝り固まっている閉鎖的な集団の残虐な所業に耐え切れなくなって、親を棄て、血の繋がりを棄て、雲南の片田舎に身をひそめていたのに、運命はかれをそっとしておいてはくれなかった。たまたま現れた強盗のために、封印していた殺人技を使わざるを得なくなってしまったのでした。
この描写がね、もうね、すごい(>_<)!
ジンシーが強盗と遭遇するシーンは、最初に、「一介の紙職人と強盗」という目線で提示された後、捜査官シェンの捜査を通して、「その実ほんとのことろはどうだったのか」という目線で再提示されるのですが、このギャップがゾクソクするほど面白いです。
最初の描写では、怯えて竦み上がる朴訥な田舎者が、こそこそ隠れたり、めったやたらと手を振り回したりしたところ、偶然が味方してピタゴラスイッチ的に哀れ強盗は一巻の終り、といったニュアンスで、ユーモラスにすら見える描かれ方だった全く同じシーンが、シェン目線の再現映像では、ドニー・イェンの顔つきがあたかも仮面を取り替えたかのように瞬時に別人に変化する。表情が変わる。目が変わる。画面中に殺気がほとばしるのです。これはほんとに、一度自分の目で見てみて! としか言いようがない迫力です。そして殺戮マシーンと化したドニー・イェンのアクションがすばらしいことは言うまでもなし!
しかし、そうは言っても、命を賭して「殺さない生き方」を選んだジンシーです。必然的に訪れてしまう父子対決のシーンでは、ほんとうに心憎い演出が施されています。観たひとのだれもが、やっぱここはそうでなくちゃね、と思うんじゃないかな。思ってくれるといいな。だって、この展開があるからこそ、ラストシーンが映えると思うので。
ラストシーンは爽やかなタン・ウェイの笑顔で終わるのです。
ジンシーはアユーにとっては二人目の夫。最初の夫には棄てられてしまった。夫はいつも、「それじゃ、晩方に」と言って仕事に出かけていたのだけれど、ある日、その言葉を残したまま、ついに家には帰らなかった。そのことがトラウマになっているアユーは、ジンシーの口からも同じ台詞が出されると辛いのです。お願いそれは言わないで、とその言葉を封じてしまう。だけど、大きな波乱を乗り越えて、一度は失うことも覚悟した後で、心の底からジンシーの、自分や子どもたちと共に生きるという決意を信じることができるようになったとき、アユーはその台詞で夫を送り出すことができるようになるのですね。
晩上見(ワンシャン チエン)。それじゃ、また晩方にね。
・捜査官X@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-05-06 22:10
| 映画さ行