2012年 03月 04日
ポエトリー アグネスの詩
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★ネタバレ注意★
『オアシス』『シークレット・サンシャイン』のイ・チャンドン監督最新作。
2010年のカンヌ国際映画祭では、パルム・ドールと脚本賞にノミネートされ、脚本賞(イ・チャンドン)を受賞しています。
静かな地方都市。66歳のミジャ(ユン・ジョンヒ)は、釜山で働く娘の代わりに中学3年生の孫ジョンウク(イ・デヴィッド)を育てている。生活保護と介護ヘルパーの仕事が頼りの暮らしは豊かではないが、「おしゃれなひと」と呼ばれることに喜びを感じ、軽やかな帽子、ふんわりしたスカート、綺麗なレースのストールなどで身綺麗に着飾ることを怠らない。近頃めっきり物忘れが激しくなってきたことが気にかかりはするけれど、楽天的なミジャは、偶然目にした広告をきっかけに、少女の頃先生に褒められたことのある詩作の教室に通い始める。
そんなミジャの慎ましい生活に、ある日爆弾が落とされる。ジョンウクの通う中学校の女子生徒ヒジン(洗礼名はアグネス)が、数ヶ月にも渡り集団でレイプされ続けたことを苦に自殺してしまったのだが、犯人グループのひとりが、ほかならぬジョンウクだというのだ。
……この映画を観て、なんと言ったらいいのか、あまりの衝撃に、泣くよりもまず、息ができなかったです。眉間が痛くなるほど力が入って、ただ立ちすくむしかなかった。……なにがそんなに衝撃だったんだろう。検証していきたいと思いますが、ちょっとムリかも(弱気。すでに涙目)。
まず、一番顕著に感じられるのは、「美」とは「醜」との対比の上で初めて感得されるものである、ということです。それが物語の大前提となっていて、全てを規定しているように思われる。
長閑な時間の流れる地方都市で、咲く花や吹く風や流れる川にどれだけ意識を凝らしても、美を掴まえることのできなかった、「おしゃれな」美しい老女、そのミジャが、他人を自らの欲望のままに集団で踏みにじり何ら恥じることもない、という人間として最大級の醜さを前にし、自らもまた、雇用主の老人の浅ましい欲望の前に身体を開き、その事実を脅しの材料に使って金を手に入れ、汚泥にまみれた末に初めて、この上ない美を表現するに到るという流れ。
幸福は不幸との対比の上で、善は悪との対比の上で、初めて認識される。無邪気さは無恥と表裏一体だし、穏やかさや優雅さは闘うことを忌避する上で成り立っている。貪欲は貧困と分かち難く結びついているし、たおやかさや優しさは男性性の暴虐にいとも容易にねじ伏せられる。世界はどちらか片方だけでは完結しない。
同級生の女の子を集団でレイプしたジョンウクは、強暴なケダモノではなく、徹頭徹尾、とんだぼんくらとして描かれています。食べ散らかした後を片付けることもできない、外出する際にパソコンの電源を落とすこともできない、寝そべってテレビのバラエティを見ては笑い、ゲームセンターで時間を浪費し、部屋は散らかり放題、世話になっている祖母には聞くに耐えないような悪態をつくのに、祖母が自分を世話してくれることは当然と思っている。テーブルにつけば自動的に食事が出てくると勘違いしていて、お金を稼ぎ買い物に行きメニューを考え調理して食卓に並べているひとの労力など考えたこともない。
これが普通の中学生、と言われればそうなのかもしれませんが、しかしこの甘ったれたナマケモノは、嫌がる女の子を押さえつけて何度も何度もレイプする性欲だけは一人前に持っている。
そうした事実は、ミジャの中ではうまく意味をなさないのです。孫がかわいいとか、かわいい孫がまさか、という以前に、ありふれた日常の光景の中に、このような異物が混入している事実がまず、理解できない。さりげなく少女の話を振ってみても、知らぬ存ぜぬを通す孫。被害者少女の告別式から思わず盗んできてしまった小さな遺影を目の前に置いてみても、動揺するそぶりすら見せぬ孫。バグバグとメシを喰らい、ゲームセンターで遊び、テレビを見て笑い呆けている孫。
理解不能の存在を前に、最初は思考停止していたミジャの中で、何かが少しずつ動き始める。その「動き」は単独の事象ではなく、同時進行的にミジャの前にいくつもの(端目にはささやかな)出来事が積み重なって行き、その後の彼女の行動を規定していくことになるのだけれど、根底にあるのはやはり、孫であるはずの「それ」に対する違和感や不信感であったのではないか。罪を償うことなくやり過ごしてしまえば、孫は人間としてダメになる、という論理的思考判断、そして孫への愛情、というよりも、事件を通してゆっくりと被害者少女に感情移入していったミジャにとって、たとえ「それ」が何であれ、あの少女にそんなことをしてしまった「それ」には、ふさわしい処遇があるはず、という、本能的な判断のように思えてなりません。
ミジャの背中を押した要因として、ジョンウクの仲間である共犯の少年たちの父親の存在がある。父親たちは(父親のいないジョンウク以外は全て、父親が出てくるのみで、母親の存在は描かれない)最初から自分の息子に罪の償いをさせる気などなく、金でカタをつけようとする。台風で倒壊した体育館の建て替え資金でも集めるかのように、金を出しあうことが当然、というスタンスがそもそも前提になっていて、そこに到る葛藤なんかない。あまつさえ、男には性欲があってしかるべき、という暗黙の了解を共有する父親たちは、「あんなブスで背も低い女相手になんでまた」などと口走ったりする。被害者の少女なんか、息子の将来に立ちはだかる忌々しい障害でしかない。そんな父親たちの姿は、ミジャには異世界の人間に見える。
ついつい逃避行動に出てしまいがちなミジャ。呼びつけられた談合の場からフラリと席を立ってしまったり、保護者を代表して被害者の母親を「いいくるめ」に行かされておきながら、被害者少女が育った環境のあまりに長閑で美しいことに気をとられて、自分の立場を明かさず、母親とのんきな世間話をして帰ってきてしまったりする。
これについては、ミジャが初期のアルツハイマーに犯されており、現実把握に若干の困難が生じて来ている、という要因もあるのだけれど、彼女のもともとのキャラクターや育ってきた環境なども大きく関係していると思う。ミジャの反応の極端さは病気に由来するのだとしても、反応それ自体は、もともとの彼女のキャラクターによるものであろうという感触。
ミジャというひとは、そんな風にちょっとずつ現実を押しやって目を逸らすことで、いままで生きてきたひとに思われます。どこにも姿のないミジャの夫。貧しい生活。娘に押し付けられた孫。他人には「何でも話せる親友のような存在」と語るその娘には、病院でアルツハイマーと診断された、とは言えない。おまえの息子が少女をレイプして自殺させた、とは言えない。示談金が払えなくて困っている、とは言えない。携帯で交わされる当たり障りのない耳障りのよい会話。娘はそんなことを免罪符にして、恐らく息子の養育費すら送ってはよこさず、「物分りのいい母親」にぶらさがっている。
何より胸に染みるのは、詩作の教室で「人生に於ける最も美しい瞬間」を語る、という場面で、幼い頃の何気ないエピソードを語りながら、涙声になってしまうミジャの姿です。どんなに酷いことがあっても決して泣かなかったミジャが、こんなさり気ない逸話を語りながら涙声になる。一体このひとの人生は、何を、どれだけのものを、抑えに抑えて生きてきたものだったのだろう。
だけど、温かく湿った膜を張り巡らした内側から現実を眺めるミジャには、決して一片の詩を紡ぐことはできない。ミジャの中に、ジワジワと少しずつ罪の意識が浸透していく代価のように、美を語る言葉が染み出していく。物語のラストに至って、ようやくミジャが詠みあげた詩は、まるで白鳥の歌のよう。咲き誇る花の美しい赤は、胃から吐き出された鮮血の色でもある。
最後に下されたミジャの判断に、観客は驚くと同時に、その判断の本質的な正しさに(正しいが故の冷酷さにもまた)戦慄してしまうのだけど、自分が一体何をしでかしたのかについて、知ろうともしなかった加害者が、外圧によって己の「罪」と向き合うことにより、それがいかに「とりかえしのつかないこと」であったかを悟り、心の底から被害者少女に謝罪し、悔いる気持ちになってくれれば、どこかに救いはあるのかもしれない。けれどそのさきにあるのは、もしかしたら『シークレット・サンシャイン』で提示された命題なのかもしれない。被害者は決して救われることはないのに、加害者が救われてしまってもいいのか? 赦されてしまってもいいのか? 幸福になってもいいのか?
アグネスは帰っては来ない。
・ポエトリー アグネスの詩@ぴあ映画生活
『オアシス』『シークレット・サンシャイン』のイ・チャンドン監督最新作。
2010年のカンヌ国際映画祭では、パルム・ドールと脚本賞にノミネートされ、脚本賞(イ・チャンドン)を受賞しています。
静かな地方都市。66歳のミジャ(ユン・ジョンヒ)は、釜山で働く娘の代わりに中学3年生の孫ジョンウク(イ・デヴィッド)を育てている。生活保護と介護ヘルパーの仕事が頼りの暮らしは豊かではないが、「おしゃれなひと」と呼ばれることに喜びを感じ、軽やかな帽子、ふんわりしたスカート、綺麗なレースのストールなどで身綺麗に着飾ることを怠らない。近頃めっきり物忘れが激しくなってきたことが気にかかりはするけれど、楽天的なミジャは、偶然目にした広告をきっかけに、少女の頃先生に褒められたことのある詩作の教室に通い始める。
そんなミジャの慎ましい生活に、ある日爆弾が落とされる。ジョンウクの通う中学校の女子生徒ヒジン(洗礼名はアグネス)が、数ヶ月にも渡り集団でレイプされ続けたことを苦に自殺してしまったのだが、犯人グループのひとりが、ほかならぬジョンウクだというのだ。
……この映画を観て、なんと言ったらいいのか、あまりの衝撃に、泣くよりもまず、息ができなかったです。眉間が痛くなるほど力が入って、ただ立ちすくむしかなかった。……なにがそんなに衝撃だったんだろう。検証していきたいと思いますが、ちょっとムリかも(弱気。すでに涙目)。
まず、一番顕著に感じられるのは、「美」とは「醜」との対比の上で初めて感得されるものである、ということです。それが物語の大前提となっていて、全てを規定しているように思われる。
長閑な時間の流れる地方都市で、咲く花や吹く風や流れる川にどれだけ意識を凝らしても、美を掴まえることのできなかった、「おしゃれな」美しい老女、そのミジャが、他人を自らの欲望のままに集団で踏みにじり何ら恥じることもない、という人間として最大級の醜さを前にし、自らもまた、雇用主の老人の浅ましい欲望の前に身体を開き、その事実を脅しの材料に使って金を手に入れ、汚泥にまみれた末に初めて、この上ない美を表現するに到るという流れ。
幸福は不幸との対比の上で、善は悪との対比の上で、初めて認識される。無邪気さは無恥と表裏一体だし、穏やかさや優雅さは闘うことを忌避する上で成り立っている。貪欲は貧困と分かち難く結びついているし、たおやかさや優しさは男性性の暴虐にいとも容易にねじ伏せられる。世界はどちらか片方だけでは完結しない。
同級生の女の子を集団でレイプしたジョンウクは、強暴なケダモノではなく、徹頭徹尾、とんだぼんくらとして描かれています。食べ散らかした後を片付けることもできない、外出する際にパソコンの電源を落とすこともできない、寝そべってテレビのバラエティを見ては笑い、ゲームセンターで時間を浪費し、部屋は散らかり放題、世話になっている祖母には聞くに耐えないような悪態をつくのに、祖母が自分を世話してくれることは当然と思っている。テーブルにつけば自動的に食事が出てくると勘違いしていて、お金を稼ぎ買い物に行きメニューを考え調理して食卓に並べているひとの労力など考えたこともない。
これが普通の中学生、と言われればそうなのかもしれませんが、しかしこの甘ったれたナマケモノは、嫌がる女の子を押さえつけて何度も何度もレイプする性欲だけは一人前に持っている。
そうした事実は、ミジャの中ではうまく意味をなさないのです。孫がかわいいとか、かわいい孫がまさか、という以前に、ありふれた日常の光景の中に、このような異物が混入している事実がまず、理解できない。さりげなく少女の話を振ってみても、知らぬ存ぜぬを通す孫。被害者少女の告別式から思わず盗んできてしまった小さな遺影を目の前に置いてみても、動揺するそぶりすら見せぬ孫。バグバグとメシを喰らい、ゲームセンターで遊び、テレビを見て笑い呆けている孫。
理解不能の存在を前に、最初は思考停止していたミジャの中で、何かが少しずつ動き始める。その「動き」は単独の事象ではなく、同時進行的にミジャの前にいくつもの(端目にはささやかな)出来事が積み重なって行き、その後の彼女の行動を規定していくことになるのだけれど、根底にあるのはやはり、孫であるはずの「それ」に対する違和感や不信感であったのではないか。罪を償うことなくやり過ごしてしまえば、孫は人間としてダメになる、という論理的思考判断、そして孫への愛情、というよりも、事件を通してゆっくりと被害者少女に感情移入していったミジャにとって、たとえ「それ」が何であれ、あの少女にそんなことをしてしまった「それ」には、ふさわしい処遇があるはず、という、本能的な判断のように思えてなりません。
ミジャの背中を押した要因として、ジョンウクの仲間である共犯の少年たちの父親の存在がある。父親たちは(父親のいないジョンウク以外は全て、父親が出てくるのみで、母親の存在は描かれない)最初から自分の息子に罪の償いをさせる気などなく、金でカタをつけようとする。台風で倒壊した体育館の建て替え資金でも集めるかのように、金を出しあうことが当然、というスタンスがそもそも前提になっていて、そこに到る葛藤なんかない。あまつさえ、男には性欲があってしかるべき、という暗黙の了解を共有する父親たちは、「あんなブスで背も低い女相手になんでまた」などと口走ったりする。被害者の少女なんか、息子の将来に立ちはだかる忌々しい障害でしかない。そんな父親たちの姿は、ミジャには異世界の人間に見える。
ついつい逃避行動に出てしまいがちなミジャ。呼びつけられた談合の場からフラリと席を立ってしまったり、保護者を代表して被害者の母親を「いいくるめ」に行かされておきながら、被害者少女が育った環境のあまりに長閑で美しいことに気をとられて、自分の立場を明かさず、母親とのんきな世間話をして帰ってきてしまったりする。
これについては、ミジャが初期のアルツハイマーに犯されており、現実把握に若干の困難が生じて来ている、という要因もあるのだけれど、彼女のもともとのキャラクターや育ってきた環境なども大きく関係していると思う。ミジャの反応の極端さは病気に由来するのだとしても、反応それ自体は、もともとの彼女のキャラクターによるものであろうという感触。
ミジャというひとは、そんな風にちょっとずつ現実を押しやって目を逸らすことで、いままで生きてきたひとに思われます。どこにも姿のないミジャの夫。貧しい生活。娘に押し付けられた孫。他人には「何でも話せる親友のような存在」と語るその娘には、病院でアルツハイマーと診断された、とは言えない。おまえの息子が少女をレイプして自殺させた、とは言えない。示談金が払えなくて困っている、とは言えない。携帯で交わされる当たり障りのない耳障りのよい会話。娘はそんなことを免罪符にして、恐らく息子の養育費すら送ってはよこさず、「物分りのいい母親」にぶらさがっている。
何より胸に染みるのは、詩作の教室で「人生に於ける最も美しい瞬間」を語る、という場面で、幼い頃の何気ないエピソードを語りながら、涙声になってしまうミジャの姿です。どんなに酷いことがあっても決して泣かなかったミジャが、こんなさり気ない逸話を語りながら涙声になる。一体このひとの人生は、何を、どれだけのものを、抑えに抑えて生きてきたものだったのだろう。
だけど、温かく湿った膜を張り巡らした内側から現実を眺めるミジャには、決して一片の詩を紡ぐことはできない。ミジャの中に、ジワジワと少しずつ罪の意識が浸透していく代価のように、美を語る言葉が染み出していく。物語のラストに至って、ようやくミジャが詠みあげた詩は、まるで白鳥の歌のよう。咲き誇る花の美しい赤は、胃から吐き出された鮮血の色でもある。
最後に下されたミジャの判断に、観客は驚くと同時に、その判断の本質的な正しさに(正しいが故の冷酷さにもまた)戦慄してしまうのだけど、自分が一体何をしでかしたのかについて、知ろうともしなかった加害者が、外圧によって己の「罪」と向き合うことにより、それがいかに「とりかえしのつかないこと」であったかを悟り、心の底から被害者少女に謝罪し、悔いる気持ちになってくれれば、どこかに救いはあるのかもしれない。けれどそのさきにあるのは、もしかしたら『シークレット・サンシャイン』で提示された命題なのかもしれない。被害者は決して救われることはないのに、加害者が救われてしまってもいいのか? 赦されてしまってもいいのか? 幸福になってもいいのか?
アグネスは帰っては来ない。
・ポエトリー アグネスの詩@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-03-04 18:09
| 映画は行