2012年 01月 19日
運命の子
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★ネタバレ注意★
チェン・カイコー監督の『黄色い大地』は、わたしが初めて(それと意識して)観た中国映画だったのですが、そのときのものすごい衝撃はほんっとに忘れ難いです。爾来、監督の映画を観ることはわたしにとっていつも大いなる楽しみでした。世評がいまいちだった作品も含めて、みんな大好き。(『キリング・ミー・ソフトリー』だけはさすがになかったことにしてますが(汗))。
そのチェン監督が『史記』を映画化!
嬉しすぎてドキドキしながら公開を待っていました。
紀元前7世紀、中国は晋の国。君主の霊公(ポン・ボー)が弑逆された。陰で糸をひいていたのは、霊公の寵臣・司寇の屠岸賈(ワン・シュエチー)だった。屠岸賈は政敵・趙氏を粛清するためこの暗殺を諮り、目の上の瘤だった趙氏の当主・趙朔(ヴィンセント・チャオ)に罪を着せ、父親の趙盾(パオ・グオアン)はじめ、一族郎党300人を皆殺しにしてしまう。
出産を控えていた趙朔の妻荘姫(ファン・ビンビン)は、生まれたばかりの男児を医師の程嬰(グォ・ヨウ)に託して自害してしまう。そのとき程嬰もまた自分の子どもが生まれたばかりだった。屠岸賈は、なんとしても趙氏の胤を残すまじと執念を燃やしたが、捜査の混乱の中、程嬰の子どもが趙氏の孤児と誤認され、程嬰の妻(ハイ・チン)もろとも殺されてしまう。かくて程嬰は、趙氏の孤児を我が子・程勃として育てながら、自ら屠岸賈の家臣となり、復讐の時を待った。
『史記』趙世家の「趙氏孤児」は中国ではだれもが知っている大変有名な物語です。映画のストーリーもほぼそれと同じですが、ところどころ改変が加えられているところもあり、その改変はそのまま、物語のテーマにも直結するポイントであろうかと思われます。
ひとつは、程嬰の立ち位置です。
原作(というか史実と言うべき?)では、程嬰は趙朔とは友人であり、荘姫が我が子を託そうとした公孫杵臼(チャン・フォンイー)は程嬰と趙朔の食客でした。遺児の処遇については、程嬰と公孫杵臼が相談の上で役割分担を決めたのです。つまり、史記の程嬰には、趙朔の遺児を守る動機があったのです。それは友情と言ってもいいし、時代が時代ですから、忠誠心と言った方がいいかもしれない。いずれにしても、親しい相手への好意が根底にある感情です。しかし映画では、程嬰は趙朔の妻の主治医であるに過ぎず、程嬰と趙朔はろくに面識すらない間柄、公孫杵臼に至っては、程嬰とは初対面の相手でした。程嬰は、たまたまそこに居合わせてしまった男として、徹頭徹尾、巻きこまれ型の人物として描写されているのです。従ってかれには遺児を守らねばならない動機はありません。
そしてもうひとつは身代わりに殺された子どもの素性です。史記では、孤児の代わりに殺された赤ん坊は、初めから身代わりにする目的で「どこかからか」調達してきた素性の知れない赤ん坊です。ところが映画で殺された赤ん坊は、程嬰自身の息子だった。
つまり、原作と比べて映画では、程嬰はより小さな動機でより大きな犠牲を払ったことになる。一体それはなぜだったのか? 程嬰はなぜ趙氏の孤児を助けるために、我が子を犠牲にしたのか? 監督の興味の中心は、ここにこそあるように思われます。
それを象徴するような緊迫感に富んだシーンがあります。屠岸賈が15年目にして孤児の正体に気づくシーンです。気づかずにはいられなかったのです。なぜならかれは、父親である趙朔そっくりに成長してしまったから。屠岸賈は程嬰を呼びつけて詰問します。おまえはなぜあのとき、我が子をわしに差し出したのか、おまえが差し出したりするから見誤ってしまったではないか、と。
はじめ程嬰は指摘します。あなたがわたしの息子を趙氏の孤児と見誤ったのは、公孫杵臼が命をかけてわたしの息子を庇うふりをしたからだ、と。公孫杵臼のふるまいは、史記で描かれているものと同じです。かれは程嬰に、死ぬのと孤児を守って生き抜くのでは、どちらがより困難であるか、と尋ね、死ぬ方が容易であろうと程嬰が答えると、左様、では、屠岸賈を騙すためにダミーを庇って死ぬ役割はわたしがやらせてもらうと答えて、屠岸賈の兵の刃にかかるのです。
しかし映画にはそのさきがある。老獪な屠岸賈は、公孫杵臼の演技だけではその赤子こそが趙氏の孤児であるとは確信しなかった。程嬰がその子を差し出したからこそ、これは程嬰の子ではありえない、と確信したのです。だから問うた。なぜおまえはわしに我が子を差し出したのか? 程嬰は答えません。程嬰自身にも、確信があったとは思えない。もちろん、あそこで我が子を差し出せば、代わりに殺されていたかもしれない100人もの新生児の命を助けることになる、という事はわかっていた。だけど、そういう抽象的な自己犠牲が動機であったとは思えないのです。
程嬰は恐らく、そこで気づいてしまったのではないでしょうか。我が子が担って生まれてきたその運命に。この子は死ぬために生まれてきた。生まれ落ちて数日も経たぬうちに、他人の犠牲になって命を落すために生まれてきた。100人の赤子を助けるために生まれてきた。趙氏の孤児を生かすために生まれてきた。それがこの子の運命だった。
グォ・ヨウという俳優さんは、わたしは密かに「中国のビル・ナイ」と思っているのだけど(笑)、飄々とした捉えどころのない風貌で複雑微妙な人間心理の底の底まで表現できるひとだと思います。そんなかれが、望みもしない、全く自分には関係のないはずの事態に、いつの間にか巻きこまれ、身動きがとれなくなり、非情な決断を迫られ、なにもかもをなくし、復讐の二字を支えに生き延びながら、復讐の手段であったはずの孤児に、ほんとうの親以上の愛情を注いでしまう、その歳月の重み。ひとの心の悲しさ。ひととひととを繋ぐ絆とは一体なにか。愛情とはなにか。血筋とはなにか。かれの演技は、そういったことをしみじみと感じさせてくれるのです。
かれとふたりの女性、妻と荘姫との描写もいい。程嬰の妻は、子どもを生んだらその日から牛馬のごとくこき使われる、なんてことは全くなくて、ロマンチックな優しさなんて一見カケラも感じさせないすっとぼけた夫から、大事に大事にされています。寝込んでいるわけでもないのに、用事があれば鐘を鳴らして夫を呼びつける。すると夫は取る物も取りあえず軽快な足取りで走って来てくれる。
「お願いが三つあるの」「なんだね?」「今日は魚が食べたいわ」「お安いご用だ」「この子の名前、あなたが考えたやつ、全部気にいらない」「そうか、じゃあ新しいのを考えなきゃな。で三つ目は?」「お披露目の卵をご近所に配るのはやめましょ?」
程嬰は妻に言われるままに、往診のついでに魚を買いに行き、それをぶらさげたまま荘姫の屋敷に行きます。そして美しい高貴な女性の容態をみながら幸せそうに愚痴るのです。「お披露目の卵を配るなって言うんですよ。なんでだかわかります?」幸せそうな愚痴はのろけですから、荘姫はおかしそうに答える。「あなたみたいな立派なお医者様にはふさわしくないと思ったんじゃなくて?」「いいえ、あいつ、卵が惜しいんですよ。それにわたしが考えた名前も気にいらないらしくって」そこで荘姫は、主治医の息子に「程勃」という名を与えます。それが後に我が子の名前となることも知らずに。
一方、屠岸賈を演じたワン・シュエチーは、そもそもデビュー作がチェン・カイコー監督の『黄色い大地』であるぐらいですから、『大閲兵』『梅蘭芳』とチェン監督作品ではお馴染みの役者さんですが、最近ではなんと言っても『孫文の義士団』の旦那様ですよね☆
旦那様、今回まさかの大悪役。主君は弑逆するわ、ライバルは皆殺しにするわ、趙氏の孤児だと思った赤ん坊を地べたに叩きつけて殺してしまうわ、鬼畜がごとき恐ろしさ。
ところがこの大悪人が、純粋に自分を慕ってくれる小さな子どもにはメロメロになってしまうのですねぇ。つまり、それが程嬰の復讐だった。ただ単に殺すことならいくらでもできる。だから簡単には殺さない。趙氏の孤児を身近に置くことにより、かれに愛情を注がせ、その愛情が掛け替えのない本物の感情に育ったそのタイミングで、この子がだれであるかを教えてやる。屠岸賈は我が子のように愛し慈しんだ少年の手で殺されなければならない。そのために程嬰は、厚顔を装って屠岸賈の下に仕官し、孤児に屠岸賈を父上と呼ばせるのです。
この子がもう、ほんっとにかわいくって、だから屠岸賈はメロメロになっちゃう。惚れさせて武器にするというのは、女性を利用してよく使われる手口ではありますが、それの子どもバージョンですね。あと、ネコでも応用できると思ふ。
屠岸賈が妻を殺され、自分を憎んでいることはわかりきっている程嬰を敢えて手元に置いたことについては、屠岸賈の自信に満ちた強いキャラクターや、程嬰のいかにも植物然としたつかみ所のないキャラクターを観れば、さほど不自然にも思われません。
一方不自然だったのは、ラストの屠岸賈と程勃の対決シーンです。チェン監督って、時々やりすぎちゃうところがあると思うの。なんか、こう、心あまりて言葉たりずじゃないけど、気持ちが先走っちゃって、アイタタタとなる傾向がなきにしもあらず……。このシーンもね、ちょっとやりすぎだなぁ、と思ったよ。だって旦那様、ワイヤーアクションでしょ、あれ。柱を使って大回転することないじゃん。普通の剣戟シーンで十分だよ(汗)。
あと、韓厥を演じたホァン・シャオミンが、美貌すぎて画面から浮いてました(汗)。だってほかのメンツがグォ・ヨウとか旦那様とか、チャイニーズ・リアルの俳優さんたちだものねぇ。や、ほんとに綺麗な顔をしていらっさる。
そして、もひとつ言えば、(この映画では)希代のバカ殿・霊公を演じたポン・ボーは、なにげにノダ・ソーリに似ておられました(汗)。
・運命の子@ぴあ映画生活
チェン・カイコー監督の『黄色い大地』は、わたしが初めて(それと意識して)観た中国映画だったのですが、そのときのものすごい衝撃はほんっとに忘れ難いです。爾来、監督の映画を観ることはわたしにとっていつも大いなる楽しみでした。世評がいまいちだった作品も含めて、みんな大好き。(『キリング・ミー・ソフトリー』だけはさすがになかったことにしてますが(汗))。
そのチェン監督が『史記』を映画化!
嬉しすぎてドキドキしながら公開を待っていました。
紀元前7世紀、中国は晋の国。君主の霊公(ポン・ボー)が弑逆された。陰で糸をひいていたのは、霊公の寵臣・司寇の屠岸賈(ワン・シュエチー)だった。屠岸賈は政敵・趙氏を粛清するためこの暗殺を諮り、目の上の瘤だった趙氏の当主・趙朔(ヴィンセント・チャオ)に罪を着せ、父親の趙盾(パオ・グオアン)はじめ、一族郎党300人を皆殺しにしてしまう。
出産を控えていた趙朔の妻荘姫(ファン・ビンビン)は、生まれたばかりの男児を医師の程嬰(グォ・ヨウ)に託して自害してしまう。そのとき程嬰もまた自分の子どもが生まれたばかりだった。屠岸賈は、なんとしても趙氏の胤を残すまじと執念を燃やしたが、捜査の混乱の中、程嬰の子どもが趙氏の孤児と誤認され、程嬰の妻(ハイ・チン)もろとも殺されてしまう。かくて程嬰は、趙氏の孤児を我が子・程勃として育てながら、自ら屠岸賈の家臣となり、復讐の時を待った。
『史記』趙世家の「趙氏孤児」は中国ではだれもが知っている大変有名な物語です。映画のストーリーもほぼそれと同じですが、ところどころ改変が加えられているところもあり、その改変はそのまま、物語のテーマにも直結するポイントであろうかと思われます。
ひとつは、程嬰の立ち位置です。
原作(というか史実と言うべき?)では、程嬰は趙朔とは友人であり、荘姫が我が子を託そうとした公孫杵臼(チャン・フォンイー)は程嬰と趙朔の食客でした。遺児の処遇については、程嬰と公孫杵臼が相談の上で役割分担を決めたのです。つまり、史記の程嬰には、趙朔の遺児を守る動機があったのです。それは友情と言ってもいいし、時代が時代ですから、忠誠心と言った方がいいかもしれない。いずれにしても、親しい相手への好意が根底にある感情です。しかし映画では、程嬰は趙朔の妻の主治医であるに過ぎず、程嬰と趙朔はろくに面識すらない間柄、公孫杵臼に至っては、程嬰とは初対面の相手でした。程嬰は、たまたまそこに居合わせてしまった男として、徹頭徹尾、巻きこまれ型の人物として描写されているのです。従ってかれには遺児を守らねばならない動機はありません。
そしてもうひとつは身代わりに殺された子どもの素性です。史記では、孤児の代わりに殺された赤ん坊は、初めから身代わりにする目的で「どこかからか」調達してきた素性の知れない赤ん坊です。ところが映画で殺された赤ん坊は、程嬰自身の息子だった。
つまり、原作と比べて映画では、程嬰はより小さな動機でより大きな犠牲を払ったことになる。一体それはなぜだったのか? 程嬰はなぜ趙氏の孤児を助けるために、我が子を犠牲にしたのか? 監督の興味の中心は、ここにこそあるように思われます。
それを象徴するような緊迫感に富んだシーンがあります。屠岸賈が15年目にして孤児の正体に気づくシーンです。気づかずにはいられなかったのです。なぜならかれは、父親である趙朔そっくりに成長してしまったから。屠岸賈は程嬰を呼びつけて詰問します。おまえはなぜあのとき、我が子をわしに差し出したのか、おまえが差し出したりするから見誤ってしまったではないか、と。
はじめ程嬰は指摘します。あなたがわたしの息子を趙氏の孤児と見誤ったのは、公孫杵臼が命をかけてわたしの息子を庇うふりをしたからだ、と。公孫杵臼のふるまいは、史記で描かれているものと同じです。かれは程嬰に、死ぬのと孤児を守って生き抜くのでは、どちらがより困難であるか、と尋ね、死ぬ方が容易であろうと程嬰が答えると、左様、では、屠岸賈を騙すためにダミーを庇って死ぬ役割はわたしがやらせてもらうと答えて、屠岸賈の兵の刃にかかるのです。
しかし映画にはそのさきがある。老獪な屠岸賈は、公孫杵臼の演技だけではその赤子こそが趙氏の孤児であるとは確信しなかった。程嬰がその子を差し出したからこそ、これは程嬰の子ではありえない、と確信したのです。だから問うた。なぜおまえはわしに我が子を差し出したのか? 程嬰は答えません。程嬰自身にも、確信があったとは思えない。もちろん、あそこで我が子を差し出せば、代わりに殺されていたかもしれない100人もの新生児の命を助けることになる、という事はわかっていた。だけど、そういう抽象的な自己犠牲が動機であったとは思えないのです。
程嬰は恐らく、そこで気づいてしまったのではないでしょうか。我が子が担って生まれてきたその運命に。この子は死ぬために生まれてきた。生まれ落ちて数日も経たぬうちに、他人の犠牲になって命を落すために生まれてきた。100人の赤子を助けるために生まれてきた。趙氏の孤児を生かすために生まれてきた。それがこの子の運命だった。
グォ・ヨウという俳優さんは、わたしは密かに「中国のビル・ナイ」と思っているのだけど(笑)、飄々とした捉えどころのない風貌で複雑微妙な人間心理の底の底まで表現できるひとだと思います。そんなかれが、望みもしない、全く自分には関係のないはずの事態に、いつの間にか巻きこまれ、身動きがとれなくなり、非情な決断を迫られ、なにもかもをなくし、復讐の二字を支えに生き延びながら、復讐の手段であったはずの孤児に、ほんとうの親以上の愛情を注いでしまう、その歳月の重み。ひとの心の悲しさ。ひととひととを繋ぐ絆とは一体なにか。愛情とはなにか。血筋とはなにか。かれの演技は、そういったことをしみじみと感じさせてくれるのです。
かれとふたりの女性、妻と荘姫との描写もいい。程嬰の妻は、子どもを生んだらその日から牛馬のごとくこき使われる、なんてことは全くなくて、ロマンチックな優しさなんて一見カケラも感じさせないすっとぼけた夫から、大事に大事にされています。寝込んでいるわけでもないのに、用事があれば鐘を鳴らして夫を呼びつける。すると夫は取る物も取りあえず軽快な足取りで走って来てくれる。
「お願いが三つあるの」「なんだね?」「今日は魚が食べたいわ」「お安いご用だ」「この子の名前、あなたが考えたやつ、全部気にいらない」「そうか、じゃあ新しいのを考えなきゃな。で三つ目は?」「お披露目の卵をご近所に配るのはやめましょ?」
程嬰は妻に言われるままに、往診のついでに魚を買いに行き、それをぶらさげたまま荘姫の屋敷に行きます。そして美しい高貴な女性の容態をみながら幸せそうに愚痴るのです。「お披露目の卵を配るなって言うんですよ。なんでだかわかります?」幸せそうな愚痴はのろけですから、荘姫はおかしそうに答える。「あなたみたいな立派なお医者様にはふさわしくないと思ったんじゃなくて?」「いいえ、あいつ、卵が惜しいんですよ。それにわたしが考えた名前も気にいらないらしくって」そこで荘姫は、主治医の息子に「程勃」という名を与えます。それが後に我が子の名前となることも知らずに。
一方、屠岸賈を演じたワン・シュエチーは、そもそもデビュー作がチェン・カイコー監督の『黄色い大地』であるぐらいですから、『大閲兵』『梅蘭芳』とチェン監督作品ではお馴染みの役者さんですが、最近ではなんと言っても『孫文の義士団』の旦那様ですよね☆
旦那様、今回まさかの大悪役。主君は弑逆するわ、ライバルは皆殺しにするわ、趙氏の孤児だと思った赤ん坊を地べたに叩きつけて殺してしまうわ、鬼畜がごとき恐ろしさ。
ところがこの大悪人が、純粋に自分を慕ってくれる小さな子どもにはメロメロになってしまうのですねぇ。つまり、それが程嬰の復讐だった。ただ単に殺すことならいくらでもできる。だから簡単には殺さない。趙氏の孤児を身近に置くことにより、かれに愛情を注がせ、その愛情が掛け替えのない本物の感情に育ったそのタイミングで、この子がだれであるかを教えてやる。屠岸賈は我が子のように愛し慈しんだ少年の手で殺されなければならない。そのために程嬰は、厚顔を装って屠岸賈の下に仕官し、孤児に屠岸賈を父上と呼ばせるのです。
この子がもう、ほんっとにかわいくって、だから屠岸賈はメロメロになっちゃう。惚れさせて武器にするというのは、女性を利用してよく使われる手口ではありますが、それの子どもバージョンですね。あと、ネコでも応用できると思ふ。
屠岸賈が妻を殺され、自分を憎んでいることはわかりきっている程嬰を敢えて手元に置いたことについては、屠岸賈の自信に満ちた強いキャラクターや、程嬰のいかにも植物然としたつかみ所のないキャラクターを観れば、さほど不自然にも思われません。
一方不自然だったのは、ラストの屠岸賈と程勃の対決シーンです。チェン監督って、時々やりすぎちゃうところがあると思うの。なんか、こう、心あまりて言葉たりずじゃないけど、気持ちが先走っちゃって、アイタタタとなる傾向がなきにしもあらず……。このシーンもね、ちょっとやりすぎだなぁ、と思ったよ。だって旦那様、ワイヤーアクションでしょ、あれ。柱を使って大回転することないじゃん。普通の剣戟シーンで十分だよ(汗)。
あと、韓厥を演じたホァン・シャオミンが、美貌すぎて画面から浮いてました(汗)。だってほかのメンツがグォ・ヨウとか旦那様とか、チャイニーズ・リアルの俳優さんたちだものねぇ。や、ほんとに綺麗な顔をしていらっさる。
そして、もひとつ言えば、(この映画では)希代のバカ殿・霊公を演じたポン・ボーは、なにげにノダ・ソーリに似ておられました(汗)。
・運命の子@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2012-01-19 21:25
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