2011年 12月 29日
永遠の僕たち
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★ネタバレ注意★
今年最後のスクリーンです。
ガス・ヴァン・サント監督。
同監督の『パラノイドバーク』同様、アメリカはポートランドが舞台。ヒロインのファッションと相まって、まるでヨーロッパの街を見るかのようです。
交通事故で両親を失い、自らも臨死を体験をして三ヶ月の昏睡の後目覚めたイーノック(ヘンリー・ホッパー)は、以来、高校へも行かず、両親と暮らしていた古い大きな家で、シアトルから来てくれた叔母さんとふたりで生活していた。イーノックは、誘蛾灯に惹かれる昆虫のように、他人の葬儀に紛れ込むことをやめることができない。そんな葬儀のひとつで、参列者のアナベル(ミア・ワシコウスカ)と出会う。
イーノックには、かれにだけ見える友だちがいます。幽霊のヒロシ(加瀬亮)です。ヒロシは日本人で「カミカゼ」ですが、流暢に英語を喋り、イーノックと一緒にゲームに興じてくれたり、話を聞いてくれたり、相談に乗ってくれたりする大事な存在です。一方のアナベルは、脳腫瘍で余命三ヶ月と宣告されています。
両親を失った少年と、余命数ヶ月の少女、特攻で若い命を散らした青年。濃厚な死の雰囲気に包まれた三人の、アナベルの死までの束の間の日々。
ひとが死ぬのは悲しいことです。だれかを失って悲しんでいるひとを見るのは悲しい。自分がもう生きられないと悟ってしまうことは悲しい。若い盛りの輝くような命が理不尽にも消えてしまうことは悲しい。もう二度と会えないことは悲しい。もう二度と語り合えないことは悲しい。もう二度と見詰め合えないことは悲しい。もう二度とこの場所を訪れ、この味を味わい、この空気に触れ、この本を読み、このドレスを着て、このカップを使い、この靴を履く、ことができなことは悲しい。もう二度とおはようもおやすみもありがとうもごめんなさいも、告げることができないことは悲しい。
ひとが死ぬのは悲しいことですが、しかしこの映画は、悲しみの映画ではなく、優しさの映画です。
イーノックが他人の葬儀に紛れ込むことをやめることができないのは、単にかれが突然の事故で両親を失ってしまったからというだけではなく、両親が死んだ瞬間に、かれもまた昏睡状態にあったからです。かれは両親にきちんとお別れをすることができなかった。葬儀にすら、参列することができなかった。
しかも、かれの中で、自分は「臨死体験をした」という思いがある。かれの言う臨死というのは、医学的に3分ほど心停止の状態にあった、という物理的な現象のことを言っているに過ぎず、そのことと実際の「死」とは、本当は何の関係もないのだけれど、そのことを聞かされてかれの中で作られた記憶の中では、その3分ほどの「死」は、かれにとってはイクオル「無」であった。無。暗黒。奈落の底。なんにもない。全くなんにもない。
愛もない。ぬくもりもない。触れ合いもない。温かい言葉もない。思いもない。笑いもない。日差しもない。ひとは死んでそんなところへ行くのか? 少年の心を絶望が満たしたとしても不思議はありません。そんなの、単にブラックアウトした脳が見せた生理現象に過ぎないかもしれないのに。死後の世界のことなんか、だれにも絶対にわかるわけないのに。
とにかく、イーノックにとっての死は、ほかのひとたちが恐れるのとはまた違った形での恐怖の対象となる。そして人間は、怖いと思う対象には却って惹かれてしまうもの。ひとがその瞬間をどのように迎えるのか、残されたひとはその瞬間をどのように受け止めるのか、イーノックは覗き込まずにはいられない。
そしてアナベルは、イーノックが恐る恐る覗きこんでいるその淵に、すでに足先を浸している。若い美しい娘がもうじき死ななければならないなんて、そのあまりのむごさに、母親は耐え切れず、アルコールに逃げてしまった。心優しいアナベルは、母親にそんな思いをさせてしまっているのは自分だと、自分を責めている。彼女の場合まだ、聡明でしっかりした姉の存在があって救われているけれど、そうは言っても、姉妹では共有できない思いもある。
そんなときアナベルはイーノックに出会った。他人の葬儀にとりつかれていて、学校をドロップアウトしていて、幽霊の友達がいる……ヘンな少年。だけどそんなこと、もう時間のないアナベルには関係ない。イーノックは彼女が信奉するダーウィンの話を嫌がらずに聞いてくれるし、一緒にいると楽しい。今まで体験したことのない遊びをいっぱい一緒にできるし(それはもちろん、キスやセックスも含めて)、何より、自ら不幸を体験したイーノックには、幸福しか知らないゆえにある意味残酷である同じ年頃の子どもたちにはない共感力がある。
アナベルの最後の数ヶ月は、たぶん、彼女の短い一生の中で、申し分なく輝いていた時間であったであろうと、観客には感得される。監督は、それがわかるくらい確かな手触りで、彼女の「幸福な時間」を切り取ってみせる。笑顔は本物だし、体験はリアルだし、季節はもう寒いけれど、ココアのマグから立ち上る湯気のように、彼女の心は暖かさに満たされていたはず。
そして特攻隊の幽霊のヒロシ。
一体どうして特攻隊の幽霊が、終戦から70年近くも経って、イーノックの前に現れたのだろう。
というより、もっと根源的に、どうして幽霊は、地上に留まり、生ある人々の前に現れるのか?
だって地上に留まっていたって、寂しいだろうに。寒いだろうに。辛いだろうに。退屈だろうに。無為だろうに。どうしてここにいるのか。立ち去らないのか。幽霊のことを思うといつも、怖いより胸が痛い。
ヒロシは懐に、恋人に宛てた手紙を持っている。本当なら、特攻に出る前に、だれかに託してそのひとに渡してもらうはずの手紙を、渡せぬままに出撃してしまった。いつも凛然と慎み深いヒロシだが、イーノックがアナベルと初めて結ばれた話をしたときには、子どもっぽい好奇心を抑えきれなかった。恐らくヒロシは女性との体験がないのだ。ヒロシもまだ若い。ゼロ戦に乗って敵艦につっこんでいた男たちは、実はみんな、ほんの子どものようなものだった。
そんなヒロシが一度だけ激怒する。イーノックが、「自ら死を選ぶなんて家族に対する裏切りだ」と言ったからだ。死ぬことがわかっていて特攻に出るなんて自殺に等しい。無知なアメリカの高校生には、あの当時の特攻というものの実態なんかわからない。出撃しないなんて、そんな選択があったはずもないのに。カミカゼだろうが人間だもの、死にたくないのは同じだ。ましてや愛する家族を残して死にたいなんて思うはずもない。どんな思いでヒロシたちが飛んだのか。イーノックに断罪する権利なんかない。
ましてや、ヒロシが恋人に手紙を渡せなかったのは、単に渡す意気地がなかったせいではない(と思う)。恐らくヒロシは渡したくても渡せなかったのだ。なぜならヒロシが出撃するとき、恋人はもう、この世のひとではなかったのだろう。イーノックたちが無思慮に長崎について言及したとき、ヒロシはとても辛そうな顔をする。(語られることはないけれど)恐らくヒロシの故郷は長崎で、恋人は長崎にいて、あの爆撃の犠牲になったのだ。だとしたら、ヒロシが出撃したのは、終戦のギリギリ直前か、もしかしたら終戦の後ですらあったかもしれない。そうして命を落とした若者たちは確かにいた。特攻がただでさえ犬死であることは、いくらあんな時代でも、心ある若者たちにはわかっていた。ましてや終戦間際のそんな時期に(あるいはすでに戦いが終わってしまったそんな時期に)死ぬために飛ばなければならない青年たちは、どんな気持ちでいたことだろう。
だから尚更思ってしまう。どうしてそんなヒロシが幽霊になって、イーノックの前に現れたのだろう。そしてこの映画には、ステキな回答が用意されている。最後の日、さわやかな笑顔で、ヒロシは旅立つアナベルにつきそうと言うのだ。長い旅になるから。ひとりでは寂しいし、もしかして道に迷っては大変だから。アナベルのヒーローであるチャールズ・ダーウィンの装束をまとって。
ああ、そうか、そうだったのか、そうかもしれない、と観客は深くうなずく。幽霊たちは、こうやって、これから旅立つだれかに、つきそってあげるために、留まっているのかもしれない。ひとりでは寂しいし、もしかして道に迷っては大変だから。
死は怖くない。だれも何も言えないけれど、たぶん怖いことじゃない。
なぜならそれはだれにでも普通に訪れることだから。
それでも、たとえば、アナベルのようにとても若い命が、ひとりで旅立つのが怖いと思えば、ヒロシのような優しい幽霊が、一緒に旅をしてくれる。
……のかもしれない。だれにも何も言えないけれど。
だからこれは、死を描いた映画ではあるけれど、悲しみの映画ではなく、優しさの映画なのです。
ひとが死ぬのは悲しいので、わたしはもちろん、目玉が溶けるほど泣いてしまったけれど。それでもやっぱり、なんて優しい、と思わずにはいられない。
一年の最後に、とてもいい映画を観ました。
三人の役者がみな、とてもすばらしかった。
・永遠の僕たち@ぴあ映画生活
今年最後のスクリーンです。
ガス・ヴァン・サント監督。
同監督の『パラノイドバーク』同様、アメリカはポートランドが舞台。ヒロインのファッションと相まって、まるでヨーロッパの街を見るかのようです。
交通事故で両親を失い、自らも臨死を体験をして三ヶ月の昏睡の後目覚めたイーノック(ヘンリー・ホッパー)は、以来、高校へも行かず、両親と暮らしていた古い大きな家で、シアトルから来てくれた叔母さんとふたりで生活していた。イーノックは、誘蛾灯に惹かれる昆虫のように、他人の葬儀に紛れ込むことをやめることができない。そんな葬儀のひとつで、参列者のアナベル(ミア・ワシコウスカ)と出会う。
イーノックには、かれにだけ見える友だちがいます。幽霊のヒロシ(加瀬亮)です。ヒロシは日本人で「カミカゼ」ですが、流暢に英語を喋り、イーノックと一緒にゲームに興じてくれたり、話を聞いてくれたり、相談に乗ってくれたりする大事な存在です。一方のアナベルは、脳腫瘍で余命三ヶ月と宣告されています。
両親を失った少年と、余命数ヶ月の少女、特攻で若い命を散らした青年。濃厚な死の雰囲気に包まれた三人の、アナベルの死までの束の間の日々。
ひとが死ぬのは悲しいことです。だれかを失って悲しんでいるひとを見るのは悲しい。自分がもう生きられないと悟ってしまうことは悲しい。若い盛りの輝くような命が理不尽にも消えてしまうことは悲しい。もう二度と会えないことは悲しい。もう二度と語り合えないことは悲しい。もう二度と見詰め合えないことは悲しい。もう二度とこの場所を訪れ、この味を味わい、この空気に触れ、この本を読み、このドレスを着て、このカップを使い、この靴を履く、ことができなことは悲しい。もう二度とおはようもおやすみもありがとうもごめんなさいも、告げることができないことは悲しい。
ひとが死ぬのは悲しいことですが、しかしこの映画は、悲しみの映画ではなく、優しさの映画です。
イーノックが他人の葬儀に紛れ込むことをやめることができないのは、単にかれが突然の事故で両親を失ってしまったからというだけではなく、両親が死んだ瞬間に、かれもまた昏睡状態にあったからです。かれは両親にきちんとお別れをすることができなかった。葬儀にすら、参列することができなかった。
しかも、かれの中で、自分は「臨死体験をした」という思いがある。かれの言う臨死というのは、医学的に3分ほど心停止の状態にあった、という物理的な現象のことを言っているに過ぎず、そのことと実際の「死」とは、本当は何の関係もないのだけれど、そのことを聞かされてかれの中で作られた記憶の中では、その3分ほどの「死」は、かれにとってはイクオル「無」であった。無。暗黒。奈落の底。なんにもない。全くなんにもない。
愛もない。ぬくもりもない。触れ合いもない。温かい言葉もない。思いもない。笑いもない。日差しもない。ひとは死んでそんなところへ行くのか? 少年の心を絶望が満たしたとしても不思議はありません。そんなの、単にブラックアウトした脳が見せた生理現象に過ぎないかもしれないのに。死後の世界のことなんか、だれにも絶対にわかるわけないのに。
とにかく、イーノックにとっての死は、ほかのひとたちが恐れるのとはまた違った形での恐怖の対象となる。そして人間は、怖いと思う対象には却って惹かれてしまうもの。ひとがその瞬間をどのように迎えるのか、残されたひとはその瞬間をどのように受け止めるのか、イーノックは覗き込まずにはいられない。
そしてアナベルは、イーノックが恐る恐る覗きこんでいるその淵に、すでに足先を浸している。若い美しい娘がもうじき死ななければならないなんて、そのあまりのむごさに、母親は耐え切れず、アルコールに逃げてしまった。心優しいアナベルは、母親にそんな思いをさせてしまっているのは自分だと、自分を責めている。彼女の場合まだ、聡明でしっかりした姉の存在があって救われているけれど、そうは言っても、姉妹では共有できない思いもある。
そんなときアナベルはイーノックに出会った。他人の葬儀にとりつかれていて、学校をドロップアウトしていて、幽霊の友達がいる……ヘンな少年。だけどそんなこと、もう時間のないアナベルには関係ない。イーノックは彼女が信奉するダーウィンの話を嫌がらずに聞いてくれるし、一緒にいると楽しい。今まで体験したことのない遊びをいっぱい一緒にできるし(それはもちろん、キスやセックスも含めて)、何より、自ら不幸を体験したイーノックには、幸福しか知らないゆえにある意味残酷である同じ年頃の子どもたちにはない共感力がある。
アナベルの最後の数ヶ月は、たぶん、彼女の短い一生の中で、申し分なく輝いていた時間であったであろうと、観客には感得される。監督は、それがわかるくらい確かな手触りで、彼女の「幸福な時間」を切り取ってみせる。笑顔は本物だし、体験はリアルだし、季節はもう寒いけれど、ココアのマグから立ち上る湯気のように、彼女の心は暖かさに満たされていたはず。
そして特攻隊の幽霊のヒロシ。
一体どうして特攻隊の幽霊が、終戦から70年近くも経って、イーノックの前に現れたのだろう。
というより、もっと根源的に、どうして幽霊は、地上に留まり、生ある人々の前に現れるのか?
だって地上に留まっていたって、寂しいだろうに。寒いだろうに。辛いだろうに。退屈だろうに。無為だろうに。どうしてここにいるのか。立ち去らないのか。幽霊のことを思うといつも、怖いより胸が痛い。
ヒロシは懐に、恋人に宛てた手紙を持っている。本当なら、特攻に出る前に、だれかに託してそのひとに渡してもらうはずの手紙を、渡せぬままに出撃してしまった。いつも凛然と慎み深いヒロシだが、イーノックがアナベルと初めて結ばれた話をしたときには、子どもっぽい好奇心を抑えきれなかった。恐らくヒロシは女性との体験がないのだ。ヒロシもまだ若い。ゼロ戦に乗って敵艦につっこんでいた男たちは、実はみんな、ほんの子どものようなものだった。
そんなヒロシが一度だけ激怒する。イーノックが、「自ら死を選ぶなんて家族に対する裏切りだ」と言ったからだ。死ぬことがわかっていて特攻に出るなんて自殺に等しい。無知なアメリカの高校生には、あの当時の特攻というものの実態なんかわからない。出撃しないなんて、そんな選択があったはずもないのに。カミカゼだろうが人間だもの、死にたくないのは同じだ。ましてや愛する家族を残して死にたいなんて思うはずもない。どんな思いでヒロシたちが飛んだのか。イーノックに断罪する権利なんかない。
ましてや、ヒロシが恋人に手紙を渡せなかったのは、単に渡す意気地がなかったせいではない(と思う)。恐らくヒロシは渡したくても渡せなかったのだ。なぜならヒロシが出撃するとき、恋人はもう、この世のひとではなかったのだろう。イーノックたちが無思慮に長崎について言及したとき、ヒロシはとても辛そうな顔をする。(語られることはないけれど)恐らくヒロシの故郷は長崎で、恋人は長崎にいて、あの爆撃の犠牲になったのだ。だとしたら、ヒロシが出撃したのは、終戦のギリギリ直前か、もしかしたら終戦の後ですらあったかもしれない。そうして命を落とした若者たちは確かにいた。特攻がただでさえ犬死であることは、いくらあんな時代でも、心ある若者たちにはわかっていた。ましてや終戦間際のそんな時期に(あるいはすでに戦いが終わってしまったそんな時期に)死ぬために飛ばなければならない青年たちは、どんな気持ちでいたことだろう。
だから尚更思ってしまう。どうしてそんなヒロシが幽霊になって、イーノックの前に現れたのだろう。そしてこの映画には、ステキな回答が用意されている。最後の日、さわやかな笑顔で、ヒロシは旅立つアナベルにつきそうと言うのだ。長い旅になるから。ひとりでは寂しいし、もしかして道に迷っては大変だから。アナベルのヒーローであるチャールズ・ダーウィンの装束をまとって。
ああ、そうか、そうだったのか、そうかもしれない、と観客は深くうなずく。幽霊たちは、こうやって、これから旅立つだれかに、つきそってあげるために、留まっているのかもしれない。ひとりでは寂しいし、もしかして道に迷っては大変だから。
死は怖くない。だれも何も言えないけれど、たぶん怖いことじゃない。
なぜならそれはだれにでも普通に訪れることだから。
それでも、たとえば、アナベルのようにとても若い命が、ひとりで旅立つのが怖いと思えば、ヒロシのような優しい幽霊が、一緒に旅をしてくれる。
……のかもしれない。だれにも何も言えないけれど。
だからこれは、死を描いた映画ではあるけれど、悲しみの映画ではなく、優しさの映画なのです。
ひとが死ぬのは悲しいので、わたしはもちろん、目玉が溶けるほど泣いてしまったけれど。それでもやっぱり、なんて優しい、と思わずにはいられない。
一年の最後に、とてもいい映画を観ました。
三人の役者がみな、とてもすばらしかった。
・永遠の僕たち@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2011-12-29 18:30
| 映画あ行