2011年 12月 25日
間宮兄弟
|
★ネタバレ注意★
森田芳光監督追悼の気持ちを込めてDVDをレンタルしました。
2006年の作品です。江國香織原作。
そもそも邦画をめったに観ないので、森田監督の作品は、2002年の『模倣犯』と、2003年の『阿修羅のごとく』ぐらいしか観たことがなく、特に思いいれがあったわけではないのですが、まず61歳というその享年が、亡くなるにはあまりにも早すぎる年齢に思えましたし、何よりメディアの映像などで拝見するご様子がいかにも若々しくお見受けしていたので、亡くなられたというニュースには心がシンとしてしまいました。
間宮兄弟は30代の今も、兄弟ふたりで暮らしている。別にどちらかが経済的に依存しているわけではなく、兄・明信(佐々木蔵之介)はビール会社の商品開発研究員として、弟・徹信(塚地武雅)は小学校の校務員として、それぞれちゃんと立派に働いているのだが、ふたりでいると、ベイスターズの試合をテレビ観戦したり、レンタルビデオを一緒に観たり、ゲームをしたり、くだらない雑学を競いあったり、母親に親孝行をしに行ったり、毎日はとても楽しく充実していた。ところがあるとき、ふたりの部屋に女性を招じ入れたことから、満ち足りた日々には微妙な亀裂が生じていく。
幸福のありようは、ひとそれぞれであっていいと思います。
たとえいい年をした大の男が毎晩ふとんを並べて寄り添って寝ていようが、子どもじみたゲームに興じていようが、本人が幸せなら別にそれでよいと思う。
「帰ってクロスワードパズルでもやろうか?」「いいねぇ☆」という会話を、なんちゅー寂しい娯楽だとか、ジジ臭いとか、男ふたりでとか、ほかに友達はおらんのかいとか、非難の眼差しで見る必要など微塵もなく、むしろクロスワードパズルは楽しい、ふたりで一緒にやると更に一層楽しい、という「真実」に気づいてしまっている兄弟の方が「勝ち」です。他人の価値観からはどう映ろうと、自分たちにとってそれが「よいこと」であるのなら、粛々とそれをすればいいだけのこと。
他人とか世間体とかいう本来意味のない圧力から自由でいられる幸福。それを享受するためには、確固たる自分なりの価値観を持っていなければならないわけで、兄弟にはそれがあるし、何より幸いなことに(というか、ほとんど奇跡や御伽噺といったレベルに近い稀に見る幸運で)、その価値観を兄弟で共有できている。
出張に行った兄が、「ビールは人間が作るものだから同じ行程で作っていても工場ごとに味が違う」という「すばらしい発見」をして、矢も盾もたまらず弟に電話をかける。そして、一日の終りにこうして電話をかける相手がいるのはいいものだ、としみじみする。弟が好きな笹かまぼこをいそいそと土産に買って帰る。今回はたまたま、弟は機嫌をそこねていたのだけれど、いつもは、嬉しそうに食べる弟の顔を見て、兄はとても幸せになれる。兄が幸せな気持ちになるぐらい、弟は嬉しそうな顔で食べるらしい。
一体この何が悪いの? と思います。すっごく幸せな関係だ。なので、普通だったらこれは、ひとつの幸福のありかたを描いた映画になり得たのではないかと思う。幸福が描かれた映画はいいものです。それがささやかな幸福であればあるほどいいものです。その幸福が一風変わったものであるとき、観客は普通ほほえましいと思う。だって大切なのはそのありようではなく、そこに描かれているのがまぎれもなく幸福である、という事実なんだから。
だけどこの映画は、単なる幸福の賛歌としては描かれていないように思います。
監督の目線には、主人公たちとの一体感がなく、やや突き放したものを感じる。不自然な台詞を喋り不自然な言動をするキャラクターたちを観ていると、微妙な不快感を禁じえないのですが、この台詞そのものの不自然さは原作由来のものであるとしても、その不自然な台詞を喋る役者達の異様に平板な口調や、またその演出の仕方(シュールな演出と言われるもの)を観ていると、そこにはやはり、監督なりの距離感があるように思います。
兄弟の世界はいわば閉じた生態系で、かれらの関係性はふたりきりで完結しているので、ふたりの幸福には、他人の存在は必要ありません。監督はもしかしたら、そこにある種の「うしろめたさ」(恐らく原作には存在しない要素)を感じているのではあるまいか。
たとえば、気持ちをよせているビデオ屋の店員・本間直美(沢尻エリカ)にふられた兄が、このまま家に直行したら気持ちが収まらなくて暴れてしまいそうだと、弟をコインランドリーに呼び出して発散させる、というシーンがありました。弟は洗濯すませたばっかりなんだよ、とぼやきつつも律儀に洗濯物を持ってそこにやって来る。
なぜなら、兄にとってそれが大事なことだとわかっているからです。兄弟は、お互いにとって今何が必要で、いかに些細でくだらないことに見えようが、当人にとってはそれが極めて大事なことであり、当人にとって大事なことである以上、それがいかに些細でくだらないことに見えようが、決して無視したり軽視したり嘲笑ったりするべきではない、ということをきちんと理解している。
テレパスではないのですから、「情報」は言葉にしなければ伝わりませんが、それ以外の部分を兄弟は言葉にする必要がない。ふたりの間に限定すれば、かれらはコミュニケーションに関する努力を一切する必要がないのです(もちろん、「わかることからくる」気遣い、というのは必要になります。わざわざ夜中のコインランドリーに赴いた弟がよい例です)。
この、コミュニケーションに関する一切の努力をする必要なく成り立っている関係、に対するうしろめたさ(という言葉が適切かどうかはわかりませんが)が監督の中にはあったんじゃないか。
その証拠に、兄弟以外の登場人物はみな、人間関係でボロボロになっている。
小学校教師の葛原依子(常盤貴子)は、同僚の犬上(桂憲一)と交際しているけれど、犬上は依子が不安になるくらい誠意というものを見せない。かれの挙動があまりに不審なので、観客はふたりが不倫関係にあるのかと誤解してしまうほど。ビデオ屋の有美は、野球青年とつきあっているけれど、青年は野球に夢中で有美のことなど二の次。しかも浮気をしている可能性すら示唆されている。兄の同僚の大垣賢太(高嶋政宏)は、上司の安西美代子(岩崎ひろみ)と浮気していて、妻のさおり(戸田菜穂)には離婚申請中。
ひとはみな、ひとと関わることで、こんなに傷付いているというのに、兄弟だけが通じ合っていられるなんてズルイ。そういう関係性はやはりどこかアンフェアなものだ。という感覚。
さらにもうひとつの傍証として、一見ほのぼのとした善人に描かれているように見えて、兄弟は別に、周りのひとびとに温かい気遣いを示しているわけではない。行きつけの薬屋のおばちゃん(広田レオナ)が、閉店準備の為に外に出していたワゴンを店内にしまおうとウンショウンショと奮闘している場面に行き合わせても、手伝いもせず知らん顔して通り過ぎるし、行きつけの喫茶店のマスター親子が手作りのクリスマスケーキを売りあぐねて困っている場面に行き合わせても、買ってあげるわけでもなく、やはりただ通り過ぎるだけ。あたかもこの星には兄弟以外の人間なんか存在していないかのよう。
だったらなぜ、ふたりだけでそこまで満ち足りていたはずの兄弟が、自分たちの巣に女性を招かなければならなかったのか? それはもうセックス以外に何の理由もないはずなんだけど、不思議なことに兄弟の欲望は、不自然なほど慎重に隠されています。あたかも究極の草食動物のようにふるまうふたり。
第一、兄弟が部屋に招きいれた依子と有美には、それぞれ特定の相手が既に存在しているので、ふたりの女性がそれぞれ現在の恋人と破綻するという悲劇(彼女たちにとっては不幸)を経ることを前提としない限り、兄弟が付け入る隙はない。しかも、有美に恋心を抱く兄はともかく、弟に至っては、自分が声をかけておきながら、依子に対しては異性としての興味なんか全く抱いてはいないらしいのです。あくまで兄とひきあわせるのが目的。別に兄に頼まれたわけでもないし、兄がオンナがほしー、と月に向かって夜毎に叫んでいたわけでもないのに。
そんな弟が興味を抱いた相手は、兄の同僚の妻・さおりですが、この場合も、人妻ではあるけれど離婚調停中の女性、というより、離婚調停中ではあるけれどもやはり人妻、というベクトルで捉えるのが正解であるように思える。
つまり、兄弟にとって「外部」に新たな人間関係を構築する道というのは、あらかじめ閉ざされているかのように見える。それはそれでまた幸せのありかたで有り得るとは思うのだけど、少なくとも監督は、それをよしとはしていないというのが伝わってくる、なんだか奇妙な映画なのでした。
・間宮兄弟@ぴあ映画生活
森田芳光監督追悼の気持ちを込めてDVDをレンタルしました。
2006年の作品です。江國香織原作。
そもそも邦画をめったに観ないので、森田監督の作品は、2002年の『模倣犯』と、2003年の『阿修羅のごとく』ぐらいしか観たことがなく、特に思いいれがあったわけではないのですが、まず61歳というその享年が、亡くなるにはあまりにも早すぎる年齢に思えましたし、何よりメディアの映像などで拝見するご様子がいかにも若々しくお見受けしていたので、亡くなられたというニュースには心がシンとしてしまいました。
間宮兄弟は30代の今も、兄弟ふたりで暮らしている。別にどちらかが経済的に依存しているわけではなく、兄・明信(佐々木蔵之介)はビール会社の商品開発研究員として、弟・徹信(塚地武雅)は小学校の校務員として、それぞれちゃんと立派に働いているのだが、ふたりでいると、ベイスターズの試合をテレビ観戦したり、レンタルビデオを一緒に観たり、ゲームをしたり、くだらない雑学を競いあったり、母親に親孝行をしに行ったり、毎日はとても楽しく充実していた。ところがあるとき、ふたりの部屋に女性を招じ入れたことから、満ち足りた日々には微妙な亀裂が生じていく。
幸福のありようは、ひとそれぞれであっていいと思います。
たとえいい年をした大の男が毎晩ふとんを並べて寄り添って寝ていようが、子どもじみたゲームに興じていようが、本人が幸せなら別にそれでよいと思う。
「帰ってクロスワードパズルでもやろうか?」「いいねぇ☆」という会話を、なんちゅー寂しい娯楽だとか、ジジ臭いとか、男ふたりでとか、ほかに友達はおらんのかいとか、非難の眼差しで見る必要など微塵もなく、むしろクロスワードパズルは楽しい、ふたりで一緒にやると更に一層楽しい、という「真実」に気づいてしまっている兄弟の方が「勝ち」です。他人の価値観からはどう映ろうと、自分たちにとってそれが「よいこと」であるのなら、粛々とそれをすればいいだけのこと。
他人とか世間体とかいう本来意味のない圧力から自由でいられる幸福。それを享受するためには、確固たる自分なりの価値観を持っていなければならないわけで、兄弟にはそれがあるし、何より幸いなことに(というか、ほとんど奇跡や御伽噺といったレベルに近い稀に見る幸運で)、その価値観を兄弟で共有できている。
出張に行った兄が、「ビールは人間が作るものだから同じ行程で作っていても工場ごとに味が違う」という「すばらしい発見」をして、矢も盾もたまらず弟に電話をかける。そして、一日の終りにこうして電話をかける相手がいるのはいいものだ、としみじみする。弟が好きな笹かまぼこをいそいそと土産に買って帰る。今回はたまたま、弟は機嫌をそこねていたのだけれど、いつもは、嬉しそうに食べる弟の顔を見て、兄はとても幸せになれる。兄が幸せな気持ちになるぐらい、弟は嬉しそうな顔で食べるらしい。
一体この何が悪いの? と思います。すっごく幸せな関係だ。なので、普通だったらこれは、ひとつの幸福のありかたを描いた映画になり得たのではないかと思う。幸福が描かれた映画はいいものです。それがささやかな幸福であればあるほどいいものです。その幸福が一風変わったものであるとき、観客は普通ほほえましいと思う。だって大切なのはそのありようではなく、そこに描かれているのがまぎれもなく幸福である、という事実なんだから。
だけどこの映画は、単なる幸福の賛歌としては描かれていないように思います。
監督の目線には、主人公たちとの一体感がなく、やや突き放したものを感じる。不自然な台詞を喋り不自然な言動をするキャラクターたちを観ていると、微妙な不快感を禁じえないのですが、この台詞そのものの不自然さは原作由来のものであるとしても、その不自然な台詞を喋る役者達の異様に平板な口調や、またその演出の仕方(シュールな演出と言われるもの)を観ていると、そこにはやはり、監督なりの距離感があるように思います。
兄弟の世界はいわば閉じた生態系で、かれらの関係性はふたりきりで完結しているので、ふたりの幸福には、他人の存在は必要ありません。監督はもしかしたら、そこにある種の「うしろめたさ」(恐らく原作には存在しない要素)を感じているのではあるまいか。
たとえば、気持ちをよせているビデオ屋の店員・本間直美(沢尻エリカ)にふられた兄が、このまま家に直行したら気持ちが収まらなくて暴れてしまいそうだと、弟をコインランドリーに呼び出して発散させる、というシーンがありました。弟は洗濯すませたばっかりなんだよ、とぼやきつつも律儀に洗濯物を持ってそこにやって来る。
なぜなら、兄にとってそれが大事なことだとわかっているからです。兄弟は、お互いにとって今何が必要で、いかに些細でくだらないことに見えようが、当人にとってはそれが極めて大事なことであり、当人にとって大事なことである以上、それがいかに些細でくだらないことに見えようが、決して無視したり軽視したり嘲笑ったりするべきではない、ということをきちんと理解している。
テレパスではないのですから、「情報」は言葉にしなければ伝わりませんが、それ以外の部分を兄弟は言葉にする必要がない。ふたりの間に限定すれば、かれらはコミュニケーションに関する努力を一切する必要がないのです(もちろん、「わかることからくる」気遣い、というのは必要になります。わざわざ夜中のコインランドリーに赴いた弟がよい例です)。
この、コミュニケーションに関する一切の努力をする必要なく成り立っている関係、に対するうしろめたさ(という言葉が適切かどうかはわかりませんが)が監督の中にはあったんじゃないか。
その証拠に、兄弟以外の登場人物はみな、人間関係でボロボロになっている。
小学校教師の葛原依子(常盤貴子)は、同僚の犬上(桂憲一)と交際しているけれど、犬上は依子が不安になるくらい誠意というものを見せない。かれの挙動があまりに不審なので、観客はふたりが不倫関係にあるのかと誤解してしまうほど。ビデオ屋の有美は、野球青年とつきあっているけれど、青年は野球に夢中で有美のことなど二の次。しかも浮気をしている可能性すら示唆されている。兄の同僚の大垣賢太(高嶋政宏)は、上司の安西美代子(岩崎ひろみ)と浮気していて、妻のさおり(戸田菜穂)には離婚申請中。
ひとはみな、ひとと関わることで、こんなに傷付いているというのに、兄弟だけが通じ合っていられるなんてズルイ。そういう関係性はやはりどこかアンフェアなものだ。という感覚。
さらにもうひとつの傍証として、一見ほのぼのとした善人に描かれているように見えて、兄弟は別に、周りのひとびとに温かい気遣いを示しているわけではない。行きつけの薬屋のおばちゃん(広田レオナ)が、閉店準備の為に外に出していたワゴンを店内にしまおうとウンショウンショと奮闘している場面に行き合わせても、手伝いもせず知らん顔して通り過ぎるし、行きつけの喫茶店のマスター親子が手作りのクリスマスケーキを売りあぐねて困っている場面に行き合わせても、買ってあげるわけでもなく、やはりただ通り過ぎるだけ。あたかもこの星には兄弟以外の人間なんか存在していないかのよう。
だったらなぜ、ふたりだけでそこまで満ち足りていたはずの兄弟が、自分たちの巣に女性を招かなければならなかったのか? それはもうセックス以外に何の理由もないはずなんだけど、不思議なことに兄弟の欲望は、不自然なほど慎重に隠されています。あたかも究極の草食動物のようにふるまうふたり。
第一、兄弟が部屋に招きいれた依子と有美には、それぞれ特定の相手が既に存在しているので、ふたりの女性がそれぞれ現在の恋人と破綻するという悲劇(彼女たちにとっては不幸)を経ることを前提としない限り、兄弟が付け入る隙はない。しかも、有美に恋心を抱く兄はともかく、弟に至っては、自分が声をかけておきながら、依子に対しては異性としての興味なんか全く抱いてはいないらしいのです。あくまで兄とひきあわせるのが目的。別に兄に頼まれたわけでもないし、兄がオンナがほしー、と月に向かって夜毎に叫んでいたわけでもないのに。
そんな弟が興味を抱いた相手は、兄の同僚の妻・さおりですが、この場合も、人妻ではあるけれど離婚調停中の女性、というより、離婚調停中ではあるけれどもやはり人妻、というベクトルで捉えるのが正解であるように思える。
つまり、兄弟にとって「外部」に新たな人間関係を構築する道というのは、あらかじめ閉ざされているかのように見える。それはそれでまた幸せのありかたで有り得るとは思うのだけど、少なくとも監督は、それをよしとはしていないというのが伝わってくる、なんだか奇妙な映画なのでした。
・間宮兄弟@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2011-12-25 18:35
| 邦画