2011年 12月 11日
わすれた恋のはじめかた
|
★ネタバレ注意★
『ラビット・ホール』鑑賞記念にアーロン・エッカート出演作をもう一本。
2009年、ブランドン・キャンプ監督。日本では劇場未公開のようです。
なにしろ上掲のようなポスターだし、ジェニファー・アニストンだし、ロマンチックコメディだとばっかり思っていたら、実際は、アーロン・エッカートが中心のシリアスなストーリーで、アニストンはむしろ、「エッカートを取り巻くひとびと」の中のひとり、といった感じの位置づけに見受けられました。エッカートファンには全然オッケーですが、アニストンファンのひとは、おいおい、おれのジェンが添えものかよ! とむっとしたかもしれない(笑)。
妻を亡くしたバーク(アーロン・エッカート)は、自らの体験をもとに、悲しみから立ち直る方法を指南した自己啓発本を書いてベストセラー作家となった。全米各地を飛び歩いてセミナーを開いては、失意のひとびとを励まし、本を売る日々。ビジネスは絶好調で、大々的にテレビに進出する計画も控えていた。しかし実際は、バーク自身が未だ妻を喪った心の痛手から立ち直ってはおらず、大勢の支持者の前で、心にもない嘘をつく日々を送っていたのだった。
大事なひとを亡くしてしまった男の、悲しみとの格闘と再生への物語、ということで、はからずも『ラビット・ホール』とテーマがだぶります。
でも、テーマ(だけ)は同じでも、片や、舞台の風雪に鍛え抜かれた珠玉の台詞と、緊密な構成を持つ、一点の隙もない傑作であるのに対して、片や、音程が安定しない若いアイドル歌手の歌をつぎはぎテープで何とか聞けるようにミキシングしたCDのような、編集が頼りの脆弱な脚本のB級品といった印象。テーマ(だけ)が同じなだけに、両者の優劣がむごいくらいくっきり目だってしまう結果となりました。『ラビット・ホール』を観た直後でなければ、ここまで落差を感じることもなかったのにね。
そもそも、グリーフセラピーのグルとして売り出し中の男が、自分こそ悲しみから抜け出せていないという設定は、自己啓発本のスター作者が実は悲しみのどん底にいた、という種明かし的アプローチで考えると、悪い仕掛けではないようにも思えますが、悲しみのどん底にいる男が自己啓発本を書く、という因果関係的アプローチで考えると、なんだか納得のいかない流れに思えてしまいます。
「こうやったら悲しみから立ち直ることができる」という理論も、教導も、啓蒙も、本人がそんなこと思ってもいなかったら、全くの嘘でしかないわけですが、バークのような基本的に誠実な男が(だからこそ悲しみから抜け出すことが一層困難でもあった)、真顔でしゃあしゃあと嘘をつき散らかす展開が、どうもプロファイルにあわない感じ。心理描写が弱い、というより、ご都合主義だと思う。
自分のつく嘘、その嘘に騙されている藁にもすがる思いの支持者たち、その支持者の存在に次第に気が重くなっていく自分、という流れで描いてはいるのだけれど、それで気が重く感じるような人間なら、そもそも最初からこんなパフォーマンスをしようとは思わないんじゃないかな。なぜ自己啓発セミナーなのか、そこんところの納得のいく説明がほしかったと思います。自分が悲しくて辛かったから、悲しんでいるほかのひとを助けたいと思った? それは立ち直った人間の発想です。自らが火中にいる人間に、よその火事の消火はできない。
バークは妻を交通事故で喪ったことは公表していますが、自分にその事故の責任があることは言えずにいました。その事実と、それを隠しているという事実、ふたつの事実によって、単に最愛の女性を喪った、というだけでない、深い罪悪感がかれを苛んでいます。その罪悪感は、(結果として)殺してしまった妻へのものであると同時に、自分の過失で大事な娘に先立たれることになってしまった妻の両親への罪悪感でもある。
つまり、バークの再生を描こうと思えば、妻の両親との関係性の回復を果たすしかないわけで、その重要性が故に、この映画では妻の父親として、マーティン・シーンというビッグ・ネームが配されています。そしてクライマックスも、アーロン・エッカートとジェニファー・アニストンが結ばれるシーンなどではなく、エッカートとマーティン・シーンの間に和解が成立するシーンなのです。
それなのに、エッカートとマーティン・シーンの関係性の描写は、あまりにもおざなりだし、マーティン・シーンとその娘の関係については、全く描写されることすらないという適当さ。だいたい、父と娘はどんな仲だったのか。もちろん愛していたに決まっている、って言うなら、それは描写じゃなく記号ですから。
女の子なのに夢は大リーガーで、いつも父親が帰宅するのを待ちかねてキャッチボールをせがむようなボーイッシュな少女だったのか(そして父は、腰痛をこらえつつ律儀につきあっていたりして)、あるいは逆に、7歳のときに初めてチョコチップクッキーを焼いて以来、毎週金曜日には父親のためにクッキーを焼き続けるようなガーリッシュな少女だったのか(そして父は、甘いものなんかフセイン大統領より嫌いなのに、毎回おいしそうに食べていたりとか)、なにかひとつ、父と娘の息吹を感じさせるような挿話が必要だったんじゃないかと思うのだけど。だって、せっかくのマーティン・シーンなんだよ?
娘が飼っていたオウム、というアイテムが唯一、父と娘、夫と妻、義父と娘婿、という関係を繋ぐキーとなりえた存在だと思うのだけど、残念ながらうまく活かされていたとは思えません。ペットとして飼われていた動物を「野生に返す」という発想もエグイけど、妻の愛していたペットを簡単に手放す夫というのもよくわからないし、義父の家に忍びこんで盗み出すという行動にいたっては意味不明だし、娘がかわいがっていたペットなのに父親の態度は邪険だし、そんな父親のもとに戻って来るオウムというのも、予定調和というか、やっぱりご都合主義に思えるし。こんな局面で動物を使って白木庵を泣かせられないなんて、脚本家の腕が悪いとしか(笑)。
まあ、しかし、この脚本&演出のままでも、父親役がリチャード・ジェンキンスだったら、印象はまたちがってきたかもしれませんけど(笑)。
そんなこんなで、映画としては物足りない印象だったのですが、アーロン・エッカートは凄くよかったと思います。不利な手駒で精一杯戦ってる感じです。成功した自己啓発本の著者、という姿にも説得力があるけど、妻の死から立ち直れない失意の男、という繊細な感情表現もいい。そして新しい出会いに、ぎこちなく足を踏み出そうとする瑞々しさも愛しいです。
ただ、「新しい出会い」(という安易な記号)がなければ、ひとは立ち直ることができないかのような発想は安易だと思うし、そんな都合よく新しい相手に出会うというのがまた展開として安易だと思ってしまいます。ロマンチックコメディの枠組みならそれもアリなのかな、とは思うけれども、この映画はそうではなさそうだったので。
『ラビット・ホール』鑑賞記念にアーロン・エッカート出演作をもう一本。
2009年、ブランドン・キャンプ監督。日本では劇場未公開のようです。
なにしろ上掲のようなポスターだし、ジェニファー・アニストンだし、ロマンチックコメディだとばっかり思っていたら、実際は、アーロン・エッカートが中心のシリアスなストーリーで、アニストンはむしろ、「エッカートを取り巻くひとびと」の中のひとり、といった感じの位置づけに見受けられました。エッカートファンには全然オッケーですが、アニストンファンのひとは、おいおい、おれのジェンが添えものかよ! とむっとしたかもしれない(笑)。
妻を亡くしたバーク(アーロン・エッカート)は、自らの体験をもとに、悲しみから立ち直る方法を指南した自己啓発本を書いてベストセラー作家となった。全米各地を飛び歩いてセミナーを開いては、失意のひとびとを励まし、本を売る日々。ビジネスは絶好調で、大々的にテレビに進出する計画も控えていた。しかし実際は、バーク自身が未だ妻を喪った心の痛手から立ち直ってはおらず、大勢の支持者の前で、心にもない嘘をつく日々を送っていたのだった。
大事なひとを亡くしてしまった男の、悲しみとの格闘と再生への物語、ということで、はからずも『ラビット・ホール』とテーマがだぶります。
でも、テーマ(だけ)は同じでも、片や、舞台の風雪に鍛え抜かれた珠玉の台詞と、緊密な構成を持つ、一点の隙もない傑作であるのに対して、片や、音程が安定しない若いアイドル歌手の歌をつぎはぎテープで何とか聞けるようにミキシングしたCDのような、編集が頼りの脆弱な脚本のB級品といった印象。テーマ(だけ)が同じなだけに、両者の優劣がむごいくらいくっきり目だってしまう結果となりました。『ラビット・ホール』を観た直後でなければ、ここまで落差を感じることもなかったのにね。
そもそも、グリーフセラピーのグルとして売り出し中の男が、自分こそ悲しみから抜け出せていないという設定は、自己啓発本のスター作者が実は悲しみのどん底にいた、という種明かし的アプローチで考えると、悪い仕掛けではないようにも思えますが、悲しみのどん底にいる男が自己啓発本を書く、という因果関係的アプローチで考えると、なんだか納得のいかない流れに思えてしまいます。
「こうやったら悲しみから立ち直ることができる」という理論も、教導も、啓蒙も、本人がそんなこと思ってもいなかったら、全くの嘘でしかないわけですが、バークのような基本的に誠実な男が(だからこそ悲しみから抜け出すことが一層困難でもあった)、真顔でしゃあしゃあと嘘をつき散らかす展開が、どうもプロファイルにあわない感じ。心理描写が弱い、というより、ご都合主義だと思う。
自分のつく嘘、その嘘に騙されている藁にもすがる思いの支持者たち、その支持者の存在に次第に気が重くなっていく自分、という流れで描いてはいるのだけれど、それで気が重く感じるような人間なら、そもそも最初からこんなパフォーマンスをしようとは思わないんじゃないかな。なぜ自己啓発セミナーなのか、そこんところの納得のいく説明がほしかったと思います。自分が悲しくて辛かったから、悲しんでいるほかのひとを助けたいと思った? それは立ち直った人間の発想です。自らが火中にいる人間に、よその火事の消火はできない。
バークは妻を交通事故で喪ったことは公表していますが、自分にその事故の責任があることは言えずにいました。その事実と、それを隠しているという事実、ふたつの事実によって、単に最愛の女性を喪った、というだけでない、深い罪悪感がかれを苛んでいます。その罪悪感は、(結果として)殺してしまった妻へのものであると同時に、自分の過失で大事な娘に先立たれることになってしまった妻の両親への罪悪感でもある。
つまり、バークの再生を描こうと思えば、妻の両親との関係性の回復を果たすしかないわけで、その重要性が故に、この映画では妻の父親として、マーティン・シーンというビッグ・ネームが配されています。そしてクライマックスも、アーロン・エッカートとジェニファー・アニストンが結ばれるシーンなどではなく、エッカートとマーティン・シーンの間に和解が成立するシーンなのです。
それなのに、エッカートとマーティン・シーンの関係性の描写は、あまりにもおざなりだし、マーティン・シーンとその娘の関係については、全く描写されることすらないという適当さ。だいたい、父と娘はどんな仲だったのか。もちろん愛していたに決まっている、って言うなら、それは描写じゃなく記号ですから。
女の子なのに夢は大リーガーで、いつも父親が帰宅するのを待ちかねてキャッチボールをせがむようなボーイッシュな少女だったのか(そして父は、腰痛をこらえつつ律儀につきあっていたりして)、あるいは逆に、7歳のときに初めてチョコチップクッキーを焼いて以来、毎週金曜日には父親のためにクッキーを焼き続けるようなガーリッシュな少女だったのか(そして父は、甘いものなんかフセイン大統領より嫌いなのに、毎回おいしそうに食べていたりとか)、なにかひとつ、父と娘の息吹を感じさせるような挿話が必要だったんじゃないかと思うのだけど。だって、せっかくのマーティン・シーンなんだよ?
娘が飼っていたオウム、というアイテムが唯一、父と娘、夫と妻、義父と娘婿、という関係を繋ぐキーとなりえた存在だと思うのだけど、残念ながらうまく活かされていたとは思えません。ペットとして飼われていた動物を「野生に返す」という発想もエグイけど、妻の愛していたペットを簡単に手放す夫というのもよくわからないし、義父の家に忍びこんで盗み出すという行動にいたっては意味不明だし、娘がかわいがっていたペットなのに父親の態度は邪険だし、そんな父親のもとに戻って来るオウムというのも、予定調和というか、やっぱりご都合主義に思えるし。こんな局面で動物を使って白木庵を泣かせられないなんて、脚本家の腕が悪いとしか(笑)。
まあ、しかし、この脚本&演出のままでも、父親役がリチャード・ジェンキンスだったら、印象はまたちがってきたかもしれませんけど(笑)。
そんなこんなで、映画としては物足りない印象だったのですが、アーロン・エッカートは凄くよかったと思います。不利な手駒で精一杯戦ってる感じです。成功した自己啓発本の著者、という姿にも説得力があるけど、妻の死から立ち直れない失意の男、という繊細な感情表現もいい。そして新しい出会いに、ぎこちなく足を踏み出そうとする瑞々しさも愛しいです。
ただ、「新しい出会い」(という安易な記号)がなければ、ひとは立ち直ることができないかのような発想は安易だと思うし、そんな都合よく新しい相手に出会うというのがまた展開として安易だと思ってしまいます。ロマンチックコメディの枠組みならそれもアリなのかな、とは思うけれども、この映画はそうではなさそうだったので。
by shirakian
| 2011-12-11 20:10
| 映画わ行