2011年 12月 02日
コンテイジョン
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★ネタバレ注意★
『トラフィック』のコンテイジョン版とも言うべき、あくまでリアルを追及したヒーロー不在のパンデミック・サスペンス。監督はスティーヴン・ソダーバーグ、主演がだれとは絞り難く、マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ローレンス・フィッシュバーン、ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロー、ケイト・ウィンスレットといった、主演級アカデミー級の役者がズラリと顔を並べた、ソダーバーグらしい豪華な布陣です。
事の発端は香港に出張したビジネスウーマンのベス・エムホフ(グウィネス・パルトロー)。当地でウィルスに感染した彼女が、なにも知らず無防備にアメリカに帰国後、早くも2日で死亡。しかもその幼い息子までが相次いで同じ病気で命を落としてしまう。まさか小さな子どもを殺すことはあるまいと思って油断していた観客は、極めて早い段階で、ソダーバーグ監督は手加減する気はないのだな、ということを思い知らされます。
ベスが感染したウィルスは、同じ感染源から香港にも蔓延し、やがて世界中に同様の事態が広がっていく。世界保健機関(WHO)が香港での発生源の究明に当たる一方で、アトランタにあるアメリカ疾病管理予防センター(CDC)でも、ウィルスの特定とワクチン開発のために、研究者たちが不眠不休で取り組んでいきます。しかし、ウィルスの特定はできたものの(コウモリとブタの混合ウィルスであった由)、ワクチンの開発は遅々として進まず、感染者は増え続ける一方。しかも、ウィルスは突然変異を起こし、爆発的な勢いで感染が加速し、三ヶ月後には死者数が2600万人にも達してしまう。ただでさえ未曾有の危機なのに、フリー・ジャーナリスト(自称だね)のアラン・クラムウィディ(ジュード・ロウ)は、人気ブロガーとしての影響力を武器に、徒に民心を煽り、意図的に嘘の治療法を流布して製薬会社から富を手にいれようと画策し、混乱を拡大させるのだった。
ここで果敢にウィルスに挑む研究者として、WHOのドクター・レオノーラ・オランテス(マリオン・コティヤール)、CDCのドクター・エリス・チーヴァー(ローレンス・フィッシュバーン)、ドクター・エリン・ミアーズ(ケイト・ウィンスレット)、ドクター・アリー・ヘクストール(ジェニファー・イーリー)の四人が配されています。
ドラマに占める四人の役割はそれぞれに異なっていて、このようなパンデミックが起こったときに、実際にどのような問題が生じるか、というシュミレーションにもなっています。
中でも印象的だったのは、ウィンスレットが演じたドクター・ミアーズです。
ミアーズは上司であるチーヴァーの要請によりこの仕事に派遣されるのですが、厳しい条件の中、果敢に患者への治療に取り組もうとします。しかしもとより治療法などなく、患者数は拡大する一方、医療スタッフの疲労・心労が蓄積されていく中で、ついに本人もウィルスに感染し、手の施しようもなく亡くなってしまう。
この展開もまたショッキングです。我が身の危険を顧みず、本来なら隔離されていたい感染者に直接接して、なんとか助けようと奔走してくれる医療スタッフの身に、そんなことが起こってしまうだなんて、あまりに理不尽なことに思われますが、でも実際に感染の可能性が一番高いのは、かれら善意の人々なのだという冷徹な現実。それを認識しつつ、現場から離れない医療スタッフの人々には本当に頭が下がります。
一方、イーリーが演じたドクター・ヘクトールは、(チーヴァーを悩ませた)マスコミや(ミアーズを悩ませた)行政への対応の矢面に立つことなく、黙々とワクチン開発そのものにフォーカスし続けます。そしてついに、ワクチンの開発に成功し、尚且つ、治験にかかる時間を省略するために自らにそれを注入するという「英雄的行為」により、ヒーローに祭り挙げられるのだけれど、実は、すでに自身の父親が感染しており、そのことが大きな動機のひとつとなっていた、という「利己的動機」が示唆されています。
コティヤールが演じたドクター・オランテスのケースは面白い。せっかく開発されたワクチンも、世界規模のパンデミックでは数が限られることは目に見えています。世界中で、金持ちや有力者が誘拐され、身の安全と引き換えにワクチンを手にいれようとする犯罪が多発する。オランテスもまた、そうして誘拐されたひとりだったのだけど、感染リスクのある中国の農村の人々と触れ合ううちに、かれらに感情移入してしまい、かれらの立場に立ち、かれらの為に、積極的にワクチンを手に入れようと働きかける。けれどここでも浮かびあがる皮肉な現実は、やはり弱者にはワクチンは行き渡らない、ということです。強い国が独占し、その中でも特権を持つものが早く手に入れる。子どもたちの命もまた、経済原則に左右される世界。
そして複雑な立場に立つのが、フィッシュバーンが演じたドクター・チーヴァーです。
責任感を持ち、精一杯己の仕事を全うしようとする高潔な人物であり、CDCの責任者としてマスコミの前に立たねばならず、対応が後手後手に回る展開に世論の集中砲火を浴びなければならぬ身。当然、まずい事態になったらスケープゴートになることは必至です。
そんなチーヴァーですが、自分が派遣したミアーズが感染発症すると、責任を感じて、彼女をアトランタまで空輸するよう強要しようとするし、自分の恋人に対しては、公式発表にさきだち機密情報を漏らし、感染が広がっているシカゴが封鎖される前に脱出するよう示唆したのみならず、関係者特権で逸早く手に入るワクチンを与えるために、このタイミングで籍を入れる。公私混同、と謗られてもしかたのない行動ですが、それは逆に、かれの人間味を感じさせもします。
実際、自分が「関係者」だったら、その特権を使わずにいられるか? と自問すれば、答えは確実にNoであろうと思うのです。仮にワクチンを輸送するトラックを運転するだけの「関係」具合であったとしても、自分が運んでいるワクチンを自分が使わせてもらえないなんて理不尽だ、と思ってしまうでしょう。
こうして、懸命に感染に立ち向かう医療関係者とその周辺の人々が描写されていく中で、トリックスターとして面白い立ち位置にいるのがジュード・ロウが演じた自称フリー・ジャーナリストのアランです。
かれは、自分のブログが何万人もの人に読まれていることを利用して私利私欲に走るのですが、こんな大変な事態の最中に自らの金銭的利益をはかる人間がいる、という事実に呆れると同時に、新しく台頭してきたブログという形態の「ジャーナリズム」に関する問題提起も多々含まれていると感じさせます。
ブログで発信される情報を、人々はなぜ容易に信用するのか? 既存のメディアの報道には眉に唾をつけるのに? 報道統制や偏向といった問題がある既存のメディアに対して、どんな個人でも簡単に発信することのできるブログは、いかなる検閲も受けていないことから生じる、かれらは何の制約もなく「真実」を述べている、と感じてしまう錯覚。しかし、検閲がないということは逆に、どんなデマも嘘も悪意も、だれも規制することがないということでもある。
情報の真贋を見極めることのできる者しかネットを利用してはいけない、と言ったひとがいたなぁ、などと思いつつ、果たしてどうやったらその真贋を見極めることができるのだろう、とも考えこんでしまう展開でした。
そんな中でマット・デイモンが演じたのは、最初の感染者となったグウィネス・パルトローの夫であり、彼女の連れ子である少年をあっと間に感染で失ってしまった父親でもある男ですが、そうした環境にありながら、なぜか感染を逃れたかれは、混乱した街の中で、ひたすら良心を保ち、普通の市民としての生活を全うしようとします。食料は乏しくなり、通りには暴徒があふれ、ワクチンの順番は遠く、それでも人間としての矜持を保つ姿は、恐らく、東北の大災害を体験した日本人の目からすれば、マトモな人間であれば斯くの如し、という姿に見えると思うのですが、アメリカ的常識から見れば、かなり高潔な人物として映るのではないかと思います。
その一方でかれの印象が若干弱いのは、(アメリカ人であるにもかかわらず)かれが「闘わない男」だったせいかもしれません。感染の蔓延や暴動はもとより、妻の浮気に対してすら。尤も、いずれの情況も、闘おうにも闘いようがないものではあるんだけれど。
ラストで明かされる「感染源」がブラックなおかしみを感じさせます。とある奥地にある養豚場にはコウモリが多数棲み付いており、両者のウィルスが混合して新種のウィルスが誕生する。そこへ子ブタの買いつけにきた香港の一流ホテルのシェフ。よく肥えた子ブタを選び、腕によりをかけて調理し、仕事をやり遂げた充足感と共に着飾った客たちに饗する。かくて、子ブタに付着して運ばれてきたウィルスは、シェフの手を通じ、パーティーの客に感染し、その客の食器を下げたウェイター、ウェイターの恋人……と感染が広がっていく。
……とりあえず、手はよく洗おう、と思いましたよ。
・コンテイジョン@ぴあ映画生活
『トラフィック』のコンテイジョン版とも言うべき、あくまでリアルを追及したヒーロー不在のパンデミック・サスペンス。監督はスティーヴン・ソダーバーグ、主演がだれとは絞り難く、マリオン・コティヤール、マット・デイモン、ローレンス・フィッシュバーン、ジュード・ロウ、グウィネス・パルトロー、ケイト・ウィンスレットといった、主演級アカデミー級の役者がズラリと顔を並べた、ソダーバーグらしい豪華な布陣です。
事の発端は香港に出張したビジネスウーマンのベス・エムホフ(グウィネス・パルトロー)。当地でウィルスに感染した彼女が、なにも知らず無防備にアメリカに帰国後、早くも2日で死亡。しかもその幼い息子までが相次いで同じ病気で命を落としてしまう。まさか小さな子どもを殺すことはあるまいと思って油断していた観客は、極めて早い段階で、ソダーバーグ監督は手加減する気はないのだな、ということを思い知らされます。
ベスが感染したウィルスは、同じ感染源から香港にも蔓延し、やがて世界中に同様の事態が広がっていく。世界保健機関(WHO)が香港での発生源の究明に当たる一方で、アトランタにあるアメリカ疾病管理予防センター(CDC)でも、ウィルスの特定とワクチン開発のために、研究者たちが不眠不休で取り組んでいきます。しかし、ウィルスの特定はできたものの(コウモリとブタの混合ウィルスであった由)、ワクチンの開発は遅々として進まず、感染者は増え続ける一方。しかも、ウィルスは突然変異を起こし、爆発的な勢いで感染が加速し、三ヶ月後には死者数が2600万人にも達してしまう。ただでさえ未曾有の危機なのに、フリー・ジャーナリスト(自称だね)のアラン・クラムウィディ(ジュード・ロウ)は、人気ブロガーとしての影響力を武器に、徒に民心を煽り、意図的に嘘の治療法を流布して製薬会社から富を手にいれようと画策し、混乱を拡大させるのだった。
ここで果敢にウィルスに挑む研究者として、WHOのドクター・レオノーラ・オランテス(マリオン・コティヤール)、CDCのドクター・エリス・チーヴァー(ローレンス・フィッシュバーン)、ドクター・エリン・ミアーズ(ケイト・ウィンスレット)、ドクター・アリー・ヘクストール(ジェニファー・イーリー)の四人が配されています。
ドラマに占める四人の役割はそれぞれに異なっていて、このようなパンデミックが起こったときに、実際にどのような問題が生じるか、というシュミレーションにもなっています。
中でも印象的だったのは、ウィンスレットが演じたドクター・ミアーズです。
ミアーズは上司であるチーヴァーの要請によりこの仕事に派遣されるのですが、厳しい条件の中、果敢に患者への治療に取り組もうとします。しかしもとより治療法などなく、患者数は拡大する一方、医療スタッフの疲労・心労が蓄積されていく中で、ついに本人もウィルスに感染し、手の施しようもなく亡くなってしまう。
この展開もまたショッキングです。我が身の危険を顧みず、本来なら隔離されていたい感染者に直接接して、なんとか助けようと奔走してくれる医療スタッフの身に、そんなことが起こってしまうだなんて、あまりに理不尽なことに思われますが、でも実際に感染の可能性が一番高いのは、かれら善意の人々なのだという冷徹な現実。それを認識しつつ、現場から離れない医療スタッフの人々には本当に頭が下がります。
一方、イーリーが演じたドクター・ヘクトールは、(チーヴァーを悩ませた)マスコミや(ミアーズを悩ませた)行政への対応の矢面に立つことなく、黙々とワクチン開発そのものにフォーカスし続けます。そしてついに、ワクチンの開発に成功し、尚且つ、治験にかかる時間を省略するために自らにそれを注入するという「英雄的行為」により、ヒーローに祭り挙げられるのだけれど、実は、すでに自身の父親が感染しており、そのことが大きな動機のひとつとなっていた、という「利己的動機」が示唆されています。
コティヤールが演じたドクター・オランテスのケースは面白い。せっかく開発されたワクチンも、世界規模のパンデミックでは数が限られることは目に見えています。世界中で、金持ちや有力者が誘拐され、身の安全と引き換えにワクチンを手にいれようとする犯罪が多発する。オランテスもまた、そうして誘拐されたひとりだったのだけど、感染リスクのある中国の農村の人々と触れ合ううちに、かれらに感情移入してしまい、かれらの立場に立ち、かれらの為に、積極的にワクチンを手に入れようと働きかける。けれどここでも浮かびあがる皮肉な現実は、やはり弱者にはワクチンは行き渡らない、ということです。強い国が独占し、その中でも特権を持つものが早く手に入れる。子どもたちの命もまた、経済原則に左右される世界。
そして複雑な立場に立つのが、フィッシュバーンが演じたドクター・チーヴァーです。
責任感を持ち、精一杯己の仕事を全うしようとする高潔な人物であり、CDCの責任者としてマスコミの前に立たねばならず、対応が後手後手に回る展開に世論の集中砲火を浴びなければならぬ身。当然、まずい事態になったらスケープゴートになることは必至です。
そんなチーヴァーですが、自分が派遣したミアーズが感染発症すると、責任を感じて、彼女をアトランタまで空輸するよう強要しようとするし、自分の恋人に対しては、公式発表にさきだち機密情報を漏らし、感染が広がっているシカゴが封鎖される前に脱出するよう示唆したのみならず、関係者特権で逸早く手に入るワクチンを与えるために、このタイミングで籍を入れる。公私混同、と謗られてもしかたのない行動ですが、それは逆に、かれの人間味を感じさせもします。
実際、自分が「関係者」だったら、その特権を使わずにいられるか? と自問すれば、答えは確実にNoであろうと思うのです。仮にワクチンを輸送するトラックを運転するだけの「関係」具合であったとしても、自分が運んでいるワクチンを自分が使わせてもらえないなんて理不尽だ、と思ってしまうでしょう。
こうして、懸命に感染に立ち向かう医療関係者とその周辺の人々が描写されていく中で、トリックスターとして面白い立ち位置にいるのがジュード・ロウが演じた自称フリー・ジャーナリストのアランです。
かれは、自分のブログが何万人もの人に読まれていることを利用して私利私欲に走るのですが、こんな大変な事態の最中に自らの金銭的利益をはかる人間がいる、という事実に呆れると同時に、新しく台頭してきたブログという形態の「ジャーナリズム」に関する問題提起も多々含まれていると感じさせます。
ブログで発信される情報を、人々はなぜ容易に信用するのか? 既存のメディアの報道には眉に唾をつけるのに? 報道統制や偏向といった問題がある既存のメディアに対して、どんな個人でも簡単に発信することのできるブログは、いかなる検閲も受けていないことから生じる、かれらは何の制約もなく「真実」を述べている、と感じてしまう錯覚。しかし、検閲がないということは逆に、どんなデマも嘘も悪意も、だれも規制することがないということでもある。
情報の真贋を見極めることのできる者しかネットを利用してはいけない、と言ったひとがいたなぁ、などと思いつつ、果たしてどうやったらその真贋を見極めることができるのだろう、とも考えこんでしまう展開でした。
そんな中でマット・デイモンが演じたのは、最初の感染者となったグウィネス・パルトローの夫であり、彼女の連れ子である少年をあっと間に感染で失ってしまった父親でもある男ですが、そうした環境にありながら、なぜか感染を逃れたかれは、混乱した街の中で、ひたすら良心を保ち、普通の市民としての生活を全うしようとします。食料は乏しくなり、通りには暴徒があふれ、ワクチンの順番は遠く、それでも人間としての矜持を保つ姿は、恐らく、東北の大災害を体験した日本人の目からすれば、マトモな人間であれば斯くの如し、という姿に見えると思うのですが、アメリカ的常識から見れば、かなり高潔な人物として映るのではないかと思います。
その一方でかれの印象が若干弱いのは、(アメリカ人であるにもかかわらず)かれが「闘わない男」だったせいかもしれません。感染の蔓延や暴動はもとより、妻の浮気に対してすら。尤も、いずれの情況も、闘おうにも闘いようがないものではあるんだけれど。
ラストで明かされる「感染源」がブラックなおかしみを感じさせます。とある奥地にある養豚場にはコウモリが多数棲み付いており、両者のウィルスが混合して新種のウィルスが誕生する。そこへ子ブタの買いつけにきた香港の一流ホテルのシェフ。よく肥えた子ブタを選び、腕によりをかけて調理し、仕事をやり遂げた充足感と共に着飾った客たちに饗する。かくて、子ブタに付着して運ばれてきたウィルスは、シェフの手を通じ、パーティーの客に感染し、その客の食器を下げたウェイター、ウェイターの恋人……と感染が広がっていく。
……とりあえず、手はよく洗おう、と思いましたよ。
・コンテイジョン@ぴあ映画生活
by shirakian
| 2011-12-02 20:09
| 映画か行