2011年 10月 14日
猿の惑星:創世記(ジェネシス)
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★ネタバレ注意★
映画冒頭、ジャングルを逃げ惑うチンパンジーのシーンから、瞬時に猿に感情移入してしまって以降完璧猿目線、観てる間中ずっーと胸が痛くてたまりませんでした。
猿が、熱い(>_<)。
『猿の惑星』と言えばもはや古典と言える映画かと思いますが、残念ながらわたしは、悪評高い(らしい)ティム・バートン版しか観たことがない上に、観たはずのバートン版もろくすっぽ覚えちゃいないというテイタラクですので(オマエ、映画観るのヤメロ)、大元の仕掛け(主人公が漂着した未知の惑星は実は……)程度はさすがに知っていましたが、旧シリーズへのオマージュはほとんど意味をなしませんでした。しかしその反面、旧シリーズとの齟齬や矛盾も気にならず、結果として、全くの独立した作品としてこの映画を楽しみました。
ほんとに心から楽しみました。なにしろ完全に猿目線でしょ、心は猿と命運を共にしてしまうわけですよ。後半の展開なんて、口半開きにして拳握りしめて(気持ち)前のめりです。あっという間の106分でした。
人間に反旗を翻した(というか、自由をもとめて人間の手から逃れようとした)チンパンジーたちの逃走と闘争のシーン。静かな住宅街の街路樹が、いきなり吹雪のようにザワザワと葉を散らす発端から、スピーディに通りを駆け抜ける類人猿の群。猿たちの軽快で力強く、完璧に連繋のとれた動き。擬人化された「かわいいお猿さん」のイメージとはかけ離れたその身体能力の凄まじさ。普通では決して見ることのできない映像を、いままさにこうして目にしているという至福感。
チンパンジーの群を率いる高い知能を持ったシーザーの、水際だった名軍師ぶり。ゴールデン・ゲイト・ブリッジを舞台に展開する見事な陽動作戦。チンパンジーとゴリラ、オランウータンとの共闘。指導的地位にあるそれら三種の猿がすっくと車上に並び立つ姿。力をあわせて盾となるバスを押して進む力強いゴリラたち。深い霧の切れ目から、騎馬警官から奪った馬にのって疾駆してくるシーザーの勇姿。……なにもかもがすばらしい。
サンフランシスコの製薬会社、ジェネシス社で薬品開発を担当しているウィル・ロッドマン(ジェームズ・フランコ)は、アルツハイマーに侵された父チャールズ(ジョン・リスゴー)を在宅で看護していた。父親思いのウィルは、父のために必死に治療薬の研究をしていたが、開発中の新薬を被検体のチンパンジーに投与したところ、飛躍的に知能が向上したことを確認する。これを人間に投与すれば、アルツハイマーも改善されるにちがいない。いよいよ治験が開始できると色めき立ったウィルだったが、被検体のチンパンジーが突如暴れだすという事態に、プロジェクトは中止されてしまう。ウィルは、射殺されたチンパンジーが死ぬ間際に産み落とした赤ん坊を連れ帰り、シーザーと名づけて育てることになった。
というのが発端です。薬品によって人工的に高められた知能が遺伝によって伝わる、というのが科学的にアリなのかどうかはわかりませんが、とにかく、被検体のチンパンジーから生まれたシーザーは、生まれながらに驚異的な知能を誇り、ウィルやチャールズを家族と認識し、手話で会話が成り立つレベル。そうなってしまえばもはや、人間と猿の垣根などなきがごとし。ふたりと一頭の、いたわりに満ちた温かい家庭生活を観れば、もはやシーザーをケモノとは思えない。
しかしそれでもやはり人間ならざるシーザーを、迂闊に外には出せないし、出すなら首輪と引き綱が必須となります。シーザーが人間に害をなすから、というより、シーザーを見た人間の方が徒にパニックにならないための予防的措置という意味合いが強いのだけど、シーザーにとっては、首輪も引き綱も随分理不尽なものと感じられてしまいます。ぼくはペットなの? ウィルに尋ねるシーザー。ちがうよ、きみは家族だよ。ウィルはそう答えはするものの、首輪をはずすことはできません。
このね、人間同士以上に心を通じ合わせていたはずだったウィルとシーザーの間にある、最初は目をこらさなければ見えないほどだったヘアラインクラックが、後々大きな溝となってふたりの間に立ちはだかっていくという描写が圧巻。かわいいだけが仕事のペットならそれでいい。でも、高度な知能と自我を持ってしまったら。保護は幽閉に、愛情は愛玩に、規律は屈辱に、容易に転じてしまう。それは知性の宿命というもの。
シーザーの心の中に、この厄介な(でも知的生命体を知的生命体として輝かせているのであろうその本質的な)変化が進行していく過程の演技が、ほんとにすばらしいのです。シーザーは基本、言葉を喋りませんので、シーザーの頭の中でこれほどに複雑な感情の動きが生じているということを、観客はかれの仕種や表情のみによって感じ取る仕掛けになっているわけですが、それに全く過不足がないのです。
特に全身に鳥肌が立つようだったのは、動物保護施設に迎えにきたウィルが手を差し述べると、つと手を伸ばしてそれを取るかに見えたシーザーが、その手で檻の扉を閉めるシーン。開かれた扉を自ら閉める、という発想がまずなかったので、あのシーンの衝撃はすさまじかった。千言万語を費やしても及ばないその拒否の仕方。その瞬間のシーザーの目。このシーンに先立ち、施設に閉じ込められて絶望したシーザーが、コンクリートの壁に自宅の自分の部屋の窓の絵を描くシーンがあり、それにすがって泣くシーンがあり、さらには自らその窓を消し去るシーンがあっただけに、より一層、胸に迫るものがありました。
それもこれも、アンディ・サーキスが凄い。数々の猿が、観客の紅涙をしぼる演技を魅せてくれるこの映画ですが、実は本物の猿は一匹も使われていないのね。みんなCGなんですって。そしてそのCGの大元になる演技をしたのがサーキス。言わずとしれた『LotR』のゴラムやキング・コングに命を注ぎこんだサーキスは、パフォーマンス・キャプチャー演技の第一人者の名をほしいままにしているわけですが、サーキス以前にそんなポジション、存在すらしてなかったと思うよ。かれの前に道はない。かれの後ろに道は出来る。
そしてもうひとり、シニア視覚効果監修、という方に着目すべきなのではないかと、わたくし、睨みました。ジョー・レッテリという方なんですけれども、このひとこそ『アバター』や『キング・コング』の視覚効果を生み出したひとであるらしい。今後、映画においてVFXが益々重要になっていくにつれて、こういうお仕事をなさってる方々にも、もっともっとスポットが当たるようになっていくんだろうな、と思いますけれども。
この映画のルーツが、斬新なアイディアを基調とした社会風刺や批判を含む王道的SFであることはもちろん承知していますが、しかしこの映画に限って言えば、興味の中心はもはやそこにはないのだなぁ、ということを感じます。つまり、SFとしては穴が多すぎる。
一番違和感を覚えるのは、人類文明崩壊の端緒となった試薬、ALZ113の描写でしょうか。
113は最初にチンパンジーに投与されたALZ112の改良(?)型です。112をアルツハイマー患者に投与すると、一時的には劇的な回復を見せるのだけど、結局は人体の免疫力に負けて抗力がなくなってしまうことが判明したため、より強い耐性が付与された新薬として作られたのが113ですが、この試薬は、猿の知能は飛躍的に向上させることができるけれど、人類にとっては致命的なものとなってしまい、その感染が世界中に蔓延したがために、人口は激減、文明は崩壊、というシナリオです。
で、この113ウィルスなんですけど、その感染の仕方というのがどう見ても空気感染ではなく、飛沫感染なんですね。しかも感染から死亡までの時間が極端に短い。ということは、感染者があちこち歩きまわって感染を広める、ということが起こりにくいというわけで、パンデミックには繋がりにくい特性がふたつもあることになっちゃう。そうすると、猿が勢力を増やして地球の指導権を握るのと、人類が指導権を手放さざるを得なくなるほどまでに数が減ってしまうのと、一体どっちが早いのか、という問題については、なんだか考えるまでもないような……。
あと、まあ、112は液状だったのに、113はガス状になっているっていうのも、液状の薬品が爆発的に猿の間に広がる、という描写が難しいので、敢えてガスにしました、というまさに為にする設定であるあたりも興ざめかもしれません。
直接113を摂取して飛躍的に知能が向上したグループと、単に動物園から解放されただけの野生のままのグループが同じ行動をとったりする描写もぬるいだろうな、と思っちゃうし、細かいことをつつけば、たぶん、キリがない。監督には描きたい大きな絵があって、その絵を描くためには、細部には敢えて目をつぶった、という感がなきにしもあらずです。
だけど、ALZ112という薬品に関する描写は、科学的SF的側面はともかく、ドラマ的側面としては、ものすごく効果的だったと思うのです。この薬品を、アルツハイマーの患者に投与すると、一時的には劇的に回復するけれど、根本的な治療には到らない。ここがたまらなく切ないです。研究者の立場からすると恐らく、治療できないなら意味がない、と思ってしまうのかもしれないけれど、たとえそれが一時的なものでしかないにせよ、特に高齢の患者が、死ぬ前にほんとうの自分を取り戻すことができる、という要素は決して小さくないと思うのです。
患者本人にとっても家族にとっても、特にそのひとが高齢である場合、そのひとがいずれ死にゆくという事実より、そのひとがそのひとでなくなってしまうという現実の方がむしろ残酷なのではないか。だったらいっそ、一時的であるにせよ、理性を取り戻し、「そのひととして」死を選択することができたとしたら、それはそれで救いだろうと思う。そういう薬もアリなんじゃないか? もちろん、治療を目的としたものではないという徹底的なインフォームドコンセントは必要になるでしょうけれど。
だってね、そんなことを考えてしまうくらいに、ジョン・リスゴーの演技が、ほんとにしみじみすばらしかったんですもん。尊敬さるべき人間として生き、アルツハイマーを患い、病気と闘い、一時的に回復し、しかしやがてその健康が急速に失われていく。かれにとっても、息子のウィルにとっても、「あれほどの人物」が「このような状態」であることは、どんなにつらく悲しいことであっただろう。そして、112の投与により回復したかに見えたリスゴーが、しかし次第にまた霧の中に包まれていく描写。フォークで目玉焼きを食べることも覚束なくなっていく。(予告編でも使われた、目玉焼きがうまく食べられなくて困惑するリスゴーに、シーザーがそっとフォークを持ちなおさせてやる描写は、目頭が熱くなります)。
そんなかれが、結局113の投与を拒否するシーンの重み。
あの場面にはどれほどの意味がこめられていたことか。
結局、この映画の中心課題は、知性とはなにか、という問いかけなのだと思う。
シーザーは、病気ゆえに不穏当な行動を取ってしまったチャールズに激怒した隣人が、チャールズを苛めていると思いこみ、この隣人を激しく攻撃してしまいます。シーザーにしてみれば、チャールズ(=家族)を守りたい一心だったわけだけど、「文明社会」という文脈の中では、過剰な暴力は赦されない。かれはそのことを、動物保護施設に収容されるという体験でもって身をもって知らされることになります。
そのシーザーが、動物保護施設の飼育係であるドッジ(トム・フェルトン)を誤って殺してしまったことを経て(感電棒で脅してきたドッジに、いつも自分がされているように放水で対抗したところ、ドッジが感電して死んでしまう。さすがのシーザーも、電気+水→感電死、という理屈はわからなかった)、自由を求めてのクーデターの際には、徹底して人間を殺さない、という姿勢を貫くのです。仲間たちが怒りにまかせて人間を殺そうとするたびに、激しく止めにはいるシーザー。人間を殺さない、というシーザーの行動は、かれの優しさなんかじゃない。愛情をもって育てられたことへのレスポンスでもない。理性の反応です。
汝殺すなかれ。それは、知性を持つ者の宿命なのだと思う。「文明」を成り立たせる根幹です。感情のままに殺したいと願う欲求を抑えること。知性を持ってしまった存在は、それをないがしろにすることはできない。進化した猿は、殺さない猿でもある。
映画冒頭、ジャングルを逃げ惑うチンパンジーのシーンから、瞬時に猿に感情移入してしまって以降完璧猿目線、観てる間中ずっーと胸が痛くてたまりませんでした。
猿が、熱い(>_<)。
『猿の惑星』と言えばもはや古典と言える映画かと思いますが、残念ながらわたしは、悪評高い(らしい)ティム・バートン版しか観たことがない上に、観たはずのバートン版もろくすっぽ覚えちゃいないというテイタラクですので(オマエ、映画観るのヤメロ)、大元の仕掛け(主人公が漂着した未知の惑星は実は……)程度はさすがに知っていましたが、旧シリーズへのオマージュはほとんど意味をなしませんでした。しかしその反面、旧シリーズとの齟齬や矛盾も気にならず、結果として、全くの独立した作品としてこの映画を楽しみました。
ほんとに心から楽しみました。なにしろ完全に猿目線でしょ、心は猿と命運を共にしてしまうわけですよ。後半の展開なんて、口半開きにして拳握りしめて(気持ち)前のめりです。あっという間の106分でした。
人間に反旗を翻した(というか、自由をもとめて人間の手から逃れようとした)チンパンジーたちの逃走と闘争のシーン。静かな住宅街の街路樹が、いきなり吹雪のようにザワザワと葉を散らす発端から、スピーディに通りを駆け抜ける類人猿の群。猿たちの軽快で力強く、完璧に連繋のとれた動き。擬人化された「かわいいお猿さん」のイメージとはかけ離れたその身体能力の凄まじさ。普通では決して見ることのできない映像を、いままさにこうして目にしているという至福感。
チンパンジーの群を率いる高い知能を持ったシーザーの、水際だった名軍師ぶり。ゴールデン・ゲイト・ブリッジを舞台に展開する見事な陽動作戦。チンパンジーとゴリラ、オランウータンとの共闘。指導的地位にあるそれら三種の猿がすっくと車上に並び立つ姿。力をあわせて盾となるバスを押して進む力強いゴリラたち。深い霧の切れ目から、騎馬警官から奪った馬にのって疾駆してくるシーザーの勇姿。……なにもかもがすばらしい。
サンフランシスコの製薬会社、ジェネシス社で薬品開発を担当しているウィル・ロッドマン(ジェームズ・フランコ)は、アルツハイマーに侵された父チャールズ(ジョン・リスゴー)を在宅で看護していた。父親思いのウィルは、父のために必死に治療薬の研究をしていたが、開発中の新薬を被検体のチンパンジーに投与したところ、飛躍的に知能が向上したことを確認する。これを人間に投与すれば、アルツハイマーも改善されるにちがいない。いよいよ治験が開始できると色めき立ったウィルだったが、被検体のチンパンジーが突如暴れだすという事態に、プロジェクトは中止されてしまう。ウィルは、射殺されたチンパンジーが死ぬ間際に産み落とした赤ん坊を連れ帰り、シーザーと名づけて育てることになった。
というのが発端です。薬品によって人工的に高められた知能が遺伝によって伝わる、というのが科学的にアリなのかどうかはわかりませんが、とにかく、被検体のチンパンジーから生まれたシーザーは、生まれながらに驚異的な知能を誇り、ウィルやチャールズを家族と認識し、手話で会話が成り立つレベル。そうなってしまえばもはや、人間と猿の垣根などなきがごとし。ふたりと一頭の、いたわりに満ちた温かい家庭生活を観れば、もはやシーザーをケモノとは思えない。
しかしそれでもやはり人間ならざるシーザーを、迂闊に外には出せないし、出すなら首輪と引き綱が必須となります。シーザーが人間に害をなすから、というより、シーザーを見た人間の方が徒にパニックにならないための予防的措置という意味合いが強いのだけど、シーザーにとっては、首輪も引き綱も随分理不尽なものと感じられてしまいます。ぼくはペットなの? ウィルに尋ねるシーザー。ちがうよ、きみは家族だよ。ウィルはそう答えはするものの、首輪をはずすことはできません。
このね、人間同士以上に心を通じ合わせていたはずだったウィルとシーザーの間にある、最初は目をこらさなければ見えないほどだったヘアラインクラックが、後々大きな溝となってふたりの間に立ちはだかっていくという描写が圧巻。かわいいだけが仕事のペットならそれでいい。でも、高度な知能と自我を持ってしまったら。保護は幽閉に、愛情は愛玩に、規律は屈辱に、容易に転じてしまう。それは知性の宿命というもの。
シーザーの心の中に、この厄介な(でも知的生命体を知的生命体として輝かせているのであろうその本質的な)変化が進行していく過程の演技が、ほんとにすばらしいのです。シーザーは基本、言葉を喋りませんので、シーザーの頭の中でこれほどに複雑な感情の動きが生じているということを、観客はかれの仕種や表情のみによって感じ取る仕掛けになっているわけですが、それに全く過不足がないのです。
特に全身に鳥肌が立つようだったのは、動物保護施設に迎えにきたウィルが手を差し述べると、つと手を伸ばしてそれを取るかに見えたシーザーが、その手で檻の扉を閉めるシーン。開かれた扉を自ら閉める、という発想がまずなかったので、あのシーンの衝撃はすさまじかった。千言万語を費やしても及ばないその拒否の仕方。その瞬間のシーザーの目。このシーンに先立ち、施設に閉じ込められて絶望したシーザーが、コンクリートの壁に自宅の自分の部屋の窓の絵を描くシーンがあり、それにすがって泣くシーンがあり、さらには自らその窓を消し去るシーンがあっただけに、より一層、胸に迫るものがありました。
それもこれも、アンディ・サーキスが凄い。数々の猿が、観客の紅涙をしぼる演技を魅せてくれるこの映画ですが、実は本物の猿は一匹も使われていないのね。みんなCGなんですって。そしてそのCGの大元になる演技をしたのがサーキス。言わずとしれた『LotR』のゴラムやキング・コングに命を注ぎこんだサーキスは、パフォーマンス・キャプチャー演技の第一人者の名をほしいままにしているわけですが、サーキス以前にそんなポジション、存在すらしてなかったと思うよ。かれの前に道はない。かれの後ろに道は出来る。
そしてもうひとり、シニア視覚効果監修、という方に着目すべきなのではないかと、わたくし、睨みました。ジョー・レッテリという方なんですけれども、このひとこそ『アバター』や『キング・コング』の視覚効果を生み出したひとであるらしい。今後、映画においてVFXが益々重要になっていくにつれて、こういうお仕事をなさってる方々にも、もっともっとスポットが当たるようになっていくんだろうな、と思いますけれども。
この映画のルーツが、斬新なアイディアを基調とした社会風刺や批判を含む王道的SFであることはもちろん承知していますが、しかしこの映画に限って言えば、興味の中心はもはやそこにはないのだなぁ、ということを感じます。つまり、SFとしては穴が多すぎる。
一番違和感を覚えるのは、人類文明崩壊の端緒となった試薬、ALZ113の描写でしょうか。
113は最初にチンパンジーに投与されたALZ112の改良(?)型です。112をアルツハイマー患者に投与すると、一時的には劇的な回復を見せるのだけど、結局は人体の免疫力に負けて抗力がなくなってしまうことが判明したため、より強い耐性が付与された新薬として作られたのが113ですが、この試薬は、猿の知能は飛躍的に向上させることができるけれど、人類にとっては致命的なものとなってしまい、その感染が世界中に蔓延したがために、人口は激減、文明は崩壊、というシナリオです。
で、この113ウィルスなんですけど、その感染の仕方というのがどう見ても空気感染ではなく、飛沫感染なんですね。しかも感染から死亡までの時間が極端に短い。ということは、感染者があちこち歩きまわって感染を広める、ということが起こりにくいというわけで、パンデミックには繋がりにくい特性がふたつもあることになっちゃう。そうすると、猿が勢力を増やして地球の指導権を握るのと、人類が指導権を手放さざるを得なくなるほどまでに数が減ってしまうのと、一体どっちが早いのか、という問題については、なんだか考えるまでもないような……。
あと、まあ、112は液状だったのに、113はガス状になっているっていうのも、液状の薬品が爆発的に猿の間に広がる、という描写が難しいので、敢えてガスにしました、というまさに為にする設定であるあたりも興ざめかもしれません。
直接113を摂取して飛躍的に知能が向上したグループと、単に動物園から解放されただけの野生のままのグループが同じ行動をとったりする描写もぬるいだろうな、と思っちゃうし、細かいことをつつけば、たぶん、キリがない。監督には描きたい大きな絵があって、その絵を描くためには、細部には敢えて目をつぶった、という感がなきにしもあらずです。
だけど、ALZ112という薬品に関する描写は、科学的SF的側面はともかく、ドラマ的側面としては、ものすごく効果的だったと思うのです。この薬品を、アルツハイマーの患者に投与すると、一時的には劇的に回復するけれど、根本的な治療には到らない。ここがたまらなく切ないです。研究者の立場からすると恐らく、治療できないなら意味がない、と思ってしまうのかもしれないけれど、たとえそれが一時的なものでしかないにせよ、特に高齢の患者が、死ぬ前にほんとうの自分を取り戻すことができる、という要素は決して小さくないと思うのです。
患者本人にとっても家族にとっても、特にそのひとが高齢である場合、そのひとがいずれ死にゆくという事実より、そのひとがそのひとでなくなってしまうという現実の方がむしろ残酷なのではないか。だったらいっそ、一時的であるにせよ、理性を取り戻し、「そのひととして」死を選択することができたとしたら、それはそれで救いだろうと思う。そういう薬もアリなんじゃないか? もちろん、治療を目的としたものではないという徹底的なインフォームドコンセントは必要になるでしょうけれど。
だってね、そんなことを考えてしまうくらいに、ジョン・リスゴーの演技が、ほんとにしみじみすばらしかったんですもん。尊敬さるべき人間として生き、アルツハイマーを患い、病気と闘い、一時的に回復し、しかしやがてその健康が急速に失われていく。かれにとっても、息子のウィルにとっても、「あれほどの人物」が「このような状態」であることは、どんなにつらく悲しいことであっただろう。そして、112の投与により回復したかに見えたリスゴーが、しかし次第にまた霧の中に包まれていく描写。フォークで目玉焼きを食べることも覚束なくなっていく。(予告編でも使われた、目玉焼きがうまく食べられなくて困惑するリスゴーに、シーザーがそっとフォークを持ちなおさせてやる描写は、目頭が熱くなります)。
そんなかれが、結局113の投与を拒否するシーンの重み。
あの場面にはどれほどの意味がこめられていたことか。
結局、この映画の中心課題は、知性とはなにか、という問いかけなのだと思う。
シーザーは、病気ゆえに不穏当な行動を取ってしまったチャールズに激怒した隣人が、チャールズを苛めていると思いこみ、この隣人を激しく攻撃してしまいます。シーザーにしてみれば、チャールズ(=家族)を守りたい一心だったわけだけど、「文明社会」という文脈の中では、過剰な暴力は赦されない。かれはそのことを、動物保護施設に収容されるという体験でもって身をもって知らされることになります。
そのシーザーが、動物保護施設の飼育係であるドッジ(トム・フェルトン)を誤って殺してしまったことを経て(感電棒で脅してきたドッジに、いつも自分がされているように放水で対抗したところ、ドッジが感電して死んでしまう。さすがのシーザーも、電気+水→感電死、という理屈はわからなかった)、自由を求めてのクーデターの際には、徹底して人間を殺さない、という姿勢を貫くのです。仲間たちが怒りにまかせて人間を殺そうとするたびに、激しく止めにはいるシーザー。人間を殺さない、というシーザーの行動は、かれの優しさなんかじゃない。愛情をもって育てられたことへのレスポンスでもない。理性の反応です。
汝殺すなかれ。それは、知性を持つ者の宿命なのだと思う。「文明」を成り立たせる根幹です。感情のままに殺したいと願う欲求を抑えること。知性を持ってしまった存在は、それをないがしろにすることはできない。進化した猿は、殺さない猿でもある。
by shirakian
| 2011-10-14 21:14
| 映画さ行