2011年 10月 11日
スリーデイズ
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★ネタバレ注意★
ポール・ハギスの監督作品であるということ以外は、内容どころか主演がだれかも知らずに観に行ってしまいました。あと、ほぼ同じ時期に、4デイズという映画と5デイズという映画が封切られるので、ハギスの映画は3デイズよ、過ちすな、心して降りよ、とは戒めていたのですが、失敗だったな、気にかけるべきは4や5のことじゃなく、この映画がリメイクだということだったらしいです。オリジナルは2008年のフレッド・カヴァイエ監督によるフランス映画、『すべて彼女のために』。残念ながら未見のまま観てしまいました。
短大でやる気のないオバカさんたち相手に文学を教えているジョン・ブレナン(ラッセル・クロウ)は、美しい妻と三歳の息子がいて、それなりにハッピーな毎日だった。ところがある日、妻のララ(エリザベス・バンクス)が殺人容疑で逮捕されてしまう。妻の無罪を信じて疑わないジョンだったが、3年後、ついに有罪が確定してしまう。もはや判決を覆すことは不可能と悟ったジョンは、脱獄のプロ、デイモン・ペニントン(リーアム・ニーソン)に指南を受け、妻の脱獄を計画するのだが。
この映画の表面上のキモは、銃の扱い方すら知らない全くの遵法市民だったジョンが、難攻不落のピッツバーグ刑務所から妻を脱獄させるなどという大それた犯罪を完遂することができるや否や、というサスペンス的要素にあるわけですが、この仕掛けが大変心憎い。してやられます。これがリメイクということを知っていたら、ここまでしてられることはなかったと思いますので、完膚なきまでにしてやられることができて大変シヤワセでした☆ ハギス監督、してやってくれてありがとう☆
わたしと同じくらいしてやられたいあなたは、以下の閲読にご注意、プリーズ。
まずですね、犯罪の大きさに比べて、ジョンを一見とても小さな人物として提示していること。
小さな人物というのは、まあ、たとえばその仕事とか。大学教授と言えば聞こえはいいけど、名門大学のスター教授ならいざしらず、授業中起きててくれたら御の字という、低レベルの学生相手のベビーシッター的オシゴト。遣り甲斐を感じてバリバリ邁進していたとは思いにくい。だけどそんな仕事に不満も感じず、満足して日々を送るジョンはやはり小市民の印象です。シャーウッドの森で弓を引いてたり、コロセウムでグラディエイターしてたり、CIAの裏で糸を引いてたり、人質解放交渉のプロだったりするタフな男たちとは人種が違う。
そんな小市民のジョンですから、いざ作戦を始動しても、やることなすことたどたどしいの一言。ネットで調べたピッキングの方法を面会の際に実地に刑務所でやってみようとして(当然ながら)失敗し、緊張に耐え切れず嘔吐してしまう顛末もさることながら、それをたまたまた居合わせた刑事に見られ、不審に思わせ、監視の対象になってしまうというご丁寧さ。偽造パスポートを手にいれる経緯もまっこと覚束ないものである上に、その現場もまたくだんの刑事に監視されてしまう。
パスポートの偽造に手を貸したワルですら、あきれ果てて言います。
「あんた、必死すぎる。そんなんじゃ絶対、失敗するぜ?」
ところが。かれを成功に導いたのは、その必死さゆえだったのですね。ここがほんとのキモ。
ジョンは小市民ではありましたが、大変マジメで頭のいい男だった。そんな男が必死になった。
この映画は、まじめで有能な男を追い詰めてはいけない、というのが教訓なんです。
かれの動機はもちろん妻への愛情ですが、それだけじゃない。愛情だけなら諦めていたかもしれないけれど、かれが諦めなかった根底には、激しい怒りがあった。公正に機能しない社会への怒りです。マジメな男はそのマジメさゆえに、社会に正義を求めた。それがかれの原動力になった。
そう思うと、上記のワルの台詞が、みごとな伏線になっていることがわかります。ハギス監督は脚本も書いていらっさる。ほんとに感服仕ります。
もちろんそんなこと、最初のうち観客にはわかりませんから、この物語が、追い詰められた必死すぎる男の転落の軌跡に見える。頑張って頑張って辛い思いをした挙句、結局は失敗する顛末を、ほろ苦く見守ることになるんだろうと思っている。所詮犯罪は犯罪。落ち着くところに落ちつくしかない。ジョンというキャラクターが十分感情移入を誘う人物であるだけに、観客は諦観と共にスクリーンと向き合うことになる。
いくら脱獄のプロに話を聞こうとも、そんなの机上のお話にすぎない。部屋の壁に地図を貼り、それらしく詳細を詰めていったところで、所詮ジョンはど素人。緊張のあまり嘔吐してしまうような男に、ワルにカモにされてぼこられるような男に、ネットで車の開錠のノウハウを学ぶような男に、「ほんものの犯罪」なんて無理に決まっている。……と観客は思ってしまう。
でも実は、観客の目の前で起こっていることは、ジョンというひとりの大変有能な男が、冷徹に犯罪計画を練っている現場だったのです。壁にはってあるあれは、幼稚園の室内装飾じゃない。マーカーで書き込まれた文字は、子どもの落書きじゃない。観客は長い時間ずっとそれを見てきたはずなのに、そのことの本当の意味に、ギリギリまで気づくことができないのです。
それゆえに、そこから派生する、怒涛のようなラストの逃走劇の爽快感!
素人らしくもたついて、脱獄のプロに指南された「町が封鎖されるまでに要する時間」内に逃げ出せなかったジョンは、脱獄のプロから「鉄道やバスは絶対に使うな」と指摘されていたにもかかわらず、鉄道駅を目指してしまう。あー、もう、これだから素人は、だからあんたは失敗するって、ワルからも言われてしまうのよっ! と観客がハンカチを噛みしめていると……。ね? 全てがみんな、こんな感じ。作戦遂行上の瑕疵に見えたものにはみな意味があった。ジョンはちゃんと考えていた。
だからね、まじめで有能な男を追い詰めてはいけません。
もうひとつ脚本上、うまいなぁ、と思うのが、妻に関する描写です。
正直、妻を演じたエリサベス・バングスはさほど魅力的だとは思えなかったのですが、もしかしたら却ってそれがよかったのかもしれない。なにしろ彼女は、映画冒頭、非常にイヤなオンナとして提示される。苛ついていて攻撃的で、食事を共にした義弟のガールフレンド(奥さん?)に喧嘩を売ったりする始末。観客は彼女のことを知りませんから、これが彼女の常態なのかどうか、判断がつかない。
そんな彼女に対し、事件直前に被害者と口論していた事実、目撃者、凶器についていた指紋、着衣についていた被害者の血液といった、覆せないほどの情況証拠が提示される。
定石通り、主人公の妻として、心優しい楽しい温かい愛情深い女性、という描き方がされていれば、観客もまた主人公と共に彼女の冤罪を信じ、憤りを共にすることができますが、こうした描写のされ方から、観客はララについて、限りなくクロに近いグレーな人物、という印象を持ちながら眺めることになる。ジョンに感情移入し始めている観客は、ほんとに犯罪を犯しているかもしれないオンナのために、自分の人生を棒に振るようなまねをしていいのかと、ジョンのことが気遣われてなりません。
だけど、それもまた計算の上なんだね。
彼女が本当に冤罪であったことが示唆される(証明はされないから、法的には冤罪が晴らされることはありませんが)演出が、観客の心にじんわりと共感の余地を広げるラストはほんとにうまいと思います。
ただねぇ、ジョンが犯した罪はどうなるんだろう?
ララは冤罪でも、ジョンはちがうから……。
このほろ苦さがやはり、ハギス監督なのかなぁ(オリジナルもそうだったのかなぁ)。
最後に、脱獄のプロを演じたリーアム・ニーソンが、カメオレベルの露出でありながらも大変存在感があってすばらしかったです。ジョンがかれにインタビューするシーンは、ほんとに食い入るように画面に見入ってしまいました。犯罪者らしく頬に傷のあるニーソンは、ゾクゾクするほど危険な魅力でいっぱい☆
あともうひとり印象的だったのは、主人公の父親ジョージ・ブレナンを演じたブライアン・デネヒーですね。言葉は少ないながら、だれよりも息子を理解し、息子の行動を裁くことなく受け止める度量を見せた父親の演技はまさに燻し銀でした。別れのシーンの息子との握手が泣かされるのよ。
ポール・ハギスの監督作品であるということ以外は、内容どころか主演がだれかも知らずに観に行ってしまいました。あと、ほぼ同じ時期に、4デイズという映画と5デイズという映画が封切られるので、ハギスの映画は3デイズよ、過ちすな、心して降りよ、とは戒めていたのですが、失敗だったな、気にかけるべきは4や5のことじゃなく、この映画がリメイクだということだったらしいです。オリジナルは2008年のフレッド・カヴァイエ監督によるフランス映画、『すべて彼女のために』。残念ながら未見のまま観てしまいました。
短大でやる気のないオバカさんたち相手に文学を教えているジョン・ブレナン(ラッセル・クロウ)は、美しい妻と三歳の息子がいて、それなりにハッピーな毎日だった。ところがある日、妻のララ(エリザベス・バンクス)が殺人容疑で逮捕されてしまう。妻の無罪を信じて疑わないジョンだったが、3年後、ついに有罪が確定してしまう。もはや判決を覆すことは不可能と悟ったジョンは、脱獄のプロ、デイモン・ペニントン(リーアム・ニーソン)に指南を受け、妻の脱獄を計画するのだが。
この映画の表面上のキモは、銃の扱い方すら知らない全くの遵法市民だったジョンが、難攻不落のピッツバーグ刑務所から妻を脱獄させるなどという大それた犯罪を完遂することができるや否や、というサスペンス的要素にあるわけですが、この仕掛けが大変心憎い。してやられます。これがリメイクということを知っていたら、ここまでしてられることはなかったと思いますので、完膚なきまでにしてやられることができて大変シヤワセでした☆ ハギス監督、してやってくれてありがとう☆
わたしと同じくらいしてやられたいあなたは、以下の閲読にご注意、プリーズ。
まずですね、犯罪の大きさに比べて、ジョンを一見とても小さな人物として提示していること。
小さな人物というのは、まあ、たとえばその仕事とか。大学教授と言えば聞こえはいいけど、名門大学のスター教授ならいざしらず、授業中起きててくれたら御の字という、低レベルの学生相手のベビーシッター的オシゴト。遣り甲斐を感じてバリバリ邁進していたとは思いにくい。だけどそんな仕事に不満も感じず、満足して日々を送るジョンはやはり小市民の印象です。シャーウッドの森で弓を引いてたり、コロセウムでグラディエイターしてたり、CIAの裏で糸を引いてたり、人質解放交渉のプロだったりするタフな男たちとは人種が違う。
そんな小市民のジョンですから、いざ作戦を始動しても、やることなすことたどたどしいの一言。ネットで調べたピッキングの方法を面会の際に実地に刑務所でやってみようとして(当然ながら)失敗し、緊張に耐え切れず嘔吐してしまう顛末もさることながら、それをたまたまた居合わせた刑事に見られ、不審に思わせ、監視の対象になってしまうというご丁寧さ。偽造パスポートを手にいれる経緯もまっこと覚束ないものである上に、その現場もまたくだんの刑事に監視されてしまう。
パスポートの偽造に手を貸したワルですら、あきれ果てて言います。
「あんた、必死すぎる。そんなんじゃ絶対、失敗するぜ?」
ところが。かれを成功に導いたのは、その必死さゆえだったのですね。ここがほんとのキモ。
ジョンは小市民ではありましたが、大変マジメで頭のいい男だった。そんな男が必死になった。
この映画は、まじめで有能な男を追い詰めてはいけない、というのが教訓なんです。
かれの動機はもちろん妻への愛情ですが、それだけじゃない。愛情だけなら諦めていたかもしれないけれど、かれが諦めなかった根底には、激しい怒りがあった。公正に機能しない社会への怒りです。マジメな男はそのマジメさゆえに、社会に正義を求めた。それがかれの原動力になった。
そう思うと、上記のワルの台詞が、みごとな伏線になっていることがわかります。ハギス監督は脚本も書いていらっさる。ほんとに感服仕ります。
もちろんそんなこと、最初のうち観客にはわかりませんから、この物語が、追い詰められた必死すぎる男の転落の軌跡に見える。頑張って頑張って辛い思いをした挙句、結局は失敗する顛末を、ほろ苦く見守ることになるんだろうと思っている。所詮犯罪は犯罪。落ち着くところに落ちつくしかない。ジョンというキャラクターが十分感情移入を誘う人物であるだけに、観客は諦観と共にスクリーンと向き合うことになる。
いくら脱獄のプロに話を聞こうとも、そんなの机上のお話にすぎない。部屋の壁に地図を貼り、それらしく詳細を詰めていったところで、所詮ジョンはど素人。緊張のあまり嘔吐してしまうような男に、ワルにカモにされてぼこられるような男に、ネットで車の開錠のノウハウを学ぶような男に、「ほんものの犯罪」なんて無理に決まっている。……と観客は思ってしまう。
でも実は、観客の目の前で起こっていることは、ジョンというひとりの大変有能な男が、冷徹に犯罪計画を練っている現場だったのです。壁にはってあるあれは、幼稚園の室内装飾じゃない。マーカーで書き込まれた文字は、子どもの落書きじゃない。観客は長い時間ずっとそれを見てきたはずなのに、そのことの本当の意味に、ギリギリまで気づくことができないのです。
それゆえに、そこから派生する、怒涛のようなラストの逃走劇の爽快感!
素人らしくもたついて、脱獄のプロに指南された「町が封鎖されるまでに要する時間」内に逃げ出せなかったジョンは、脱獄のプロから「鉄道やバスは絶対に使うな」と指摘されていたにもかかわらず、鉄道駅を目指してしまう。あー、もう、これだから素人は、だからあんたは失敗するって、ワルからも言われてしまうのよっ! と観客がハンカチを噛みしめていると……。ね? 全てがみんな、こんな感じ。作戦遂行上の瑕疵に見えたものにはみな意味があった。ジョンはちゃんと考えていた。
だからね、まじめで有能な男を追い詰めてはいけません。
もうひとつ脚本上、うまいなぁ、と思うのが、妻に関する描写です。
正直、妻を演じたエリサベス・バングスはさほど魅力的だとは思えなかったのですが、もしかしたら却ってそれがよかったのかもしれない。なにしろ彼女は、映画冒頭、非常にイヤなオンナとして提示される。苛ついていて攻撃的で、食事を共にした義弟のガールフレンド(奥さん?)に喧嘩を売ったりする始末。観客は彼女のことを知りませんから、これが彼女の常態なのかどうか、判断がつかない。
そんな彼女に対し、事件直前に被害者と口論していた事実、目撃者、凶器についていた指紋、着衣についていた被害者の血液といった、覆せないほどの情況証拠が提示される。
定石通り、主人公の妻として、心優しい楽しい温かい愛情深い女性、という描き方がされていれば、観客もまた主人公と共に彼女の冤罪を信じ、憤りを共にすることができますが、こうした描写のされ方から、観客はララについて、限りなくクロに近いグレーな人物、という印象を持ちながら眺めることになる。ジョンに感情移入し始めている観客は、ほんとに犯罪を犯しているかもしれないオンナのために、自分の人生を棒に振るようなまねをしていいのかと、ジョンのことが気遣われてなりません。
だけど、それもまた計算の上なんだね。
彼女が本当に冤罪であったことが示唆される(証明はされないから、法的には冤罪が晴らされることはありませんが)演出が、観客の心にじんわりと共感の余地を広げるラストはほんとにうまいと思います。
ただねぇ、ジョンが犯した罪はどうなるんだろう?
ララは冤罪でも、ジョンはちがうから……。
このほろ苦さがやはり、ハギス監督なのかなぁ(オリジナルもそうだったのかなぁ)。
最後に、脱獄のプロを演じたリーアム・ニーソンが、カメオレベルの露出でありながらも大変存在感があってすばらしかったです。ジョンがかれにインタビューするシーンは、ほんとに食い入るように画面に見入ってしまいました。犯罪者らしく頬に傷のあるニーソンは、ゾクゾクするほど危険な魅力でいっぱい☆
あともうひとり印象的だったのは、主人公の父親ジョージ・ブレナンを演じたブライアン・デネヒーですね。言葉は少ないながら、だれよりも息子を理解し、息子の行動を裁くことなく受け止める度量を見せた父親の演技はまさに燻し銀でした。別れのシーンの息子との握手が泣かされるのよ。
by shirakian
| 2011-10-11 19:57
| 映画さ行