2011年 10月 06日
世界侵略:ロサンゼルス決戦
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★ネタバレ注意★
Retreat, Hell! うおーっ!!!(←燃えた)。
本来今年の4月に公開される予定だった本作、震災の影響で、一時は公開見送りとまで言われていたのでヤキモキしていたのですが、思ったより早く公開にこぎつけられてよかった☆ だって、久しぶりのアーロン・エッカート主演作なんですもん!
ある日突然、エイリアンによる侵略を受けた地球。集中的に狙われた大都市が次々と陥落していく中、ロサンゼルスもまた苦戦を強いられていた。海岸から攻め寄せてくるエイリアンとの防衛戦を繰り広げつつ、民間人を内陸部へと避難させていた矢先、逃げ遅れ取り残された民間人から救援要請が届く。明日に退役を控えていた古参兵のナンツ二等軍曹(アーロン・エッカート)は、年下の指揮官マルティネス少尉(ラモン・ロドリゲス)が指揮する海兵隊2-5小隊の一員として救出に赴く。
映画冒頭、物語の発端から背景事情が手際良く説明されると、余計なことには一切尺を裂かず、後はひたすら迫力のバトルシーンが展開されていきます。これはまことに小気味よろしい。マルティネス少尉の妊娠中の妻とか、結婚を控えている新兵とか、そういう描写が若干ないでもないですが、戦闘が始まってしまうと、銃後の描写は一切カットされます。主演のアーロン・エッカートに至っては、家族の存在すらなく、救出すべき民間人のグループには、ブリジット・モイナハンがいたりもするのに、彼女と恋仲になったりするわけでもなく、あたかもナチュラル・ボーン・ソルジャーのごとき描写。戦う男は孤独なものさぁ。
資源を求めての侵略戦争であること(この場合の資源って、「水」なんですって。ちょっと投げやりな設定? それとも、サイエンティカル・コレクト?)、戦闘が市街戦で、そのさまがリアルに描かれることの二点から、この映画が、国家アメリカのネイティブ・アメリカンに対する侵略行為や、度重なるイスラム圏での戦争へのメタファーになっているのであろうと推測することは、きわめて容易というかむしろ自然なんですが、なんだかそれだと、あまりにもあからさま過ぎるというか、簡単すぎるというか、イマドキそんなイージーなメタファーなんか使うか? と却って懐疑的になります。
逆にね、この映画って、単純な戦闘行為のみを描くことによって、アメリカの現状を風刺すると見せかけて、その実やっぱり、単純な戦闘行為のみを描いた映画なんじゃないかしら、と思うですよ。つまり、この映画で描こうとしていることは、ほんとにシンプルに他意もなく、軍隊とはこういうものなんだ、というそのことに尽きるんじゃないかと思うのです。
そもそも軍隊とは、戦争をするための組織です。
そもそも軍人とは、戦争をするために鍛えられた人々です。
軍人のなすべきことは、敵と戦うこと、そして民間人を守ること、このふたつです。
戦争は愚かな浪費だし、悲劇だし、残虐だし、戦争になる前に、人類は外交交渉とか政治的解決とか恫喝とか懐柔とか泣き落としとか、とにかく戦争を回避する努力をすべき。というのが正論であることはまちがいありませんが、とにかく今この瞬間、現実に街が侵略されている以上、兵士たるもの、戦わざるを得ません。それはもう、いいとか悪いとか言ってる場合ではないわけで、戦わなければ子どもたちが殺されてしまう。
なので、エッカートたちがやっていることは、単純に兵士としてどう戦うか、というそれだけなのであって、そのためにかれらは、持てる技量と知力と体力と訓練の成果と科学技術の粋を総動員して、死に物狂いで頑張るのです。英雄的でもなければ、残虐な行為なのでもなく、かれらはそうして自分の仕事をやっているだけ。だから、あれこれ批判はしないで、かれらは精一杯お仕事してはるんだから、というあたりが、この映画の主張ではないのかな。
戦争というものを「外部から」「否定的に」描いた映画は多々あれど、というか、最近の風潮はミリタリーを描くならそれしかないという感じですが、戦意高揚のプロパガンダ映画というわけでもないのに、軍隊というものを「内部から」「肯定的に」描いた映画というのは、実は結構珍しいかもしれない。
この映画では、宇宙船を建造して何光年もの彼方からはるばる地球までやってくることのできる高度に知的な存在である(はずの)エイリアンが、人類とほぼ同程度の火力しか持たず、体格的にも身体能力的にも人類とあんまり変わらないというのが、「せっかくのエイリアンなのにあまりにも弱っちい」と不評なようですが、これはやっぱり、敢えてそういう設定にしてあるのだと思うよ。
たった今、この映画は現実を風刺する目的でのメタファーなのではなく、単純に戦闘行為そのものを描こうとしたものである、と言いましたが、単純に戦闘行為を描くというそのことにおいては、エイリアンというのはやはり、実際に侵略してくる敵としてのメタファーなんだと思います。だから、その戦闘能力が大きく人類を上回るものであっては困る。
単純に戦闘行為を描くにおいて、実際のどこかの戦場ではなく、エイリアンというメタファーを必要としたのがなぜかと言うと、それはもちろん、アメリカ本土が侵略にさらされたことは一度もない、という事実があるからです。兵士は民間人を守るために戦っているのであるという大前提は、戦場がどこであれ変わることではないはずですが、そうした「観念」は、目の前にいる子どもたちをこの手で守る、という直接的描写には敵わない。アメリカ本土が侵略されるという直接的描写をするためには、エイリアンによる侵略という設定が一番手っ取り早かったことでしょう。
だけど、外宇宙からの侵略、という設定にしてしまった以上、これからさきが大変だよね。ロサンゼルス決戦とか言うけど、別にロサンゼルスが天下分け目の戦場となったわけではなく、世界中で行われている(であろう)戦争の局地戦のひとつにすぎないし、しかもほんの緒戦にすぎないわけだし。2-5小隊は”Retreat, Hell!”の掛け声の下、見事な勝利を勝ち得たかに見えるけど、実際には戦争は始まったばかりで、まだまだまだまだ泥沼が続くと思われます。
キリリと身体を引き絞ったアーロン・エッカートの、心に傷を負った老残の兵士、という演技がものっそよかった。っていうか、老残兵なのか、エッカート(>_<)。
Retreat, Hell! うおーっ!!!(←燃えた)。
本来今年の4月に公開される予定だった本作、震災の影響で、一時は公開見送りとまで言われていたのでヤキモキしていたのですが、思ったより早く公開にこぎつけられてよかった☆ だって、久しぶりのアーロン・エッカート主演作なんですもん!
ある日突然、エイリアンによる侵略を受けた地球。集中的に狙われた大都市が次々と陥落していく中、ロサンゼルスもまた苦戦を強いられていた。海岸から攻め寄せてくるエイリアンとの防衛戦を繰り広げつつ、民間人を内陸部へと避難させていた矢先、逃げ遅れ取り残された民間人から救援要請が届く。明日に退役を控えていた古参兵のナンツ二等軍曹(アーロン・エッカート)は、年下の指揮官マルティネス少尉(ラモン・ロドリゲス)が指揮する海兵隊2-5小隊の一員として救出に赴く。
映画冒頭、物語の発端から背景事情が手際良く説明されると、余計なことには一切尺を裂かず、後はひたすら迫力のバトルシーンが展開されていきます。これはまことに小気味よろしい。マルティネス少尉の妊娠中の妻とか、結婚を控えている新兵とか、そういう描写が若干ないでもないですが、戦闘が始まってしまうと、銃後の描写は一切カットされます。主演のアーロン・エッカートに至っては、家族の存在すらなく、救出すべき民間人のグループには、ブリジット・モイナハンがいたりもするのに、彼女と恋仲になったりするわけでもなく、あたかもナチュラル・ボーン・ソルジャーのごとき描写。戦う男は孤独なものさぁ。
資源を求めての侵略戦争であること(この場合の資源って、「水」なんですって。ちょっと投げやりな設定? それとも、サイエンティカル・コレクト?)、戦闘が市街戦で、そのさまがリアルに描かれることの二点から、この映画が、国家アメリカのネイティブ・アメリカンに対する侵略行為や、度重なるイスラム圏での戦争へのメタファーになっているのであろうと推測することは、きわめて容易というかむしろ自然なんですが、なんだかそれだと、あまりにもあからさま過ぎるというか、簡単すぎるというか、イマドキそんなイージーなメタファーなんか使うか? と却って懐疑的になります。
逆にね、この映画って、単純な戦闘行為のみを描くことによって、アメリカの現状を風刺すると見せかけて、その実やっぱり、単純な戦闘行為のみを描いた映画なんじゃないかしら、と思うですよ。つまり、この映画で描こうとしていることは、ほんとにシンプルに他意もなく、軍隊とはこういうものなんだ、というそのことに尽きるんじゃないかと思うのです。
そもそも軍隊とは、戦争をするための組織です。
そもそも軍人とは、戦争をするために鍛えられた人々です。
軍人のなすべきことは、敵と戦うこと、そして民間人を守ること、このふたつです。
戦争は愚かな浪費だし、悲劇だし、残虐だし、戦争になる前に、人類は外交交渉とか政治的解決とか恫喝とか懐柔とか泣き落としとか、とにかく戦争を回避する努力をすべき。というのが正論であることはまちがいありませんが、とにかく今この瞬間、現実に街が侵略されている以上、兵士たるもの、戦わざるを得ません。それはもう、いいとか悪いとか言ってる場合ではないわけで、戦わなければ子どもたちが殺されてしまう。
なので、エッカートたちがやっていることは、単純に兵士としてどう戦うか、というそれだけなのであって、そのためにかれらは、持てる技量と知力と体力と訓練の成果と科学技術の粋を総動員して、死に物狂いで頑張るのです。英雄的でもなければ、残虐な行為なのでもなく、かれらはそうして自分の仕事をやっているだけ。だから、あれこれ批判はしないで、かれらは精一杯お仕事してはるんだから、というあたりが、この映画の主張ではないのかな。
戦争というものを「外部から」「否定的に」描いた映画は多々あれど、というか、最近の風潮はミリタリーを描くならそれしかないという感じですが、戦意高揚のプロパガンダ映画というわけでもないのに、軍隊というものを「内部から」「肯定的に」描いた映画というのは、実は結構珍しいかもしれない。
この映画では、宇宙船を建造して何光年もの彼方からはるばる地球までやってくることのできる高度に知的な存在である(はずの)エイリアンが、人類とほぼ同程度の火力しか持たず、体格的にも身体能力的にも人類とあんまり変わらないというのが、「せっかくのエイリアンなのにあまりにも弱っちい」と不評なようですが、これはやっぱり、敢えてそういう設定にしてあるのだと思うよ。
たった今、この映画は現実を風刺する目的でのメタファーなのではなく、単純に戦闘行為そのものを描こうとしたものである、と言いましたが、単純に戦闘行為を描くというそのことにおいては、エイリアンというのはやはり、実際に侵略してくる敵としてのメタファーなんだと思います。だから、その戦闘能力が大きく人類を上回るものであっては困る。
単純に戦闘行為を描くにおいて、実際のどこかの戦場ではなく、エイリアンというメタファーを必要としたのがなぜかと言うと、それはもちろん、アメリカ本土が侵略にさらされたことは一度もない、という事実があるからです。兵士は民間人を守るために戦っているのであるという大前提は、戦場がどこであれ変わることではないはずですが、そうした「観念」は、目の前にいる子どもたちをこの手で守る、という直接的描写には敵わない。アメリカ本土が侵略されるという直接的描写をするためには、エイリアンによる侵略という設定が一番手っ取り早かったことでしょう。
だけど、外宇宙からの侵略、という設定にしてしまった以上、これからさきが大変だよね。ロサンゼルス決戦とか言うけど、別にロサンゼルスが天下分け目の戦場となったわけではなく、世界中で行われている(であろう)戦争の局地戦のひとつにすぎないし、しかもほんの緒戦にすぎないわけだし。2-5小隊は”Retreat, Hell!”の掛け声の下、見事な勝利を勝ち得たかに見えるけど、実際には戦争は始まったばかりで、まだまだまだまだ泥沼が続くと思われます。
キリリと身体を引き絞ったアーロン・エッカートの、心に傷を負った老残の兵士、という演技がものっそよかった。っていうか、老残兵なのか、エッカート(>_<)。
by shirakian
| 2011-10-06 21:44
| 映画さ行