2011年 10月 01日
ヒマラヤ 運命の山
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★ネタバレ注意★
ヨゼフ・フィルスマイアー監督のドイツ映画。
世界的登山家であるラインホルト・メスナーが、ヒマラヤ山脈のナンガ・パルバート「ルパール壁」を初登攀した際の実話をもとにした映画で、メスナー本人の全面協力による迫真の映像で描きます。原題は、この山の名前、ナンガ・パルバート(Nanga Parbat)。
ルパール壁というのは、難所として名高いアイガー北壁の3倍の高さで垂直にそそり立つ物凄い岩壁です。その距離4800メートル。水平に歩いても疲れる距離を垂直に登ろうなんて、一体どんな情念に取り付かれたらそんなことをする気になるんだろう。しかも単なる険しい岩壁というのみならず、しばれるし吹雪くし雪崩るし(>_<)。まさに死と隣り合わせの過酷な挑戦。観ている方は思考停止に陥ってしまいます。
ですが、この映画では、時間的には短いのだけど、メスナー兄弟の少年期の様子や、かれらが育った家が描かれていて、なるほどこんな環境で成長すれば、山に登らないではいられないだろうなぁ、というのが腹の底から納得できてしまいます。海辺で育った男が船乗りにならずにはいられないように、蔵書家の父を持った息子が学者にならずにはいられないように、芸人一家で育った少年がやがては舞台に立たずにはいられないように、人間は育った環境によってどうしようもなくそうせずにはいられない刷り込みを受けてしまうもの。メスナー兄弟が育った南チロルという土地は、それほどまでに山が身近に感じられる環境でした。
そんな環境で育ち、必然として高峰を目指すメスナー兄弟。難壁に挑む壮絶な戦いの描写が、それはもう息をのむほどの迫力で、みっしりと描かれている映像は見事の一言。これって一体どうやって撮ったの!? って思わず手に汗を握ってしまう凄まじい映像の数々。絶対だれかほんとに犠牲になったにちがいない、って思ってしまうほどです。この撮影にかけられた苦労と工夫、綿密な調査や準備や膨大な資材なんかは、恐らくきっと考えるだにため息が出るほどの規模だったことでしょう。
なので、この映画が撮られた意義については、全く疑問の余地がないです。こんな凄い映像を世に示したのだとしたら、それだけで十分に価値がある。だけど。この映画が撮られた思想的背景というか、要するに、この映画によって何が言いたかったのか、ということになると、なんだかどうにもよくわからない映画だったなぁ、とも思ってしまうのでした。
それというのも、登頂には成功したものの、帰還を果たしたのは兄のラインホルト(フロリアン・シュテッター)だけで、弟のギュンター(アンドレアス・トビアス)は結局帰って来られなかったわけですが、その痛ましい結果を招いた経過というのが、どう観ても納得のいかないものなので、悲劇として胸に迫ってこないのです。早い話が、そんな身勝手で無謀なことをしたんだから、そんな結果になっても仕方なかったのでは? という感覚。兄弟の自業自得に思えてしまう。
当時、登山家として売り出し中だったラインホルトは、カール・マリア・ヘルリヒコッファー博士(カール・マルコヴィクス)に招かれて遠征隊に参加することになります。資金を集めたのも、プランを立てたのもヘルリヒコッファーだし、当然指揮権や決定権を持っていたのもかれです。しかもかれは単なるシロウトの好事家なんてものじゃなく、すでに何度もこの山にアタックしていたわけで、情況にも詳しく、方法論も確立されていた。そのヘルリヒコッファーの率いる遠征隊でかれの指揮の下に登攀するのであれば、それに従うのが筋という感じがするのです。
ヘルリヒコッファーのやり方は、大量の物量を確保し、一歩一歩慎重確実に登攀を行うものでしたが、アルプス育ちのラインホルトは、極力軽装で単独登頂を目指すスタイルで今までやってきた。なので、かれにはヘルリヒコッファーのやり方はまだるっこしく思え、勝手なタイミングでろくな装備も持たず、単独で登攀にかかったのです。一方弟のギュンターもまた、キャンプに残って帰還用の段取りをするはずが、兄に置き去りにされるのがどうしても我慢ならず、帰路の確保もしないで兄の後を追ってしまう。これで遭難しなければ山を舐めてる。実際、ヘルリヒコッファーのプラン通りに登った遠征隊のほかのふたりは、登頂にも帰還にも成功しているわけですから、ギュンターの悲劇は、兄弟が指揮官を無視して勝手にふるまった結果にしか見えないのです。
だから、そこから導き出されるテーマがわからない。
遠征の後、ラインホルトとヘルリヒコッファーは完全に決裂し、裁判で争うまでになってしまったそうですが、この映画は、その仲違いしたうちの一方であるラインホルトの全面協力の下で描かれているので、もしかしたらヘルリヒコッファーに関する描写はあまり公正ではなかったんじゃないかなぁ、という疑惑もぬぐいきれません。なぜというに、ひどく感情的だったり決断力に乏しかったり無駄にプライドが高かったりといったヘルリヒコッファーの描写が、あれだけの規模の遠征を成功させた隊長という人物プロファイルにふさわしくないように感じられたからです。まあ、ちょっと全体的に冷めた目で見てしまったので、そんなことも考えてしまうのかもしれないけれども。
身体を切り刻まれるような気持ちで、絶対に弟を連れて帰ってくるのよ、と兄弟を送り出した母親の気持ちが哀れです。
ヨゼフ・フィルスマイアー監督のドイツ映画。
世界的登山家であるラインホルト・メスナーが、ヒマラヤ山脈のナンガ・パルバート「ルパール壁」を初登攀した際の実話をもとにした映画で、メスナー本人の全面協力による迫真の映像で描きます。原題は、この山の名前、ナンガ・パルバート(Nanga Parbat)。
ルパール壁というのは、難所として名高いアイガー北壁の3倍の高さで垂直にそそり立つ物凄い岩壁です。その距離4800メートル。水平に歩いても疲れる距離を垂直に登ろうなんて、一体どんな情念に取り付かれたらそんなことをする気になるんだろう。しかも単なる険しい岩壁というのみならず、しばれるし吹雪くし雪崩るし(>_<)。まさに死と隣り合わせの過酷な挑戦。観ている方は思考停止に陥ってしまいます。
ですが、この映画では、時間的には短いのだけど、メスナー兄弟の少年期の様子や、かれらが育った家が描かれていて、なるほどこんな環境で成長すれば、山に登らないではいられないだろうなぁ、というのが腹の底から納得できてしまいます。海辺で育った男が船乗りにならずにはいられないように、蔵書家の父を持った息子が学者にならずにはいられないように、芸人一家で育った少年がやがては舞台に立たずにはいられないように、人間は育った環境によってどうしようもなくそうせずにはいられない刷り込みを受けてしまうもの。メスナー兄弟が育った南チロルという土地は、それほどまでに山が身近に感じられる環境でした。
そんな環境で育ち、必然として高峰を目指すメスナー兄弟。難壁に挑む壮絶な戦いの描写が、それはもう息をのむほどの迫力で、みっしりと描かれている映像は見事の一言。これって一体どうやって撮ったの!? って思わず手に汗を握ってしまう凄まじい映像の数々。絶対だれかほんとに犠牲になったにちがいない、って思ってしまうほどです。この撮影にかけられた苦労と工夫、綿密な調査や準備や膨大な資材なんかは、恐らくきっと考えるだにため息が出るほどの規模だったことでしょう。
なので、この映画が撮られた意義については、全く疑問の余地がないです。こんな凄い映像を世に示したのだとしたら、それだけで十分に価値がある。だけど。この映画が撮られた思想的背景というか、要するに、この映画によって何が言いたかったのか、ということになると、なんだかどうにもよくわからない映画だったなぁ、とも思ってしまうのでした。
それというのも、登頂には成功したものの、帰還を果たしたのは兄のラインホルト(フロリアン・シュテッター)だけで、弟のギュンター(アンドレアス・トビアス)は結局帰って来られなかったわけですが、その痛ましい結果を招いた経過というのが、どう観ても納得のいかないものなので、悲劇として胸に迫ってこないのです。早い話が、そんな身勝手で無謀なことをしたんだから、そんな結果になっても仕方なかったのでは? という感覚。兄弟の自業自得に思えてしまう。
当時、登山家として売り出し中だったラインホルトは、カール・マリア・ヘルリヒコッファー博士(カール・マルコヴィクス)に招かれて遠征隊に参加することになります。資金を集めたのも、プランを立てたのもヘルリヒコッファーだし、当然指揮権や決定権を持っていたのもかれです。しかもかれは単なるシロウトの好事家なんてものじゃなく、すでに何度もこの山にアタックしていたわけで、情況にも詳しく、方法論も確立されていた。そのヘルリヒコッファーの率いる遠征隊でかれの指揮の下に登攀するのであれば、それに従うのが筋という感じがするのです。
ヘルリヒコッファーのやり方は、大量の物量を確保し、一歩一歩慎重確実に登攀を行うものでしたが、アルプス育ちのラインホルトは、極力軽装で単独登頂を目指すスタイルで今までやってきた。なので、かれにはヘルリヒコッファーのやり方はまだるっこしく思え、勝手なタイミングでろくな装備も持たず、単独で登攀にかかったのです。一方弟のギュンターもまた、キャンプに残って帰還用の段取りをするはずが、兄に置き去りにされるのがどうしても我慢ならず、帰路の確保もしないで兄の後を追ってしまう。これで遭難しなければ山を舐めてる。実際、ヘルリヒコッファーのプラン通りに登った遠征隊のほかのふたりは、登頂にも帰還にも成功しているわけですから、ギュンターの悲劇は、兄弟が指揮官を無視して勝手にふるまった結果にしか見えないのです。
だから、そこから導き出されるテーマがわからない。
遠征の後、ラインホルトとヘルリヒコッファーは完全に決裂し、裁判で争うまでになってしまったそうですが、この映画は、その仲違いしたうちの一方であるラインホルトの全面協力の下で描かれているので、もしかしたらヘルリヒコッファーに関する描写はあまり公正ではなかったんじゃないかなぁ、という疑惑もぬぐいきれません。なぜというに、ひどく感情的だったり決断力に乏しかったり無駄にプライドが高かったりといったヘルリヒコッファーの描写が、あれだけの規模の遠征を成功させた隊長という人物プロファイルにふさわしくないように感じられたからです。まあ、ちょっと全体的に冷めた目で見てしまったので、そんなことも考えてしまうのかもしれないけれども。
身体を切り刻まれるような気持ちで、絶対に弟を連れて帰ってくるのよ、と兄弟を送り出した母親の気持ちが哀れです。
by shirakian
| 2011-10-01 11:20
| 映画は行