2011年 08月 03日
海洋天堂
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★ネタバレ注意★
ジェット・リーが一切アクションをせず、ひとりの平凡な父親を演じている映画なんですが、これが(>_<)。
決してお涙頂戴ではなく、演出的にはむしろ控えめな筆致なのに、次第次第に胸が苦しくなってきて、途中から泣きっぱなしになってしまいました。油断するとコヨーテ泣きになってしまいそうなくらい、泣けて泣けてしかたなかったです。でも、泣いてたのはわたしだけではなくて、劇場中にすすりあげる声がこだましていたです。おぢさんもおばさんもおにいさんもおねいさんも、みんな泣いていたと思います。
だってほんとに、切なくて、やるせなくて、悲しくて、いとしくて、優しくて、暖かくて、それでもなんだか、どうしようもない映画なんですもの。
青島(チンタオ)の水族館で働くワン・シンチョン(ジェット・リー)は、癌をわずらい、余命三ヶ月との宣告を受ける。突然の余命宣告に、ワンは絶望の淵につきおとされた。なぜならかれには自閉症の息子ターフー(大福と書きます、ウェン・ジャン)がいたからだ。妻に先立たれて以来、生活の全ての面倒をワンがかかりきりになってみてきたために、ターフーは21歳にもなるのに、自分ひとりではなにひとつできない。遅まきながらもワンは、卵のゆで方、掃除の仕方、バスの乗り方にはじまって、ほしいものがあったら代価を支払って買うという概念についてまで、ひとが社会で生きていく基本についてひとつひとつ教え込みながら、そんなターフーを受け入れてくれる施設を捜すのだが……。
舞台はチンタオ。いままで、チンタオが舞台の映画を観たことがあるかどうか覚えていないのですが、少なくとも、チンタオという街を意識して映画を観たのはこれが初めてだろうと思います。なぜというに、この街が、信じられないほど魅力的に撮れているからです。海近くまで山の迫った坂の街。豊かな緑と古い家並み。高い空。のんびり走るバス。これは反則です。恐らく中国にこんな美しい街なんかない。かの国は、埃っぽくて、ゴミだらけで、人間が多すぎて、自分の家の中はきちんと片付けても、道端に平気でゴミを掃き出すような国民性なんだから、地上の天国と言われる蘇州ですら、実際に行くとそんなに美しいということはない。はずなんだけど、クリストファー・ドイルですよ。かれが魔法をかけてしまった。ドイルのカメラを通じて映し出されるチンタオの街の、なんともたまらない空気感。この映画のすばらしさの多くの部分を担っているのは、まちがいなくかれのカメラだと思います。
映画は冒頭、ワンがターフーを連れて無理心中をはかろうとするシーンから始まります。昨今、時間軸をずらしてある映画なんか珍しくありませんから、観客は冒頭からいきなり、ムンクの叫びのような悲鳴を呑み込まなければなりません。だってつまり、これって、自閉症の息子をなんとかしようと頑張ったけれど、結局うまくいかなかった父親が、息子を道連れにして死を選ぶ、その最後の日までの過程を辿る映画なわけ? と思ってしまうから。そんなん、辛すぎます。つきあえません。
ところがそれはとんだ誤解で、映画はそんな小細工を弄することなく、きちんと時間を追って展開していきます。ワンは結局、ターフーを殺すことができなかった。無理心中をはかるなら、毒を飲ませるなり、首を絞めるなり、もっと確実な方法がいくらでもあったはずのところ、敢えて入水自殺を選んだ時点で、ワンは意識していたかどうはともかく、心の底ではターフーを殺すことなんて絶対にできないことがわかっていたんだと思います。というか、殺したくなんか、断然なかった。だってターフーは泳ぎの名手。魚のように自由自在に泳ぐことができるんです。入水自殺なんてできるはずのないことを、ワンはわかってて、そんな手段を選んだ。あの行為は、ワンの精一杯の救難信号ではあったけれど、本音なんかじゃ決してなかった。
結局それから、ワンは再び気をとりなおして、もう一度、ターフーの面倒をみてもらえる施設がないか、探し回るのですが、この描写がたまらないです。
「ご覧の通り、この施設は、就学児童を収容するためのものなんですが、息子さんは、見たところ、16歳は越えていらっしゃるでしょう?」
「……21です」
うなだれて答えるワンが切ない。
21歳。その年齢がとてつもなく重いです。
親の庇護がなければ生活していけない子どもたちだって、どんどん年をとっていく。もはや子どもとは言えない年齢になってしまう。そのとき親は、当然老いていき、ワンのように病気でなくても、いずれは死ななければならない。そうなったとき、だれがその「子」の面倒をみてくれるのか?
そこはやっぱり、社会にセイフティネットがあってほしいと思うのだけど、そしてそれは当然国がやることが望ましいことではあるのだけれど、いきなりそうもいかないでしょうから、民間の小規模な組織であっても、そういう施設を運営していてくれることはありがたい。ただ、その情報を、行政がちゃんと把握してない。だからワンは、あちこち盥回しにされ、激痛を宥め宥め電話をかけまくり、何度も何度も絶望の淵に突き落とされなければならなかったわけで、これを見るにつけ切に願うのは、せめて行政の担当者は、最大限の努力をして「情報」を把握しておいてほしい、ということです。
国にできることに限度があるのはしかたない。だけど、問い合わせがあったときに、管轄外ですとか、規則上できませんとか、ファストフード店のマニュアルのようなことを言うのではなく、民間の施設ですがどこそこに行けば受け入れてくれます、ということを、知っていてほしい、伝えてあげてほしいと思うのです。
実際、最終的にターフーを受け入れてくれることになった施設も、民間施設で、しかも規模は小さく、予算はなく(施設内で、軽食堂を運営して活動資金を得ているっぽい)、という様子で、劇中、新しくできた施設だという説明がありました。まだあまり「一般には」知られていなかった施設である可能性は高いです。でも、施設を開くには、必ずや認可申請があったはずなのですから、新しい施設であろうがなかろうが、行政は知っていたはず。知っていなければいけなかったはずです。ワンはこの施設について、行政から教えてもらったのではなく、個人的知人から助けの手を差し伸べてもらえたのです。
だれもが困ったときまず頼ってみるのは、お役所だと思います。ここで適切な情報が適切に開示されていれば、絶望して自殺したりなぞせずにすむひとが、大勢いるのではないかと思います。人々の相談の全てを解決せよとは言いません。せめて、わかりません、知りません、できません、関係ありません、とは言わないでいてくれればいいのにと思うのです。いつだって光明はあると、教えてあげてほしい。
そうして施設探しをする一方で、ワンはターフーに日常必要なことをひとつひとつ教えていきます。もっと早く始めていればよかったんだけど、なにしろ自分があと三ヶ月の命だなんて知る由もないから、時間はいくらでもあると思えてしまっていた、自分がやってあげればいいと思えてしまっていた。時間が限られる中、教えなければならないことはあまりにも多く、21にもなる息子はあまりにも不器用で、切れて怒鳴りたくなっても不思議でないところを、ワンはほんとうに辛抱強く、ひとつひとつ教え込んでいくのです。
なにかひとつできるたびに、真乖,真棒,真聪明!(いい子だ、すごいぞ、かしこいぞ!)と精一杯ほめてやりながら。小さな障害をクリアするごとに、父親の笑顔があまりにも混じりけなしに嬉しそうなので、観客は言葉をのむしかないのですが、でも、卵が上手に割れたからって一体なんになるんだろう? それで暮らしていけるものじゃなし。小さな障害のクリアは、ターフーがほんとうにクリアすべき障害のあまりにも大きいことを思い知らされて、却って暗澹たる気持ちになるのです。
結局、施設がみつかったのは知人の「コネ」でした。施設のひとたちは恐らく「親切」で規定以上の面倒をみてくれるでしょう。そして仕事については、ワンが働く水族館の館長の個人的「好意」で、ターフーはそこで清掃の仕事をさせてもらえるようになりました。ひとびとの繋がりや人情が生きている証左です。大変美しいことだとは思うのですが、反面それは、そういった個人的な持ち出しがなければ成り立たない、ということです。何もしなくても、だれとも知りあいでなくても、嫌われ者でも、ひとりぼっちでも、社会の一員であるというだけで恩恵に浴する事が出来る「システム」が機能していないのです。うんと悪く言えば、それもまた「走後門(裏口から入る)」の中国社会の一面です。施設に入れてもらえるコネもなく、親切な館長と知りあいでもないひとは、はじき出されるということです。
父と子の、あまりにも切ないドラマを観ながら、社会福祉やシステムといった問題についても、ついつい考えてしまう映画でした。
その一方で、細かい描写のひとつひとつは、ほんとうにとても瑞々しい。
ワンがターフーの服にひとつひとつ縫いつける迷子札。針を持つ不器用な手つき。縫い始めた当初は、空欄だった連絡先に、ようやくみつかった施設の電話番号を書き込むことができるワン。思えば、ここにたどりつくまでが、なんとも長い道のりだった。それほど苦労したにもかかわらず、いつか自分と離れることに、格別の感情を示さないターフー。それはターフーが何も感じていないからでは決してなく、かれには感じたことをうまく表現する術がないだけだなんて、言われなくてもわかっているけど、ついつい辛くなってしまって、思わず愚痴をこぼしてしまうワン。後にもさきにも、ワンが愚痴をこぼしたのは、そのときだけ、そのひとつだけ。ターフーだって、悲しくてたまらないにきまっているのにね。ターフーはあなたが一番好きだよ、あなたを一番愛しているよ、あなたのない世界なんか考えられないんだよ。ワンにだってわかっている。でも、心が弱くなってしまったとき、どんなにわかってはいても、口に出して言ってほしいことがある。
ワン家の隣に済む、雑貨屋を営むチャイさん(ジュー・ユアンユアン)。ふたりは互いに憎からず思っているのだけれど、ワンは自分と一緒になるということはチャイにターフーの世話を押し付けることになると思って、思いを告白することができない。そんなワンの態度に、チャイは避けられていると思ってしまうのだけれど、生来のひとのよさもあって、あれこれワン家の面倒をみずにはいられない。最後の日が近づいてようやくワンに真情を吐露されたチャイの気持ち。ラブストーリーと言うには、手を握ることすらない慎ましい関係だけど、ほんとに胸に迫るのです。
ターフーが幼いころ、死んでしまったワンの妻。病気だったのか何だったのか、なかなか明かされることがないのだけれど、物語も終盤になって、その死が自殺だったことが示唆される。愛しい息子の将来に絶望して、自ら命を断ってしまった、若く美しく心の弱かった妻。ワンの心情も、妻の気持ちも、幼くして母親に死なれたターフーの思いも、みんなみんな、切なくてたまりません。
水族館で臨時興行を行ったサーカスのピエロ、リンリン(鈴鈴と書きます、グイ・ルンメイ)。スラリと手足の長い、妖精みたいに綺麗なお嬢さんなのに、幸せな境遇じゃない。両親は早くに亡くなって、育ててくれたおばあさんは、いまあそこにいるの、と空を指差す。優しくて、明るくて、いい子なんです、ターフーとも、ばかになんかしたりせず、親身につきあってくれる。水族館の一角にある公衆電話に電話をかけて、この電話が鳴ったら出るのよ、かけているのはわたしだから、と教え諭す。ターフーもよく懐いていたのだけれど、旅暮らしの宿命、いつかはいなくなってしまう。ある日突然大好きなリンリンがいなくなってしまって、パニックを起こすターフー。ワンが青くなって捜しまわると、マクドナルドのピエロの隣に座り込んで眠っている。わんこか、きみは。たまらんです。
ひとつひとつ、そうした優しい人々の姿を、久石譲の音楽が暖かく優しく包み込みます。
ジェット・リーが一切アクションをせず、ひとりの平凡な父親を演じている映画なんですが、これが(>_<)。
決してお涙頂戴ではなく、演出的にはむしろ控えめな筆致なのに、次第次第に胸が苦しくなってきて、途中から泣きっぱなしになってしまいました。油断するとコヨーテ泣きになってしまいそうなくらい、泣けて泣けてしかたなかったです。でも、泣いてたのはわたしだけではなくて、劇場中にすすりあげる声がこだましていたです。おぢさんもおばさんもおにいさんもおねいさんも、みんな泣いていたと思います。
だってほんとに、切なくて、やるせなくて、悲しくて、いとしくて、優しくて、暖かくて、それでもなんだか、どうしようもない映画なんですもの。
青島(チンタオ)の水族館で働くワン・シンチョン(ジェット・リー)は、癌をわずらい、余命三ヶ月との宣告を受ける。突然の余命宣告に、ワンは絶望の淵につきおとされた。なぜならかれには自閉症の息子ターフー(大福と書きます、ウェン・ジャン)がいたからだ。妻に先立たれて以来、生活の全ての面倒をワンがかかりきりになってみてきたために、ターフーは21歳にもなるのに、自分ひとりではなにひとつできない。遅まきながらもワンは、卵のゆで方、掃除の仕方、バスの乗り方にはじまって、ほしいものがあったら代価を支払って買うという概念についてまで、ひとが社会で生きていく基本についてひとつひとつ教え込みながら、そんなターフーを受け入れてくれる施設を捜すのだが……。
舞台はチンタオ。いままで、チンタオが舞台の映画を観たことがあるかどうか覚えていないのですが、少なくとも、チンタオという街を意識して映画を観たのはこれが初めてだろうと思います。なぜというに、この街が、信じられないほど魅力的に撮れているからです。海近くまで山の迫った坂の街。豊かな緑と古い家並み。高い空。のんびり走るバス。これは反則です。恐らく中国にこんな美しい街なんかない。かの国は、埃っぽくて、ゴミだらけで、人間が多すぎて、自分の家の中はきちんと片付けても、道端に平気でゴミを掃き出すような国民性なんだから、地上の天国と言われる蘇州ですら、実際に行くとそんなに美しいということはない。はずなんだけど、クリストファー・ドイルですよ。かれが魔法をかけてしまった。ドイルのカメラを通じて映し出されるチンタオの街の、なんともたまらない空気感。この映画のすばらしさの多くの部分を担っているのは、まちがいなくかれのカメラだと思います。
映画は冒頭、ワンがターフーを連れて無理心中をはかろうとするシーンから始まります。昨今、時間軸をずらしてある映画なんか珍しくありませんから、観客は冒頭からいきなり、ムンクの叫びのような悲鳴を呑み込まなければなりません。だってつまり、これって、自閉症の息子をなんとかしようと頑張ったけれど、結局うまくいかなかった父親が、息子を道連れにして死を選ぶ、その最後の日までの過程を辿る映画なわけ? と思ってしまうから。そんなん、辛すぎます。つきあえません。
ところがそれはとんだ誤解で、映画はそんな小細工を弄することなく、きちんと時間を追って展開していきます。ワンは結局、ターフーを殺すことができなかった。無理心中をはかるなら、毒を飲ませるなり、首を絞めるなり、もっと確実な方法がいくらでもあったはずのところ、敢えて入水自殺を選んだ時点で、ワンは意識していたかどうはともかく、心の底ではターフーを殺すことなんて絶対にできないことがわかっていたんだと思います。というか、殺したくなんか、断然なかった。だってターフーは泳ぎの名手。魚のように自由自在に泳ぐことができるんです。入水自殺なんてできるはずのないことを、ワンはわかってて、そんな手段を選んだ。あの行為は、ワンの精一杯の救難信号ではあったけれど、本音なんかじゃ決してなかった。
結局それから、ワンは再び気をとりなおして、もう一度、ターフーの面倒をみてもらえる施設がないか、探し回るのですが、この描写がたまらないです。
「ご覧の通り、この施設は、就学児童を収容するためのものなんですが、息子さんは、見たところ、16歳は越えていらっしゃるでしょう?」
「……21です」
うなだれて答えるワンが切ない。
21歳。その年齢がとてつもなく重いです。
親の庇護がなければ生活していけない子どもたちだって、どんどん年をとっていく。もはや子どもとは言えない年齢になってしまう。そのとき親は、当然老いていき、ワンのように病気でなくても、いずれは死ななければならない。そうなったとき、だれがその「子」の面倒をみてくれるのか?
そこはやっぱり、社会にセイフティネットがあってほしいと思うのだけど、そしてそれは当然国がやることが望ましいことではあるのだけれど、いきなりそうもいかないでしょうから、民間の小規模な組織であっても、そういう施設を運営していてくれることはありがたい。ただ、その情報を、行政がちゃんと把握してない。だからワンは、あちこち盥回しにされ、激痛を宥め宥め電話をかけまくり、何度も何度も絶望の淵に突き落とされなければならなかったわけで、これを見るにつけ切に願うのは、せめて行政の担当者は、最大限の努力をして「情報」を把握しておいてほしい、ということです。
国にできることに限度があるのはしかたない。だけど、問い合わせがあったときに、管轄外ですとか、規則上できませんとか、ファストフード店のマニュアルのようなことを言うのではなく、民間の施設ですがどこそこに行けば受け入れてくれます、ということを、知っていてほしい、伝えてあげてほしいと思うのです。
実際、最終的にターフーを受け入れてくれることになった施設も、民間施設で、しかも規模は小さく、予算はなく(施設内で、軽食堂を運営して活動資金を得ているっぽい)、という様子で、劇中、新しくできた施設だという説明がありました。まだあまり「一般には」知られていなかった施設である可能性は高いです。でも、施設を開くには、必ずや認可申請があったはずなのですから、新しい施設であろうがなかろうが、行政は知っていたはず。知っていなければいけなかったはずです。ワンはこの施設について、行政から教えてもらったのではなく、個人的知人から助けの手を差し伸べてもらえたのです。
だれもが困ったときまず頼ってみるのは、お役所だと思います。ここで適切な情報が適切に開示されていれば、絶望して自殺したりなぞせずにすむひとが、大勢いるのではないかと思います。人々の相談の全てを解決せよとは言いません。せめて、わかりません、知りません、できません、関係ありません、とは言わないでいてくれればいいのにと思うのです。いつだって光明はあると、教えてあげてほしい。
そうして施設探しをする一方で、ワンはターフーに日常必要なことをひとつひとつ教えていきます。もっと早く始めていればよかったんだけど、なにしろ自分があと三ヶ月の命だなんて知る由もないから、時間はいくらでもあると思えてしまっていた、自分がやってあげればいいと思えてしまっていた。時間が限られる中、教えなければならないことはあまりにも多く、21にもなる息子はあまりにも不器用で、切れて怒鳴りたくなっても不思議でないところを、ワンはほんとうに辛抱強く、ひとつひとつ教え込んでいくのです。
なにかひとつできるたびに、真乖,真棒,真聪明!(いい子だ、すごいぞ、かしこいぞ!)と精一杯ほめてやりながら。小さな障害をクリアするごとに、父親の笑顔があまりにも混じりけなしに嬉しそうなので、観客は言葉をのむしかないのですが、でも、卵が上手に割れたからって一体なんになるんだろう? それで暮らしていけるものじゃなし。小さな障害のクリアは、ターフーがほんとうにクリアすべき障害のあまりにも大きいことを思い知らされて、却って暗澹たる気持ちになるのです。
結局、施設がみつかったのは知人の「コネ」でした。施設のひとたちは恐らく「親切」で規定以上の面倒をみてくれるでしょう。そして仕事については、ワンが働く水族館の館長の個人的「好意」で、ターフーはそこで清掃の仕事をさせてもらえるようになりました。ひとびとの繋がりや人情が生きている証左です。大変美しいことだとは思うのですが、反面それは、そういった個人的な持ち出しがなければ成り立たない、ということです。何もしなくても、だれとも知りあいでなくても、嫌われ者でも、ひとりぼっちでも、社会の一員であるというだけで恩恵に浴する事が出来る「システム」が機能していないのです。うんと悪く言えば、それもまた「走後門(裏口から入る)」の中国社会の一面です。施設に入れてもらえるコネもなく、親切な館長と知りあいでもないひとは、はじき出されるということです。
父と子の、あまりにも切ないドラマを観ながら、社会福祉やシステムといった問題についても、ついつい考えてしまう映画でした。
その一方で、細かい描写のひとつひとつは、ほんとうにとても瑞々しい。
ワンがターフーの服にひとつひとつ縫いつける迷子札。針を持つ不器用な手つき。縫い始めた当初は、空欄だった連絡先に、ようやくみつかった施設の電話番号を書き込むことができるワン。思えば、ここにたどりつくまでが、なんとも長い道のりだった。それほど苦労したにもかかわらず、いつか自分と離れることに、格別の感情を示さないターフー。それはターフーが何も感じていないからでは決してなく、かれには感じたことをうまく表現する術がないだけだなんて、言われなくてもわかっているけど、ついつい辛くなってしまって、思わず愚痴をこぼしてしまうワン。後にもさきにも、ワンが愚痴をこぼしたのは、そのときだけ、そのひとつだけ。ターフーだって、悲しくてたまらないにきまっているのにね。ターフーはあなたが一番好きだよ、あなたを一番愛しているよ、あなたのない世界なんか考えられないんだよ。ワンにだってわかっている。でも、心が弱くなってしまったとき、どんなにわかってはいても、口に出して言ってほしいことがある。
ワン家の隣に済む、雑貨屋を営むチャイさん(ジュー・ユアンユアン)。ふたりは互いに憎からず思っているのだけれど、ワンは自分と一緒になるということはチャイにターフーの世話を押し付けることになると思って、思いを告白することができない。そんなワンの態度に、チャイは避けられていると思ってしまうのだけれど、生来のひとのよさもあって、あれこれワン家の面倒をみずにはいられない。最後の日が近づいてようやくワンに真情を吐露されたチャイの気持ち。ラブストーリーと言うには、手を握ることすらない慎ましい関係だけど、ほんとに胸に迫るのです。
ターフーが幼いころ、死んでしまったワンの妻。病気だったのか何だったのか、なかなか明かされることがないのだけれど、物語も終盤になって、その死が自殺だったことが示唆される。愛しい息子の将来に絶望して、自ら命を断ってしまった、若く美しく心の弱かった妻。ワンの心情も、妻の気持ちも、幼くして母親に死なれたターフーの思いも、みんなみんな、切なくてたまりません。
水族館で臨時興行を行ったサーカスのピエロ、リンリン(鈴鈴と書きます、グイ・ルンメイ)。スラリと手足の長い、妖精みたいに綺麗なお嬢さんなのに、幸せな境遇じゃない。両親は早くに亡くなって、育ててくれたおばあさんは、いまあそこにいるの、と空を指差す。優しくて、明るくて、いい子なんです、ターフーとも、ばかになんかしたりせず、親身につきあってくれる。水族館の一角にある公衆電話に電話をかけて、この電話が鳴ったら出るのよ、かけているのはわたしだから、と教え諭す。ターフーもよく懐いていたのだけれど、旅暮らしの宿命、いつかはいなくなってしまう。ある日突然大好きなリンリンがいなくなってしまって、パニックを起こすターフー。ワンが青くなって捜しまわると、マクドナルドのピエロの隣に座り込んで眠っている。わんこか、きみは。たまらんです。
ひとつひとつ、そうした優しい人々の姿を、久石譲の音楽が暖かく優しく包み込みます。
by shirakian
| 2011-08-03 19:10
| 映画か行