2011年 07月 16日
BIUTIFUL ビューティフル
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★ネタバレ注意★
久々に、「凄い映画を観た」と思いました。
今年にはいってからも、よくできた映画、感動的な映画、わくわくする映画、すばらしい映画、などはいくつも観てきたと思いますが、「凄い映画を観た」と思ったのは、この映画が今年初めてです。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。
言わずとしれた『21グラム』や『バベル』の監督ですが、作品の密度がちがいます。それってつまりは、監督の母国語で撮った映画だからだろうと思います。やはり、ほんとうに言いたいことを語るには、外国語じゃダメなんじゃないかと思う。コトバって、それくらい大きい。
2010年のアカデミー賞では、主演男優賞(ハビエル・バルデム)と外国語映画賞にノミネート(英語作品だったら、まずまちがいなく作品賞にノミネートされていたと思います)。そして同年のカンヌ国際映画祭では、イニャリトゥ監督がパルム・ドールにノミネートされ、主演のハビエル・バルデムが男優賞を受賞しています。
ウスバル(ハビエル・バルテム)は、バルセロナの貧困地区に住む中年男。移民や不法滞在者に違法な仕事を斡旋するブローカーの仕事をしながら、ときには霊媒師として、死者の最期の言葉を聞きとり、それを遺族に伝え、死者が安らかに旅立てるよう手助けをする仕事もしていた。かれにはある種の霊感能力があったのだ。
元妻のマランブラ(マリセル・アルバレス)は、双極性障害を患い、アルコールやドラッグに溺れ、さまざまな男たち(ウスバルの実兄をも含めて)と関係を持っていた。ウスバルはマランブラと別れ、男手ひとりでふたりの幼い子ども、アナ(アナー・ボウチャイブ)とマテオ(ギレルモ・エストレヤ)を育てていた。仕事が不規則なかれは、不法移民の中国人女性に子どもたちの世話を頼む一方、学校の送り迎えや夕食を共にするといったことを欠かさず、自分ができる精一杯の範囲で子どもたちと真摯に向きあってきた。
そんなウスバルが、ある日いきなり、癌で余命二ヶ月と告げられてしまう。
物語は、余命宣告を受けたウスバルの短い最後の日々を描いています。
以下、ネタバレ忌避の方はご注意ください。
↓
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いかがわしい仕事で生計をたてているとはいえ、決して悪人ではないウスバル。しかし、自分の死後、子どもたちがなんとか暮らしていけるようにと、必死に奔走するウスバルに、輝かしい奇跡は起こりません。それどころか、ウスバルのやることなすことすべて、裏目裏目となっていく。死者の声が聞こえるウスバルに、しかし神は語りかけてこない。
教養のないかれには、「ビューティフル」という英語の綴りすらわからない。娘に尋ねられて、「発音通りさ。BIUTIFULだよ」と答える。そんな男に、できることはあまりにも少ない。
とても重い、息苦しい物語を、イニャリトゥ監督はじっくりと丁寧に、説明に堕さないテンポで描いていきます。だから最初は、個々のシーンがなかなか意味をみせてくれない。辛抱強く監督の語りのテンポにつきあうことにより(とはいえ、画面に常に力があるので、つきあうこと自体に辛抱はいりません。むしろ惹き込まれる)、薄皮をはがすがごとく少しずつ、物語の全貌が見えてくる。それはそうだ。だれの人生だって、そうそう手際良く説明できてしまうものじゃない。本気でそれを語ろうとしたら、こんな形を取るのがむしろ自然であるにちがいない。それが一番端的に現れているのが、冒頭とラストの全く同じシーン。同じシーンを見せられているというのに、観る方の変化によって、受け取る印象はこれほどにも変わる。
たとえば、ウスバルの暮らしぶりや人柄、子どもたちの現状を描くのに、監督はただ、一家三人の食事のシーンを用意する。家族が揃って食事をするシーンは、それだけで必要なことをすべて提示して見せる。
代わり映えのしない栄養の偏ったメニュー。食べ飽きてぐずるマテオ。ウスバルは、それじゃなにが食べたい? と子どもたちに訊ね、「ごっこ遊び」で巧みに子どもたちを引き込みながら、恙無く食事を始めさせる。でも、幼いマテオはスプーンの持ち方がヘンだったり、大量に口につめこんでしまったり、足でテーブルを蹴っちゃったりしてしまう。生活に疲れたウスバルは、苛立ってつい叱りつけてしまう。
幼い姉弟といっても、そろそろ分別のついてきたアナは、保身の術を心得ている。大人に媚びて「よいこ」でいることにより、叱られずにすませることができる。だけど、もっと幼いマテオには、その処世術はまだむずかしい。その行動は常に、大人を苛立たせる煩わしいものとなってしまう。どうしたらいいかわからないマテオの不安は、おねしょになって現れる。
マテオに苛立ちをぶつけてしまうウスバルだけど、マテオのおねしょは叱らない。マテオの心が不安定だからそういうことになるということを、かれはちゃんと理解している。幼い息子が不憫だと思う。自分のいたらなさに忸怩たる思いをする。
元妻のマランブラは双極性障害を患ってはいるが、本人の弁によれば、近頃はかなり回復に向かっていると言う。死期を告げられたウスバルは、この分なら、子どもたちを母親に託せるのではないかと期待する。
しかし、マランブラの精神状態は相変わらず不安定で、その苛立ちは、不器用なマテオに向けられる。ついには暴力を振るい、わずか7歳の子どもを置き去りにして、姉娘だけを連れて旅行に行ってしまう。こんな人間に、子どもたちを任せるわけには到底いかない。ウスバルは途方に暮れる。おれが死んでしまったら、この子たちはどうなるのだろう? 違法な仕事をしているかれには、社会福祉に頼ることなど思いもよらない。コツコツ溜めてきた金は若干あるけれど、それで当座はしのげても、情況自体を変えられるほどの額じゃない。
なにもかもうまくいかないのに、時間だけがどんどん磨り減っていき、体調は日増しに悪化していく。そんな中で、目をかけていたセネガルからの不法移民の男が、警察に捕まり、強制送還されてしまう。あとには幼子を抱えた若妻のイヘが残される。警察には賄賂を渡して目こぼしを頼んでいたはずなのに、やつらには容赦などしないと、収賄警官はにべもない。こうなったのもウスバルのせいだとイヘはウスバルをなじるが、ウスバルはイヘに自宅を提供する。子どもたちは元妻と暮らし、自分は死んでしまうのだから、この部屋はだれも使わなくなる……はずだったのに、前述の理由で子どもたちはこの部屋に舞い戻らざるを得なくなる。ただでさえ狭かったアパートに、泣きわめく赤ん坊と見知らぬ異国の女が加わる。子どもたちの心は更に不安定になる。
しかしそれでもウスバルは、子どもたちの世話をイヘに託せるのではないかと期待する。
ウスバルはイヘに大金を手渡す。家賃と生活費。一年かそこらはこれで暮らせる。これで子どもたちを頼む。その後のことはわからないけど。しかしイヘは、それはできないと断る。お金ができたらセネガルの愛する夫のもとに帰るつもりなのだからと。そんなイヘに、ウスバルは無理矢理金を押し付ける。受け取ってしまえば、残らざるを得なくなるのではないかと期待して。
しかし大金を手にしたイヘは、それを持ち逃げしようとする。しょうがない。人間だもの。その行為はむしろ、人間らしいとすら言える。
それでも、イヘが金を持って故国に帰れたのなら、まだしもだった。だけどイヘもまた命を落す。ウスバルのもとに帰ってきたのは、道に迷ってしまった霊魂だけ。ウスバルはその姿を、天井に張りつくイヘの姿として認識する。恐らく、持ちなれない大金を手にしてしまったがために、イヘは強盗かなにかにやられたのだ。ウスバルがあんな金を渡しさえしなければ、イヘも死ぬことはなかったかもしれないのに。よかれと思ってやったことが、またしても裏目に出た。
うまくいかない。なにもかも、うまくいかない。
ウスバルは、中国人の移民たちに、工事現場の仕事を斡旋していた。元締めのハイ(チェン・ツァイシェン)は、家族持ちでありながら、仕事仲間のリウェイ(ルオ・チン)と同性愛の関係にある。ウスバルは、かれらから中間マージンを巻きあげているくせに、労働者に対する待遇が悪いとハイを詰る。労働者の中には、子どもたちの面倒をみてくれている若い中国人の母親もいる。ウスバルはかれらのことを気にかけてはいるのだ。せめてかれらが寒い思いをしなくてすむようにと、かれらが押し込まれている地下室に、暖房器具を買い与える。
しかしこれがまた裏目に出る。安物の暖房器具は、一酸化炭素を撒き散らし、地下室にいた労働者たちは全員が命を落としてしまう。子守をしてくれた若い母親も含めて。死んでしまった中国人たちが、天井に張り付いてウスバルを見下ろしている。けちって安い器具を買ったりするからだ。欠陥品だということは最初からわかっていた。ウスバルは自分のせいだと打ちのめされる。
しかも、責任を追及されることを恐れたリウェイは、死体を集めて海に棄ててしまう。スペインの浜に次々と打ち上げられる大量の東洋人の死体。いっそシュールな景色。ウスバルはさらに打ちのめされる。みなによかれと思って買った暖房器だったのに。よかれと思ってやったことが、またしても裏目に出た。
うまくいかない。なにもかも、うまくいかない。
結局、なにひとつ始末をつけぬまま、ウスバルもまた、旅立たねばならなくなる。
そこで映画は冒頭のシーンに戻る。
若い日に政治亡命のためメキシコに旅立ってしまった父親。生き延びるための逃避行だったはずなのに、辿りついたメキシコで、父親は病を得て若い身空であっさり死んでしまう。その父が母に贈り、母からウスバルが受け継ぎ、一度は愛した(いや、いまもまだ愛している)マランブラに贈った指輪。マランブラから突き返されたそれを、ウスバルは今度は、娘のアナに譲る。ほんもののダイヤモンドを身につけることができるなんて、なんて誇らしいことなの。アナの細い指に指輪は大きすぎるけれど、アナは喜んで指輪を受け取る。ウスバルはアナに、少しだけ父のことを語る。
父と娘の、微笑ましい一幕だと、最初観客は思うが、実はそれは、死んでしまったのにまだ旅立つことのできない父の声を、優しい娘が聞いてやっているシーンだったと最後にわかる。アナもまた、父親の能力を受け継いでいたのだ。
そして、うらぶれた街の狭苦しい部屋を離れた父親の魂は、雪の積もる森の中を歩く。森の中でウスバルは若い男と出会う。
冒頭のシーンでは、観客にはこの男がだれかはわからない。なのでわたしは、かれのことをヒットマンだと思って眺めていた。なにかやばいことをしでかしたウスバルを追っているどこかの組織の人間だ。楽しげに話をし、優しそうに笑いながら、そのままの顔で、ウスバルを撃つのにちがいない、と。
とんでもない。男は若くして死んだウスバルの父親だった。ウスバルはその人生で、会ったこともない父親のことをずっとずっと求めてきた。いま、ようやくその願いがかなった。父親は優しい。ひょうきんでもある。海鳴りと風の音を口まねで聞かせてくれる。ウスバルは海の音が怖くて嫌いだったのに、喜んで繰り返しその口まねをせがむ。
迎えに来てくれた。長い長い年月を経て。 うまくいかない、なにもかも、うまくいかない、長い坂を下るような人生の果てに、会いたくてたまらなかったひとが、迎えに来てくれた。それまでの時間、かれがどこにいたのか、観客にはわからないし、ウスバルも知らない。問う必要もない。だれもが死の瞬間、こうして愛するひとに迎えてもらえるのだとしたら、そもそも死は悪いものじゃない。
残された者への思いは。
生き続ける者たちへの思いは。
更生施設に入ったマランブラ。最悪の罪にまみれ、異国でひとりぼっちになってしまったハイ。そしてだれよりも、まだ幼いアナとマテオ。だれの上にも、恐らく輝かしい奇跡なんか起こらない。ひとは生きて、そして、死ぬ。だけど、最期の瞬間に、だれかが迎えに来てくれるのだとしたら。これから何年も何年もさきに、いずれはアナとマテオが旅立つとき、ウスバルは迎えに行くだろう。迎えに行って、たわいのない世間話などするのだろう。愛していたと告げるだろう。赦してほしかったと告げるだろう。
父に対する思いと、父であることの思い。それこそが監督の思いでもある。
最後に、ほんとにどうでもいいことながら、やっぱりアレを試してみたいと思ったんですけど。マテオがウスバルに仕掛けたゲームです。
「Dで始まる国を思い浮かべてみて? 思い浮かべた? それじゃ、次はIで始まる動物。でも、イボイノシシはダメだよ(原語はスペイン語なので、ここはほんとはカバ=イポポタモですけど、日本語バージョンで)。……ね、いま、デンマークのイグアナって思ったでしょ?」
図星を当てられてウスバルはびっくりするのだけど、わたしもだれかにやってみたい(笑)。
【2014・7・13 追記】
コメント欄で、天井にはりついていたのはイヘではなくウスバルであるというご指摘をいただきました。記事掲載から随分時間が経ってしまっていて大変恐縮ですが、ここに訂正させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
久々に、「凄い映画を観た」と思いました。
今年にはいってからも、よくできた映画、感動的な映画、わくわくする映画、すばらしい映画、などはいくつも観てきたと思いますが、「凄い映画を観た」と思ったのは、この映画が今年初めてです。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作品。
言わずとしれた『21グラム』や『バベル』の監督ですが、作品の密度がちがいます。それってつまりは、監督の母国語で撮った映画だからだろうと思います。やはり、ほんとうに言いたいことを語るには、外国語じゃダメなんじゃないかと思う。コトバって、それくらい大きい。
2010年のアカデミー賞では、主演男優賞(ハビエル・バルデム)と外国語映画賞にノミネート(英語作品だったら、まずまちがいなく作品賞にノミネートされていたと思います)。そして同年のカンヌ国際映画祭では、イニャリトゥ監督がパルム・ドールにノミネートされ、主演のハビエル・バルデムが男優賞を受賞しています。
ウスバル(ハビエル・バルテム)は、バルセロナの貧困地区に住む中年男。移民や不法滞在者に違法な仕事を斡旋するブローカーの仕事をしながら、ときには霊媒師として、死者の最期の言葉を聞きとり、それを遺族に伝え、死者が安らかに旅立てるよう手助けをする仕事もしていた。かれにはある種の霊感能力があったのだ。
元妻のマランブラ(マリセル・アルバレス)は、双極性障害を患い、アルコールやドラッグに溺れ、さまざまな男たち(ウスバルの実兄をも含めて)と関係を持っていた。ウスバルはマランブラと別れ、男手ひとりでふたりの幼い子ども、アナ(アナー・ボウチャイブ)とマテオ(ギレルモ・エストレヤ)を育てていた。仕事が不規則なかれは、不法移民の中国人女性に子どもたちの世話を頼む一方、学校の送り迎えや夕食を共にするといったことを欠かさず、自分ができる精一杯の範囲で子どもたちと真摯に向きあってきた。
そんなウスバルが、ある日いきなり、癌で余命二ヶ月と告げられてしまう。
物語は、余命宣告を受けたウスバルの短い最後の日々を描いています。
以下、ネタバレ忌避の方はご注意ください。
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いかがわしい仕事で生計をたてているとはいえ、決して悪人ではないウスバル。しかし、自分の死後、子どもたちがなんとか暮らしていけるようにと、必死に奔走するウスバルに、輝かしい奇跡は起こりません。それどころか、ウスバルのやることなすことすべて、裏目裏目となっていく。死者の声が聞こえるウスバルに、しかし神は語りかけてこない。
教養のないかれには、「ビューティフル」という英語の綴りすらわからない。娘に尋ねられて、「発音通りさ。BIUTIFULだよ」と答える。そんな男に、できることはあまりにも少ない。
とても重い、息苦しい物語を、イニャリトゥ監督はじっくりと丁寧に、説明に堕さないテンポで描いていきます。だから最初は、個々のシーンがなかなか意味をみせてくれない。辛抱強く監督の語りのテンポにつきあうことにより(とはいえ、画面に常に力があるので、つきあうこと自体に辛抱はいりません。むしろ惹き込まれる)、薄皮をはがすがごとく少しずつ、物語の全貌が見えてくる。それはそうだ。だれの人生だって、そうそう手際良く説明できてしまうものじゃない。本気でそれを語ろうとしたら、こんな形を取るのがむしろ自然であるにちがいない。それが一番端的に現れているのが、冒頭とラストの全く同じシーン。同じシーンを見せられているというのに、観る方の変化によって、受け取る印象はこれほどにも変わる。
たとえば、ウスバルの暮らしぶりや人柄、子どもたちの現状を描くのに、監督はただ、一家三人の食事のシーンを用意する。家族が揃って食事をするシーンは、それだけで必要なことをすべて提示して見せる。
代わり映えのしない栄養の偏ったメニュー。食べ飽きてぐずるマテオ。ウスバルは、それじゃなにが食べたい? と子どもたちに訊ね、「ごっこ遊び」で巧みに子どもたちを引き込みながら、恙無く食事を始めさせる。でも、幼いマテオはスプーンの持ち方がヘンだったり、大量に口につめこんでしまったり、足でテーブルを蹴っちゃったりしてしまう。生活に疲れたウスバルは、苛立ってつい叱りつけてしまう。
幼い姉弟といっても、そろそろ分別のついてきたアナは、保身の術を心得ている。大人に媚びて「よいこ」でいることにより、叱られずにすませることができる。だけど、もっと幼いマテオには、その処世術はまだむずかしい。その行動は常に、大人を苛立たせる煩わしいものとなってしまう。どうしたらいいかわからないマテオの不安は、おねしょになって現れる。
マテオに苛立ちをぶつけてしまうウスバルだけど、マテオのおねしょは叱らない。マテオの心が不安定だからそういうことになるということを、かれはちゃんと理解している。幼い息子が不憫だと思う。自分のいたらなさに忸怩たる思いをする。
元妻のマランブラは双極性障害を患ってはいるが、本人の弁によれば、近頃はかなり回復に向かっていると言う。死期を告げられたウスバルは、この分なら、子どもたちを母親に託せるのではないかと期待する。
しかし、マランブラの精神状態は相変わらず不安定で、その苛立ちは、不器用なマテオに向けられる。ついには暴力を振るい、わずか7歳の子どもを置き去りにして、姉娘だけを連れて旅行に行ってしまう。こんな人間に、子どもたちを任せるわけには到底いかない。ウスバルは途方に暮れる。おれが死んでしまったら、この子たちはどうなるのだろう? 違法な仕事をしているかれには、社会福祉に頼ることなど思いもよらない。コツコツ溜めてきた金は若干あるけれど、それで当座はしのげても、情況自体を変えられるほどの額じゃない。
なにもかもうまくいかないのに、時間だけがどんどん磨り減っていき、体調は日増しに悪化していく。そんな中で、目をかけていたセネガルからの不法移民の男が、警察に捕まり、強制送還されてしまう。あとには幼子を抱えた若妻のイヘが残される。警察には賄賂を渡して目こぼしを頼んでいたはずなのに、やつらには容赦などしないと、収賄警官はにべもない。こうなったのもウスバルのせいだとイヘはウスバルをなじるが、ウスバルはイヘに自宅を提供する。子どもたちは元妻と暮らし、自分は死んでしまうのだから、この部屋はだれも使わなくなる……はずだったのに、前述の理由で子どもたちはこの部屋に舞い戻らざるを得なくなる。ただでさえ狭かったアパートに、泣きわめく赤ん坊と見知らぬ異国の女が加わる。子どもたちの心は更に不安定になる。
しかしそれでもウスバルは、子どもたちの世話をイヘに託せるのではないかと期待する。
ウスバルはイヘに大金を手渡す。家賃と生活費。一年かそこらはこれで暮らせる。これで子どもたちを頼む。その後のことはわからないけど。しかしイヘは、それはできないと断る。お金ができたらセネガルの愛する夫のもとに帰るつもりなのだからと。そんなイヘに、ウスバルは無理矢理金を押し付ける。受け取ってしまえば、残らざるを得なくなるのではないかと期待して。
しかし大金を手にしたイヘは、それを持ち逃げしようとする。しょうがない。人間だもの。その行為はむしろ、人間らしいとすら言える。
それでも、イヘが金を持って故国に帰れたのなら、まだしもだった。だけどイヘもまた命を落す。ウスバルのもとに帰ってきたのは、道に迷ってしまった霊魂だけ。ウスバルはその姿を、天井に張りつくイヘの姿として認識する。恐らく、持ちなれない大金を手にしてしまったがために、イヘは強盗かなにかにやられたのだ。ウスバルがあんな金を渡しさえしなければ、イヘも死ぬことはなかったかもしれないのに。よかれと思ってやったことが、またしても裏目に出た。
うまくいかない。なにもかも、うまくいかない。
ウスバルは、中国人の移民たちに、工事現場の仕事を斡旋していた。元締めのハイ(チェン・ツァイシェン)は、家族持ちでありながら、仕事仲間のリウェイ(ルオ・チン)と同性愛の関係にある。ウスバルは、かれらから中間マージンを巻きあげているくせに、労働者に対する待遇が悪いとハイを詰る。労働者の中には、子どもたちの面倒をみてくれている若い中国人の母親もいる。ウスバルはかれらのことを気にかけてはいるのだ。せめてかれらが寒い思いをしなくてすむようにと、かれらが押し込まれている地下室に、暖房器具を買い与える。
しかしこれがまた裏目に出る。安物の暖房器具は、一酸化炭素を撒き散らし、地下室にいた労働者たちは全員が命を落としてしまう。子守をしてくれた若い母親も含めて。死んでしまった中国人たちが、天井に張り付いてウスバルを見下ろしている。けちって安い器具を買ったりするからだ。欠陥品だということは最初からわかっていた。ウスバルは自分のせいだと打ちのめされる。
しかも、責任を追及されることを恐れたリウェイは、死体を集めて海に棄ててしまう。スペインの浜に次々と打ち上げられる大量の東洋人の死体。いっそシュールな景色。ウスバルはさらに打ちのめされる。みなによかれと思って買った暖房器だったのに。よかれと思ってやったことが、またしても裏目に出た。
うまくいかない。なにもかも、うまくいかない。
結局、なにひとつ始末をつけぬまま、ウスバルもまた、旅立たねばならなくなる。
そこで映画は冒頭のシーンに戻る。
若い日に政治亡命のためメキシコに旅立ってしまった父親。生き延びるための逃避行だったはずなのに、辿りついたメキシコで、父親は病を得て若い身空であっさり死んでしまう。その父が母に贈り、母からウスバルが受け継ぎ、一度は愛した(いや、いまもまだ愛している)マランブラに贈った指輪。マランブラから突き返されたそれを、ウスバルは今度は、娘のアナに譲る。ほんもののダイヤモンドを身につけることができるなんて、なんて誇らしいことなの。アナの細い指に指輪は大きすぎるけれど、アナは喜んで指輪を受け取る。ウスバルはアナに、少しだけ父のことを語る。
父と娘の、微笑ましい一幕だと、最初観客は思うが、実はそれは、死んでしまったのにまだ旅立つことのできない父の声を、優しい娘が聞いてやっているシーンだったと最後にわかる。アナもまた、父親の能力を受け継いでいたのだ。
そして、うらぶれた街の狭苦しい部屋を離れた父親の魂は、雪の積もる森の中を歩く。森の中でウスバルは若い男と出会う。
冒頭のシーンでは、観客にはこの男がだれかはわからない。なのでわたしは、かれのことをヒットマンだと思って眺めていた。なにかやばいことをしでかしたウスバルを追っているどこかの組織の人間だ。楽しげに話をし、優しそうに笑いながら、そのままの顔で、ウスバルを撃つのにちがいない、と。
とんでもない。男は若くして死んだウスバルの父親だった。ウスバルはその人生で、会ったこともない父親のことをずっとずっと求めてきた。いま、ようやくその願いがかなった。父親は優しい。ひょうきんでもある。海鳴りと風の音を口まねで聞かせてくれる。ウスバルは海の音が怖くて嫌いだったのに、喜んで繰り返しその口まねをせがむ。
迎えに来てくれた。長い長い年月を経て。 うまくいかない、なにもかも、うまくいかない、長い坂を下るような人生の果てに、会いたくてたまらなかったひとが、迎えに来てくれた。それまでの時間、かれがどこにいたのか、観客にはわからないし、ウスバルも知らない。問う必要もない。だれもが死の瞬間、こうして愛するひとに迎えてもらえるのだとしたら、そもそも死は悪いものじゃない。
残された者への思いは。
生き続ける者たちへの思いは。
更生施設に入ったマランブラ。最悪の罪にまみれ、異国でひとりぼっちになってしまったハイ。そしてだれよりも、まだ幼いアナとマテオ。だれの上にも、恐らく輝かしい奇跡なんか起こらない。ひとは生きて、そして、死ぬ。だけど、最期の瞬間に、だれかが迎えに来てくれるのだとしたら。これから何年も何年もさきに、いずれはアナとマテオが旅立つとき、ウスバルは迎えに行くだろう。迎えに行って、たわいのない世間話などするのだろう。愛していたと告げるだろう。赦してほしかったと告げるだろう。
父に対する思いと、父であることの思い。それこそが監督の思いでもある。
最後に、ほんとにどうでもいいことながら、やっぱりアレを試してみたいと思ったんですけど。マテオがウスバルに仕掛けたゲームです。
「Dで始まる国を思い浮かべてみて? 思い浮かべた? それじゃ、次はIで始まる動物。でも、イボイノシシはダメだよ(原語はスペイン語なので、ここはほんとはカバ=イポポタモですけど、日本語バージョンで)。……ね、いま、デンマークのイグアナって思ったでしょ?」
図星を当てられてウスバルはびっくりするのだけど、わたしもだれかにやってみたい(笑)。
【2014・7・13 追記】
コメント欄で、天井にはりついていたのはイヘではなくウスバルであるというご指摘をいただきました。記事掲載から随分時間が経ってしまっていて大変恐縮ですが、ここに訂正させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
by shirakian
| 2011-07-16 19:00
| 映画は行