2011年 07月 10日
戦火のナージャ
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★ネタバレ注意★
シドニー・ルメット監督の不朽の名作『12人の怒れる男』をリメイクして、さらなる名作を作り上げたロシアのニキータ・ミハルコフ監督の作品です。
この映画でミハルコフ監督は2010年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールにノミネートされています(受賞はならず)。
1943年5月。スターリン私邸に呼び出されたKGBのドミートリ大佐(オレグ・メンシコフ)は、30年代の大粛清の折、スターリンへの反逆罪で銃殺刑に処されたはずの革命の英雄、コトフ元大佐(ニキータ・ミハルコフ)が実は死んでいなかったことを知らされ、その捜索を命じられる。ドミートリはコトフを逮捕した張本人だったが、その一方で、コトフの妻と娘のナージャ(ナージャ・ミハルコフ、ミハルコフ監督の実娘である由)を匿っていた。複雑な思いでコトフの捜索にあたるドミートリ、そして父が生存していることを知るナージャ。
物語は、1941年、強制収容所に政治犯として収監されていたコトフが、ドイツ軍の爆撃に乗じて脱出し、その後、懲罰部隊に一兵卒として参加して要塞の防備に当たることになった顛末などを、1943年にそれを追跡調査するドミートリの視線から描く一方で、父の生存を知ったナージャが、従軍看護師となって戦場を転々とするさまを描いていきます。
父と娘の、交わりそうで交わらない物語。スクリーンに描き出されているドラマが、ドミートリが調査の結果知った過去の事例についての描写なのか、現在進行形の話なのか、若干掴みにくいです。なにしろ、間に2年の時間差しかないので、情況からは判断できない。それでも、次第に物語に引き込まれていくにつれ、そうした瑣末な混乱は問題にならなくなります。
そんなことよりびっくりしたのが、父親を捜す娘と、娘の面影を胸に生き延びる父親の物語なのですから、ラストシーンまでのどこかで、父娘が再会するか、あるいは永遠に再会を果たせないことを悟るか、どっちかだろうと思っていたのですが、その点に関しては宙ぶらりんで終わってしまったことです。
なぜかというに、この映画は、ニキータ・ミハルコフ監督が、1994年にカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリとアカデミー外国語映画賞を受賞した『太陽に灼かれて』の続編であり、3部作として構想されている物語の真ん中の話であるかららしいです。実はまだ未完の物語なのであった。
それはいいけど、続編であるということも知らずに観てしまいましたよ。『太陽に灼かれて』、未見なのに。なんだよ、それ。それもこれも、この邦題が悪いのではあるまいか。この邦題を観る限りでは、ほかの映画の続編だなんてことは、予知能力でもない限りわかりませんよ。オリジナルのタイトルは『太陽に灼かれて2』なのに。日本の配給会社の、これは一体どういう判断なんだろう。続編ということがバレたら、最初の映画を観てないひとが観に行かないから、黙っていような、っていうことだとしか思えませんが。詐欺? それって一種の詐欺?
というわけで、この映画を観ただけでは実はわからないのですが、この物語の前提として、コトフの妻のマルーシャはドミートリの元恋人であり、コトフの策略によって彼女を奪われたと思いこんでいたドミートリが、私怨を晴らすために大粛清に乗じてコトフを逮捕した、ということがあったらしいです。その辺りの人間関係がわからなくて観ながらモヤモヤしてしまうので、予めそれだけは知ってから観た方がいいんじゃないかと思いました。
とは言え、この映画単独では映画として成立していないのかというとそんなことは全くなく、上記の一点のみ記憶に留めておられれば、あとは別に問題なく鑑賞できるのではないかと思うのだけど……どうかな、なにしろ『太陽に灼かれて』が未見なので、確かなことは言えません……。
ことほどさように何も知らないモノシラズの状態で観たわけですが、それでもとにかく、ぐいぐい引き込まれてしまう映画でした。なんて力強い、堂々とした、骨太の映画でありましょう。
日頃のわたくしは、海外ドラマやCGを駆使したハリウッド大作を観る機会の方が多いですが、時間や予算の制約があり、なおかつ、スポンサーや視聴者の意向によってはストーリーの改変すらありえる中で精一杯知恵を尽くして作られているドラマというのは大変頑張ってるなぁと思いもし、大いに楽しんでいるわけですし、豪華絢爛たるCG技術の精華を楽しむのもまた一興ではありますが、こうしてしっかりと時間と予算をかけて、実際にロケして実際の役者が演じて実際に撮影した、いかにも映画らしい重厚な映像を観るということは、なんという喜びであろうか、と感嘆してしまいました。
父娘のドラマ、とか、スターリンという独裁者とそれに抑圧された人々、とか、この映画が三部作であることを知らずに観たので、どこに軸足を置いて観るべきか、最初のうちは若干ぶれてしまったのですが、観ているうちに、ああ、この映画が描きだそうとしているのは、戦争というその愚行そのものだ、ということがハラワタに染みとおってきます。
この映画は、戦争の「滑稽」を描いた映画です。
戦争の悲惨を描いた映画は多いけれど、戦争の「滑稽」を正面から描いた映画はそうはないんじゃないかな。かりにそれを描こうとすれば、それは表向きコメディになったりするのじゃないかな。戦争が滑稽なのは、それがあまりにも愚かなことだからです。だれかがルールを無視して自分だけ得をしたいがために、強引にほかのだれかに言うことをきかせようとして暴力を振るうのが戦争ですから、それはもう愚かであるに決まっているんです。
それはとても虚しいことです。そしてあまりに悲しいことです。だけど、だからなおのこと、滑稽でもあるのです。
ミハルコフ監督は、そのことを描くのに、迫真の戦場描写をコツコツと積み上げていくのですが、美化せず英雄を作らず感動を煽らないそれらのシーンは、どれもみな、残酷でおかしい。
たとえば、戦火を避けようとする人々が避難に使う橋を、軍事的な目的で爆破しようとする軍部。計画的な爆破なのですから、きちんとその旨を人々に伝え、統制し、十分に人払いをしてから爆破すればいいものを、ばかばかしい不手際から混乱が混乱を呼び、だれひとり橋から退避させることのできないうちに、ほんの小さな誤解から、爆破せよ、との指令を受けたと勘違いした工作員が爆破スイッチを押してしまう。かくて血みどろの修羅場となった橋の残骸には、自軍の兵士に殺された大勢の人々が倒れていました。
またたとえば、ナージャがピオネールの子どもたちを引率して赤十字の船に乗って避難する途中、ドイツ軍人のお遊びに端を発するばかげた行き違いから、本来攻撃されないはずの赤十字の船が攻撃され沈没してしまう顛末。生き地獄の中で、ナージャがかろうじて救命具代わりにつかまっていたのがなんと機雷で、無事陸に辿りついたナージャが、機雷に礼を言って海に返すと、皮肉なことにその機雷が、もう一層の船を破壊してしまう。その船とは、政府の公文書を運んでいることを口実に、遭難しているナージャに気づきながら救助しようとしなかった船であり、また、個人的なコネを利用して大量の私物を運ぼうとする高慢な金持ちが乗っている船でもありました。
あるいはまた、懲罰部隊に配属され、塹壕を掘っているコトフらの元に送り込まれてきた「援軍」。それは身長183㎝以上の若者を集めたエリート部隊でした。部隊の指揮官は得意満面、意気揚々で、塹壕を守る古参兵に上から目線で命令しようとすらします。しかし、見掛けはいいけど実戦経験のない若者たちは、思わぬ方向から進軍してきたドイツ戦車部隊に翻弄され、ものの15分で壊滅してしまったのです。猫がネズミをもてあそぶような皆殺しの場面でした。
などなどなどなど。描き出されるシーンの全てが、残酷でばかばかしくて滑稽。
終戦から60年以上の年月が経つというのに、これほどの情熱をこめてあの愚行を告発しようとする忍耐と執念となにか切迫した思いには、いっそ鬼気迫るものがあります。ミハルコフ監督自身は1945年の生まれですから、「あの」戦争は知らない世代のはずですが、単に概念としての反戦というには留まらない、深い思いが伺えるのです。
三部作、どのように完結するのでしょうね。でも、日本公開時のタイトルによっては、公開されても気づかないこともありそうな悪寒……。
シドニー・ルメット監督の不朽の名作『12人の怒れる男』をリメイクして、さらなる名作を作り上げたロシアのニキータ・ミハルコフ監督の作品です。
この映画でミハルコフ監督は2010年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールにノミネートされています(受賞はならず)。
1943年5月。スターリン私邸に呼び出されたKGBのドミートリ大佐(オレグ・メンシコフ)は、30年代の大粛清の折、スターリンへの反逆罪で銃殺刑に処されたはずの革命の英雄、コトフ元大佐(ニキータ・ミハルコフ)が実は死んでいなかったことを知らされ、その捜索を命じられる。ドミートリはコトフを逮捕した張本人だったが、その一方で、コトフの妻と娘のナージャ(ナージャ・ミハルコフ、ミハルコフ監督の実娘である由)を匿っていた。複雑な思いでコトフの捜索にあたるドミートリ、そして父が生存していることを知るナージャ。
物語は、1941年、強制収容所に政治犯として収監されていたコトフが、ドイツ軍の爆撃に乗じて脱出し、その後、懲罰部隊に一兵卒として参加して要塞の防備に当たることになった顛末などを、1943年にそれを追跡調査するドミートリの視線から描く一方で、父の生存を知ったナージャが、従軍看護師となって戦場を転々とするさまを描いていきます。
父と娘の、交わりそうで交わらない物語。スクリーンに描き出されているドラマが、ドミートリが調査の結果知った過去の事例についての描写なのか、現在進行形の話なのか、若干掴みにくいです。なにしろ、間に2年の時間差しかないので、情況からは判断できない。それでも、次第に物語に引き込まれていくにつれ、そうした瑣末な混乱は問題にならなくなります。
そんなことよりびっくりしたのが、父親を捜す娘と、娘の面影を胸に生き延びる父親の物語なのですから、ラストシーンまでのどこかで、父娘が再会するか、あるいは永遠に再会を果たせないことを悟るか、どっちかだろうと思っていたのですが、その点に関しては宙ぶらりんで終わってしまったことです。
なぜかというに、この映画は、ニキータ・ミハルコフ監督が、1994年にカンヌ国際映画祭審査員特別グランプリとアカデミー外国語映画賞を受賞した『太陽に灼かれて』の続編であり、3部作として構想されている物語の真ん中の話であるかららしいです。実はまだ未完の物語なのであった。
それはいいけど、続編であるということも知らずに観てしまいましたよ。『太陽に灼かれて』、未見なのに。なんだよ、それ。それもこれも、この邦題が悪いのではあるまいか。この邦題を観る限りでは、ほかの映画の続編だなんてことは、予知能力でもない限りわかりませんよ。オリジナルのタイトルは『太陽に灼かれて2』なのに。日本の配給会社の、これは一体どういう判断なんだろう。続編ということがバレたら、最初の映画を観てないひとが観に行かないから、黙っていような、っていうことだとしか思えませんが。詐欺? それって一種の詐欺?
というわけで、この映画を観ただけでは実はわからないのですが、この物語の前提として、コトフの妻のマルーシャはドミートリの元恋人であり、コトフの策略によって彼女を奪われたと思いこんでいたドミートリが、私怨を晴らすために大粛清に乗じてコトフを逮捕した、ということがあったらしいです。その辺りの人間関係がわからなくて観ながらモヤモヤしてしまうので、予めそれだけは知ってから観た方がいいんじゃないかと思いました。
とは言え、この映画単独では映画として成立していないのかというとそんなことは全くなく、上記の一点のみ記憶に留めておられれば、あとは別に問題なく鑑賞できるのではないかと思うのだけど……どうかな、なにしろ『太陽に灼かれて』が未見なので、確かなことは言えません……。
ことほどさように何も知らないモノシラズの状態で観たわけですが、それでもとにかく、ぐいぐい引き込まれてしまう映画でした。なんて力強い、堂々とした、骨太の映画でありましょう。
日頃のわたくしは、海外ドラマやCGを駆使したハリウッド大作を観る機会の方が多いですが、時間や予算の制約があり、なおかつ、スポンサーや視聴者の意向によってはストーリーの改変すらありえる中で精一杯知恵を尽くして作られているドラマというのは大変頑張ってるなぁと思いもし、大いに楽しんでいるわけですし、豪華絢爛たるCG技術の精華を楽しむのもまた一興ではありますが、こうしてしっかりと時間と予算をかけて、実際にロケして実際の役者が演じて実際に撮影した、いかにも映画らしい重厚な映像を観るということは、なんという喜びであろうか、と感嘆してしまいました。
父娘のドラマ、とか、スターリンという独裁者とそれに抑圧された人々、とか、この映画が三部作であることを知らずに観たので、どこに軸足を置いて観るべきか、最初のうちは若干ぶれてしまったのですが、観ているうちに、ああ、この映画が描きだそうとしているのは、戦争というその愚行そのものだ、ということがハラワタに染みとおってきます。
この映画は、戦争の「滑稽」を描いた映画です。
戦争の悲惨を描いた映画は多いけれど、戦争の「滑稽」を正面から描いた映画はそうはないんじゃないかな。かりにそれを描こうとすれば、それは表向きコメディになったりするのじゃないかな。戦争が滑稽なのは、それがあまりにも愚かなことだからです。だれかがルールを無視して自分だけ得をしたいがために、強引にほかのだれかに言うことをきかせようとして暴力を振るうのが戦争ですから、それはもう愚かであるに決まっているんです。
それはとても虚しいことです。そしてあまりに悲しいことです。だけど、だからなおのこと、滑稽でもあるのです。
ミハルコフ監督は、そのことを描くのに、迫真の戦場描写をコツコツと積み上げていくのですが、美化せず英雄を作らず感動を煽らないそれらのシーンは、どれもみな、残酷でおかしい。
たとえば、戦火を避けようとする人々が避難に使う橋を、軍事的な目的で爆破しようとする軍部。計画的な爆破なのですから、きちんとその旨を人々に伝え、統制し、十分に人払いをしてから爆破すればいいものを、ばかばかしい不手際から混乱が混乱を呼び、だれひとり橋から退避させることのできないうちに、ほんの小さな誤解から、爆破せよ、との指令を受けたと勘違いした工作員が爆破スイッチを押してしまう。かくて血みどろの修羅場となった橋の残骸には、自軍の兵士に殺された大勢の人々が倒れていました。
またたとえば、ナージャがピオネールの子どもたちを引率して赤十字の船に乗って避難する途中、ドイツ軍人のお遊びに端を発するばかげた行き違いから、本来攻撃されないはずの赤十字の船が攻撃され沈没してしまう顛末。生き地獄の中で、ナージャがかろうじて救命具代わりにつかまっていたのがなんと機雷で、無事陸に辿りついたナージャが、機雷に礼を言って海に返すと、皮肉なことにその機雷が、もう一層の船を破壊してしまう。その船とは、政府の公文書を運んでいることを口実に、遭難しているナージャに気づきながら救助しようとしなかった船であり、また、個人的なコネを利用して大量の私物を運ぼうとする高慢な金持ちが乗っている船でもありました。
あるいはまた、懲罰部隊に配属され、塹壕を掘っているコトフらの元に送り込まれてきた「援軍」。それは身長183㎝以上の若者を集めたエリート部隊でした。部隊の指揮官は得意満面、意気揚々で、塹壕を守る古参兵に上から目線で命令しようとすらします。しかし、見掛けはいいけど実戦経験のない若者たちは、思わぬ方向から進軍してきたドイツ戦車部隊に翻弄され、ものの15分で壊滅してしまったのです。猫がネズミをもてあそぶような皆殺しの場面でした。
などなどなどなど。描き出されるシーンの全てが、残酷でばかばかしくて滑稽。
終戦から60年以上の年月が経つというのに、これほどの情熱をこめてあの愚行を告発しようとする忍耐と執念となにか切迫した思いには、いっそ鬼気迫るものがあります。ミハルコフ監督自身は1945年の生まれですから、「あの」戦争は知らない世代のはずですが、単に概念としての反戦というには留まらない、深い思いが伺えるのです。
三部作、どのように完結するのでしょうね。でも、日本公開時のタイトルによっては、公開されても気づかないこともありそうな悪寒……。
by shirakian
| 2011-07-10 20:05
| 映画さ行