2011年 05月 20日
ソウル・キッチン |
★ネタバレ注意★

ファティ・アキン監督のドイツ映画です。
2009年のヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した由。
可笑しうてやがて愛しき人生喜劇、という白木庵の一番好きなジャンル。
タイトルになっている大衆食堂“ソウル・キッチン”のオーナー・シェフである主役のジノスを、脚本も兼ねたアダム・ボウスドウコスが、その兄イリアスを、セバスチャン・コッホと並んで、白木庵が観るドイツ映画には必ず出ている(笑)モーリッツ・ブライブトロイが演じています。
ハンブルクの大衆食堂“ソウル・キッチン”は、冷凍食品を適当にフライにして供するような、いい加減な店。お客は近所の常連客ばかり。当然経営はギリギリの厳しさ。それでもなんとか平和にやってきたのに、このところギリシャ系のオーナー・シェフ、ジノス・カザンザキス(アダム・ボウスドウコス)は不運続き。
恋人のナディーン(フェリーネ・ロッガン)は仕事で上海に行っちゃうし、税務署からは滞納分の督促を迫られるし、本人はギックリ腰。その上、仮出所中の不肖の兄イリアス(モーリッツ・ブライブトロイ)の身元を保証するため、従業員として雇い入れるはめに。
ところが、禍福は糾える縄のごとし、旅立つナディーンを見送るために、家族総出で最後の晩餐を行ったレストランで、凄腕のシェフが偏屈さゆえに解雇される場面にいきあわせ、代わりにジノスが雇うことになり、税務署が現金の代わりにステレオを持ち出してしまったため、従業員の青年がBGMが必要だろうとバンドを率いて生演奏をすることになり、厄介者と思っていた兄が、盗んだDJセットを持ち込んでディスコを始めることになった、のですが、するとどうでしょう、シェフとライブとご機嫌なDJ、三つの相乗効果で店はなんと大繁盛!
ところが、禍福は糾える縄のごとし、“ソウル・キッチン”の立地に目をつけた不動産業者が、店を売る気のないジノスから店を買い上げようと、あの手この手で妨害工作をしかけてきたのだった。
というオーソドックスな筋書き。予告編を観たときは、寂れていた店が繁盛しはじめた瞬間のあまりに幸福そうな様子に、これはまちがいなく好きな映画にちがいない、と思ったのですが、うん、確かに、愛らしい映画であるにはちがいないですが、なんかどうも、100%コレダ! というほどにははまれなかったです。ちょっと残念(汗)。
理由は、たぶん、以下のふたつ。
(1)店に対するジノスの愛情がそれほど感じれなかった。
(2)レストランが舞台の映画なのに、「食」をさほど魅力的に描き出せなかった。
(1)についてですけど、これは三つのパートに分けられるかな。
(a)店そのものに対するジノスのこだわりが感じられない。
(b)ジノスが店を簡単に手放そうとした。
(c)店を取り戻すために、何ら自助努力をしなかった。
まず(1)-(a)について。
確かにジノスは、地上げ屋の不動産業者に店を売ることは拒んだのです。なぜなら業者がほしかったのはあくまで土地であって、店は取り壊すつもりだったから。でも、ジノスにとってこの店は、古い倉庫を買い取って、自力でメンテナンス&リフォームしてレストランの体裁を整えた我が子のような存在。ペンキ塗りも配管もトイレの整備だって自分でやったし、家具は粗大ゴミ置き場を駈けずりまわって集めてきた一点物ばかり。安易に取り壊されてはたまらない、わけです。
とはいっても、ビジュアル上、この店がジノスの「特別」であることが、あんまり描けていたとは思えない。細部に宿るジノスの個性が全く感じられないです。ジノスが旅行したさきで買い集めたへんてこなオブジェが飾ってあるとか、インテリアの趣味が一種独特であるとか、船でもバイクでも映画でも何でもいいけど、ジノスの趣味満載の小道具が随所に見られるとか、そういうジノスなりの「こだわり」が感じられない。かろうじて、改装前の建物の写真が一枚ある程度。
それで言えば、ジノスは単にレストラン・オーナーなだけでなく、オーナー・シェフであるはずなのに、かれなりの仕事に対するこだわりもまた、一切全く感じられないです。別に料理が好きでも得意でもなさそう。単に冷凍食品を温めなおして供するだけ。一体なんのためにジノスはレストランなんか持ちたかったんだろう?
そして(1)-(b)ですが、「おれがこの手で作り上げたこだわりの店」というジノスの自己申告をそのまま受け止めるとすると、仕事で海外に行った恋人を追いかけるために、その店を安易に人手に渡そうとするのが、どうもしっくりこないです。
仕事は男のソウルだろうに。オーナー・シェフにとって自前のレストランは自分の城だろうに。
結果的には兄のイリアスに権利譲渡するわけですが、これはまあ、兄に対する愛情表現、というのがひとつと、もうひとつ、人間としてやっぱりダメダメな兄が、ばかげたポーカーゲームのカタに、店を人手に渡してしまう(もちろんこれは、不動産業者のしかけた罠)、という陳腐にもほどがある展開に持ち込むための「手続き」です。ストーリーを進めるための手順でキャラクターを動かすと、物語は途端に輝きを失います。
しかもジノスは、イリアスに譲渡することを決める前にも、バイトのウェイトレスに店を引き取らないかと持ちかけたり、広告を出して引き取り手を捜したり。要するに押し付けられるならだれでもいいという印象。「おれがこの手で作り上げたこだわりの店」のはずなのにね。
そして(1)-(c)ですが。
結局、ジノス本人がしたことって、競売にかけられたレストランを買い戻すために、自分を振った元恋人(たまたま祖母の遺産を相続して懐具合が暖かいことを知っていた)に借金を申し込むことだけだったみたい。別に、知力を尽くして店を取り戻そうと大作戦を展開したわけじゃない。結局ジノスって、徹頭徹尾主体制のないキャラクターみたい。
そして(2)ですけれども。
一番、「?」と思うのが、店が繁盛しはじめた理由がどうして「シェフとライブとご機嫌なDJ、三つの相乗効果」でなきゃならなかったのか、ということでしょう。
だってレストランの映画なんだよ? どうして凄腕シェフの料理の魅力で人々が群がってきた、という描写にできなかったんだろう? 何より残念で勿体無いなと思うのが、凄腕のシェフ、シェイン・ヴァイスを演じたシェフビロル・ユーネルが、ものっそよかったことです。キャラクターが立ってて、カッコイイ。何をしでかしてくれるのか、わくわくして見守る気持ちになる。正直、魅力に乏しい主人公よりも、このひとをこそ見ていたい感じ。
それなのに、客が集まるのは、あくまでバンドやディスコが目当てなので、せっかくのシェフの料理も、落ち着いた雰囲気で味わって食べてもらえるわけじゃない。あまつさえ、食事に媚薬を仕込んでお客がエロエロ大暴走、みたいなシーンまで描かれる始末。それじゃ、料理に対するリスペクトとは真逆の方向でしょう。
もちろんこの展開は、いあわせた不動産業者が税務署の女性職員を辱めて、その女性にリベンジを誓わせることにより、不動産業者が因果応報の裁きを受ける、という展開を作るための「手続き」なんですけれど、もう一度言うけれど、ストーリーを進めるための手順でキャラクターを動かすと、物語は途端に輝きを失うのです。不動産業者にリベンジするんだったら、ジノスが自らの手でなにか方法を考えるべきだったのに、という点もあわせて不満。ここでもやはり、ジノスは座して待つだけの主体制のないキャラクターなんだよなぁ。
で、もひとつ、カリスマ・シェフ、シェインが作った料理に対するリスペクトや、それがいかにおいしいか、というのをじっくりしっかり描く姿勢がないことも不満ですが、それ以前に、ジノスがギリシャ系である、っていうのが全く生かされていないことも不満かも。“カザンザキス”なんて、ドイツ人にはうまく発音できないくらいエキゾチックな名前を持ってるジノスなのに、なんでギリシャ料理の店じゃないんだろう? せっかくギリシャ系を主人公にして、そのことを生かさない設定も「?」なのでありました。これって、日本で店を持った中国系のひとが、日本の定食を供しているようなものだよね。ダメだとは言わないけど、ザンネンな気持ちはするでしょ?
ついでに言えば、ジノスの新しい恋人って、ギックリ腰になったジノスに、元恋人が紹介してくれたマッサージ師なんですよね。美人で優しい彼女にジノスが惚れるのはいいとしても、終始腰の痛みを訴えるだけで、特に魅力的だったわけでもないジノスにマッサージ師の方もなびく、という展開はあまり安易な感じ。これもまたなりゆき上の出会い、というか、手近で済ませましたね、というか、ゲットするための努力、なんにもしてないよね、というか。まあ、いいんですけど、出逢いはいつでも偶然の風の中だから。
最後に、ジノスの店の一角を無料で(笑)賃貸して、年がら年中船を作っているギリシャ人の爺さんがいるのですが、名前がソクラテスさんといいます(笑)。ギリシャって、タクシーの運転手さんが普通にアリストテレスさんだったりプラトーさんだったりするんだよね。この爺さん、日ごろは家賃なんか滞納しっぱなし、という設定なので、ここ一番、というときにもっと大活躍してほしかったんだけど、最後にジノスが投資家のウド・キアに競売で競り買ってレストランを取り戻す、というときに、ほんの偶然のことながら、助けになってくれます。
思えば、シェインの料理を味わって食べてたのは、この爺さんだけだったなぁ。
「ソウル・キッチン」の映画詳細、映画館情報はこちら >>

ファティ・アキン監督のドイツ映画です。
2009年のヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した由。
可笑しうてやがて愛しき人生喜劇、という白木庵の一番好きなジャンル。
タイトルになっている大衆食堂“ソウル・キッチン”のオーナー・シェフである主役のジノスを、脚本も兼ねたアダム・ボウスドウコスが、その兄イリアスを、セバスチャン・コッホと並んで、白木庵が観るドイツ映画には必ず出ている(笑)モーリッツ・ブライブトロイが演じています。
ハンブルクの大衆食堂“ソウル・キッチン”は、冷凍食品を適当にフライにして供するような、いい加減な店。お客は近所の常連客ばかり。当然経営はギリギリの厳しさ。それでもなんとか平和にやってきたのに、このところギリシャ系のオーナー・シェフ、ジノス・カザンザキス(アダム・ボウスドウコス)は不運続き。
恋人のナディーン(フェリーネ・ロッガン)は仕事で上海に行っちゃうし、税務署からは滞納分の督促を迫られるし、本人はギックリ腰。その上、仮出所中の不肖の兄イリアス(モーリッツ・ブライブトロイ)の身元を保証するため、従業員として雇い入れるはめに。
ところが、禍福は糾える縄のごとし、旅立つナディーンを見送るために、家族総出で最後の晩餐を行ったレストランで、凄腕のシェフが偏屈さゆえに解雇される場面にいきあわせ、代わりにジノスが雇うことになり、税務署が現金の代わりにステレオを持ち出してしまったため、従業員の青年がBGMが必要だろうとバンドを率いて生演奏をすることになり、厄介者と思っていた兄が、盗んだDJセットを持ち込んでディスコを始めることになった、のですが、するとどうでしょう、シェフとライブとご機嫌なDJ、三つの相乗効果で店はなんと大繁盛!
ところが、禍福は糾える縄のごとし、“ソウル・キッチン”の立地に目をつけた不動産業者が、店を売る気のないジノスから店を買い上げようと、あの手この手で妨害工作をしかけてきたのだった。
というオーソドックスな筋書き。予告編を観たときは、寂れていた店が繁盛しはじめた瞬間のあまりに幸福そうな様子に、これはまちがいなく好きな映画にちがいない、と思ったのですが、うん、確かに、愛らしい映画であるにはちがいないですが、なんかどうも、100%コレダ! というほどにははまれなかったです。ちょっと残念(汗)。
理由は、たぶん、以下のふたつ。
(1)店に対するジノスの愛情がそれほど感じれなかった。
(2)レストランが舞台の映画なのに、「食」をさほど魅力的に描き出せなかった。
(1)についてですけど、これは三つのパートに分けられるかな。
(a)店そのものに対するジノスのこだわりが感じられない。
(b)ジノスが店を簡単に手放そうとした。
(c)店を取り戻すために、何ら自助努力をしなかった。
まず(1)-(a)について。
確かにジノスは、地上げ屋の不動産業者に店を売ることは拒んだのです。なぜなら業者がほしかったのはあくまで土地であって、店は取り壊すつもりだったから。でも、ジノスにとってこの店は、古い倉庫を買い取って、自力でメンテナンス&リフォームしてレストランの体裁を整えた我が子のような存在。ペンキ塗りも配管もトイレの整備だって自分でやったし、家具は粗大ゴミ置き場を駈けずりまわって集めてきた一点物ばかり。安易に取り壊されてはたまらない、わけです。
とはいっても、ビジュアル上、この店がジノスの「特別」であることが、あんまり描けていたとは思えない。細部に宿るジノスの個性が全く感じられないです。ジノスが旅行したさきで買い集めたへんてこなオブジェが飾ってあるとか、インテリアの趣味が一種独特であるとか、船でもバイクでも映画でも何でもいいけど、ジノスの趣味満載の小道具が随所に見られるとか、そういうジノスなりの「こだわり」が感じられない。かろうじて、改装前の建物の写真が一枚ある程度。
それで言えば、ジノスは単にレストラン・オーナーなだけでなく、オーナー・シェフであるはずなのに、かれなりの仕事に対するこだわりもまた、一切全く感じられないです。別に料理が好きでも得意でもなさそう。単に冷凍食品を温めなおして供するだけ。一体なんのためにジノスはレストランなんか持ちたかったんだろう?
そして(1)-(b)ですが、「おれがこの手で作り上げたこだわりの店」というジノスの自己申告をそのまま受け止めるとすると、仕事で海外に行った恋人を追いかけるために、その店を安易に人手に渡そうとするのが、どうもしっくりこないです。
仕事は男のソウルだろうに。オーナー・シェフにとって自前のレストランは自分の城だろうに。
結果的には兄のイリアスに権利譲渡するわけですが、これはまあ、兄に対する愛情表現、というのがひとつと、もうひとつ、人間としてやっぱりダメダメな兄が、ばかげたポーカーゲームのカタに、店を人手に渡してしまう(もちろんこれは、不動産業者のしかけた罠)、という陳腐にもほどがある展開に持ち込むための「手続き」です。ストーリーを進めるための手順でキャラクターを動かすと、物語は途端に輝きを失います。
しかもジノスは、イリアスに譲渡することを決める前にも、バイトのウェイトレスに店を引き取らないかと持ちかけたり、広告を出して引き取り手を捜したり。要するに押し付けられるならだれでもいいという印象。「おれがこの手で作り上げたこだわりの店」のはずなのにね。
そして(1)-(c)ですが。
結局、ジノス本人がしたことって、競売にかけられたレストランを買い戻すために、自分を振った元恋人(たまたま祖母の遺産を相続して懐具合が暖かいことを知っていた)に借金を申し込むことだけだったみたい。別に、知力を尽くして店を取り戻そうと大作戦を展開したわけじゃない。結局ジノスって、徹頭徹尾主体制のないキャラクターみたい。
そして(2)ですけれども。
一番、「?」と思うのが、店が繁盛しはじめた理由がどうして「シェフとライブとご機嫌なDJ、三つの相乗効果」でなきゃならなかったのか、ということでしょう。
だってレストランの映画なんだよ? どうして凄腕シェフの料理の魅力で人々が群がってきた、という描写にできなかったんだろう? 何より残念で勿体無いなと思うのが、凄腕のシェフ、シェイン・ヴァイスを演じたシェフビロル・ユーネルが、ものっそよかったことです。キャラクターが立ってて、カッコイイ。何をしでかしてくれるのか、わくわくして見守る気持ちになる。正直、魅力に乏しい主人公よりも、このひとをこそ見ていたい感じ。
それなのに、客が集まるのは、あくまでバンドやディスコが目当てなので、せっかくのシェフの料理も、落ち着いた雰囲気で味わって食べてもらえるわけじゃない。あまつさえ、食事に媚薬を仕込んでお客がエロエロ大暴走、みたいなシーンまで描かれる始末。それじゃ、料理に対するリスペクトとは真逆の方向でしょう。
もちろんこの展開は、いあわせた不動産業者が税務署の女性職員を辱めて、その女性にリベンジを誓わせることにより、不動産業者が因果応報の裁きを受ける、という展開を作るための「手続き」なんですけれど、もう一度言うけれど、ストーリーを進めるための手順でキャラクターを動かすと、物語は途端に輝きを失うのです。不動産業者にリベンジするんだったら、ジノスが自らの手でなにか方法を考えるべきだったのに、という点もあわせて不満。ここでもやはり、ジノスは座して待つだけの主体制のないキャラクターなんだよなぁ。
で、もひとつ、カリスマ・シェフ、シェインが作った料理に対するリスペクトや、それがいかにおいしいか、というのをじっくりしっかり描く姿勢がないことも不満ですが、それ以前に、ジノスがギリシャ系である、っていうのが全く生かされていないことも不満かも。“カザンザキス”なんて、ドイツ人にはうまく発音できないくらいエキゾチックな名前を持ってるジノスなのに、なんでギリシャ料理の店じゃないんだろう? せっかくギリシャ系を主人公にして、そのことを生かさない設定も「?」なのでありました。これって、日本で店を持った中国系のひとが、日本の定食を供しているようなものだよね。ダメだとは言わないけど、ザンネンな気持ちはするでしょ?
ついでに言えば、ジノスの新しい恋人って、ギックリ腰になったジノスに、元恋人が紹介してくれたマッサージ師なんですよね。美人で優しい彼女にジノスが惚れるのはいいとしても、終始腰の痛みを訴えるだけで、特に魅力的だったわけでもないジノスにマッサージ師の方もなびく、という展開はあまり安易な感じ。これもまたなりゆき上の出会い、というか、手近で済ませましたね、というか、ゲットするための努力、なんにもしてないよね、というか。まあ、いいんですけど、出逢いはいつでも偶然の風の中だから。
最後に、ジノスの店の一角を無料で(笑)賃貸して、年がら年中船を作っているギリシャ人の爺さんがいるのですが、名前がソクラテスさんといいます(笑)。ギリシャって、タクシーの運転手さんが普通にアリストテレスさんだったりプラトーさんだったりするんだよね。この爺さん、日ごろは家賃なんか滞納しっぱなし、という設定なので、ここ一番、というときにもっと大活躍してほしかったんだけど、最後にジノスが投資家のウド・キアに競売で競り買ってレストランを取り戻す、というときに、ほんの偶然のことながら、助けになってくれます。
思えば、シェインの料理を味わって食べてたのは、この爺さんだけだったなぁ。
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。

