2011年 05月 02日
ブルーバレンタイン
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★ネタバレ注意★
ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズが主演と製作も兼ねた作品。
一組のカップルの出会いから破局までを、ヒリヒリとリアルな描写で描くビターなラブストーリーです。
主演のふたりは、役作りのためにそれぞれ6㎏と7㎏増量したそうで、なるほど、過去と現在の時間軸がシャッフルする描写ながら、ふたりの外見の明瞭な違いから、混乱することなく観ることができます(ゴズリングに至っては、髪の毛まで薄くなってるし(>_<)!)。役者さんも大変です。
ディーン(ゴズリング)は高校を中退し、様々な半端仕事を転々とした後、引っ越し屋で働いていた。仕事先の老人ホームで、祖母の面会に来ていたシンディ(ウィリアムズ)と出会い、一目で恋に落ちる。シンディは上流家庭ではないけれど、中産階級のお嬢さんで、医学部を目指して勉強中。ブルーカラーのディーンでは交際相手にふさわしくないと父親から反対されるが、ある事情のもとに、結局ふたりは結ばれる。
そして結婚後7年の歳月が流れ、確かにあったはずの愛情は、少なくともシンディの中からは消え去っていた。
学業を途中でドロップアウトせざるを得なかったため、医師にはなれなかったが、看護師の資格を取り、頑張って働いているシンディに対し、依然としてその日暮らしをやめようとしないディーン。しかもディーンには飲酒癖があった。上昇志向の強いシンディは怠惰で言い訳ばかりがうまいディーンに絶望し、シンディに見限られる恐怖にディーンは荒れていく。なんとかシンディの気持ちを繋ぎとめようと、ディーンは妻をラブホテルに誘うが、そこでも気持ちはすれ違うばかり。ついに決定的な感情の爆発を引き起こしてしまう……。
男女の仲が壊れるのに、どちらかだけが一方的に悪いということは、たぶんそんなにないかもしれない(それは、ときには、あるかもしれない)。ディーンとシンディも、どっちがすごく悪人で、ということじゃないです。どっちもどっちだし、どっちもそんなに悪くない。
ディーンは若い頃は、「自分は老人になんかならない」とか、色々、根拠のない無敵感を持っていられたのだけど、年をとるにつれ、「自分には全くなにもない」という現実に直面しなければならなくなりました。まともな仕事もないし、財産もないし、どんなことであれ成し遂げたと言えるようなものもないし、精神的に到達した境地もない。だから、おれには家族がある、おれは家族を愛している、おれは家族を守るために闘っている、と「家族」を免罪符にして、そこにしがみつくしかない。シンディには、それがとても重くてしょうがない。
実際この映画は、ディーンの「いやげさ」を描くのが、非常に巧いです。確かにこんな男なら、シンディならずとも鬱陶しくてならないでしょう。追い詰められたシンディが、息をするのも苦しいと言わんばかりに、わたしはもう耐えられない、と訴えるのも、そりゃそうだよね、と同情を誘う。
●かわいがっていた飼い犬が失踪。必死に捜した末、車に轢かれて死んでいるのをシンディが発見する。衝撃を受け、落胆する妻に向かって夫、「だからケージにはちゃんと鍵をかけとけって言ったのに!」……いきなり悪いのは妻ですかい? 悲しんでるのはアンタだけじゃないでしょ、妻だって、すごく辛いのに、わかんないの?
●遠距離通勤で忙しい仕事をこなす妻なれど、家事を分担する気は全くない想像力の欠如したのらくら夫。娘と遊ぶことだけが巧みで、出勤前に慌しく娘に食事をさせようと焦る妻の神経を逆撫でするように、テーブルの上にじかにレーズンを並べて獣のように舐め取る遊びをさせる。食事は進まないし、テーブルはべとべとになるし、その掃除誰がするの? 遅刻したらどうするの?
●おれたちは倦怠期だ。たまにはラブホでいちゃついたら気分も変わるかも、と短絡発想の夫、妻に相談もせずにいきなりラブホに予約の電話をいれる。「なあ、掃除なんか後にしろよ、どっちの部屋がいいか選んでくれよ?」……この部屋散らかしたのは誰やねん、っていうか、そんな安っぽいラブホに行きたいなんて一言も言ってないし。部屋を選べってなんなのさ?
●結局折れてラブホに行く途中、お酒を調達にいったスーパーで昔のボーイフレンドに会ったと報告する妻。自分に自信のない夫は、ただ単に「偶然出会った」という話を聞かされただけで、自分がその男と比べられたかのような苛立ちと劣等感を感じ、言いがかりをつけて妻につっかかる。
ほんとに全くこんな男はいやだ。……だけど、盾には両面がある。
この映画は、7年前の幸せだった出会いの時間と、破局に直面した現在の時間をシャッフルして描いていくのだけれど、そのアプローチがあまりにも適確であるだけに、この上もなく残酷だったりします。
ディーンの「現在」を見せられて辟易する観客は、同時に、かれの行為の裏にある、やむを得ぬ前提をも知ることになる。
ディーンはフランキーにとっては文句のつけようのない父親で、幼い娘はダディにとってもなついている。普通だったら、フランキーの存在は、ディーンにとって大いなる自信の基盤になり得るものだったはずです。ディーンにとってのフランキーは、シンディと自分を繋ぎとめることのできるたったひとつの「合理的理由」であり、自分だっていっぱしの生活を送っているんだと自分を納得させるためのたったひとつの根拠でもあった、はず。
ところが、フランキーは実はディーンの実の娘ではなく、ディーンと出会う前にシンディが遊びでつきあっていたボーイフレンドに孕まされた子どもであり、一時は堕胎を決意するも、結局胎児を殺せなかったシンディを、ディーンは腹の子どもごと引き受けて愛したのだということがわかってしまう。
なるほど、見かけの現実の背後には、見えにくい現実があった。ディーンにとってのフランキーは、いつ取り上げられてもおかしくない、もろい紐帯しか持たない存在でしかない。だからディーンはいつも不安で、ピリピリしていなけりゃならなかったわけだ。ディーンにとっては、あまりに過酷な話。
更に言えば、上述したシンディの元カレというのが、そもそもの元凶であったこともわかるのであり、しかもディーンは、その元カレに言いがかりをつけられ酷い目にあわされた過去すらあった。だったらディーンの過剰に思えた反応にも、それなりのわけがあったのだと言わざるを得ないのです。
シンディは、一方的に被害者だったわけじゃ、ない。
彼女は、向上心が強いと言えば美点だけれど、逆から見れば、現状に満足するということができない女性だとも言える。
13歳で初体験、それからフランキーを妊娠するまでの10年足らずの間で、20人とも25人とも知れない相手と性交渉を持ったと告白するシンディ。かわいくて清楚で男心をそそるタイプだけれど、近寄り難いほどの美人というわけでもないから、アプローチしてくる男は後を絶たず、男には不自由しなかった。もてることは自尊心をくすぐられたし、セックスは気持ちがいい。だから気がつけば次から次へと相手を変えていた。相手が気にいらないと思えばすぐに次の男が現れるのだから、結婚という制度に縛られるまでは、相手の嫌なところを我慢する必要なんかなかった。
そして結婚し、なんとか7年耐えてはみたけど、やっぱりそこに留まることはできなかった。……ディーンと別れても、恐らくすぐ次の男は現れる。
でも、わたしたちは、時間軸の向こうにある、出会いのころのふたりの姿を知っている。ディーンがどれだけ純粋な気持ちでシンディを愛したかを知っている。無謀にも彼女を守ろうとしたことを知っている。彼女の元カレに殴られたときも、シンディをなじることなど一度もなかったことを知っている。そうした過去の時間を、苦い現実と「同時に」見せられる。そして思う、なぜそれを忘れてしまえるのか、と。なぜなら観客にとっては、それらは同軸に位置する等価の情報だから。……むろん当事者にとってはそうはいかない。
観客であるわれわれと同じように、当事者であるディーンとシンディもまた、お互いがお互いの関心の全てであり、全てが最高に輝いていて美しく見えたあのときと、剥き出しのいまの現実を、等価の時間として感じることができたら。いまこのときもあのときと同じ連続した時間なのだと、あの時間の延長線上に、いまのこときもあるのだと認識することができたら、そしたら何かが変わっていたかもしれないのだけれど。
ディーンとシンディ、それぞれ異なるやり方で親に傷つけられて成長したふたり。
ディーンもシンディも、フランキーにとってはほんとに申し分のない親なんですよね。互いにどんなに腹をたてていても、フランキーにはそれを見せない努力をするし、どれだけ自分の感情が荒れていても、フランキーには優しい声で話しかけようとするし、相手の悪口を娘の耳に吹き込もうとなんかしないし。それでも、フランキーもやはり、ちがったやり方で親に傷つけられて成長することになるのでしょうか。
……切ないですねぇ。
ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズが主演と製作も兼ねた作品。
一組のカップルの出会いから破局までを、ヒリヒリとリアルな描写で描くビターなラブストーリーです。
主演のふたりは、役作りのためにそれぞれ6㎏と7㎏増量したそうで、なるほど、過去と現在の時間軸がシャッフルする描写ながら、ふたりの外見の明瞭な違いから、混乱することなく観ることができます(ゴズリングに至っては、髪の毛まで薄くなってるし(>_<)!)。役者さんも大変です。
ディーン(ゴズリング)は高校を中退し、様々な半端仕事を転々とした後、引っ越し屋で働いていた。仕事先の老人ホームで、祖母の面会に来ていたシンディ(ウィリアムズ)と出会い、一目で恋に落ちる。シンディは上流家庭ではないけれど、中産階級のお嬢さんで、医学部を目指して勉強中。ブルーカラーのディーンでは交際相手にふさわしくないと父親から反対されるが、ある事情のもとに、結局ふたりは結ばれる。
そして結婚後7年の歳月が流れ、確かにあったはずの愛情は、少なくともシンディの中からは消え去っていた。
学業を途中でドロップアウトせざるを得なかったため、医師にはなれなかったが、看護師の資格を取り、頑張って働いているシンディに対し、依然としてその日暮らしをやめようとしないディーン。しかもディーンには飲酒癖があった。上昇志向の強いシンディは怠惰で言い訳ばかりがうまいディーンに絶望し、シンディに見限られる恐怖にディーンは荒れていく。なんとかシンディの気持ちを繋ぎとめようと、ディーンは妻をラブホテルに誘うが、そこでも気持ちはすれ違うばかり。ついに決定的な感情の爆発を引き起こしてしまう……。
男女の仲が壊れるのに、どちらかだけが一方的に悪いということは、たぶんそんなにないかもしれない(それは、ときには、あるかもしれない)。ディーンとシンディも、どっちがすごく悪人で、ということじゃないです。どっちもどっちだし、どっちもそんなに悪くない。
ディーンは若い頃は、「自分は老人になんかならない」とか、色々、根拠のない無敵感を持っていられたのだけど、年をとるにつれ、「自分には全くなにもない」という現実に直面しなければならなくなりました。まともな仕事もないし、財産もないし、どんなことであれ成し遂げたと言えるようなものもないし、精神的に到達した境地もない。だから、おれには家族がある、おれは家族を愛している、おれは家族を守るために闘っている、と「家族」を免罪符にして、そこにしがみつくしかない。シンディには、それがとても重くてしょうがない。
実際この映画は、ディーンの「いやげさ」を描くのが、非常に巧いです。確かにこんな男なら、シンディならずとも鬱陶しくてならないでしょう。追い詰められたシンディが、息をするのも苦しいと言わんばかりに、わたしはもう耐えられない、と訴えるのも、そりゃそうだよね、と同情を誘う。
●かわいがっていた飼い犬が失踪。必死に捜した末、車に轢かれて死んでいるのをシンディが発見する。衝撃を受け、落胆する妻に向かって夫、「だからケージにはちゃんと鍵をかけとけって言ったのに!」……いきなり悪いのは妻ですかい? 悲しんでるのはアンタだけじゃないでしょ、妻だって、すごく辛いのに、わかんないの?
●遠距離通勤で忙しい仕事をこなす妻なれど、家事を分担する気は全くない想像力の欠如したのらくら夫。娘と遊ぶことだけが巧みで、出勤前に慌しく娘に食事をさせようと焦る妻の神経を逆撫でするように、テーブルの上にじかにレーズンを並べて獣のように舐め取る遊びをさせる。食事は進まないし、テーブルはべとべとになるし、その掃除誰がするの? 遅刻したらどうするの?
●おれたちは倦怠期だ。たまにはラブホでいちゃついたら気分も変わるかも、と短絡発想の夫、妻に相談もせずにいきなりラブホに予約の電話をいれる。「なあ、掃除なんか後にしろよ、どっちの部屋がいいか選んでくれよ?」……この部屋散らかしたのは誰やねん、っていうか、そんな安っぽいラブホに行きたいなんて一言も言ってないし。部屋を選べってなんなのさ?
●結局折れてラブホに行く途中、お酒を調達にいったスーパーで昔のボーイフレンドに会ったと報告する妻。自分に自信のない夫は、ただ単に「偶然出会った」という話を聞かされただけで、自分がその男と比べられたかのような苛立ちと劣等感を感じ、言いがかりをつけて妻につっかかる。
ほんとに全くこんな男はいやだ。……だけど、盾には両面がある。
この映画は、7年前の幸せだった出会いの時間と、破局に直面した現在の時間をシャッフルして描いていくのだけれど、そのアプローチがあまりにも適確であるだけに、この上もなく残酷だったりします。
ディーンの「現在」を見せられて辟易する観客は、同時に、かれの行為の裏にある、やむを得ぬ前提をも知ることになる。
ディーンはフランキーにとっては文句のつけようのない父親で、幼い娘はダディにとってもなついている。普通だったら、フランキーの存在は、ディーンにとって大いなる自信の基盤になり得るものだったはずです。ディーンにとってのフランキーは、シンディと自分を繋ぎとめることのできるたったひとつの「合理的理由」であり、自分だっていっぱしの生活を送っているんだと自分を納得させるためのたったひとつの根拠でもあった、はず。
ところが、フランキーは実はディーンの実の娘ではなく、ディーンと出会う前にシンディが遊びでつきあっていたボーイフレンドに孕まされた子どもであり、一時は堕胎を決意するも、結局胎児を殺せなかったシンディを、ディーンは腹の子どもごと引き受けて愛したのだということがわかってしまう。
なるほど、見かけの現実の背後には、見えにくい現実があった。ディーンにとってのフランキーは、いつ取り上げられてもおかしくない、もろい紐帯しか持たない存在でしかない。だからディーンはいつも不安で、ピリピリしていなけりゃならなかったわけだ。ディーンにとっては、あまりに過酷な話。
更に言えば、上述したシンディの元カレというのが、そもそもの元凶であったこともわかるのであり、しかもディーンは、その元カレに言いがかりをつけられ酷い目にあわされた過去すらあった。だったらディーンの過剰に思えた反応にも、それなりのわけがあったのだと言わざるを得ないのです。
シンディは、一方的に被害者だったわけじゃ、ない。
彼女は、向上心が強いと言えば美点だけれど、逆から見れば、現状に満足するということができない女性だとも言える。
13歳で初体験、それからフランキーを妊娠するまでの10年足らずの間で、20人とも25人とも知れない相手と性交渉を持ったと告白するシンディ。かわいくて清楚で男心をそそるタイプだけれど、近寄り難いほどの美人というわけでもないから、アプローチしてくる男は後を絶たず、男には不自由しなかった。もてることは自尊心をくすぐられたし、セックスは気持ちがいい。だから気がつけば次から次へと相手を変えていた。相手が気にいらないと思えばすぐに次の男が現れるのだから、結婚という制度に縛られるまでは、相手の嫌なところを我慢する必要なんかなかった。
そして結婚し、なんとか7年耐えてはみたけど、やっぱりそこに留まることはできなかった。……ディーンと別れても、恐らくすぐ次の男は現れる。
でも、わたしたちは、時間軸の向こうにある、出会いのころのふたりの姿を知っている。ディーンがどれだけ純粋な気持ちでシンディを愛したかを知っている。無謀にも彼女を守ろうとしたことを知っている。彼女の元カレに殴られたときも、シンディをなじることなど一度もなかったことを知っている。そうした過去の時間を、苦い現実と「同時に」見せられる。そして思う、なぜそれを忘れてしまえるのか、と。なぜなら観客にとっては、それらは同軸に位置する等価の情報だから。……むろん当事者にとってはそうはいかない。
観客であるわれわれと同じように、当事者であるディーンとシンディもまた、お互いがお互いの関心の全てであり、全てが最高に輝いていて美しく見えたあのときと、剥き出しのいまの現実を、等価の時間として感じることができたら。いまこのときもあのときと同じ連続した時間なのだと、あの時間の延長線上に、いまのこときもあるのだと認識することができたら、そしたら何かが変わっていたかもしれないのだけれど。
ディーンとシンディ、それぞれ異なるやり方で親に傷つけられて成長したふたり。
ディーンもシンディも、フランキーにとってはほんとに申し分のない親なんですよね。互いにどんなに腹をたてていても、フランキーにはそれを見せない努力をするし、どれだけ自分の感情が荒れていても、フランキーには優しい声で話しかけようとするし、相手の悪口を娘の耳に吹き込もうとなんかしないし。それでも、フランキーもやはり、ちがったやり方で親に傷つけられて成長することになるのでしょうか。
……切ないですねぇ。
by shirakian
| 2011-05-02 19:06
| 映画は行