2011年 03月 17日
人生万歳!
|
★ネタバレ注意★
ウッディ・アレン監督が5年振りにNYを舞台に撮った映画で、しかも内容も70年代アレン風という、自家薬籠中、という言葉がぴったりの一本。
かつてはノーベル賞候補にもなった天才物理学者のボリス(ラリー・デヴィッド)は、あまりに厭世的で皮肉屋な性格が災いし、パニック症候群(暗闇恐怖症って言ってたな)のような症状にも見舞われて、知的で美人でリッチな妻には離婚され、NYの下町で冴えないひとり暮らし中。そんなボリスの下に、ある日家出娘のメロディ(エヴァン・レイチェル・ウッド)が転がり込む。当然のことながら全くかみ合わないふたりだったが、なぜかメロディはボリスを愛していると思いこんでしまい、ボリスも情にほだされて、ついに結婚することに。
という、「ありえな婚」からスタートする話。これに、娘を捜してNYにやってきたメロディの両親ジョンとマリエッタ(エド・ベグリー・Jrとパトリシア・クラークソン)が絡んでさらにドタバタの度が増していく仕掛けです。
えっと、とにかく、ボリスとメロディのずれまくった会話には悶絶します☆
特にボリスの駆使するボギャブラリーや言い回しが魅力的。ばか、って言うときに、moronとかidiotとかstupidじゃなくて、imbecileなんて使うのが古風な感じでいいヨ。
だけど、どんなに知的に洗練された言葉も、超絶技巧の面白い言い回しも、全てはそれを理解できる受け手の感性あってのもの。会話はキャッチボール。投げ合う球がミットに収まってさえいれば、どうということもない軽口の応酬になるはずのところが、かわいい馬鹿娘のメロディときたら、はじくわ、落すわ、大暴投するわで、なんていうかもう、上海雑技団状態(よくわからない例えですみません)。
が、このおかしみは、わたし的にはかなりツボだったんだけど、劇場はクスリとも笑わず(汗)。うーん。10人ぐらいしか入ってない時間帯だったせいもあるのかもしれないけど、どうしてだれも笑わないんだろう、みんな笑ってくれないと、気を遣って笑えないじゃないの(>_<)。
まあ、しかし、エヴァン・レイチェル・ウッドに比べると、ラリー・デヴィッドに、あまりに魅力がなさすぎるというのが問題なのかもしれませぬ。
ボリスは、語彙の選択や言い回しは非常に面白いのだけど、でも、ふたりのシーンで笑いを担っているのも、実は若いウッドの方だというのがビックリです。彼女の堂々たるコメディエンヌっぷりったら、まあ。そう言えば、アレン監督は、スカーレット・ヨハンソンも、大変魅力的なコメディエンヌに仕立て上げておりましたね。
ボリスの何がダメって、容姿はこの際問わないとしても、ただでさえネガティブで厭世的な台詞しか口にしないひとなのだから、それ以外の部分で余程の何かがないと、魅力的なキャラクターとしては成立しないと思うのに、そのサムシングが見当たらないこと。たぶん、「引退した科学者」っていう設定が失敗のもとだったんじゃないかな。今尚現役で、科学的真理探究に好奇心るきるき、というひとだったら、それなりに魅力的だったはずだもの。
とにかく、かれの「常人離れした頭の良さ」を笑いのポイントにもってくるなら、天才物理学者というあくまで浮世離れした存在が放つ強烈な「ズレ感」を、脚本段階でもっともっと強調しなくちゃダメだったんじゃないかな。それこそ、だれにも思いつかない突拍子もない屁理屈で観客を煙にまいてしまえるほどの、とんでもなく凄い個性が必要だったと思うのだけど、実際にはかれが並べたてる理屈自体は、およそ陳腐で面白みがないです。それこそクリシェばっかり。だからほんと、メロディがボリスのどこに惹かれたのか、観客は完全においてけぼりなのです。
たぶんこれがウッディ・アレン監督自身が演じていれば、かれ独特のペーソスや、妙な愛嬌のおかげで、「それでもなぜか」愛すべき人物になっていたのでしょうね。ボリスって、口にする台詞もそうだけど、容姿といい演技スタイルといいい、ウッディ・アレンそのものなんだけど、なんかどうも、魅力的な人物には見えなかったです。ほんと、ただのイヤなやつなんだよね。子どもに当たる描写にしても、あれじゃ、子どもはマジで怯えちゃうので、笑えないです。
ボリスとゆーのは、天才で、厭世的で、皮肉屋で、口が悪くて、ピアノが弾けて、足が悪いとゆー、なぜロード・オブ・ザ・フレームの杖を持たせなかったんだ! と机を叩いて説教したくなるようなキャラクターなんですけれども、それを思うにつけても、ドクター・ハウスのキャラクター造形って凄いなぁ、ヒュー・ローリーの役者としての魅力って凄いなぁ、と改めて舌を巻いてしまいますね、や、この映画には何の関係もないですけれども。
えーと、そこで考えたのですが、ことほど左様に魅力のないボリスというキャラクターを中心に据えたのは、実はボリスは主役ではなく、単なる触媒だったからなのかも? ということです。
真実の主役は、メロディとその両親だったのじゃあるまいか? というのが白木庵仮説です(アレンの映画のときは、よく仮説を立てるなぁ)。
これを「ボリスの物語」として見てしまうと、いきなり南部の田舎町からNYにやって来て、それぞれ自分のアイデンティティを確立し、理想のパートナーとめぐり合ってしまったメロディ一家の三人の描写は、なんたるご都合主義! と怒られても仕方のないところがあるんだけど、いやいや、ちょっと待って、これはご都合主義なんかじゃなくて、そもそも最初からこの三人の「解放」を描くところに物語的主題があったのでは、と思うとスッキリするよ?
だからそのためにも、この三人の親子の描写は極端にデフォルメされたステレオタイプのものになっているんだと思います。男性原理に雁字搦めにされて、女性の個性や人格を認められないばかりか、自らのほんとうの欲求にも気づけない典型的な南部の父親、その夫に抑圧されて自分の足で人生を歩むことができず、娘をミスコンに出場させることを代償行為としている母親、父親の無関心と母親の過干渉に追い詰められ、逃げ出さざるをえなかった、純粋だけど無学無教養で自分の頭で物を考えたことのない娘。
その三者が三様に、最も自分に相応しいパートナーと生き方に巡りあうのですから、そりゃ、ご都合主義ではあるんだけれど、アレンは恐らくこうした流れを描くことにより、人間のあるティピカルなグループの現状を描くと同時に、宗教への妄信を皮肉っていると思うし、宗教が(特に原理主義的なそれが)いかに人間性を抑圧し、幸福の創造とは真逆の方向に働いているかについて警鐘を鳴らしているように思われます。ボリスがあれこれ並べ立てた(陳腐な)社会批判の中でも、宗教(や神)に関するものは、特に大きな比重を占めていたんじゃないかな。
だって、不愉快なボリスに比べたら、この三人の流れは、なんとなく幸せだよね?
エヴァン・レイチェル・ウッドに惚れぬいて口説きまくったランディ(ヘンリー・カヴィル)が、ほんとにびっくりするほど完璧なイケメンくんでありながら、メロディを弄ぶだけのチャラな浮気男じゃなかった事がまず(天文学的な)奇跡だし、ライフル教会会員! だったエド・ベグリー・Jrが、男の恋人と仲睦まじく抱き会ってる姿も微笑ましいし、なにより、ピンクのワンピーススーツを着た平凡な南部の主婦だったパトリシア・クラークソンのはっちゃけぶり! 目覚めてのちのアーティストとしての彼女もかっこいいけど、ピンクの主婦だったときの、おばかさんっぷりもまた、すっごくかわいくてビックリです。ほかの役では、聡明でまじめな印象があるだけに、このかわいらしさはほんとに貴重。
その点、ラストにボリスにも新恋人ができちゃう流れは、うーん、どうにも首肯しがたいのだけど、だからと言って、メロディに棄てられたボリスが傷心のあまり自殺して終り、じゃあまりに後味が悪すぎるので、これは仕方のないところだったのかなぁ。それにしても、新恋人のヘレナ(ジェシカ・ヘクト)は、それこそボリスの一体どこに惹かれたのかしら(汗)。
ウッディ・アレン監督が5年振りにNYを舞台に撮った映画で、しかも内容も70年代アレン風という、自家薬籠中、という言葉がぴったりの一本。
かつてはノーベル賞候補にもなった天才物理学者のボリス(ラリー・デヴィッド)は、あまりに厭世的で皮肉屋な性格が災いし、パニック症候群(暗闇恐怖症って言ってたな)のような症状にも見舞われて、知的で美人でリッチな妻には離婚され、NYの下町で冴えないひとり暮らし中。そんなボリスの下に、ある日家出娘のメロディ(エヴァン・レイチェル・ウッド)が転がり込む。当然のことながら全くかみ合わないふたりだったが、なぜかメロディはボリスを愛していると思いこんでしまい、ボリスも情にほだされて、ついに結婚することに。
という、「ありえな婚」からスタートする話。これに、娘を捜してNYにやってきたメロディの両親ジョンとマリエッタ(エド・ベグリー・Jrとパトリシア・クラークソン)が絡んでさらにドタバタの度が増していく仕掛けです。
えっと、とにかく、ボリスとメロディのずれまくった会話には悶絶します☆
特にボリスの駆使するボギャブラリーや言い回しが魅力的。ばか、って言うときに、moronとかidiotとかstupidじゃなくて、imbecileなんて使うのが古風な感じでいいヨ。
だけど、どんなに知的に洗練された言葉も、超絶技巧の面白い言い回しも、全てはそれを理解できる受け手の感性あってのもの。会話はキャッチボール。投げ合う球がミットに収まってさえいれば、どうということもない軽口の応酬になるはずのところが、かわいい馬鹿娘のメロディときたら、はじくわ、落すわ、大暴投するわで、なんていうかもう、上海雑技団状態(よくわからない例えですみません)。
が、このおかしみは、わたし的にはかなりツボだったんだけど、劇場はクスリとも笑わず(汗)。うーん。10人ぐらいしか入ってない時間帯だったせいもあるのかもしれないけど、どうしてだれも笑わないんだろう、みんな笑ってくれないと、気を遣って笑えないじゃないの(>_<)。
まあ、しかし、エヴァン・レイチェル・ウッドに比べると、ラリー・デヴィッドに、あまりに魅力がなさすぎるというのが問題なのかもしれませぬ。
ボリスは、語彙の選択や言い回しは非常に面白いのだけど、でも、ふたりのシーンで笑いを担っているのも、実は若いウッドの方だというのがビックリです。彼女の堂々たるコメディエンヌっぷりったら、まあ。そう言えば、アレン監督は、スカーレット・ヨハンソンも、大変魅力的なコメディエンヌに仕立て上げておりましたね。
ボリスの何がダメって、容姿はこの際問わないとしても、ただでさえネガティブで厭世的な台詞しか口にしないひとなのだから、それ以外の部分で余程の何かがないと、魅力的なキャラクターとしては成立しないと思うのに、そのサムシングが見当たらないこと。たぶん、「引退した科学者」っていう設定が失敗のもとだったんじゃないかな。今尚現役で、科学的真理探究に好奇心るきるき、というひとだったら、それなりに魅力的だったはずだもの。
とにかく、かれの「常人離れした頭の良さ」を笑いのポイントにもってくるなら、天才物理学者というあくまで浮世離れした存在が放つ強烈な「ズレ感」を、脚本段階でもっともっと強調しなくちゃダメだったんじゃないかな。それこそ、だれにも思いつかない突拍子もない屁理屈で観客を煙にまいてしまえるほどの、とんでもなく凄い個性が必要だったと思うのだけど、実際にはかれが並べたてる理屈自体は、およそ陳腐で面白みがないです。それこそクリシェばっかり。だからほんと、メロディがボリスのどこに惹かれたのか、観客は完全においてけぼりなのです。
たぶんこれがウッディ・アレン監督自身が演じていれば、かれ独特のペーソスや、妙な愛嬌のおかげで、「それでもなぜか」愛すべき人物になっていたのでしょうね。ボリスって、口にする台詞もそうだけど、容姿といい演技スタイルといいい、ウッディ・アレンそのものなんだけど、なんかどうも、魅力的な人物には見えなかったです。ほんと、ただのイヤなやつなんだよね。子どもに当たる描写にしても、あれじゃ、子どもはマジで怯えちゃうので、笑えないです。
ボリスとゆーのは、天才で、厭世的で、皮肉屋で、口が悪くて、ピアノが弾けて、足が悪いとゆー、なぜロード・オブ・ザ・フレームの杖を持たせなかったんだ! と机を叩いて説教したくなるようなキャラクターなんですけれども、それを思うにつけても、ドクター・ハウスのキャラクター造形って凄いなぁ、ヒュー・ローリーの役者としての魅力って凄いなぁ、と改めて舌を巻いてしまいますね、や、この映画には何の関係もないですけれども。
えーと、そこで考えたのですが、ことほど左様に魅力のないボリスというキャラクターを中心に据えたのは、実はボリスは主役ではなく、単なる触媒だったからなのかも? ということです。
真実の主役は、メロディとその両親だったのじゃあるまいか? というのが白木庵仮説です(アレンの映画のときは、よく仮説を立てるなぁ)。
これを「ボリスの物語」として見てしまうと、いきなり南部の田舎町からNYにやって来て、それぞれ自分のアイデンティティを確立し、理想のパートナーとめぐり合ってしまったメロディ一家の三人の描写は、なんたるご都合主義! と怒られても仕方のないところがあるんだけど、いやいや、ちょっと待って、これはご都合主義なんかじゃなくて、そもそも最初からこの三人の「解放」を描くところに物語的主題があったのでは、と思うとスッキリするよ?
だからそのためにも、この三人の親子の描写は極端にデフォルメされたステレオタイプのものになっているんだと思います。男性原理に雁字搦めにされて、女性の個性や人格を認められないばかりか、自らのほんとうの欲求にも気づけない典型的な南部の父親、その夫に抑圧されて自分の足で人生を歩むことができず、娘をミスコンに出場させることを代償行為としている母親、父親の無関心と母親の過干渉に追い詰められ、逃げ出さざるをえなかった、純粋だけど無学無教養で自分の頭で物を考えたことのない娘。
その三者が三様に、最も自分に相応しいパートナーと生き方に巡りあうのですから、そりゃ、ご都合主義ではあるんだけれど、アレンは恐らくこうした流れを描くことにより、人間のあるティピカルなグループの現状を描くと同時に、宗教への妄信を皮肉っていると思うし、宗教が(特に原理主義的なそれが)いかに人間性を抑圧し、幸福の創造とは真逆の方向に働いているかについて警鐘を鳴らしているように思われます。ボリスがあれこれ並べ立てた(陳腐な)社会批判の中でも、宗教(や神)に関するものは、特に大きな比重を占めていたんじゃないかな。
だって、不愉快なボリスに比べたら、この三人の流れは、なんとなく幸せだよね?
エヴァン・レイチェル・ウッドに惚れぬいて口説きまくったランディ(ヘンリー・カヴィル)が、ほんとにびっくりするほど完璧なイケメンくんでありながら、メロディを弄ぶだけのチャラな浮気男じゃなかった事がまず(天文学的な)奇跡だし、ライフル教会会員! だったエド・ベグリー・Jrが、男の恋人と仲睦まじく抱き会ってる姿も微笑ましいし、なにより、ピンクのワンピーススーツを着た平凡な南部の主婦だったパトリシア・クラークソンのはっちゃけぶり! 目覚めてのちのアーティストとしての彼女もかっこいいけど、ピンクの主婦だったときの、おばかさんっぷりもまた、すっごくかわいくてビックリです。ほかの役では、聡明でまじめな印象があるだけに、このかわいらしさはほんとに貴重。
その点、ラストにボリスにも新恋人ができちゃう流れは、うーん、どうにも首肯しがたいのだけど、だからと言って、メロディに棄てられたボリスが傷心のあまり自殺して終り、じゃあまりに後味が悪すぎるので、これは仕方のないところだったのかなぁ。それにしても、新恋人のヘレナ(ジェシカ・ヘクト)は、それこそボリスの一体どこに惹かれたのかしら(汗)。
by shirakian
| 2011-03-17 20:10
| 映画さ行