2011年 02月 26日
ヤコブへの手紙
|
★ネタバレ注意★
2009年のフィンランドの映画です。クラウス・ハロ監督。
登場人物はほぼ三人だけという、ごく小さな(恐らく低予算の)映画ですが、第82回アカデミー賞外国語部門に選出されたことをはじめとして、フィンランド・アカデミー賞(Jussi Awards)最多部門受賞(作品、監督、主演男優、音楽)、第33回カイロ国際映画祭でグランプリと脚本賞を受賞するなど、様々な栄冠に輝いている由、それも納得の、すばらしい映画でした。
終身刑で服役していたレイラ(カーリナ・ハザード)は、12年目にして突然恩赦を与えられる。身寄りのない彼女は、刑務所長の斡旋で、老齢のヤコブ牧師(ヘイッキ・ノウシアイネン)のもとで住み込みで働くことになった。彼女の仕事は、目が見えない牧師に代わり、手紙を代読し、返書を代筆すること。しかし、すっかり投げやりになっているレイラは、そんな簡単な仕事さえ快くこなすことはできず、せっかく届いた手紙を汚水槽に棄ててしまったりする。そんなある日、当たり前のように届いていた手紙が、一通も来なくなってしまい、牧師はほとんど生きる望みをなくしてしまうほど落胆してしまう……。
じめじめした北国の、それでもあれは束の間の夏なのか、自然描写がとても美しく、その美しい自然の中でのつつましい営みがまた、とても美しいのです。
手紙が届かなくなったことによって衝撃を受けた牧師が、悄然とするあまり、若干正気をなくしてしまい、その予定もないのに結婚式があると思いこんで慌てて教会に出向くシーンは、悲しく滑稽でたまらなく美しいです。草薮の中にぽつねんと佇む石造りの教会の美しさ。寒々とした教会の、ガランとした部屋で、ひとり眠りにつく牧師。
牧師は、人々から届く愚痴や相談や告白の手紙に、ひとつひとつ丹念に返書をしたためることにより、そのひとたちの「救い」になっていると信じてきたのだけど、手紙が届かなくなってしまったことにより、実は自分の方こそが、ひとびとから手紙を貰えるがために、だれかに必要とされている、という実感(幻想?)を抱くことができ、それによって救われていたのだ、と気づく展開になっています。
多分に寓話的な話なので、「なぜ」を問うてもしかたのない部分もあるのですが、やっぱり、ヤコブ牧師宛ての手紙が「ある日いきなり」届かなくなった、という流れには若干のひっかかりを感じました。なんかどうも「なにかありそう」という印象を抱かせてしまうのだけど、たぶん、手紙が届かなくなった、という事象自体には別になにもない。ただ届かなくなっただけなんだと思う。問題は届かなくなったことによってなにが起こったか、という点にこそあるわけで。だったら、レイラが牧師のもとにきてからの時間は、三日でも三ヶ月でも三年でも構わなかったと思うので、寂れた商店街がゆっくりと死んでいくみたいに、徐々に手紙の数が少なくなり、ついには一通も届かなくなった、というごく自然な描写も可能だったと思うのだけど、物語的短期決戦に拘った結果だったのかな。
この物語は、ヤコブ牧師の物語である一方でもちろん、恩赦を受けた服役囚のレイラの物語でもあるわけですが、普通だったら、なんか、こういう場合のヒロインって、はかなげで悲しげで線の細い美女、をキャスティングするような気がする。それこそ、サラ・ポーリーとか、年齢層をあげるならクリスティン・スコット・トーマスとか。
だけど、この映画でレイラを演じたカーリナ・ハザードという女優さんは、どっしりと骨太で肉付きのいい体型で、お化粧もせず、やぼったいパンツ姿でいるのを見ると、おばさんというよりむしろおっさん、という感じのひとなので、観客はハッとなってしまいます(もちろん女優さんなので、ちゃんとフルメイクで着飾るとすごくゴージャスになったりするんだろうけれど)。
この容姿で無愛想ぶしつけぶっきら棒に振舞われると、いかにも刑務所から出てきたばかりの凶悪犯、という雰囲気が漂い、気のいい郵便配達夫が、レイラが牧師に何か酷いことをしたのではないかと(端的に言って、牧師を殺しちゃったんじゃないかと)、夜中に探りに来たのもむべなるかな、と思わせる。
彼女は、目の悪い老人である牧師に対して少しも優しくないし、労わろうとしないし、混乱した頭で教会に出向いてしまった牧師が我に帰って、家に連れて帰ってくれと頼んでも、知らん顔して置いてきてしまったりする。もう、完全に心が荒んでしまっている感じなのです。
だけど、牧師を置き去りにしてレイラがやった(やろうとした)ことは、頭の混乱した牧師がありもしない婚礼の客のために用意した来客用の食器を盗んで持ち出すことなんかじゃなく、自殺をはかろうとしたことでした。レイラの心は荒んでいましたが、それは彼女がどうしようもなく傷ついて絶望していたからだったのです。なにが彼女をそうさせたのか。
それが明かされるのは、物語も終盤です。レイラは、見るも無残に気落ちしてしまった牧師を慰めようと、手紙が届いたふりをして、架空の手紙をでっちあげようとするのですが、想像力豊かとか、弁舌巧みとか、文学的素養ありとか、そういうわけでもない彼女に、それらしい文面を次々と口にすることなどできるはずもありません。追い詰められた彼女は、手紙にかこつけて、ついに自分の物語を語るのです。
幼い頃から、母親の暴力から自分を守ってくれた姉。成長して、身体の大きさが逆転しても、それでもなお自分を守ろうとしてくれた姉。結婚して夫の暴力に耐えている姉。姉に対する愛情から、傷つけられる姉の姿を見るに忍びず、義兄を殺してしまったレイラ。姉を守ろうとして、姉から大事なひとを奪ってしまった自分。
神様、教えてください、こんなわたしでも赦されることはあるのでしょうか?
そこで牧師はレイラに見せたいものがあると言って、手紙の束を持ってくるのです。それは、レイラの姉から牧師に宛てた手紙でした。頑なに心を閉ざしてしまい、自分に会おうとしない妹の、恩赦を嘆願する手紙でした。妹の無事を祈り、いまもなお、愛していると告げる手紙でした。
人を殺すのは悪いことです。条件つきにしろ殺人を認めたりしたら、人間社会は成り立ちません。……でも、「悪い」と言われる行為は、厳密に全てが「悪い」ものなのか。社会などという曖昧で実態の知れないものにとっての悪ではなく、ひとりひとり、個々の異なる事情に於いても、「社会のために」、それはとことん追及されるべきものなのか?
姉が赦すというのなら、レイラは赦されてもいいのではないか?
だとしたら、だれがそれをレイラに告げるのか?
姉自身が?
姉にそんな権利があるのか?
善悪が、神が創った摂理なら、赦しを与えることもまた、神の仕事であるのでは?
神がいて、それがほんとうに全知全能の存在ならば、忙しいとか、死んだとか、不在だとか言わないで、孤立し悩み傷つき苦しんでいるひとりひとりに語りかけるべきなんじゃないか? たとえば牧師の手紙の形を借りて。
レイラの行為の「悪」と、レイラの動機の「愛」と、レイラの苦悩のあまりの酷さ、レイラの孤独のあまりの深さ、レイラがおのれを罰することの峻烈さ。
ラストシーンの彼女の、ふっきれたような軽やかな表情は、それらに対比する救いです。
2009年のフィンランドの映画です。クラウス・ハロ監督。
登場人物はほぼ三人だけという、ごく小さな(恐らく低予算の)映画ですが、第82回アカデミー賞外国語部門に選出されたことをはじめとして、フィンランド・アカデミー賞(Jussi Awards)最多部門受賞(作品、監督、主演男優、音楽)、第33回カイロ国際映画祭でグランプリと脚本賞を受賞するなど、様々な栄冠に輝いている由、それも納得の、すばらしい映画でした。
終身刑で服役していたレイラ(カーリナ・ハザード)は、12年目にして突然恩赦を与えられる。身寄りのない彼女は、刑務所長の斡旋で、老齢のヤコブ牧師(ヘイッキ・ノウシアイネン)のもとで住み込みで働くことになった。彼女の仕事は、目が見えない牧師に代わり、手紙を代読し、返書を代筆すること。しかし、すっかり投げやりになっているレイラは、そんな簡単な仕事さえ快くこなすことはできず、せっかく届いた手紙を汚水槽に棄ててしまったりする。そんなある日、当たり前のように届いていた手紙が、一通も来なくなってしまい、牧師はほとんど生きる望みをなくしてしまうほど落胆してしまう……。
じめじめした北国の、それでもあれは束の間の夏なのか、自然描写がとても美しく、その美しい自然の中でのつつましい営みがまた、とても美しいのです。
手紙が届かなくなったことによって衝撃を受けた牧師が、悄然とするあまり、若干正気をなくしてしまい、その予定もないのに結婚式があると思いこんで慌てて教会に出向くシーンは、悲しく滑稽でたまらなく美しいです。草薮の中にぽつねんと佇む石造りの教会の美しさ。寒々とした教会の、ガランとした部屋で、ひとり眠りにつく牧師。
牧師は、人々から届く愚痴や相談や告白の手紙に、ひとつひとつ丹念に返書をしたためることにより、そのひとたちの「救い」になっていると信じてきたのだけど、手紙が届かなくなってしまったことにより、実は自分の方こそが、ひとびとから手紙を貰えるがために、だれかに必要とされている、という実感(幻想?)を抱くことができ、それによって救われていたのだ、と気づく展開になっています。
多分に寓話的な話なので、「なぜ」を問うてもしかたのない部分もあるのですが、やっぱり、ヤコブ牧師宛ての手紙が「ある日いきなり」届かなくなった、という流れには若干のひっかかりを感じました。なんかどうも「なにかありそう」という印象を抱かせてしまうのだけど、たぶん、手紙が届かなくなった、という事象自体には別になにもない。ただ届かなくなっただけなんだと思う。問題は届かなくなったことによってなにが起こったか、という点にこそあるわけで。だったら、レイラが牧師のもとにきてからの時間は、三日でも三ヶ月でも三年でも構わなかったと思うので、寂れた商店街がゆっくりと死んでいくみたいに、徐々に手紙の数が少なくなり、ついには一通も届かなくなった、というごく自然な描写も可能だったと思うのだけど、物語的短期決戦に拘った結果だったのかな。
この物語は、ヤコブ牧師の物語である一方でもちろん、恩赦を受けた服役囚のレイラの物語でもあるわけですが、普通だったら、なんか、こういう場合のヒロインって、はかなげで悲しげで線の細い美女、をキャスティングするような気がする。それこそ、サラ・ポーリーとか、年齢層をあげるならクリスティン・スコット・トーマスとか。
だけど、この映画でレイラを演じたカーリナ・ハザードという女優さんは、どっしりと骨太で肉付きのいい体型で、お化粧もせず、やぼったいパンツ姿でいるのを見ると、おばさんというよりむしろおっさん、という感じのひとなので、観客はハッとなってしまいます(もちろん女優さんなので、ちゃんとフルメイクで着飾るとすごくゴージャスになったりするんだろうけれど)。
この容姿で無愛想ぶしつけぶっきら棒に振舞われると、いかにも刑務所から出てきたばかりの凶悪犯、という雰囲気が漂い、気のいい郵便配達夫が、レイラが牧師に何か酷いことをしたのではないかと(端的に言って、牧師を殺しちゃったんじゃないかと)、夜中に探りに来たのもむべなるかな、と思わせる。
彼女は、目の悪い老人である牧師に対して少しも優しくないし、労わろうとしないし、混乱した頭で教会に出向いてしまった牧師が我に帰って、家に連れて帰ってくれと頼んでも、知らん顔して置いてきてしまったりする。もう、完全に心が荒んでしまっている感じなのです。
だけど、牧師を置き去りにしてレイラがやった(やろうとした)ことは、頭の混乱した牧師がありもしない婚礼の客のために用意した来客用の食器を盗んで持ち出すことなんかじゃなく、自殺をはかろうとしたことでした。レイラの心は荒んでいましたが、それは彼女がどうしようもなく傷ついて絶望していたからだったのです。なにが彼女をそうさせたのか。
それが明かされるのは、物語も終盤です。レイラは、見るも無残に気落ちしてしまった牧師を慰めようと、手紙が届いたふりをして、架空の手紙をでっちあげようとするのですが、想像力豊かとか、弁舌巧みとか、文学的素養ありとか、そういうわけでもない彼女に、それらしい文面を次々と口にすることなどできるはずもありません。追い詰められた彼女は、手紙にかこつけて、ついに自分の物語を語るのです。
幼い頃から、母親の暴力から自分を守ってくれた姉。成長して、身体の大きさが逆転しても、それでもなお自分を守ろうとしてくれた姉。結婚して夫の暴力に耐えている姉。姉に対する愛情から、傷つけられる姉の姿を見るに忍びず、義兄を殺してしまったレイラ。姉を守ろうとして、姉から大事なひとを奪ってしまった自分。
神様、教えてください、こんなわたしでも赦されることはあるのでしょうか?
そこで牧師はレイラに見せたいものがあると言って、手紙の束を持ってくるのです。それは、レイラの姉から牧師に宛てた手紙でした。頑なに心を閉ざしてしまい、自分に会おうとしない妹の、恩赦を嘆願する手紙でした。妹の無事を祈り、いまもなお、愛していると告げる手紙でした。
人を殺すのは悪いことです。条件つきにしろ殺人を認めたりしたら、人間社会は成り立ちません。……でも、「悪い」と言われる行為は、厳密に全てが「悪い」ものなのか。社会などという曖昧で実態の知れないものにとっての悪ではなく、ひとりひとり、個々の異なる事情に於いても、「社会のために」、それはとことん追及されるべきものなのか?
姉が赦すというのなら、レイラは赦されてもいいのではないか?
だとしたら、だれがそれをレイラに告げるのか?
姉自身が?
姉にそんな権利があるのか?
善悪が、神が創った摂理なら、赦しを与えることもまた、神の仕事であるのでは?
神がいて、それがほんとうに全知全能の存在ならば、忙しいとか、死んだとか、不在だとか言わないで、孤立し悩み傷つき苦しんでいるひとりひとりに語りかけるべきなんじゃないか? たとえば牧師の手紙の形を借りて。
レイラの行為の「悪」と、レイラの動機の「愛」と、レイラの苦悩のあまりの酷さ、レイラの孤独のあまりの深さ、レイラがおのれを罰することの峻烈さ。
ラストシーンの彼女の、ふっきれたような軽やかな表情は、それらに対比する救いです。
by shirakian
| 2011-02-26 17:26
| 映画や行