2011年 02月 17日
ソーシャル・ネットワーク
|
★ネタバレ注意★
誕生からわずか数年で世界最大のSNSとなった“facebook”を創業し、史上最年少のビリオネアになったマーク・ザッカーバーグの伝記的物語。実在の人物の実話に基づいたお話ですが、随所に創作を交えたフィクションで、ドキュメンタリー的なものではありません。
デヴィッド・フィンチャー監督。製作総指揮にケヴィン・スペイシーの名前が。
史上最年少のビリオネアの話ではありますが、(後述の理由から)いわゆるサクセス・ストーリーではなく、ザッカーバーグの青春譜として作られた映画だと思う。そして何よりも、コミュニケーションの物語であると思う。
2003年、ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、つきあっていたエリカ(ルーニー・マーラ)にフラれた腹いせに、ブログにエリカの悪口を書きまくると同時に、ハーバード大女子寮のデータベースをハッキングして、女子学生たちの容姿をランキングするサイト「フェイスマッシュ」を作ってしまう。サイトはあっという間にアクセス数を伸ばし、サーバーがダウンするほどに。
この人気に目をつけたファイナルクラブ「ポーセリアン」に所属するふたごのエリート、ウィンクルボス兄弟(顔はアーミー・ハマー、身体はジョッシュ・ペンス)が、学内交流を目的としたサイト「ハーバード・コネクション」への協力を持ちかける。しかしマークは、ウィンクルボス兄弟をのらりくらりとかわす一方で、親友のエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)やダスティン・モスコヴィッツ(ジョセフ・マッゼロ)らと共に、別途にソーシャル・ネットワークのサイトを立ち上げる。それこそが後のfacebookだった……。
この映画で面白いなぁ、と思うのは、フィンチャー監督が意図的に主役に対して距離を置く演出をしていることです。端的に言うと、この映画のザッカーバーグはたぶん、本物のザッカーバーグよりずっと「嫌な人物」として描かれているんじゃないかな。本物のザッカーバーグは、(ボート部でこそなかったけれど)スポーツマンだし、笑顔の明るい好感度の高い人柄だし、第一ステディな彼女と安定した関係を築いている人物。それをこの映画では、典型的なギークのイメージの中に押し込めている。
アイゼンバーグの演じるザッカーバーグは、よって、非常に嫌~な人物として印象に残ります。時折挿入されるかれの「人間性」を擁護するようなエピソードがまた、更にかれの嫌な面を強調する形になっているのも、擁護エピソードが機能していないからではなく、まさにそうした意図で作られたエピソードであるからだと思う。つまり、監督は、意図的に「つきあいきれないオタク」としてザッカーバーグを描いているのね。
実在のモデルのいる映画って、普通、映画の人物の方が美化されがちなのに、この映画ではまるきり逆。ザッカーバーグは訴訟を起こしてもいいと思うよ(笑)。「服装だけはほんとうだね(笑)」なんて、映画の感想を述べたというご本人には、大人(たいじん)の風格を感じまする。……だけど、この映画が映画として成功したのは、まさにそこに起因しているのでしょうね。ふーむ。
この映画がサクセスストーリーではない、と言ったのは、「サクセス」の物語なら、なにがどのように「サクセス」だったのかを明らかにしなければならないんじゃないかな、と思うんだけど、そういったことにはあまり興味がなさそうな描写だったからです。
facebookの何が本質的に凄かったのか、ザッカーバーグのどこが余人より優れていたのか、この映画の描写からではわからない。
facebookは世界初のソーシャルネットワークサービスではありませんし、しかも、ハーバード大学を起点に同種のサービスを展開する、というアイディアですら、ウィンクルボスらが発案してザッカーバーグに協力を要請した「ハーバード・コネクション」に類似のもの。後に訴訟を起こされ、ザッカーバーグ側が和解に応じているところからも、このアイディア自体は、ザッカーバーグの完全なオリジナルというより、盗用に近いものだったのかもしれない(というのが映画の描き方です)。
つまり、ザッカーバーグは「なにか新しい凄いアイディア」を世界に問うた、というわけではなさそうです。
そしてザッカーバーグ自身もまた、プログラマーとして、どれだけ他人とちがった物凄い才能を持ったひとだったのか、というようなことは、ほとんどわかりません。一晩でハーバードのサーバーをダウンさせるようなサイトを立ちあげた、と言えば凄そうに聞こえるけれど、それは、「二択で女の子の品定めをさせる」というアイディアが斬新だっただけで、コンピュータプログラムとして何が画期的だったのかは、映画を観る限りではわかりません。
つまり、ザッカーバーグが「こんな凄いことをした」というのは主に、facebookの加盟人数がどんどん増えていき、会社の価値があがっていった、という経済的部分で(のみ)描写されているわけです。
だったらそれって、見たことがある。
その既視感の正体は、才能ある青年が、己の才能だけを頼りに巨万の富を築き上げることのできる分野、そう、ミュージシャンの逸話として知っているわけですね。
この映画が青春映画だと思えるのも、かれらの挙措進退が、全て成功し(て仲間割れの挙句分裂し)たバンド青年の物語と置き換えが可能だからだと思う。
この映画が一面、普遍的な青春映画であるがために、普通の感性を持った等身大の青年を瑞々しく演じたアンドリュー・ガーフィールドの演技がとても映えるし、貴重に思えるのだけど、反面、その同じ青春を共に生きたキャラクターとしてのジェシー・アイゼンバーグが、上記のように(また後述するように)かなり特異な人物として描かれているので、このふたりの関係性というのが、実はよくわかりません。相手に対してどのような「友情」を感じていたのか。
というのも、「友情」もまた、コミュニケーションの大きな一形態であるにもかかわらず、ここで描かれているコミュニケーションは、いわゆる普通のコミュニケーションではない、ということ。
この映画が、単に音楽の才能をコンピュータの才能に置き換えただけなら、手垢のついた物語に過ぎなくなってしまうけど、この映画が特別で有り得たのは、これがまぎれもなくコミュニケーションというものの本質をえぐりだした映画だからだと思う。
この映画のクライマックスは、実は冒頭でのザッカーバーグとガールフレンドのエリカとの会話にあるんじゃないかと思うぐらい、このシーンの出来栄えはすばらしいです。このかみ合わない会話の応酬。その内容や、使われる語彙や、そのときのふたりの表情といったものは、実に実に恐ろしいほどたくさんのことを語っている。単にふたりの会話の(というより、ザッカーバーグの喋りの)情報量が多い、というのみならず、示唆していること、抽象化していること、そこから演繹されることが半端でないです。そして結局、それらが示す方向の先には、コミュニケーションの不全、という問題が、砂漠の中に突然立ち昇ってくるラスベガスの街みたいに、屹立している。
ここで描かれているのは、コミュニケーションスキルの不足なんてことじゃ、全然ない。スキルが不足しているのなら、学習することができるけど、(この映画の)ザッカーバーグの場合、コミュニケーション自体が「できない」のだと思える。それはもう、脳の大事なシナプスがどこか機能してないみたいに。
実際には、まがりなりにもfacebookを大企業に育てあげることができた創業者にコミュニケーションアビリティ(スキルではなく)がないなんて、有り得ないと思う(ので、やはり映画はフィクションだ、という意を強くするわけだけど)のだけれど、そのコミュニケーションできない人間が、何億人ものコミュニケーションを司っている、というのが、とても皮肉な問題提起になっているように思えるのです。
ところで、最初にキャメロンとタイラーのウィンクルボス兄弟を観たとき、わたくし、とっても興奮いたしました(笑)。だって、あの顔で(とってもイケメン)あの身体で(190㎝100キロの偉丈夫)、しかもふたごだなんて! これは凄い! さすが人材豊富なハリウッド! すごい素材をみつけてきた! と思ってしまったんですけど……残念、二重の意味で勘違いでした(汗)。
第一に、ウィンクルボス兄弟を演じた俳優はふたごではなく、アーミー・ハマーひとりであること。
第ニに、ハマーひとりがウィンクルボス兄弟を演じたわけではなく、あの見事に鍛え上げられた体躯は、また別の役者さん(ジョッシュ・ペンス)だったこと。
くそー。デヴィッド・“ベンジャミンバトン”・フィンチャーに、やられたぜ。こんなカラクリだったとは(>_<)。
というわけで、まあ、ガッカリっちゃあガッカリではあるんですけど、アーミー・ハマーがイケメンである事実には変わりはないので、これからのご活躍を密かに見守っていきたいと思います(笑)。
誕生からわずか数年で世界最大のSNSとなった“facebook”を創業し、史上最年少のビリオネアになったマーク・ザッカーバーグの伝記的物語。実在の人物の実話に基づいたお話ですが、随所に創作を交えたフィクションで、ドキュメンタリー的なものではありません。
デヴィッド・フィンチャー監督。製作総指揮にケヴィン・スペイシーの名前が。
史上最年少のビリオネアの話ではありますが、(後述の理由から)いわゆるサクセス・ストーリーではなく、ザッカーバーグの青春譜として作られた映画だと思う。そして何よりも、コミュニケーションの物語であると思う。
2003年、ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、つきあっていたエリカ(ルーニー・マーラ)にフラれた腹いせに、ブログにエリカの悪口を書きまくると同時に、ハーバード大女子寮のデータベースをハッキングして、女子学生たちの容姿をランキングするサイト「フェイスマッシュ」を作ってしまう。サイトはあっという間にアクセス数を伸ばし、サーバーがダウンするほどに。
この人気に目をつけたファイナルクラブ「ポーセリアン」に所属するふたごのエリート、ウィンクルボス兄弟(顔はアーミー・ハマー、身体はジョッシュ・ペンス)が、学内交流を目的としたサイト「ハーバード・コネクション」への協力を持ちかける。しかしマークは、ウィンクルボス兄弟をのらりくらりとかわす一方で、親友のエドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)やダスティン・モスコヴィッツ(ジョセフ・マッゼロ)らと共に、別途にソーシャル・ネットワークのサイトを立ち上げる。それこそが後のfacebookだった……。
この映画で面白いなぁ、と思うのは、フィンチャー監督が意図的に主役に対して距離を置く演出をしていることです。端的に言うと、この映画のザッカーバーグはたぶん、本物のザッカーバーグよりずっと「嫌な人物」として描かれているんじゃないかな。本物のザッカーバーグは、(ボート部でこそなかったけれど)スポーツマンだし、笑顔の明るい好感度の高い人柄だし、第一ステディな彼女と安定した関係を築いている人物。それをこの映画では、典型的なギークのイメージの中に押し込めている。
アイゼンバーグの演じるザッカーバーグは、よって、非常に嫌~な人物として印象に残ります。時折挿入されるかれの「人間性」を擁護するようなエピソードがまた、更にかれの嫌な面を強調する形になっているのも、擁護エピソードが機能していないからではなく、まさにそうした意図で作られたエピソードであるからだと思う。つまり、監督は、意図的に「つきあいきれないオタク」としてザッカーバーグを描いているのね。
実在のモデルのいる映画って、普通、映画の人物の方が美化されがちなのに、この映画ではまるきり逆。ザッカーバーグは訴訟を起こしてもいいと思うよ(笑)。「服装だけはほんとうだね(笑)」なんて、映画の感想を述べたというご本人には、大人(たいじん)の風格を感じまする。……だけど、この映画が映画として成功したのは、まさにそこに起因しているのでしょうね。ふーむ。
この映画がサクセスストーリーではない、と言ったのは、「サクセス」の物語なら、なにがどのように「サクセス」だったのかを明らかにしなければならないんじゃないかな、と思うんだけど、そういったことにはあまり興味がなさそうな描写だったからです。
facebookの何が本質的に凄かったのか、ザッカーバーグのどこが余人より優れていたのか、この映画の描写からではわからない。
facebookは世界初のソーシャルネットワークサービスではありませんし、しかも、ハーバード大学を起点に同種のサービスを展開する、というアイディアですら、ウィンクルボスらが発案してザッカーバーグに協力を要請した「ハーバード・コネクション」に類似のもの。後に訴訟を起こされ、ザッカーバーグ側が和解に応じているところからも、このアイディア自体は、ザッカーバーグの完全なオリジナルというより、盗用に近いものだったのかもしれない(というのが映画の描き方です)。
つまり、ザッカーバーグは「なにか新しい凄いアイディア」を世界に問うた、というわけではなさそうです。
そしてザッカーバーグ自身もまた、プログラマーとして、どれだけ他人とちがった物凄い才能を持ったひとだったのか、というようなことは、ほとんどわかりません。一晩でハーバードのサーバーをダウンさせるようなサイトを立ちあげた、と言えば凄そうに聞こえるけれど、それは、「二択で女の子の品定めをさせる」というアイディアが斬新だっただけで、コンピュータプログラムとして何が画期的だったのかは、映画を観る限りではわかりません。
つまり、ザッカーバーグが「こんな凄いことをした」というのは主に、facebookの加盟人数がどんどん増えていき、会社の価値があがっていった、という経済的部分で(のみ)描写されているわけです。
だったらそれって、見たことがある。
その既視感の正体は、才能ある青年が、己の才能だけを頼りに巨万の富を築き上げることのできる分野、そう、ミュージシャンの逸話として知っているわけですね。
この映画が青春映画だと思えるのも、かれらの挙措進退が、全て成功し(て仲間割れの挙句分裂し)たバンド青年の物語と置き換えが可能だからだと思う。
この映画が一面、普遍的な青春映画であるがために、普通の感性を持った等身大の青年を瑞々しく演じたアンドリュー・ガーフィールドの演技がとても映えるし、貴重に思えるのだけど、反面、その同じ青春を共に生きたキャラクターとしてのジェシー・アイゼンバーグが、上記のように(また後述するように)かなり特異な人物として描かれているので、このふたりの関係性というのが、実はよくわかりません。相手に対してどのような「友情」を感じていたのか。
というのも、「友情」もまた、コミュニケーションの大きな一形態であるにもかかわらず、ここで描かれているコミュニケーションは、いわゆる普通のコミュニケーションではない、ということ。
この映画が、単に音楽の才能をコンピュータの才能に置き換えただけなら、手垢のついた物語に過ぎなくなってしまうけど、この映画が特別で有り得たのは、これがまぎれもなくコミュニケーションというものの本質をえぐりだした映画だからだと思う。
この映画のクライマックスは、実は冒頭でのザッカーバーグとガールフレンドのエリカとの会話にあるんじゃないかと思うぐらい、このシーンの出来栄えはすばらしいです。このかみ合わない会話の応酬。その内容や、使われる語彙や、そのときのふたりの表情といったものは、実に実に恐ろしいほどたくさんのことを語っている。単にふたりの会話の(というより、ザッカーバーグの喋りの)情報量が多い、というのみならず、示唆していること、抽象化していること、そこから演繹されることが半端でないです。そして結局、それらが示す方向の先には、コミュニケーションの不全、という問題が、砂漠の中に突然立ち昇ってくるラスベガスの街みたいに、屹立している。
ここで描かれているのは、コミュニケーションスキルの不足なんてことじゃ、全然ない。スキルが不足しているのなら、学習することができるけど、(この映画の)ザッカーバーグの場合、コミュニケーション自体が「できない」のだと思える。それはもう、脳の大事なシナプスがどこか機能してないみたいに。
実際には、まがりなりにもfacebookを大企業に育てあげることができた創業者にコミュニケーションアビリティ(スキルではなく)がないなんて、有り得ないと思う(ので、やはり映画はフィクションだ、という意を強くするわけだけど)のだけれど、そのコミュニケーションできない人間が、何億人ものコミュニケーションを司っている、というのが、とても皮肉な問題提起になっているように思えるのです。
ところで、最初にキャメロンとタイラーのウィンクルボス兄弟を観たとき、わたくし、とっても興奮いたしました(笑)。だって、あの顔で(とってもイケメン)あの身体で(190㎝100キロの偉丈夫)、しかもふたごだなんて! これは凄い! さすが人材豊富なハリウッド! すごい素材をみつけてきた! と思ってしまったんですけど……残念、二重の意味で勘違いでした(汗)。
第一に、ウィンクルボス兄弟を演じた俳優はふたごではなく、アーミー・ハマーひとりであること。
第ニに、ハマーひとりがウィンクルボス兄弟を演じたわけではなく、あの見事に鍛え上げられた体躯は、また別の役者さん(ジョッシュ・ペンス)だったこと。
くそー。デヴィッド・“ベンジャミンバトン”・フィンチャーに、やられたぜ。こんなカラクリだったとは(>_<)。
というわけで、まあ、ガッカリっちゃあガッカリではあるんですけど、アーミー・ハマーがイケメンである事実には変わりはないので、これからのご活躍を密かに見守っていきたいと思います(笑)。
by shirakian
| 2011-02-17 23:34
| 映画さ行