2010年 10月 21日
ミックマック
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★ネタバレ注意★
ジャン=ピエール・ジュネ監督といえば、『アメリ』の、という認識になるのでしょうが、わたしにとってはやっぱり、『デリカテッセン』の監督であり『ロスト・チルドレン』の監督であります。
この映画もまた、カラフルでスウィートでガーリーな『アメリ』的世界というより、『デリカテッセン』や『ロスト・チルドレン』的ブラックユーモアが漂う、思い切りひとをくった世界観や演出が楽しい一作。ウェルカムバック、ムッシュー・ジュネ♪
主人公のバジル(ダニー・ブーン)は、幼い頃、父親を地雷で亡くしてしまう。母親はショックで精神を病み、施設で育つことになったかれは、長じてビデオ・レンタルショップに職を得るものの、店番中のある夜、発砲事件に巻き込まれ、頭に銃弾を受ける。一命は取り留めたものの、銃弾の除去はできず、そのためにいつ命を落としてもおかしくない不安な生活を余儀なくされた上に、入院中に職も家も失ってしまう。ホームレスとなったバジルは、廃品回収で生計を立てている奇妙な集団に迎え入れられ、生活を共にするようになるが、父親を殺した地雷を製造した会社と自分の頭に残る銃弾の製造会社が、通りを隔てた向かい同士に社屋を構えていることを知り、両方の企業に復讐することを決意する。
というストーリーラインです。
バジルを「家族」の一員として迎え入れてくれた人々というのも、それぞれ社会からはみだしてしまった感のある奇人変人揃いで、それぞれの来歴が詳しく語られることはないのだけれど、それぞれが(恐らく悲しい)過去を背負ってここまで流れついてきたのだろうな、ということが伺われるひとばかりです。
「まっとうな」社会の中では居場所がみつけられず、不幸な経験で厭世的になってしまった(のかもしれない)人々でも、こうして寄り集まって擬似家族を形成することはできる。互いを思いやる気持ちがあれば、血縁があるどころか、筋の通った説明すら不可能な摩訶不思議な集団だって、ちゃんと家族として機能することができる。家族の機能とは、アクセプトとコンフォートとプロテクトです。基本的に、ジュネ監督の視線は優しい。
実は最初にこの映画のアウトラインを知ったとき、バジルという主人公は、普通の智能を持ってはいないひととして描かれているんだろうな、と、なんとなく思っていました。頭に銃弾を受けたまま、という設定から、脳の機能が阻害されているような印象を受けたし、色々あったにせよ、ホームレスになって云々、という流れからも、スマートに要領よく生きていけているひとのような感じはもてなかったし。それでも、大企業に復讐を試みる、というのですから、イディオ・サヴァンのような不思議なひらめきを持ったキャラクターなのかもしれない、というのがぼんやりとした予想でした。
ところが実はそんなことは全くなくて、バジルという男、かなりクレバーな人物として描かれています。もちろん、色々と抜けてたり、ずれてたり、とぼけてたりはする「ゆるキャラ」系ではあるのですが、二つの企業を疑心暗鬼に陥れ、互いに潰しあいを演じさせた上、共倒れにさせる、という作戦の立案は、なかなかどうして適確で腹黒い。
作戦の実行がおとぼけ的演出で描かれているので、うっかりするとほのぼのとした印象を持ってしまうのですが、「どう」なされたか、ではなく「なにが」なされたかに着目してみれば、クライブ・オーウェンが主人公の話だとしてもおかしくはないよ(まじっすか)。
金儲けのために武器を作って輸出する会社を経営し、なおかつ自身も自分たちの製品で現地のひとたちが傷つこうが死のうが良心の咎めなんかは一切感じない、仕事のためなら汚いことでも平気でやる、云々、わかりやすい「悪」を配し、対するバジルたちは、既得権益の類を一切もたない完全な弱者であるという設定、絵に描いたような勧善懲悪の物語は、一種の風刺劇ですが、そこにはシニカルな視線というより、告発したいテーマを素直に告発したまじめさのようなものが感じられます。もしかしたら世界は変えられるかもしれない(もちろん変えられないかもしれない)。
だけど、確実に言えるのは、それでもひとは幸せになれるよという監督の耳打ちかもしれません。とってもかわいい楽しい映画。観たあと気持ちがほっこりします。
ジャン=ピエール・ジュネ監督といえば、『アメリ』の、という認識になるのでしょうが、わたしにとってはやっぱり、『デリカテッセン』の監督であり『ロスト・チルドレン』の監督であります。
この映画もまた、カラフルでスウィートでガーリーな『アメリ』的世界というより、『デリカテッセン』や『ロスト・チルドレン』的ブラックユーモアが漂う、思い切りひとをくった世界観や演出が楽しい一作。ウェルカムバック、ムッシュー・ジュネ♪
主人公のバジル(ダニー・ブーン)は、幼い頃、父親を地雷で亡くしてしまう。母親はショックで精神を病み、施設で育つことになったかれは、長じてビデオ・レンタルショップに職を得るものの、店番中のある夜、発砲事件に巻き込まれ、頭に銃弾を受ける。一命は取り留めたものの、銃弾の除去はできず、そのためにいつ命を落としてもおかしくない不安な生活を余儀なくされた上に、入院中に職も家も失ってしまう。ホームレスとなったバジルは、廃品回収で生計を立てている奇妙な集団に迎え入れられ、生活を共にするようになるが、父親を殺した地雷を製造した会社と自分の頭に残る銃弾の製造会社が、通りを隔てた向かい同士に社屋を構えていることを知り、両方の企業に復讐することを決意する。
というストーリーラインです。
バジルを「家族」の一員として迎え入れてくれた人々というのも、それぞれ社会からはみだしてしまった感のある奇人変人揃いで、それぞれの来歴が詳しく語られることはないのだけれど、それぞれが(恐らく悲しい)過去を背負ってここまで流れついてきたのだろうな、ということが伺われるひとばかりです。
「まっとうな」社会の中では居場所がみつけられず、不幸な経験で厭世的になってしまった(のかもしれない)人々でも、こうして寄り集まって擬似家族を形成することはできる。互いを思いやる気持ちがあれば、血縁があるどころか、筋の通った説明すら不可能な摩訶不思議な集団だって、ちゃんと家族として機能することができる。家族の機能とは、アクセプトとコンフォートとプロテクトです。基本的に、ジュネ監督の視線は優しい。
実は最初にこの映画のアウトラインを知ったとき、バジルという主人公は、普通の智能を持ってはいないひととして描かれているんだろうな、と、なんとなく思っていました。頭に銃弾を受けたまま、という設定から、脳の機能が阻害されているような印象を受けたし、色々あったにせよ、ホームレスになって云々、という流れからも、スマートに要領よく生きていけているひとのような感じはもてなかったし。それでも、大企業に復讐を試みる、というのですから、イディオ・サヴァンのような不思議なひらめきを持ったキャラクターなのかもしれない、というのがぼんやりとした予想でした。
ところが実はそんなことは全くなくて、バジルという男、かなりクレバーな人物として描かれています。もちろん、色々と抜けてたり、ずれてたり、とぼけてたりはする「ゆるキャラ」系ではあるのですが、二つの企業を疑心暗鬼に陥れ、互いに潰しあいを演じさせた上、共倒れにさせる、という作戦の立案は、なかなかどうして適確で腹黒い。
作戦の実行がおとぼけ的演出で描かれているので、うっかりするとほのぼのとした印象を持ってしまうのですが、「どう」なされたか、ではなく「なにが」なされたかに着目してみれば、クライブ・オーウェンが主人公の話だとしてもおかしくはないよ(まじっすか)。
金儲けのために武器を作って輸出する会社を経営し、なおかつ自身も自分たちの製品で現地のひとたちが傷つこうが死のうが良心の咎めなんかは一切感じない、仕事のためなら汚いことでも平気でやる、云々、わかりやすい「悪」を配し、対するバジルたちは、既得権益の類を一切もたない完全な弱者であるという設定、絵に描いたような勧善懲悪の物語は、一種の風刺劇ですが、そこにはシニカルな視線というより、告発したいテーマを素直に告発したまじめさのようなものが感じられます。もしかしたら世界は変えられるかもしれない(もちろん変えられないかもしれない)。
だけど、確実に言えるのは、それでもひとは幸せになれるよという監督の耳打ちかもしれません。とってもかわいい楽しい映画。観たあと気持ちがほっこりします。
by shirakian
| 2010-10-21 21:01
| 映画ま行