2010年 09月 02日
魔法使いの弟子
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★ネタバレ注意★
ブラッカイマー制作のディズニー映画で主演がニコケ、という時点で、観ようかどうしようか逡巡してしまったのですが、監督がジョン・タートルトーブなので、なんだかはずせない気持ちになってしまいました。ジョンっていうのはね(隣の家の犬じゃないんだからジョン呼びはやめよう)、世紀の大傑作を次々と生み出している映画史に残る監督、というわけではないと思うのですが、わたくしにとっては『フェノミナン』を撮った監督である。これは大きい。
なんと言うか、きっちりと職人的に撮った娯楽作品の中に、細やかな情感を込める手法に優れていて、とにかく人間描写がリリカルで温かく、かつ(これは脚本家の手柄かもしれないけれど)平凡なストーリーの中の、平凡な台詞まわしの中に、うっかりしていると聞き流してしまいそうな、でも味わってみると、宝石みたいにキラリと光る含蓄のある台詞をちりばめて見せる。
もしかしてそういう映画だったらいいな、と思ってみたらば、ほんとにそういう映画でした。近年ありがちなCG満載のファミリー向けアドベンチャーファンタジーで、ほとんど無名に近い若手が主役という点から言っても、『パーシー・ジャクソン』を髣髴とさせますが、わたし的には全く評価できなかったPJとは異なり、こちらは、傑作秀作とまでは言わぬにしても、良品佳作であろうかと思います。
善良な魔法使いマーリンは、太古の昔より三人の弟子バルサザール(ニコラス・ケイジ)、ヴェロニカ(モニカ・ベルッチ)、ホルヴァート(アルフレッド・モリナー)と共に、邪悪な魔法使いモルガナ・ル・フェイと戦ってきたが、マーリーンは戦いで命を落とし、ホルヴァートは悪の側につき、ヴェロニカは我が身を犠牲にしてモルガナ・ル・フェイを人形の中に封じ込めてしまった。残されたバルサザールは、ヴェロニカを助け出し、モルガナ・ル・フェイの野望をくじくため、1000年の長きに渡りマーリンの後継者となる“選ばれし者”を探していた。
というわけで、探し出された後継者が物理オタクの大学生デイヴ(ジェイ・バルシェル)です。かれがニコケに魔法使いの弟子として特訓を授けられ、ついに悪い魔女と対決するというのがメインストーリー。
まず、ニコラス・ケイジ&アルフレッド・モリナー組の、ベテラン魔法使い勢の手堅い演技が映画にどっしりした安定感を与えて成功していたと思います。せっかくキャスティングしたベテラン勢の見せ場を全く作らなかったPJの轍を踏まず、骨格をベテラン勢に支えさせ、しっかり花を持たせた演出がよく、ベテランふたりもよく応えたと思います。モリナーの存在感はさすがで、ほんと安心して観ていられましたし、わたし的には苦手なケイジも、この映画ではいい仕事してるなぁ、と思いました。
その分、せっかく世界一の美女を起用したというのに、モニカ・ベルッチがあんまり活躍しなかったのが、ちょっと残念。
そして、CGの出来も、絵的にものすごく独創的なものがあったかと言われればそれほどでもないのですが、金属の彫刻の牛や鷲が動き出す際の重量感など、これまた手堅いお仕事だったと思います。
何より、やっぱ、「魔法使いの弟子」ですもの、ディズニーですもの、『ファンタジア』のオマージュになってるお掃除のシーンがとってもかわいくて楽しかったのであります♪ タートルトーブ監督、ありがとうv
魔法使いの弟子を演じたジェイ・バルシェルは、『ダイハード4.0』のジャスティン・ロングや『クリミナル・マインド』のマシュー・グレイ・ギュブラーの系譜に連なる「かわいいオタク青年」のひとりだと思います(あー、容姿的には、ジャスティンやマシューに比べればかなり残念な感じではあるんだけど(汗))。
かわいいオタク青年というのは、つまり、オタクだけどキモオタじゃない、ということね。これって大事。
オタクとキモオタの境を分けるのは、服装とか喋り方とか容姿とか色々ありますが、やはり対人スキルでありましょう、と思います。スキル、というより、心構え、気延え、気配り。
そもそもオタクというのは、何かの対象に向かって深ぁくフォーカスして没頭してしまうひとのことで、それで言うなら大抵の学者先生はオタクでしょう、と思うわけで、それ自体は決して悪いことじゃないと思うのですが、キモオタというのは、ダメ。キモオタって、他人とコミュニケーションをとろうという気持ちのないひとだから。相手の気持ちを考えて、相手が不快でないか、困ってないか、退屈してないか、考える想像力がない、というよりそもそも考える気なんかない、から、人間という社会の中で見ると「キモイ」のです。人間は基本的に社会性の動物だからね。
オタキングこと岡田斗司夫氏の、「オタクってゆう人種は、言葉のキャッチボールなんか求めていない、言葉の投球練習がしたいだけ」、という発言を聞いて、至言だ、と思ったことがあるです。岡田氏自身は、会社を設立したり大学で教えたり、きちんとコミュニケーション能力や、コミュニケートしようとする気持ちのあるひとだと思うので、かれ自身に関して言えばこれは極論だろうと思うのですが、相手に投げ返したいものがあろうがなかろうが、とにかく自分が投げてスッキリできればそれでいい、という、対人関係を含めた全てにおいて、他人なんかどうでもいい、自分の欲望が満たされればそれでいい、という態度こそが「キモオタ」を特徴づけるものであると思う。
そういう意味で言えば、魔法使いの弟子のデイヴは、対人スキルは低いけど、相手のことを考える気持ちはちゃんと持ってる。ぎこちない表現ではあるけれど、それを表そうと努力している。だからオタクではあっても、嫌な印象がない、物語の主人公としてちゃんと感情移入できるキャラクターになっている。
それが感じられるのが、かれが少年のころから思ってきたマドンナ、ベッキー(テリーサ・パーマー)との一連の会話で、それぞれの台詞はとてもありふれたものなので、単に冒険アドベンチャーとして観ていれば気がつかずに通り過ぎてしまうかもしれないけれど、ひとりの青年の青春譜として見れば、そのありふれた台詞が実はとても丹念に吟味されたものであることが感じられるのではないかと思うのです。そこがこの監督の映画のよさだなぁ、と。
第一、気になる女の子にプラズマ実験を見せて喜ばせようとする物理オタクなんて、かわいいじゃん(笑)。しかも、単に「どや顔」で自分のことを見せ付けるのではなく、ちゃんと彼女が大事にしている音楽というものに敬意をはらい、そのことをわかってもらおうと努力している。あのシーンは、とてもディズニーらしい愛すべきシーンになってたと思うのであります。ね、これって、とってもかわいらしい青春映画でもあると思うの。
それが成り立つのは、デイヴだけが感じがよくてもダメで、ベッキーもまたかわいいお嬢さんであります。マドンナキャラなので、ちやほやされることに慣れきってるプライドばかり高い高飛車な女の子だったらイヤだな、と思って観たらば、とっても素直で心根の優しい子で、クライマックスのシーンでは、高所恐怖症であるにもかかわらず、デイヴをサポートして高いところで頑張っちゃったりするのもいい感じなのであります。
ブラッカイマー制作のディズニー映画で主演がニコケ、という時点で、観ようかどうしようか逡巡してしまったのですが、監督がジョン・タートルトーブなので、なんだかはずせない気持ちになってしまいました。ジョンっていうのはね(隣の家の犬じゃないんだからジョン呼びはやめよう)、世紀の大傑作を次々と生み出している映画史に残る監督、というわけではないと思うのですが、わたくしにとっては『フェノミナン』を撮った監督である。これは大きい。
なんと言うか、きっちりと職人的に撮った娯楽作品の中に、細やかな情感を込める手法に優れていて、とにかく人間描写がリリカルで温かく、かつ(これは脚本家の手柄かもしれないけれど)平凡なストーリーの中の、平凡な台詞まわしの中に、うっかりしていると聞き流してしまいそうな、でも味わってみると、宝石みたいにキラリと光る含蓄のある台詞をちりばめて見せる。
もしかしてそういう映画だったらいいな、と思ってみたらば、ほんとにそういう映画でした。近年ありがちなCG満載のファミリー向けアドベンチャーファンタジーで、ほとんど無名に近い若手が主役という点から言っても、『パーシー・ジャクソン』を髣髴とさせますが、わたし的には全く評価できなかったPJとは異なり、こちらは、傑作秀作とまでは言わぬにしても、良品佳作であろうかと思います。
善良な魔法使いマーリンは、太古の昔より三人の弟子バルサザール(ニコラス・ケイジ)、ヴェロニカ(モニカ・ベルッチ)、ホルヴァート(アルフレッド・モリナー)と共に、邪悪な魔法使いモルガナ・ル・フェイと戦ってきたが、マーリーンは戦いで命を落とし、ホルヴァートは悪の側につき、ヴェロニカは我が身を犠牲にしてモルガナ・ル・フェイを人形の中に封じ込めてしまった。残されたバルサザールは、ヴェロニカを助け出し、モルガナ・ル・フェイの野望をくじくため、1000年の長きに渡りマーリンの後継者となる“選ばれし者”を探していた。
というわけで、探し出された後継者が物理オタクの大学生デイヴ(ジェイ・バルシェル)です。かれがニコケに魔法使いの弟子として特訓を授けられ、ついに悪い魔女と対決するというのがメインストーリー。
まず、ニコラス・ケイジ&アルフレッド・モリナー組の、ベテラン魔法使い勢の手堅い演技が映画にどっしりした安定感を与えて成功していたと思います。せっかくキャスティングしたベテラン勢の見せ場を全く作らなかったPJの轍を踏まず、骨格をベテラン勢に支えさせ、しっかり花を持たせた演出がよく、ベテランふたりもよく応えたと思います。モリナーの存在感はさすがで、ほんと安心して観ていられましたし、わたし的には苦手なケイジも、この映画ではいい仕事してるなぁ、と思いました。
その分、せっかく世界一の美女を起用したというのに、モニカ・ベルッチがあんまり活躍しなかったのが、ちょっと残念。
そして、CGの出来も、絵的にものすごく独創的なものがあったかと言われればそれほどでもないのですが、金属の彫刻の牛や鷲が動き出す際の重量感など、これまた手堅いお仕事だったと思います。
何より、やっぱ、「魔法使いの弟子」ですもの、ディズニーですもの、『ファンタジア』のオマージュになってるお掃除のシーンがとってもかわいくて楽しかったのであります♪ タートルトーブ監督、ありがとうv
魔法使いの弟子を演じたジェイ・バルシェルは、『ダイハード4.0』のジャスティン・ロングや『クリミナル・マインド』のマシュー・グレイ・ギュブラーの系譜に連なる「かわいいオタク青年」のひとりだと思います(あー、容姿的には、ジャスティンやマシューに比べればかなり残念な感じではあるんだけど(汗))。
かわいいオタク青年というのは、つまり、オタクだけどキモオタじゃない、ということね。これって大事。
オタクとキモオタの境を分けるのは、服装とか喋り方とか容姿とか色々ありますが、やはり対人スキルでありましょう、と思います。スキル、というより、心構え、気延え、気配り。
そもそもオタクというのは、何かの対象に向かって深ぁくフォーカスして没頭してしまうひとのことで、それで言うなら大抵の学者先生はオタクでしょう、と思うわけで、それ自体は決して悪いことじゃないと思うのですが、キモオタというのは、ダメ。キモオタって、他人とコミュニケーションをとろうという気持ちのないひとだから。相手の気持ちを考えて、相手が不快でないか、困ってないか、退屈してないか、考える想像力がない、というよりそもそも考える気なんかない、から、人間という社会の中で見ると「キモイ」のです。人間は基本的に社会性の動物だからね。
オタキングこと岡田斗司夫氏の、「オタクってゆう人種は、言葉のキャッチボールなんか求めていない、言葉の投球練習がしたいだけ」、という発言を聞いて、至言だ、と思ったことがあるです。岡田氏自身は、会社を設立したり大学で教えたり、きちんとコミュニケーション能力や、コミュニケートしようとする気持ちのあるひとだと思うので、かれ自身に関して言えばこれは極論だろうと思うのですが、相手に投げ返したいものがあろうがなかろうが、とにかく自分が投げてスッキリできればそれでいい、という、対人関係を含めた全てにおいて、他人なんかどうでもいい、自分の欲望が満たされればそれでいい、という態度こそが「キモオタ」を特徴づけるものであると思う。
そういう意味で言えば、魔法使いの弟子のデイヴは、対人スキルは低いけど、相手のことを考える気持ちはちゃんと持ってる。ぎこちない表現ではあるけれど、それを表そうと努力している。だからオタクではあっても、嫌な印象がない、物語の主人公としてちゃんと感情移入できるキャラクターになっている。
それが感じられるのが、かれが少年のころから思ってきたマドンナ、ベッキー(テリーサ・パーマー)との一連の会話で、それぞれの台詞はとてもありふれたものなので、単に冒険アドベンチャーとして観ていれば気がつかずに通り過ぎてしまうかもしれないけれど、ひとりの青年の青春譜として見れば、そのありふれた台詞が実はとても丹念に吟味されたものであることが感じられるのではないかと思うのです。そこがこの監督の映画のよさだなぁ、と。
第一、気になる女の子にプラズマ実験を見せて喜ばせようとする物理オタクなんて、かわいいじゃん(笑)。しかも、単に「どや顔」で自分のことを見せ付けるのではなく、ちゃんと彼女が大事にしている音楽というものに敬意をはらい、そのことをわかってもらおうと努力している。あのシーンは、とてもディズニーらしい愛すべきシーンになってたと思うのであります。ね、これって、とってもかわいらしい青春映画でもあると思うの。
それが成り立つのは、デイヴだけが感じがよくてもダメで、ベッキーもまたかわいいお嬢さんであります。マドンナキャラなので、ちやほやされることに慣れきってるプライドばかり高い高飛車な女の子だったらイヤだな、と思って観たらば、とっても素直で心根の優しい子で、クライマックスのシーンでは、高所恐怖症であるにもかかわらず、デイヴをサポートして高いところで頑張っちゃったりするのもいい感じなのであります。
by shirakian
| 2010-09-02 21:03
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