2010年 07月 10日
レポゼッション・メン
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冒頭いきなり「シュレーディンガーの猫」の講釈から始まったりするあたり、なんだかウキウキしてしまったのですが、観終わって思うのは、シュレーディンガーによって提唱された量子論的思考実験の命題(ラジウムとガイガーカウンターを起動スイッチとして、観察者の計りえないタイミングで自動的に青酸ガスが放出される仕組みを仕込んだ箱の中に猫を入れた場合、生死を確認する前の段階では、その猫が生きている確率と死んでいる確率は半々であり、理論上、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなければならない)は、この映画のテーマとは、若干乖離していたな、ということです。
さらに言えば、「人工臓器」という同じモチーフであるかに見えながら、心臓や脾臓といった「即物的」臓器と、脳という、認識論に踏み込みかねない臓器とでは、内包するテーマがちがうはずで、それを一緒くたに語ろうとしたがために、前半と後半ではやはり印象が乖離してしまったな、とも思いました。
人工臓器が普及した近未来。高額な人工臓器を手に入れるために、人々の多くは製造元のユニオン社が用意する高利のローンを組んでいた。そして返済が滞ったが最後、ユニオン社の回収人“レポメン”によって、人工臓器は回収されてしまう。
レミー(ジュード・ロウ)と相棒のジェイク(フォレスト・ウィティカー)は、小学生の頃からのつきあいで、成人した今は、腕っこきレポメンとしてユニオン社に多大な利益を還元していた。しかし、レミーの仕事を嫌った妻キャロル(カリス・ファン・ハウテン)の執拗な要求により、レミーは回収業務から販売業務へ配置換えを希望することに。ところが、これが最後の回収業務となったその日、レミーは有り得ない事故で心臓に損傷を負い、人工心臓を埋め込まれてしまう。
ローン返済のためには高給が期待できる回収業をやめるわけにはいかない立場に追い込まれながらも、もはやレミーには他人の身体を切り開いて無理矢理臓器を奪う、という仕事はできず、必然的に返済は滞り、ついには自らがレポメンに追われる立場になってしまう。
という物語。シュレーディンガーの猫をメタファーとして用いるのなら、それはやはり、生命維持に欠かせない臓器を、いつ何どき他人の手によって否応なく奪われるかわからない、という状態は、果たしてほんとうの意味で生きていると言える状態なのか、死んでいるに等しい状態なのか、という、ある意味哲学的な命題になろうかと思うのですが、実際にはこの設定から強くたちのぼってくるのは、経済原則の臭いです。
事実、物語冒頭でレミーの口から、レポメンの仕事は、車や住宅のローンが返済できなくなった人々から車や住宅を取り上げる仕事と何ら変わらない、と語らせており、臓器の回収もまた、金の切れ目が縁の切れ目、払えなくなったらそれまで、という、冷徹な経済原則の物語なのだと思う。
そういう目で見れば、レミーを仕事に縛り付けておくために、敢て巨額のローンを負わせる、という設定も、強制的に社員に自社株を買わせたり、社販品を大量に買わせたりする、あくまで利益追求を第一義とする企業の阿漕なやり口と何ら変わらないと思われるのです。
そして更に、単に生き延びるための必然、というのみならず、見栄や快楽を追及するあまり、本来なら不必要な臓器移植に手を出す人々がいる、という描写もまた、分不相応な車や住宅を買ったがために経済的に破綻してしまった「愚かな」人々の有り様と対応していると思う。
この物語は本来、そういう割と即物的で、普通に社会派の話として落すべきだったんじゃないかな、と思うのだけど、さきにも述べたように、後半、人造脳、というモチーフがからんでくることによって、話がおかしな方向に暴走します。
や、わたしは個人的に、この展開はテーマに添っていない、と思うので「暴走」という言い方をしましたが、もちろん、これを「意外な展開」として楽しむ方も大勢いらっしゃると思うし、映画はすべからく楽しんだ者が勝ちなわけですが。
人造脳というモチーフを持ち込むことによって、一挙に、わたしが体験しているこの現実は、ほんとうに現実なのか、わたしとは一体だれか、わたしはほんとうに存在しているのか、といった「ディック的混迷」の世界になだれこむわけで、この映画にそれが扱えていたとは思えないのです。
そうは言っても、後半の、(そういった事情で)整合のつかない描写の数々は、やはり大変魅力的であります。特に両手にナイフを握ったレニーが、「ピンクのドア」めがけて突進していく際の殺陣の描写なんて、『オールド・ボーイ』のチェ・ミンシクを思わせる壮絶な映像になっていて、凄い。
そこに到るまでの、ユニオン社本社内部の悪夢的な雰囲気も、思わずニンマリしてしまうものがあります。全体的に、暴力描写が過剰に思えはするけれど(エグくて見ていられない、なんて乙女なことを言う気はありませんが、あまりそういう描写に拘りすぎて、テンポが阻害されている感じがする) 、映像的演出的には上々の出来かと思われます。
最後にどうしても気になったのが、ヒロイン、ベス(アリシー・ブラガ)の描写です。このひと、ヒロインというには、設定がダーティに過ぎる……。
もたもたしているうちに妻から三行半をつきつけられた哀れなレミーが偶然助け、心惹かれて共に逃亡することになる、という女性で、10個もの人工臓器の支払いができず、追われている立場なんですけれども。
その10個の人工臓器というのが、なんだかなぁ、という感じ。10個の内訳とうのが、目×2、耳×2、喉、性器、肺、腎臓×2、膝、なんですが、この中で生存に必要不可欠な移植は、とりあえず肺と腎臓ですよね。でも、この臓器がダメになったのは、彼女の麻薬常習癖による結果だと言う。悪いけど、あまり同情できません。
そして目と耳と喉ですが。
色が変わる仕様の目、通常以上の聴覚を備え、ワイヤーで繋げば集音機として他人と共有できる耳、歌を歌うための喉(レミーが最初にベスに惹かれたのはその歌声を聞いたから)、という設定を見ると、それらの器官に障害があっての移植ではなく、ファッションとしての人体改造だったことが伺われます。性器については言わずもがなです。
そういうくだらない臓器移植もある、というのは、さきにも述べた「経済原則」的描写からはアリなんですけど、それをヒロインがやる必然性はないと思う(ヒロインのことは好きになりたいのに、この設定ではムリです)。
それに何より、そういう「快楽のための不必要な人体改造」と、「生きるために必要不可欠な臓器移植」を一緒くたに語られてしまったのでは、本当に、その臓器さえあれば、と祈る気持ちでいる人々の真剣な思いを逆撫でするでしょう。
結局、ベスに関してリーズナブルな移植は、事故でダメにした膝、この一点につきると思うし、このひとつがあればドラマは作れたし、もっと描写を掘り下げることだってできただろうに、と思うので、かなり残念な気がします。恐らく10個の人工臓器という設定は、活劇に花を添え、ピンクのドア内部でのエピソードを盛り上げるための「為にする設定」だったと思うのだけど、為にする設定が見えてしまうのは、いつでも興醒めなものです。
by shirakian
| 2010-07-10 17:53
| 映画ら行