2010年 02月 20日
ダイアナの選択
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2008年のアメリカ映画、ヴァディム・パールマン監督。
劇場公開の際、見逃してしまって気になっていた映画です。レンタルで観ました。
通っていた高校で銃の乱射事件に巻き込まれ、犯人に親友と自分とどっちの命を選ぶか、という選択を迫られたヒロイン・ダイアナの15年後の物語。
高校時代のダイアナをエヴァン・レイチェル・ウッドが、30代になったダイアナをユマ・サーマンが演じています。
わたしはこの映画、『エレファント』のような映画だと頭っから信じこんで、これっぽっちも疑ってみなかったのです。
コロンバイン高校の銃乱射事件、および類似の、学校での銃の乱射事件を題材にした映画やその他の創作はすでに数多くあるかと思うのですが、恐らく、何度でも繰り返し語り継がねばならないほどに、ああした事件がアメリカ社会に残した傷は深くて痛いのだから、類似の映画や創作が多数作られるのも当然だ、という思い込みがあったので、『エレファント』のような映画が再び作られた、ということに関する疑いがまったくなかったのです。
しかも、犯人側にも目配りした『エレファント』とは異なり、この映画はあくまで純然たる被害者及び、事件のサヴァイヴァーがその後どうやって、自分だけ生き残ったことへの(本来なら感じる必要のない)良心の呵責と闘って再生したか、という物語であろうと、頭っから信じ込んで露ほども疑っていませんでした。
だから、こんな仕掛けのある映画だって、思わなかった。
そうした目で観ると、この映画はまず、優れた青春映画として際立つものであると思います。ダイアナとモーリーン(エヴァ・アムリ)の友情が、きめ細やかに描かれていて、少女期特有の自負や不安や愚かさや内省や幼さや純粋さや優しさやナイーブさや残酷さが、丹念に丹念に描かれていて、ダイアナのような奔放な少女でも、モーリーンのような優等生でもなかった、それどころか少女ですらなかった人間であっても、この年代の少女たちの鼻先をくすぐる大気の香を感じることができるのです。
ふとしたきっかけで仲良くなったふたりの少女、一見正反対のように見えるふたりだけれど、内面のどこかに共通する芯があり、だから誰よりもわかりあうことができる。
日曜日には教会に通い、神様の声に耳を傾ける少女であるモーリーンには、若さをもてあましているようなダイアナの生き方が気がかりで仕方ない。
どうしてあなたはそんな風な生き方をするの? そんな風にってなによ? アバズレってこと?
こんなに綺麗で、本質的に聡明で、善良な、磨かぬダイヤモンドのような少女なら、どれだけでも輝かしい未来が開けているのだろうに、ダイアナは自ら自分をすり減らすような生き方をしてしまう。
優しい夫と結ばれ、かわいい娘をもうけ、やりがいのある仕事をし、大きなファミリーカーに乗って、高級住宅地のポーチのある家に住み、平凡に、だけど幸せに、生きることだってできただろうに。
若さゆえの、時間は無限にあると思える者ゆえの、奢りと、保護される身である、自立することの叶わぬ、弱い存在である者ゆえの、苛立ちと。
田舎町では自分を存分に表現できないダイアナは、事実、バカな男にひっかかって妊娠中絶するはめになるのを頂点に、自ら望んだかのように痛ましい青春の道を歩んでしまいます。
そんな彼女の行く末を案じ、生物学の教師はダイアナに、きみは翼があるのだから飛ぶ方角を過つな、と忠告をしてくれると同時に、ある哲学教授の講演を聞きに行くよう勧めてくれる。きっと彼女の指針となるであろうから、と。
しかしその物静かな教師も、乱射事件に巻き込まれ、腹部を撃たれてしまうのです。
苦さも痛みも踏まえつつ、それでも輝かしく明らかに夏の陽光のもとにあったエヴァン・レイチェル・ウッドの描写とは裏腹に、15年後のユマ・サーマンの姿は灰色にくすんで常に不安で哀しげで抑圧されているように見えます。
観客にはそれが、彼女が負ったトラウマと良心の痛みゆえのものと思われる。
その生活はまさに、少女だった彼女が夢見ていたのと寸部違わぬものであるはずなのに、35歳のダイアナはいつも怯えていて幸せではない。
そして、彼女の暮らしにぽっかりと開いた亀裂が、やがて観客の目にも、ジワジワと明らかになっていくのです。
夫にかけても常に繋がらない携帯、いなくなったり隠れたり「存在が不確かな」娘、不自然な娘の言動、繰り返されるどこかで聞いた台詞、事件の直前に、初めて男の子とつきあうことになってはしゃいでいるモーリーンがダイアナに「ダブルデイト」しようともちかけたとき、ダイアナの意中の男の名前はなんと言ったか? ポール? 教授のポール? 繋がらない電話に残した留守録メッセージ?
そして終了間際になって、ダイアナがどのような選択をしたのかが明かされるとき、観客は深い虚脱に身をゆだねることになる。悲しみというには、あまりにもやるせない、それはまさに虚脱としかいいようのない感情です。
人間の筋肉の中で最も強い筋肉は、心臓である、とくだんの生物学の教師は言う。
ダイアナの命が消えるまでの一瞬の間に、15年もの長い長い夢を見たのは、彼女が撃たれたのが腹でも頭でもなく心臓だったからかもしれない。努力しても夢は夢、叶えられなかった夢の中の、生まれなかった子ども。告げられなかった思いの、叶わなかった恋。最初の思い込みが強かっただけに、ラストはわたしにはショックでした。エンディングに向けてのサスペンスを煽る描写も優れているし、事実観客がショックを受けたことを思えば、この映画はサスペンスとして成功した映画だと言えるのでしょうが、それでもやるせなさの中で感じるのは、どうしてこの物語が、ダイアナの再生の物語ではなかったのだろう、ということです。高校時代のダイアナとモーリーンの描写があまりにも秀逸であるだけに、サスペンスに持っていった演出が、なんだか残念に思われてしまうのでした。
劇場公開の際、見逃してしまって気になっていた映画です。レンタルで観ました。
通っていた高校で銃の乱射事件に巻き込まれ、犯人に親友と自分とどっちの命を選ぶか、という選択を迫られたヒロイン・ダイアナの15年後の物語。
高校時代のダイアナをエヴァン・レイチェル・ウッドが、30代になったダイアナをユマ・サーマンが演じています。
わたしはこの映画、『エレファント』のような映画だと頭っから信じこんで、これっぽっちも疑ってみなかったのです。
コロンバイン高校の銃乱射事件、および類似の、学校での銃の乱射事件を題材にした映画やその他の創作はすでに数多くあるかと思うのですが、恐らく、何度でも繰り返し語り継がねばならないほどに、ああした事件がアメリカ社会に残した傷は深くて痛いのだから、類似の映画や創作が多数作られるのも当然だ、という思い込みがあったので、『エレファント』のような映画が再び作られた、ということに関する疑いがまったくなかったのです。
しかも、犯人側にも目配りした『エレファント』とは異なり、この映画はあくまで純然たる被害者及び、事件のサヴァイヴァーがその後どうやって、自分だけ生き残ったことへの(本来なら感じる必要のない)良心の呵責と闘って再生したか、という物語であろうと、頭っから信じ込んで露ほども疑っていませんでした。
だから、こんな仕掛けのある映画だって、思わなかった。
そうした目で観ると、この映画はまず、優れた青春映画として際立つものであると思います。ダイアナとモーリーン(エヴァ・アムリ)の友情が、きめ細やかに描かれていて、少女期特有の自負や不安や愚かさや内省や幼さや純粋さや優しさやナイーブさや残酷さが、丹念に丹念に描かれていて、ダイアナのような奔放な少女でも、モーリーンのような優等生でもなかった、それどころか少女ですらなかった人間であっても、この年代の少女たちの鼻先をくすぐる大気の香を感じることができるのです。
ふとしたきっかけで仲良くなったふたりの少女、一見正反対のように見えるふたりだけれど、内面のどこかに共通する芯があり、だから誰よりもわかりあうことができる。
日曜日には教会に通い、神様の声に耳を傾ける少女であるモーリーンには、若さをもてあましているようなダイアナの生き方が気がかりで仕方ない。
どうしてあなたはそんな風な生き方をするの? そんな風にってなによ? アバズレってこと?
こんなに綺麗で、本質的に聡明で、善良な、磨かぬダイヤモンドのような少女なら、どれだけでも輝かしい未来が開けているのだろうに、ダイアナは自ら自分をすり減らすような生き方をしてしまう。
優しい夫と結ばれ、かわいい娘をもうけ、やりがいのある仕事をし、大きなファミリーカーに乗って、高級住宅地のポーチのある家に住み、平凡に、だけど幸せに、生きることだってできただろうに。
若さゆえの、時間は無限にあると思える者ゆえの、奢りと、保護される身である、自立することの叶わぬ、弱い存在である者ゆえの、苛立ちと。
田舎町では自分を存分に表現できないダイアナは、事実、バカな男にひっかかって妊娠中絶するはめになるのを頂点に、自ら望んだかのように痛ましい青春の道を歩んでしまいます。
そんな彼女の行く末を案じ、生物学の教師はダイアナに、きみは翼があるのだから飛ぶ方角を過つな、と忠告をしてくれると同時に、ある哲学教授の講演を聞きに行くよう勧めてくれる。きっと彼女の指針となるであろうから、と。
しかしその物静かな教師も、乱射事件に巻き込まれ、腹部を撃たれてしまうのです。
苦さも痛みも踏まえつつ、それでも輝かしく明らかに夏の陽光のもとにあったエヴァン・レイチェル・ウッドの描写とは裏腹に、15年後のユマ・サーマンの姿は灰色にくすんで常に不安で哀しげで抑圧されているように見えます。
観客にはそれが、彼女が負ったトラウマと良心の痛みゆえのものと思われる。
その生活はまさに、少女だった彼女が夢見ていたのと寸部違わぬものであるはずなのに、35歳のダイアナはいつも怯えていて幸せではない。
そして、彼女の暮らしにぽっかりと開いた亀裂が、やがて観客の目にも、ジワジワと明らかになっていくのです。
夫にかけても常に繋がらない携帯、いなくなったり隠れたり「存在が不確かな」娘、不自然な娘の言動、繰り返されるどこかで聞いた台詞、事件の直前に、初めて男の子とつきあうことになってはしゃいでいるモーリーンがダイアナに「ダブルデイト」しようともちかけたとき、ダイアナの意中の男の名前はなんと言ったか? ポール? 教授のポール? 繋がらない電話に残した留守録メッセージ?
そして終了間際になって、ダイアナがどのような選択をしたのかが明かされるとき、観客は深い虚脱に身をゆだねることになる。悲しみというには、あまりにもやるせない、それはまさに虚脱としかいいようのない感情です。
人間の筋肉の中で最も強い筋肉は、心臓である、とくだんの生物学の教師は言う。
ダイアナの命が消えるまでの一瞬の間に、15年もの長い長い夢を見たのは、彼女が撃たれたのが腹でも頭でもなく心臓だったからかもしれない。努力しても夢は夢、叶えられなかった夢の中の、生まれなかった子ども。告げられなかった思いの、叶わなかった恋。最初の思い込みが強かっただけに、ラストはわたしにはショックでした。エンディングに向けてのサスペンスを煽る描写も優れているし、事実観客がショックを受けたことを思えば、この映画はサスペンスとして成功した映画だと言えるのでしょうが、それでもやるせなさの中で感じるのは、どうしてこの物語が、ダイアナの再生の物語ではなかったのだろう、ということです。高校時代のダイアナとモーリーンの描写があまりにも秀逸であるだけに、サスペンスに持っていった演出が、なんだか残念に思われてしまうのでした。
by shirakian
| 2010-02-20 21:29
| 映画た行