2010年 02月 12日
インビクタス/負けざる者たち
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近来稀に見るすがすがしい映画でした。
衒いもなく、ひねりもなく、まっすぐ、まっすぐ、ひたすらまっすぐ。
70歳をはるかに越えて、こんなピュアな映画が撮れるなんて、イーストウッド監督の懐の深さには恐れ入ります。
驚くほどにシンプルでストレートな映画ですので、イーストウッドは仕事のし過ぎで演出が粗くなっちゃって、こんなストレート過ぎる映画を撮っちゃったんだ、というような評も、事前に耳にしていましたが、実際に観てみると、この映画がストレートなのは、ストレートに撮るべき映画だったからストレートなのであって、演出が粗いからストレートになっちゃったわけではない、ということです。
1995年、南アフリカで開催されたラグビーワールドカップ大会。アパルトヘイト政策への批判から、それまで対外試合の機会を奪われていた南ア代表のスプリングボックスは、国際試合を戦えるだけの実力を失っていた。白人支配の象徴であったチームを、総人口の大半を占める黒人層は決して応援せず、チームは惨敗続き。しかし、反アパルトヘイト政策を掲げ、大統領に就任したネルソン・マンデラは、スプリングボックスがこの大会で勝ち抜くことが、人々の心を一つにし、白人と黒人が宥和する国家を実現するためには最良の手段であると考え、選手たちに檄を飛ばす。その結果、「奇跡」が起きた。
物語は、1990年、ネルソン・マンデラが27年に及ぶ投獄から釈放されたシーンから始まります。熱狂する黒人、困惑と不安と恐怖と嫌悪の視線で見守る白人。白人にとってマンデラは、テロリストの首魁なのです。
ところが、大統領に就任したマンデラが最初にやったことは、新政権からは追い出されるものと決めてかかって荷物をまとめ始めた白人スタッフたちを集め、共に新しい国を作っていこうと語りかけることでした。
このマンデラを演じているのがモーガン・フリーマンです。マンデラと個人的に親交があるフリーマンは、この映画では自らプロデューサーも勤め、イーストウッドに監督を要請し、自ら作るべき映画として情熱を注ぎこみ、見事に結実させたのだと思います。フリーマンのマンデラは、役柄の解釈、などというレベルを超え、マンデラ本人が乗り移ったとしか思えないほど。
穏やかで礼儀正しく、常にユーモアのセンスを忘れない紳士。言うべきことを言うべきタイミングでピシャリと言い、やるべきことをやるべきときに恐れずにやりとげるパワーを持った強烈なカリスマ。しかし同時に、私生活では必ずしも幸せではなかった孤独な男。決して饒舌ではない、淡々とした演出の中で、マンデラの人間性を適確に伝えるフリーマンの演技と、イーストウッドの演出は、天晴れとしか言いようがないです。
押し付けがましさがなく、お涙ちょうだいの美談に流されない演出から、観客は逆に、素直にマンデラという偉人のなしとげた偉業に驚嘆し、胸が熱くなるのを禁じえないのだと思います。
白人と黒人の宥和のためにマンデラが行ったことは星の数ほどあったかと思いますが、あれもやりました、これもやりました、と徒に羅列するのではなく、95年のラグビーワールドカップという題材にしぼったのが実に功を奏していると思います。
マンデラの宥和政策の基本にあったのは「赦す」ということですが、それを描写するのに、支配権を得た黒人層がまずやろうとした、白人支配の象徴であり、白人選手ばかりのスプリングボックスのユニフォームや名称の変更を自ら阻止したという、端的でわかりやすいエピソードで示してみせる。これだけで観客は、マンデラが何をしようとしているのか、そのことにはどのような意味があるのかを、理解することができる。
マンデラの真摯な姿勢をクッキリと描き出すことに成功しているから、スプリングボックスの選手たちが、最初は困惑を感じ、反発していた者も、かれの思想に共鳴し、「単なるラグビープレイヤーではない」自らの役割を理解し、それを果たすべく奮戦努力する姿に説得力があるのです。
だからこそ、弱体だったかれらが、堂々と世界の強豪に伍していき、最後にはついに世界最強のチーム、オールブラックスを破って世界一の栄冠を勝ち取る姿が、素直に感動に結びつくのだと思います。
そしてそれは、単にラグビーの試合ではない、という高度に政治的な意味合いをもったものでありながら、政治的に利用されたという臭みを感じさせず、それでもはやりラグビーの試合なのであり、スポーツとはそれ自体ですばらしい力を持ったものなのである、という(これまた素直でまっすぐな)主張を感じ取ることができるのです。
なぜというに、試合そのものの演出がすばらしいから。特にオールブラックスとの試合の描写、編集のすばらしさは、凄いとしかいいようがないです。
や、わたし自身は、ラグビー、ルールすら知らないドシロウトですが。それでも思うんだから、ラグビーに思いいれのある人が見たら、あの迫力は鳥肌ものだと思います。特にあの音響が、ねぇ。
どすっ! ふぬっ! どかっ! ぐふっ! がきっ! むん! ずさっ! って、ああ、丹田にしみわたる(>_<)。
圧倒的に強いオールブラックスVS今まで世界的には洟もひっかけられなかった弱体スプリングボックス、しかし弱体側にとっては絶対に負けるわけのいかない戦い、チームと観客席の、延いては全南アフリカ国民の心が一つになって、ついに勝ち取った奇跡の勝利、もう、ね、どこの少年ジャンプですか、って世界ですが、これが実話なんですからね、長生きはするもんだわ。
で、これでうまいのが、南ア側のチームキャプテンがマット・デイモンであることですね。ラガーマンとして見れば体格的にむしろ小さいのみならず、キャラクター的にも、熱血イメージより知的で物静かな雰囲気の漂うかれを敢えて配したことにより、「持てる限りの力をふるい強大な敵に立ち向かう」というモチーフをクッキリと浮き上がらせることに成功していると思います。
「小さな」デイモンが、どんなタックルも跳ね返してしまう重戦車のようなオールブラックスのジョナ・ロムー選手と闘うに際し、「腕が折れても足が折れても首が折れてもあいつを止めるんだ!」と激を飛ばすシーンでは、思わず観客の血液温度も沸点近く跳ね上がるのです。
そして事実、この試合では、ペナルティゴールでしか点が入らない。ラグビーを知らないわたしから見ると、それってつまり、スプリングボックス側が、文字通り身体を張ってロムーを止めたため、オールブラックス側としてはタッチダウンにまで持ち込めなかったし、プレイそのものがどうしてもラフプレーになり、ペナルティが頻発した、という風に見えたのですが、まちがってたら教えてください、ラグビーに詳しい方。
スポーツの試合を通じて人々の心が一つになる、という演出を、イーストウッド監督は、ゴミ拾いをしていた黒人の少年が、警備にあたっていたパトカーのラジオ中継を聞きたくてジリジリと近づいていくと、最初は追い払おうとしていた白人警官たちも、やがて一緒になって試合にのめり込み、少年の立ち位置が、ギリギリ声の聞こえる離れた場所から、次第に車に近づいてきて、やがてはボンネットにすわりこみ、しまいにゃちゃっかりコーラまで奢ってもらって、試合終了時には肩車されて大騒ぎ、というまことに微笑ましい絵で見せてくれています。
……そんな演出を甘ったるいということは可能でしょう。事実この映画では、既得権益を失う白人たちの、恐怖や嫌悪がほとんど描かれていません。マンデラをテロリスト呼ばわりするフランソワ・ピナール(デイモン)の父親ですら、息子が貴重な試合チケットを黒人のお手伝いさんのために用意したことに異を唱えず、仲良く一緒に観戦する始末。
でもたぶん、それはそれで、一面の真実であったと思うのです。たとえこのとき限りの一過性の熱狂であったとしても、確かにこの年、あの試合の場では、黒人と白人のわだかまりが、完全に氷塊する瞬間があったのだと、思わせる力があるのです。
実際には解決すべき社会問題は山積の状態で、スポーツ試合で勝ったところで何一つ解決されたわけではないのに、そんなことで国民の目を逸らし、問題が解決したかのように錯覚させるなんて、といった性格のものではなく、スポーツには、ほんとにそれだけの力があるのだと、少なくともマンデラは信じたし、クリント・イーストウッド監督も信じているし、だから観客もそれが信じられるのです。(念のため言えば、わたしはオリンピック中継すら全く見ようと思わない、スポーツとは完全に無縁の人間ですが)。
決勝戦の前に、スプリングボックスの選手たちが、マンデラが収監されていた監獄を見学に行くシーンがあります。マンデラが閉じ込められていた小さなセルを見て、デイモンは、こんなところに27年も閉じ込められていた男が、どうして「赦す」ということができるのか、と感慨にふけるのですが、むしろ驚くべきことは、かれが赦すことができたことではなく、いつか赦しを行う日のために、決して希望を失わず、理想を失わずにいたということです。いつかこの国を変えることができると、信じ続けてこられたことです。そしてほんとうに、国を変えてしまったことです。
たぶん一生、何もなさず、だれのためにもならず、だれひとり幸せにすることなく、無意味に生き、なんとなく生涯を終えるであろう自分のような人間からすると、自分には何かができると信じ、何かをなすために実際に行動し続け、実際に何かをなしとげてしまうマンデラのような不撓不屈な、そしてある意味、ピュアな存在には、いっそ胸の痛みすら感じます。
うーん。しかし、このブログで言及すべきことは、マンデラの警備主任を演じたトニー・キゴロギが、とってもすてきなイケメンさんだった、ということであろうかと思いますけれども(笑)。心からマンデラに敬服し、マンデラを守るという任務に命をかけている男。責任感が強く、忍耐強く、強靭で、有能な頼れる守護神。かれのね、ギラッと勁い目がいいんだ、すっごく。
衒いもなく、ひねりもなく、まっすぐ、まっすぐ、ひたすらまっすぐ。
70歳をはるかに越えて、こんなピュアな映画が撮れるなんて、イーストウッド監督の懐の深さには恐れ入ります。
驚くほどにシンプルでストレートな映画ですので、イーストウッドは仕事のし過ぎで演出が粗くなっちゃって、こんなストレート過ぎる映画を撮っちゃったんだ、というような評も、事前に耳にしていましたが、実際に観てみると、この映画がストレートなのは、ストレートに撮るべき映画だったからストレートなのであって、演出が粗いからストレートになっちゃったわけではない、ということです。
1995年、南アフリカで開催されたラグビーワールドカップ大会。アパルトヘイト政策への批判から、それまで対外試合の機会を奪われていた南ア代表のスプリングボックスは、国際試合を戦えるだけの実力を失っていた。白人支配の象徴であったチームを、総人口の大半を占める黒人層は決して応援せず、チームは惨敗続き。しかし、反アパルトヘイト政策を掲げ、大統領に就任したネルソン・マンデラは、スプリングボックスがこの大会で勝ち抜くことが、人々の心を一つにし、白人と黒人が宥和する国家を実現するためには最良の手段であると考え、選手たちに檄を飛ばす。その結果、「奇跡」が起きた。
物語は、1990年、ネルソン・マンデラが27年に及ぶ投獄から釈放されたシーンから始まります。熱狂する黒人、困惑と不安と恐怖と嫌悪の視線で見守る白人。白人にとってマンデラは、テロリストの首魁なのです。
ところが、大統領に就任したマンデラが最初にやったことは、新政権からは追い出されるものと決めてかかって荷物をまとめ始めた白人スタッフたちを集め、共に新しい国を作っていこうと語りかけることでした。
このマンデラを演じているのがモーガン・フリーマンです。マンデラと個人的に親交があるフリーマンは、この映画では自らプロデューサーも勤め、イーストウッドに監督を要請し、自ら作るべき映画として情熱を注ぎこみ、見事に結実させたのだと思います。フリーマンのマンデラは、役柄の解釈、などというレベルを超え、マンデラ本人が乗り移ったとしか思えないほど。
穏やかで礼儀正しく、常にユーモアのセンスを忘れない紳士。言うべきことを言うべきタイミングでピシャリと言い、やるべきことをやるべきときに恐れずにやりとげるパワーを持った強烈なカリスマ。しかし同時に、私生活では必ずしも幸せではなかった孤独な男。決して饒舌ではない、淡々とした演出の中で、マンデラの人間性を適確に伝えるフリーマンの演技と、イーストウッドの演出は、天晴れとしか言いようがないです。
押し付けがましさがなく、お涙ちょうだいの美談に流されない演出から、観客は逆に、素直にマンデラという偉人のなしとげた偉業に驚嘆し、胸が熱くなるのを禁じえないのだと思います。
白人と黒人の宥和のためにマンデラが行ったことは星の数ほどあったかと思いますが、あれもやりました、これもやりました、と徒に羅列するのではなく、95年のラグビーワールドカップという題材にしぼったのが実に功を奏していると思います。
マンデラの宥和政策の基本にあったのは「赦す」ということですが、それを描写するのに、支配権を得た黒人層がまずやろうとした、白人支配の象徴であり、白人選手ばかりのスプリングボックスのユニフォームや名称の変更を自ら阻止したという、端的でわかりやすいエピソードで示してみせる。これだけで観客は、マンデラが何をしようとしているのか、そのことにはどのような意味があるのかを、理解することができる。
マンデラの真摯な姿勢をクッキリと描き出すことに成功しているから、スプリングボックスの選手たちが、最初は困惑を感じ、反発していた者も、かれの思想に共鳴し、「単なるラグビープレイヤーではない」自らの役割を理解し、それを果たすべく奮戦努力する姿に説得力があるのです。
だからこそ、弱体だったかれらが、堂々と世界の強豪に伍していき、最後にはついに世界最強のチーム、オールブラックスを破って世界一の栄冠を勝ち取る姿が、素直に感動に結びつくのだと思います。
そしてそれは、単にラグビーの試合ではない、という高度に政治的な意味合いをもったものでありながら、政治的に利用されたという臭みを感じさせず、それでもはやりラグビーの試合なのであり、スポーツとはそれ自体ですばらしい力を持ったものなのである、という(これまた素直でまっすぐな)主張を感じ取ることができるのです。
なぜというに、試合そのものの演出がすばらしいから。特にオールブラックスとの試合の描写、編集のすばらしさは、凄いとしかいいようがないです。
や、わたし自身は、ラグビー、ルールすら知らないドシロウトですが。それでも思うんだから、ラグビーに思いいれのある人が見たら、あの迫力は鳥肌ものだと思います。特にあの音響が、ねぇ。
どすっ! ふぬっ! どかっ! ぐふっ! がきっ! むん! ずさっ! って、ああ、丹田にしみわたる(>_<)。
圧倒的に強いオールブラックスVS今まで世界的には洟もひっかけられなかった弱体スプリングボックス、しかし弱体側にとっては絶対に負けるわけのいかない戦い、チームと観客席の、延いては全南アフリカ国民の心が一つになって、ついに勝ち取った奇跡の勝利、もう、ね、どこの少年ジャンプですか、って世界ですが、これが実話なんですからね、長生きはするもんだわ。
で、これでうまいのが、南ア側のチームキャプテンがマット・デイモンであることですね。ラガーマンとして見れば体格的にむしろ小さいのみならず、キャラクター的にも、熱血イメージより知的で物静かな雰囲気の漂うかれを敢えて配したことにより、「持てる限りの力をふるい強大な敵に立ち向かう」というモチーフをクッキリと浮き上がらせることに成功していると思います。
「小さな」デイモンが、どんなタックルも跳ね返してしまう重戦車のようなオールブラックスのジョナ・ロムー選手と闘うに際し、「腕が折れても足が折れても首が折れてもあいつを止めるんだ!」と激を飛ばすシーンでは、思わず観客の血液温度も沸点近く跳ね上がるのです。
そして事実、この試合では、ペナルティゴールでしか点が入らない。ラグビーを知らないわたしから見ると、それってつまり、スプリングボックス側が、文字通り身体を張ってロムーを止めたため、オールブラックス側としてはタッチダウンにまで持ち込めなかったし、プレイそのものがどうしてもラフプレーになり、ペナルティが頻発した、という風に見えたのですが、まちがってたら教えてください、ラグビーに詳しい方。
スポーツの試合を通じて人々の心が一つになる、という演出を、イーストウッド監督は、ゴミ拾いをしていた黒人の少年が、警備にあたっていたパトカーのラジオ中継を聞きたくてジリジリと近づいていくと、最初は追い払おうとしていた白人警官たちも、やがて一緒になって試合にのめり込み、少年の立ち位置が、ギリギリ声の聞こえる離れた場所から、次第に車に近づいてきて、やがてはボンネットにすわりこみ、しまいにゃちゃっかりコーラまで奢ってもらって、試合終了時には肩車されて大騒ぎ、というまことに微笑ましい絵で見せてくれています。
……そんな演出を甘ったるいということは可能でしょう。事実この映画では、既得権益を失う白人たちの、恐怖や嫌悪がほとんど描かれていません。マンデラをテロリスト呼ばわりするフランソワ・ピナール(デイモン)の父親ですら、息子が貴重な試合チケットを黒人のお手伝いさんのために用意したことに異を唱えず、仲良く一緒に観戦する始末。
でもたぶん、それはそれで、一面の真実であったと思うのです。たとえこのとき限りの一過性の熱狂であったとしても、確かにこの年、あの試合の場では、黒人と白人のわだかまりが、完全に氷塊する瞬間があったのだと、思わせる力があるのです。
実際には解決すべき社会問題は山積の状態で、スポーツ試合で勝ったところで何一つ解決されたわけではないのに、そんなことで国民の目を逸らし、問題が解決したかのように錯覚させるなんて、といった性格のものではなく、スポーツには、ほんとにそれだけの力があるのだと、少なくともマンデラは信じたし、クリント・イーストウッド監督も信じているし、だから観客もそれが信じられるのです。(念のため言えば、わたしはオリンピック中継すら全く見ようと思わない、スポーツとは完全に無縁の人間ですが)。
決勝戦の前に、スプリングボックスの選手たちが、マンデラが収監されていた監獄を見学に行くシーンがあります。マンデラが閉じ込められていた小さなセルを見て、デイモンは、こんなところに27年も閉じ込められていた男が、どうして「赦す」ということができるのか、と感慨にふけるのですが、むしろ驚くべきことは、かれが赦すことができたことではなく、いつか赦しを行う日のために、決して希望を失わず、理想を失わずにいたということです。いつかこの国を変えることができると、信じ続けてこられたことです。そしてほんとうに、国を変えてしまったことです。
たぶん一生、何もなさず、だれのためにもならず、だれひとり幸せにすることなく、無意味に生き、なんとなく生涯を終えるであろう自分のような人間からすると、自分には何かができると信じ、何かをなすために実際に行動し続け、実際に何かをなしとげてしまうマンデラのような不撓不屈な、そしてある意味、ピュアな存在には、いっそ胸の痛みすら感じます。
うーん。しかし、このブログで言及すべきことは、マンデラの警備主任を演じたトニー・キゴロギが、とってもすてきなイケメンさんだった、ということであろうかと思いますけれども(笑)。心からマンデラに敬服し、マンデラを守るという任務に命をかけている男。責任感が強く、忍耐強く、強靭で、有能な頼れる守護神。かれのね、ギラッと勁い目がいいんだ、すっごく。
by shirakian
| 2010-02-12 21:45
| 映画あ行