2010年 01月 17日
(500)日のサマー
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トムという青年が、サマーという娘と出会い、恋に落ち、おつきあいが始まり、踊りたいほどハッピーだったのに、なぜかうまく行かず、辛い別れになったけど、それでもライフゴーズオンな500日の物語。
トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)はグリーティングカードを作る会社のコピーライター、サマー(ゾーイ・デシャネル)はそこに入社してきた雑用事務の女の子。
トムは(男だてらに)運命(の恋)を信じるロマンティスト、サマーは(女のくせに)真実の愛なんか信じていないリアリスト。だからすれちがうふたりの恋愛事情……という設定がキモであるようですが、でも、たぶん、おそらく、そんな設定は、単なるギミックに過ぎないように思えます。
ふたりの間にあるのは、思想信条の違いではなく、経験値の差。
トムは見るからに奥手そうで、恋愛巧者とは言いがたい。サマーが気になって仕方ないのに、自分からは声をかけることすらできない。一方のサマーは、いわゆるモテ系の女の子。「サマー効果」とやらで、男なんかほっといても向こうから寄ってきちゃうから、恋のチャンスは選り取り緑。当然経験も豊富です。そんなふたりがつきあうのだもの、そりゃあ、すれちがうよね。
トムは「理想の女の子とつきあってる自分」という、ただそのことに、舞い上がってしまいます。その嬉しさは、出勤途中の通りでダンスを踊ってしまうほど(このダンスのシーンはマジでかわいいです)。だけど、どうも、サマーの気持ちとは、かなりの温度差がある模様。
それもそのはず、トムにとっては「運命の相手」であっても、サマーにとっては、あくまでワン・オブ・ゼム。楽しそうだからだからつきあってはみたけれど、所詮最初から、うーん? イマイチ? という感はぬぐいがたく、だからこそ、「縛られる関係はイヤ」「真剣につきあう気はない」などと、あらかじめ予防線を張るのです。それでも構わない、と相手の言質をとっておけば、いざ、やっぱりダメになったときに、だってわたしたち、友達よね? という、立派なエクスキューズが成り立つというもの。最強モテ系女子は、決して修羅場の醜態なんか晒さないのです。サマーの「真実の恋を信じていない」という属性の正体なんて、そんなもんなんだろうなと思う。
そして、ただ振るだけじゃなく、別れの理由に、「シド・ヴィシャスになるのが怖いの」なんてキメ台詞を吐く余裕もたっぷり。トムには悪いけど、笑っちゃうよね。
要するにサマーにとってのトムは「なんかちがう相手」だった、というだけのことで、だからサマーは、あ、これはアタリ、と思う相手にめぐり合ったら、「縛られることが嫌いで運命の恋なんか信じちゃいない」はずなのに、掌を返したように「運命の相手」と(見ようによっては究極の束縛でもあるとも言える)「結婚」という選択をすることに、何の矛盾も自家撞着もないのです。たとえトムが、どれほど理解に苦しもうと。
物語はトム視点で語られるので、どうしてもトムに肩入れしてしまう、という点を考慮しなくても、サマーが「ヤな女」であることに変わりはないので、一方的にトムを擁護したくもなってしまうけど、でも、それもそれでどうかな、という気もしないでもないです。結局、恋愛沙汰なんて、どっちもどっち?
つまり、トムのあの、全く周りが見えてない舞い上がりっぷりって、サマーの立場からしたら、かなりウザイんじゃないかな、と思ったり。や、トム自身は、とても感じがいい青年なので、第三者から見たら別にウザくはないんですが、当事者のサマーはどうかな、と。
同じ舞い上がるにしても、それが『パブリック・エネミーズ』で超むかつくはしゃぎっぷりを見せてくれたベイビーフェイス・ネルソンことスティーヴン・グレアムだったら、第三者から見ても相当ウザイと思われるので、そのウザさのイヤさもわかりやすいかも(スティーヴン・グレアムには何の罪もないのだけれども)。
そもそもこの映画は、「これはラブストーリーではない」という宣言から始まるのです。そして確かに「ラブ」ストーリーではないんです。ここで描かれていることは、「ラブ」とは何の関係もない。
愛っていうのは、相手のことを受け入れること、信じること、尊重すること、思いに耳を澄ますこと、そして何より見つめること。トムが見ているのは、トムの脳内にいるサマーという幻影であって、決してサマー本人ではないということ。トムは日々サマーに見とれているようでいて、その実ちっともサマーのことなんか見てはいないということ。だからトムには、どうしてサマーが自分から離れていってしまうのか、決して理解できないということ。
トムがサマーを笑わせようと躍起になるのは、サマーを笑わせられる自分が好きだから。そのとき、サマーが笑いたいかどうかなんて、トムには思いも及ばない。
だから悪いということではなく、恋愛というのは、元来そういうもので、ましてや恋を知り初めた奥手男子の恋愛なんて、それ以上でも以下でもなく、そうであるしかしようのないものなんだということが、トムを見ていればわかるのだけど。
この映画がラブストーリーじゃないとしたら、一体何の話なんだろう? ということで、「通過儀礼の話」という説がありますが、それもどうなのかしら、と思うです。儀礼を通過したなら成長してほしいと思うのだけど、トムのやっていることは同じことの繰り返してあって、成長なんかちっともしていないようなので。
たぶんきっと、トムはサマーとやったことを、オータム相手にも繰り返すんじゃないかな。そしてオータムとの関係が壊れたときも、決してその理由が理解できなかったりするんじゃないかな。
まあ、サマーの方だって、三年ほど経って再会したら、とっくにくだんの「運命の相手」とは別れていて、それどころか、その後の後の後ぐらいのカレシと一緒だったりしていそうな気もするのだけれど。
あらあら、なんでこんなに眉間に皺よせちゃうのかな。
結構オシャレでかわいくて楽しい映画だったのにね。
たぶん、アレだ、せっかくボーイがガールにミーツする話なんだから、「これはラブストーリーではない」なんて嘯かないで、ちゃんとラブのあるストーリーを見たかったからかもしれない。そっちの方が、きっと、絶対、すてきだと思うよ。
トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)はグリーティングカードを作る会社のコピーライター、サマー(ゾーイ・デシャネル)はそこに入社してきた雑用事務の女の子。
トムは(男だてらに)運命(の恋)を信じるロマンティスト、サマーは(女のくせに)真実の愛なんか信じていないリアリスト。だからすれちがうふたりの恋愛事情……という設定がキモであるようですが、でも、たぶん、おそらく、そんな設定は、単なるギミックに過ぎないように思えます。
ふたりの間にあるのは、思想信条の違いではなく、経験値の差。
トムは見るからに奥手そうで、恋愛巧者とは言いがたい。サマーが気になって仕方ないのに、自分からは声をかけることすらできない。一方のサマーは、いわゆるモテ系の女の子。「サマー効果」とやらで、男なんかほっといても向こうから寄ってきちゃうから、恋のチャンスは選り取り緑。当然経験も豊富です。そんなふたりがつきあうのだもの、そりゃあ、すれちがうよね。
トムは「理想の女の子とつきあってる自分」という、ただそのことに、舞い上がってしまいます。その嬉しさは、出勤途中の通りでダンスを踊ってしまうほど(このダンスのシーンはマジでかわいいです)。だけど、どうも、サマーの気持ちとは、かなりの温度差がある模様。
それもそのはず、トムにとっては「運命の相手」であっても、サマーにとっては、あくまでワン・オブ・ゼム。楽しそうだからだからつきあってはみたけれど、所詮最初から、うーん? イマイチ? という感はぬぐいがたく、だからこそ、「縛られる関係はイヤ」「真剣につきあう気はない」などと、あらかじめ予防線を張るのです。それでも構わない、と相手の言質をとっておけば、いざ、やっぱりダメになったときに、だってわたしたち、友達よね? という、立派なエクスキューズが成り立つというもの。最強モテ系女子は、決して修羅場の醜態なんか晒さないのです。サマーの「真実の恋を信じていない」という属性の正体なんて、そんなもんなんだろうなと思う。
そして、ただ振るだけじゃなく、別れの理由に、「シド・ヴィシャスになるのが怖いの」なんてキメ台詞を吐く余裕もたっぷり。トムには悪いけど、笑っちゃうよね。
要するにサマーにとってのトムは「なんかちがう相手」だった、というだけのことで、だからサマーは、あ、これはアタリ、と思う相手にめぐり合ったら、「縛られることが嫌いで運命の恋なんか信じちゃいない」はずなのに、掌を返したように「運命の相手」と(見ようによっては究極の束縛でもあるとも言える)「結婚」という選択をすることに、何の矛盾も自家撞着もないのです。たとえトムが、どれほど理解に苦しもうと。
物語はトム視点で語られるので、どうしてもトムに肩入れしてしまう、という点を考慮しなくても、サマーが「ヤな女」であることに変わりはないので、一方的にトムを擁護したくもなってしまうけど、でも、それもそれでどうかな、という気もしないでもないです。結局、恋愛沙汰なんて、どっちもどっち?
つまり、トムのあの、全く周りが見えてない舞い上がりっぷりって、サマーの立場からしたら、かなりウザイんじゃないかな、と思ったり。や、トム自身は、とても感じがいい青年なので、第三者から見たら別にウザくはないんですが、当事者のサマーはどうかな、と。
同じ舞い上がるにしても、それが『パブリック・エネミーズ』で超むかつくはしゃぎっぷりを見せてくれたベイビーフェイス・ネルソンことスティーヴン・グレアムだったら、第三者から見ても相当ウザイと思われるので、そのウザさのイヤさもわかりやすいかも(スティーヴン・グレアムには何の罪もないのだけれども)。
そもそもこの映画は、「これはラブストーリーではない」という宣言から始まるのです。そして確かに「ラブ」ストーリーではないんです。ここで描かれていることは、「ラブ」とは何の関係もない。
愛っていうのは、相手のことを受け入れること、信じること、尊重すること、思いに耳を澄ますこと、そして何より見つめること。トムが見ているのは、トムの脳内にいるサマーという幻影であって、決してサマー本人ではないということ。トムは日々サマーに見とれているようでいて、その実ちっともサマーのことなんか見てはいないということ。だからトムには、どうしてサマーが自分から離れていってしまうのか、決して理解できないということ。
トムがサマーを笑わせようと躍起になるのは、サマーを笑わせられる自分が好きだから。そのとき、サマーが笑いたいかどうかなんて、トムには思いも及ばない。
だから悪いということではなく、恋愛というのは、元来そういうもので、ましてや恋を知り初めた奥手男子の恋愛なんて、それ以上でも以下でもなく、そうであるしかしようのないものなんだということが、トムを見ていればわかるのだけど。
この映画がラブストーリーじゃないとしたら、一体何の話なんだろう? ということで、「通過儀礼の話」という説がありますが、それもどうなのかしら、と思うです。儀礼を通過したなら成長してほしいと思うのだけど、トムのやっていることは同じことの繰り返してあって、成長なんかちっともしていないようなので。
たぶんきっと、トムはサマーとやったことを、オータム相手にも繰り返すんじゃないかな。そしてオータムとの関係が壊れたときも、決してその理由が理解できなかったりするんじゃないかな。
まあ、サマーの方だって、三年ほど経って再会したら、とっくにくだんの「運命の相手」とは別れていて、それどころか、その後の後の後ぐらいのカレシと一緒だったりしていそうな気もするのだけれど。
あらあら、なんでこんなに眉間に皺よせちゃうのかな。
結構オシャレでかわいくて楽しい映画だったのにね。
たぶん、アレだ、せっかくボーイがガールにミーツする話なんだから、「これはラブストーリーではない」なんて嘯かないで、ちゃんとラブのあるストーリーを見たかったからかもしれない。そっちの方が、きっと、絶対、すてきだと思うよ。
by shirakian
| 2010-01-17 21:18
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