2009年 10月 25日
エスター
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ピーター・サースガード目当てで観に行きました。
ピーター・サースガードもちょっと気になる役者さんのひとり。 『ジャーヘッド』(2005年)以来ですから、かなりのお久しぶりです。
実はこの映画、ジャンル・ホラーだと思ってたし、監督のハウメ・コジェ=セラはあの『蝋人形の館』の監督さんだというし、正直、あんまり期待してなかったのです。ピーター・サースガード出演作じゃなかったら、行ってなかったかも。
ところが実はこれ、ホラーではなく、堂々たるサイコ・サスペンスだったばかりか、サスペンスとしての出来も上々だったりしたので、思わぬ拾い物をした感じです。
物語はこうです。
ケイトとジョンのコールマン夫妻(ヴェラ・ファーミガとピーター・サースガード)は、すでにふたりの子宝に恵まれていたが、三人目を死産し、特に妻のケイトはその精神的ショックからなかなか立ち直れなかった。そこで、生まれなかった第三子に注ぐはずだった愛情を向ける対象として、孤児院から孤児を引き取る。早熟で聡明なロシアから来た少女エスター(イザベル・ファーマン)との生活は、滑り出しは順調に思えたが、やがて夫妻の周りに次々と不吉な事件が発生する……。
ホラーの醍醐味(っていうか、怖さ?)は、ひとえにだれ(何)がなぜ襲ってくるのかわからない、という点にあろうかと思いますが、この映画の場合、最初から犯人はエスターであることがわかっています。しかも、わずか9歳の少女の犯行ですから、行為そのものは単純な「悪さ」の積み重ねとなります。従って、問題の焦点は、「だれ(あるいは何)」でも「いかにして」でもなく、「なぜ」という一点に集約されていきます。そしてそれは同時にエスターの正体に関するミステリーとも直結するのです。
エスターの正体が暴かれたとき、たぶん観客は、怖いというよりほっとするんじゃないかな。や、実際それはおぞましい事実ではあるけれど、わずか9歳の子どもがあんなことをしたと思うよりは、ずっと割り切れるネタあかしだったと思うのです。……スッキリしたのはわたしだけかな(汗)?
サイコサスペンスですから、ジワジワと心理的に追い詰められていく過程が怖いわけですが、その追い詰められていくターゲットに、追い詰められる者の恐怖や絶望をきちんと伝えることのできる演技巧者のふたり、ファーミガとサースガードを配したことが、この映画の勝利の一因であると思います。
ベラ・ファーミガって、『ディパーテッド』でディカプリオとマット・デイモンに二股かけた女として印象が悪いですが(だから、そういう役だったんだってば)、あの顔からこぼれんばかりの大きな目は、まさに恐怖描写にうってつけです。『シャイニング』のシェリー・デュヴァルといい勝負かも。
エスターの異常性に徐々に気づいていくファーミガに対し、それを信じようとしない(信じることのできない)夫のサースガード。この夫婦の心がすれ違っていく描写が、なんとも秀逸であります。
知的で落ち着いた美男美女のカップル。互いに恵まれた仕事を持ち、かわいい子どもたちもいて、何不自由のない幸せな生活、その完璧な幸福に見えたものが崩れ始める時、そのあっけなさには衝撃すら覚えるほどです。
丹念に張り巡らされた伏線のおかげで、崩壊の描写には確固たる説得力があります。そもそもこの夫婦には、以前からさまざまな問題がくすぶっていたのであり、いつそれが爆発してもおかしくはなかった、ということが、丁寧な脚本と演出できちんと描かれています。しかもそれを、安易な回想シーンや、ましてや台詞による説明に頼らず、進行形のシーンによって、さりげなく自然にほのめかし、説明していく手腕は見事なものだと思います。
そもそも、サースガード演じる夫は、妻の警告を信じることができず、却って彼女を疑ってしまったのですが、別にかれは独善的な暴君でもなければ、想像力に欠ける単細胞でもない。それどころか知的で温厚で理解力(少なくとも理解しようとする姿勢)のある、上等の部類に属する男なのですが、それでも、執拗にエスターを告発しようとする妻に対して、隠しようのない苛立ちを感じてしまいます。
それはひとつには、エスターの張り巡らした罠があまりにも巧妙であったために、騙されたサースガードの目には、エスターが問題行動のある子どもなのではなく、エスターを攻撃するファーミガの方こそ、子どもを虐待する理不尽でヒステリックな母親に見えてしまうのです。
サースガードの心理があっさりそのように傾いてしまった背景には、かれが以前から割り切れない思いを押し殺し、黙って妻を見守ってきたという経緯があります。
子どもが死産したことは、確かにこの家族にとって大きな不幸ではあったけれども、不幸にして生まれて来ることのできなかった子どもは、第一子でもなければ、唯一子でもない。残された子どもたちに愛情を注げばいいものを、なぜか死産した子どもに過剰にこだわり(と、夫には思える)、アルコールに逃げた結果、耳の不自由な長女を危うく殺しかけるなんて、言語道断だと、正直、この点に関しては未だに妻を許せないし、許すつもりもないのです。
要するに、女は妊娠期間中からすでに母親であり、胎児との繋がりを育んでいるものだけど、どんな想像力豊かな男であっても、男親というものは、赤ん坊が胎内から生まれ落ちるその瞬間までは、親としての実感を持つことはむずかしいのじゃないかな。その辺りからすでに、ふたりのすれ違いは始まっていたのです。
その結果妻の方は、エスターに感じる恐怖と同時に、自分の発言が、最も信じてもらいたいひとであり、この場合、信じてくれないことには自分自身の、そして愛する子どもたちの安全にもかかわる非常に大事な相手に信じてもらえないという、それこそ前者よりもっと激しい恐怖と絶望にさらされることになってしまう。
このあたりの描写でうまいなぁ、と思うのが、サースガードがファーミガを拒否する際に、居丈高に「黙れ!」と怒鳴りつけたりするのではなく、ファーミガの証言を否定する発言をしている人物(それこそエスター本人であったり、精神分析医であったり)の発言に彼女が割り込もうとすると、「最後まで聞いて」と、実にそっけなく遮るところ。これには、観ている方も背筋がひんやりしてしまいます。
信じてもらえなかった女と信じることのできなかった男。このふたりの関係は、かりにエスターの魔手から逃れ得たとしても、もう元には戻らなかったかもしれない。一度壊れてしまった信頼関係は、二度と取り戻せないのかもしれない。そんな怖さ、切なさも感じられます。
というわけで、映画を土台骨から支えているのは夫婦を演じたふたりの大人の俳優であることはまちがいないのだけど、それにしてもエスターを演じたイザベル・ファーマンは恐るべし。全く凄い子役を見つけてきたものです。
単に残酷であったり、強暴であったりするだけでなく、なんとも得体の知れない恐ろしさ。まさか素顔もこんな子なのかい、と思わず思ってしまうです。しかも、正体が明かされた後に見せる顔つきなんて、絶対9歳の少女の表情じゃないです。わたしなんか、一瞬、あ、別の女優に吹き代わった、とすら思ったです(汗)。
そしてもうひとり、エスターの「妹」である幼い聾唖の少女を演じたアリアーナ・エンジニアの自然な演技も特筆に値します。無邪気さから猜疑へ、猜疑から恐怖・保身・絶望へ、そしてそれから捨て身の反撃へ、移り変わる少女の心理を、台詞もナシに目の演技だけで完璧に演じのけてしまうとは。一体どこから現れた少女なんでしょ。ほんとに末恐ろしいです(もちろん褒め言葉です)。
唯一難を言えば、ファーミガ、強すぎ(笑)。ターミネーターのよう、とまで言ったら言い過ぎかもしれないけど、『エイリアン』のリプリーぐらいだったら十分タメ張れると思います。サースガードがあのテイタラクだったのが、ますます目立ってしまったのであります。や、サースガードはあのちょっぴり情けないとこがいいんだけれども。
ピーター・サースガードもちょっと気になる役者さんのひとり。 『ジャーヘッド』(2005年)以来ですから、かなりのお久しぶりです。
実はこの映画、ジャンル・ホラーだと思ってたし、監督のハウメ・コジェ=セラはあの『蝋人形の館』の監督さんだというし、正直、あんまり期待してなかったのです。ピーター・サースガード出演作じゃなかったら、行ってなかったかも。
ところが実はこれ、ホラーではなく、堂々たるサイコ・サスペンスだったばかりか、サスペンスとしての出来も上々だったりしたので、思わぬ拾い物をした感じです。
物語はこうです。
ケイトとジョンのコールマン夫妻(ヴェラ・ファーミガとピーター・サースガード)は、すでにふたりの子宝に恵まれていたが、三人目を死産し、特に妻のケイトはその精神的ショックからなかなか立ち直れなかった。そこで、生まれなかった第三子に注ぐはずだった愛情を向ける対象として、孤児院から孤児を引き取る。早熟で聡明なロシアから来た少女エスター(イザベル・ファーマン)との生活は、滑り出しは順調に思えたが、やがて夫妻の周りに次々と不吉な事件が発生する……。
ホラーの醍醐味(っていうか、怖さ?)は、ひとえにだれ(何)がなぜ襲ってくるのかわからない、という点にあろうかと思いますが、この映画の場合、最初から犯人はエスターであることがわかっています。しかも、わずか9歳の少女の犯行ですから、行為そのものは単純な「悪さ」の積み重ねとなります。従って、問題の焦点は、「だれ(あるいは何)」でも「いかにして」でもなく、「なぜ」という一点に集約されていきます。そしてそれは同時にエスターの正体に関するミステリーとも直結するのです。
エスターの正体が暴かれたとき、たぶん観客は、怖いというよりほっとするんじゃないかな。や、実際それはおぞましい事実ではあるけれど、わずか9歳の子どもがあんなことをしたと思うよりは、ずっと割り切れるネタあかしだったと思うのです。……スッキリしたのはわたしだけかな(汗)?
サイコサスペンスですから、ジワジワと心理的に追い詰められていく過程が怖いわけですが、その追い詰められていくターゲットに、追い詰められる者の恐怖や絶望をきちんと伝えることのできる演技巧者のふたり、ファーミガとサースガードを配したことが、この映画の勝利の一因であると思います。
ベラ・ファーミガって、『ディパーテッド』でディカプリオとマット・デイモンに二股かけた女として印象が悪いですが(だから、そういう役だったんだってば)、あの顔からこぼれんばかりの大きな目は、まさに恐怖描写にうってつけです。『シャイニング』のシェリー・デュヴァルといい勝負かも。
エスターの異常性に徐々に気づいていくファーミガに対し、それを信じようとしない(信じることのできない)夫のサースガード。この夫婦の心がすれ違っていく描写が、なんとも秀逸であります。
知的で落ち着いた美男美女のカップル。互いに恵まれた仕事を持ち、かわいい子どもたちもいて、何不自由のない幸せな生活、その完璧な幸福に見えたものが崩れ始める時、そのあっけなさには衝撃すら覚えるほどです。
丹念に張り巡らされた伏線のおかげで、崩壊の描写には確固たる説得力があります。そもそもこの夫婦には、以前からさまざまな問題がくすぶっていたのであり、いつそれが爆発してもおかしくはなかった、ということが、丁寧な脚本と演出できちんと描かれています。しかもそれを、安易な回想シーンや、ましてや台詞による説明に頼らず、進行形のシーンによって、さりげなく自然にほのめかし、説明していく手腕は見事なものだと思います。
そもそも、サースガード演じる夫は、妻の警告を信じることができず、却って彼女を疑ってしまったのですが、別にかれは独善的な暴君でもなければ、想像力に欠ける単細胞でもない。それどころか知的で温厚で理解力(少なくとも理解しようとする姿勢)のある、上等の部類に属する男なのですが、それでも、執拗にエスターを告発しようとする妻に対して、隠しようのない苛立ちを感じてしまいます。
それはひとつには、エスターの張り巡らした罠があまりにも巧妙であったために、騙されたサースガードの目には、エスターが問題行動のある子どもなのではなく、エスターを攻撃するファーミガの方こそ、子どもを虐待する理不尽でヒステリックな母親に見えてしまうのです。
サースガードの心理があっさりそのように傾いてしまった背景には、かれが以前から割り切れない思いを押し殺し、黙って妻を見守ってきたという経緯があります。
子どもが死産したことは、確かにこの家族にとって大きな不幸ではあったけれども、不幸にして生まれて来ることのできなかった子どもは、第一子でもなければ、唯一子でもない。残された子どもたちに愛情を注げばいいものを、なぜか死産した子どもに過剰にこだわり(と、夫には思える)、アルコールに逃げた結果、耳の不自由な長女を危うく殺しかけるなんて、言語道断だと、正直、この点に関しては未だに妻を許せないし、許すつもりもないのです。
要するに、女は妊娠期間中からすでに母親であり、胎児との繋がりを育んでいるものだけど、どんな想像力豊かな男であっても、男親というものは、赤ん坊が胎内から生まれ落ちるその瞬間までは、親としての実感を持つことはむずかしいのじゃないかな。その辺りからすでに、ふたりのすれ違いは始まっていたのです。
その結果妻の方は、エスターに感じる恐怖と同時に、自分の発言が、最も信じてもらいたいひとであり、この場合、信じてくれないことには自分自身の、そして愛する子どもたちの安全にもかかわる非常に大事な相手に信じてもらえないという、それこそ前者よりもっと激しい恐怖と絶望にさらされることになってしまう。
このあたりの描写でうまいなぁ、と思うのが、サースガードがファーミガを拒否する際に、居丈高に「黙れ!」と怒鳴りつけたりするのではなく、ファーミガの証言を否定する発言をしている人物(それこそエスター本人であったり、精神分析医であったり)の発言に彼女が割り込もうとすると、「最後まで聞いて」と、実にそっけなく遮るところ。これには、観ている方も背筋がひんやりしてしまいます。
信じてもらえなかった女と信じることのできなかった男。このふたりの関係は、かりにエスターの魔手から逃れ得たとしても、もう元には戻らなかったかもしれない。一度壊れてしまった信頼関係は、二度と取り戻せないのかもしれない。そんな怖さ、切なさも感じられます。
というわけで、映画を土台骨から支えているのは夫婦を演じたふたりの大人の俳優であることはまちがいないのだけど、それにしてもエスターを演じたイザベル・ファーマンは恐るべし。全く凄い子役を見つけてきたものです。
単に残酷であったり、強暴であったりするだけでなく、なんとも得体の知れない恐ろしさ。まさか素顔もこんな子なのかい、と思わず思ってしまうです。しかも、正体が明かされた後に見せる顔つきなんて、絶対9歳の少女の表情じゃないです。わたしなんか、一瞬、あ、別の女優に吹き代わった、とすら思ったです(汗)。
そしてもうひとり、エスターの「妹」である幼い聾唖の少女を演じたアリアーナ・エンジニアの自然な演技も特筆に値します。無邪気さから猜疑へ、猜疑から恐怖・保身・絶望へ、そしてそれから捨て身の反撃へ、移り変わる少女の心理を、台詞もナシに目の演技だけで完璧に演じのけてしまうとは。一体どこから現れた少女なんでしょ。ほんとに末恐ろしいです(もちろん褒め言葉です)。
唯一難を言えば、ファーミガ、強すぎ(笑)。ターミネーターのよう、とまで言ったら言い過ぎかもしれないけど、『エイリアン』のリプリーぐらいだったら十分タメ張れると思います。サースガードがあのテイタラクだったのが、ますます目立ってしまったのであります。や、サースガードはあのちょっぴり情けないとこがいいんだけれども。
by shirakian
| 2009-10-25 21:01
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