2012年 01月 24日
★ネタバレ注意★

元イラク大統領、サダム・フセインの長男ウダイ・フセインの影武者になった男の物語ですが、監督はニュージーランド人のリー・タマホリ、主人公ウダイとその影武者ラティフを一人二役で演じたのがイギリス人のドミニク・クーパー、ヒロインであるウダイの愛人サラブ役はフランス人のリュディヴィーヌ・サニエ、製作はベルギー、という映画です。ややこしいね。
ごく普通のイラク人青年ラティフ・ヤヒアが、高校の同級生であるウダイ・フセインにたまたま容貌が似ていたがために目をつけられ、1987年から91年までの4年間、その影武者として生活を共にすることになった顛末を描いた、ヤヒア本人の自伝をもとにした映画ということで、劇中描かれていることは、ほぼ事実に忠実である、どころか、事実の暴虐非道さがあまりにも目にあまるために、むしろ緩和して描かれているのだそうです。
緩和してるって言ってもさ、下校途中の女学生を拉致してレイプして死んだら道端に棄てるとか、結婚式をしていた花嫁を見初めて拉致してレイプして自殺させるとか、父親の側近の発言が気に入らないからナイフで滅多刺しにして殺すとか、事実とは到底思えない凄まじいレベル。これで緩和した描写だって言うなら、実態はどうなのよ。
たとえば、ドーハの悲劇として悪名高いサッカーワールドカップアジア予選、日本VSイラク戦のとき、そりゃイラクの選手は必死になるよ、だって負けたら鞭打ちだもん、という説が囁かれ、あはは、いくらなんでもそりゃネタだろうと思っていたら、とんでもない、マジもマジ、選手たちはほんとに拷問に怯えていたんだという話、その拷問の首謀者が、ほかならぬウダイであったとか、つまりはそういうこと。
まあ、とにかく、この男は狂人であったと、そうと思うしかない描写が延々と続きます。「被害者」であるヤヒア側の視点で描かれていることを差し引いたとしても、事実このような人物であったことはまちがいないのだろうと思います。だとすると、観客としては、いかにしてそのような「怪物」が形成されていったのか、ということが何よりも興味深く思えるのだけれど、この映画では、ウダイの病理の究明については、重きをおかれていません。それというのも、この怪物は環境やその他のなんらかの要因で作られたわけではなく、生まれながらにしてこうのようであったからだ、ウダイはナチュラルボーン・デビルだったのだ、という視点で語られていると思われるからです。
確かにそういう純粋な「悪」というのは時々生まれ出てしまうものではあるんだけれど、でも、とやっぱり思ってしまう。もしかれがフセインの息子でなかったとしても、このような人間になっていたんだろうか? フセインの息子であるという環境が、子どもにとっていかに特殊なものであったのか、徒に普遍化してしまっていいようなものではなかったんじゃないか、そのあたりに若干不満を感じないでもないです。
それが証拠に、ウダイの特異性を描くなら、欠くべからざる「対照実験」の素材であるはずの、弟のクサイについて、ほとんど描写がない。この映画では、クサイは兄の凶状に呆れつつも、粛々と仕事をこなしている常識的な人間、という印象で描かれていましたが、実際はクサイもまた、かなりきな臭い人物であったらしい。その辺がもっとしっかり描きこまれていたらなぁ、というのがちょっぴり残念な印象なのです。
そうは言っても、この映画の見所は、ドミニク・クーパーのすばらしい演技に尽きる、と思います。ウダイとラティフ、ほとんど両極端と言ってもいいほど異なる人格を見事に演じ分けたのみならず、ウダイの存在にラティフが徐々に侵食され変質していく様までもが克明に演じ分けられているのです。しかも、ウダイを憎みつつ、ウダイの影武者である自分を嫌悪しつつ、ウダイの身振り口調を真似、当人になりすまして演説までやってのけるとき、ラティフはほとんどウダイそのひとになりきっている。だれか他人に形だけなりきるというのは無理な話で、ウダイになりきっているとき、ラティフは心の中までウダイそのものである……なんて、考えるだに眩暈のしそうな離れ業を、役者として演じのけたクーパーはほんとに凄いと思いました。それにハンサムだし(笑)。今年最初の収穫だわ(笑)。
史実や政治的問題や倫理道徳を離れ、ドラマとしてこの映画を観るとき、ここで語られているのは「自己愛」の物語です。ウダイは頑なに反発し、事あるごとに逃げようとするラティフに対し、嫌がらせのように「愛しているよ」と囁き続けます。「愛しているよ、愛しすぎて手放してやれない」。
ウダイが愛しているのは自分そっくりの外見をした自分の影武者です。自分そっくりの外見をした自分の「半身」が、しかしその高潔な魂ゆえに、自分の放つ腐臭に顔をしかめて嫌がる様を観るとき、ウダイは倒錯した快感を覚えずにはいられない。ウダイのラティフへの度をこした執着は、ウダイの肥大した自己愛そのものもです。
このようなナルシシズムは、豊富に愛情を与えられた男に現れるのか、愛情に飢えた男に現れるのか。映画は終盤、ラティフによるウダイ暗殺の試みといった(恐らくここは事実とは異なる)展開をみせ、あたかもボーンシリーズみたいなアクションへと傾いてしまうのだけど、やっぱりフセイン一家の「家族の肖像」をこそ観たかったなぁ、とないものねだりをしてしまうのでした。
・デビルズ・ダブル -ある影武者の物語-@ぴあ映画生活

元イラク大統領、サダム・フセインの長男ウダイ・フセインの影武者になった男の物語ですが、監督はニュージーランド人のリー・タマホリ、主人公ウダイとその影武者ラティフを一人二役で演じたのがイギリス人のドミニク・クーパー、ヒロインであるウダイの愛人サラブ役はフランス人のリュディヴィーヌ・サニエ、製作はベルギー、という映画です。ややこしいね。
ごく普通のイラク人青年ラティフ・ヤヒアが、高校の同級生であるウダイ・フセインにたまたま容貌が似ていたがために目をつけられ、1987年から91年までの4年間、その影武者として生活を共にすることになった顛末を描いた、ヤヒア本人の自伝をもとにした映画ということで、劇中描かれていることは、ほぼ事実に忠実である、どころか、事実の暴虐非道さがあまりにも目にあまるために、むしろ緩和して描かれているのだそうです。
緩和してるって言ってもさ、下校途中の女学生を拉致してレイプして死んだら道端に棄てるとか、結婚式をしていた花嫁を見初めて拉致してレイプして自殺させるとか、父親の側近の発言が気に入らないからナイフで滅多刺しにして殺すとか、事実とは到底思えない凄まじいレベル。これで緩和した描写だって言うなら、実態はどうなのよ。
たとえば、ドーハの悲劇として悪名高いサッカーワールドカップアジア予選、日本VSイラク戦のとき、そりゃイラクの選手は必死になるよ、だって負けたら鞭打ちだもん、という説が囁かれ、あはは、いくらなんでもそりゃネタだろうと思っていたら、とんでもない、マジもマジ、選手たちはほんとに拷問に怯えていたんだという話、その拷問の首謀者が、ほかならぬウダイであったとか、つまりはそういうこと。
まあ、とにかく、この男は狂人であったと、そうと思うしかない描写が延々と続きます。「被害者」であるヤヒア側の視点で描かれていることを差し引いたとしても、事実このような人物であったことはまちがいないのだろうと思います。だとすると、観客としては、いかにしてそのような「怪物」が形成されていったのか、ということが何よりも興味深く思えるのだけれど、この映画では、ウダイの病理の究明については、重きをおかれていません。それというのも、この怪物は環境やその他のなんらかの要因で作られたわけではなく、生まれながらにしてこうのようであったからだ、ウダイはナチュラルボーン・デビルだったのだ、という視点で語られていると思われるからです。
確かにそういう純粋な「悪」というのは時々生まれ出てしまうものではあるんだけれど、でも、とやっぱり思ってしまう。もしかれがフセインの息子でなかったとしても、このような人間になっていたんだろうか? フセインの息子であるという環境が、子どもにとっていかに特殊なものであったのか、徒に普遍化してしまっていいようなものではなかったんじゃないか、そのあたりに若干不満を感じないでもないです。
それが証拠に、ウダイの特異性を描くなら、欠くべからざる「対照実験」の素材であるはずの、弟のクサイについて、ほとんど描写がない。この映画では、クサイは兄の凶状に呆れつつも、粛々と仕事をこなしている常識的な人間、という印象で描かれていましたが、実際はクサイもまた、かなりきな臭い人物であったらしい。その辺がもっとしっかり描きこまれていたらなぁ、というのがちょっぴり残念な印象なのです。
そうは言っても、この映画の見所は、ドミニク・クーパーのすばらしい演技に尽きる、と思います。ウダイとラティフ、ほとんど両極端と言ってもいいほど異なる人格を見事に演じ分けたのみならず、ウダイの存在にラティフが徐々に侵食され変質していく様までもが克明に演じ分けられているのです。しかも、ウダイを憎みつつ、ウダイの影武者である自分を嫌悪しつつ、ウダイの身振り口調を真似、当人になりすまして演説までやってのけるとき、ラティフはほとんどウダイそのひとになりきっている。だれか他人に形だけなりきるというのは無理な話で、ウダイになりきっているとき、ラティフは心の中までウダイそのものである……なんて、考えるだに眩暈のしそうな離れ業を、役者として演じのけたクーパーはほんとに凄いと思いました。それにハンサムだし(笑)。今年最初の収穫だわ(笑)。
史実や政治的問題や倫理道徳を離れ、ドラマとしてこの映画を観るとき、ここで語られているのは「自己愛」の物語です。ウダイは頑なに反発し、事あるごとに逃げようとするラティフに対し、嫌がらせのように「愛しているよ」と囁き続けます。「愛しているよ、愛しすぎて手放してやれない」。
ウダイが愛しているのは自分そっくりの外見をした自分の影武者です。自分そっくりの外見をした自分の「半身」が、しかしその高潔な魂ゆえに、自分の放つ腐臭に顔をしかめて嫌がる様を観るとき、ウダイは倒錯した快感を覚えずにはいられない。ウダイのラティフへの度をこした執着は、ウダイの肥大した自己愛そのものもです。
このようなナルシシズムは、豊富に愛情を与えられた男に現れるのか、愛情に飢えた男に現れるのか。映画は終盤、ラティフによるウダイ暗殺の試みといった(恐らくここは事実とは異なる)展開をみせ、あたかもボーンシリーズみたいなアクションへと傾いてしまうのだけど、やっぱりフセイン一家の「家族の肖像」をこそ観たかったなぁ、とないものねだりをしてしまうのでした。
・デビルズ・ダブル -ある影武者の物語-@ぴあ映画生活



